挨拶回り
唯一空室だった例の203号室、今日からここが私のお城である。まぁ決まり悪そうに言った引っ詰め髪にお母さんぐらいの年代の女性不動産担当者さんも、もう10年も前でそれ以来事件も何も起こってないんですけどねと、最後らへんは気にしなくても大丈夫じゃないかという口調であった。
荷物は後で届くし、挨拶回りは涼んでからでいいかなーと、抱き抱えたはいいが暑苦しい元になってしまっていたクロを床に下ろす。ふんふんとそこら辺をうろちょろしているが、これは面倒臭がらず早めにクロのトイレを設置した方がいいかもしれない。
そういえばベランダ、ベランダ!と、ふと意識に入ってきたベランダへと冷房を入れる前に窓を開けて出てみた。ベランダはせり出すようにして壁にくっついており、お隣さんとは繋がっていない。まぁ頑張れば手が届きそうな距離である。大きさとしては四辺形のプランターを数個置けるかという小さなベランダで、ほんとオマケみたいな感じだ。でも寮の時には室内干しでずっと生乾きに嘆いていたので、ベランダというコジャレたものが少し嬉しかった。
「裏にも植えてたんだね~」
足元に来たクロをベランダから手を伸ばせば枝に届きそうなナツツバキが見えるように抱えてあげて話し掛けるが、離せと言いたげにしっぽで叩かれるだけだった。まぁ自分でもこの一人で猫に話しかける癖はヤバイと思うが、誰にもばれなければいいだろう。
暑い直射日光から逃げるように部屋へ戻り、さぁご近所に挨拶に行くかと菓子折りを手に持つ。
すぐ出てくとはいえ、小さいからこそご近所パワー強そうだし?もしいざ殺人犯が出てきたら、やっぱ助けてくれるのはご近所さんだろうしね。我が身可愛さの打算である。
んじゃクロ、お留守番よろしく
ピンポーン
「あれ、気のせいだったかな」
つい癖の一人言を呟きつつ、お隣の202号室のインターホンを少ししてもう一度押してみた。
さっきベランダに出た時少し隣から物音が聞こえた気がしたんだけど、電気も点いてないし、もしかしたらクロが何かやってた音と間違えたのかもしれない。まぁ土曜日だし何処かに出ているんだろうと、気にせず扉の前を通り過ぎようとした。
ガタン
突如響いた202号室からの音に、思わず足を止めてしまう。
「だ、大丈夫ですかー?」
結構重たい物にでもぶつかったような音に、不安になって恐る恐るドアへと声を掛けるが、それから数分待っても一度インターホンを押しても何も声は帰ってこなかった。
「居留守とか、流石に感じ悪いなぁ」
あまり顔を合わせたくないかも、と、苗字と用件、後は日付や賞味期限だけ書いたメモを入れて菓子折りをドアノブに掛ける。
「ここに掛けときますんで」
一応最後に一声掛けるが、真っ暗な部屋からは何も応えは無かった。
ピンポーン
さっきのことなのでちょっと嫌な気分を引き摺りながら201号室のインターホンを鳴らす。
「はぁーい」
「こんにちは、突然すみません。203号室に引っ越してきた三竹と申します」
「ああ、ちょっと待ってておくれよ」
普通の返答が返ってきて少なからずほっとする。少しして出て来たのは、70歳前後に見えるお婆さんだ。肩ほどの少し薄い髪は白く、手足や顔にしみや皺が刻まれている。小柄で細身だが、背は曲がっておらず、かくしゃくとした印象を最初に持った。
「ああ、これを? 態々ありがとうねぇ。私は新居に土地の地って書いて新居地さ、苗字の割にこれでも20年ぐらい此処に住んでるから、分からないことがあったら私にお聞きよ」
鉄板ジョークなのだろう、年齢よりも若々しく見えるくらい気さくに話し掛けてくれる。更にはゴミだしの日時や町内会の日程など、あれやこれやと丁寧に教えてくれた。町内会は正直あまり興味がない現代っ子だが、202号室で刺々しくなっていた気持ちが面倒見の良い新居地さんのお陰で収まっていった。
「そうだ、部屋にお上がりよ。大したものはないけど、お礼の紅茶ぐらいは出せるから」
「ありがとうございます。でも、まだ1階の方々を回れていないので」
「そうかい? あんたは若いのに礼儀正しくていい子だねぇ。ウチの孫みたいで…」
「もしかして同い年くらいですか?」
「ああ、今から写真を見せてあげるよ」
興味があって尋ねると、きゅっと目尻に皺を寄せて新居地さんが来ていた緩い上着のポケットから、1枚の写真を取り出す。
その写真は、嫌に茶色く黄ばんで、擦り切れた端が所々破けていた。
染みた写真に写っているのは、小学校低学年くらいの可愛らしい男の子が一人。
カメラの方を見ておらず、どこか違う場所を向いて手を振っている。
「ほら、可愛いだろう?」
「…可愛いですね」
「だろう!? 小太郎っていうんだ。女の子みたいな顔だからせめて名前だけは男らしくしてあげようってね。私が名前を付けてあげて私がずっと保育園の送り迎えもしてあげてたんだよ。ああ、早く一緒に暮らしたいねぇ。そうすれば――私が一番あの子のことを――っと、急いでたのに付き合わせて悪かったね、101と103なら今の時間居る筈だから行ってみるといい」
「ありがとうございます。あの、別に明日でも保つんですけど、102号室の人は普段何時ごろ帰ってきますか? …あと、202号室の方も、一応ドアノブに掛けるだけしたんですけど…」
ちらりと視線を202号室へと向けると、少し眉を潜めた新居地さんは、玄関口から一歩外へと身を乗り出した。視線を隣の部屋へと向けながら、まるで内緒話のように少し顔を近づけ声を落とす。
「あんたのためだ、2号室の連中には関わらない方がいいよ。お隣の武二はね、10年前に結婚予定だった彼女が殺されてから頭がイカレて引き籠もっちまったのさ。それから下の市野仁は…――、朝も昼も夜も引っ越してきてからずぅーっとカーテンを閉めてる。もう40歳くらいだろうけどね、あたしはね、殺されたあの子に横恋慕してたあいつが実は犯人なんじゃないかってずぅっと思ってるんだよねぇ」