猫は死んだ
今日は蒸し暑い日だった。朝からずっと降りそうで降らなかったどんよりとした重い灰色の雲が、夜、今までの鬱憤を晴らすかの様に豪雨を降らせた。
あの日を思い出させる様に、雷雨まで鳴り響く。私はリビングで電気も消し体育座りのまま、冷蔵庫の隣で身を隠して息を殺す。真っ暗闇の中、明かりとなるのは台所の上にある窓から入る月明かりだけだ。
緊張からか、蒸し暑さからか、じっとりとした粘ついた汗が額だけでなく手や背中にも滲んでいる。生ぬるい呼気は、冷えて小さく震える指先を温めるには足りない。
武二は洋室の押入れに隠れていた。洋室も電気を消し、念入りにブーレーカーまで落としている。敷いた布団には、中に人が居るかのように適当なものを詰めた。
本当に来るんだろうか? 今回は完全に窓を閉めた。型でも取っていったのだろうか。それとも締めない奴と思われてまた来るだけで、今度は壊してでも入って来るんだろうか。
豪雨が五月蝿い。冷蔵庫が立てる音が五月蝿い。冷蔵庫にずっと触れている腕が低音火傷でもしたのか、妙に痒くて掻き毟った。
そもそも狂人の戯言だったのかもしれない。本当にお金を欲しがっていたのは武二で、今も洋室のどこかにお金を隠していないかと漁り回っているのかもしれない。そうだ、そもそも木を登ってだとか梯子を掛けてなんて見つかるリスクが高い気がする。幾ら豪雨で人の出入りが少ないと言っても、そんなことをする犯人がいるのだろうか?そうだ、武器も何も持っていない今、お金を奪われて命まで奪われるのかもしれない。
疑心暗鬼のまま腰を浮かしかけた瞬間
ぎィ…―――――ィぃ…
玄関のドアが勝手に開く音がした。
何故、そこから?
混乱しつつも、冷蔵庫の影へとさらに身を潜める。想定していなかったが、積み上げていたダンボールが死角を作ってくれた。
ぎし…
殺す。息を殺す。私は息を殺しながら、前を通り過ぎる真っ黒い人影を目で追う。小さい。櫟さんじゃない。少し猫背の影、なら、新居地さん――?
じっと目で追うと、影の姿に次第に目が慣れてくる。
顔はマスクやサングラスでも掛けているのか分からない。しかしその手に握られた鈍い光を放つ刃物と、悪趣味な金色の時計だけは分かった。
「あ…」
思わず漏れた声は、影が洋室への扉を開ける音が掻き消してくれた。
暗いリビングで蹲り、ぼんやりと見送った先の洋室から音が漏れ聞こえる。
「ごめんよ、死んでおくれ。こうすれば私はまた幸せになれるんだよ。ごめんね、許しておくれね」
「絶対許すものかッッ!! あんたを捕まえる為にずっとずっと待ってたんだよお!!」
「ぎゃあ!? あんたは…、この死に損ないめ! あの女はどこだい!? 私は幸せになるんだよ!!」
「この部屋に入った時から今も録画してる。もう諦めるんだな? 抵抗するなら一発ぶち込んでやる! ムショに入れるにしてもそれぐらいいいだろ」
「寄越せ!!」
「な!? このッ、離せ!?」
バタバタバタバタ、踊っている音がする。
私は冷凍庫から取り出してそっと抱えた後、一緒に洋室の扉を開けた。本当は頻繁に出してあげちゃダメなんだけどね、今日は仕方ない。
「くッ、手伝え!」
「いた!!!」
もみくちゃのまま二人がこっちを見る。
にゃあ
にゃー
なー
にゃーあ
ダンボールは端へと蹴飛ばされ、畳やカーテンは刻まれ、窓ガラスは壊れている。拳銃も包丁も壁際だ。
雷雨が五月蝿い。クロの声が聞こえない。
「****!!」
「***、**!!?」
「何、何て言ってんの?」
手の中のクロを優しく撫ぜる。
何言ってるか分からないし五月蝿いしそもそもさ――
「クロを見殺しにした人と殺した人だよね」
思いっきりぶつかる。割れたガラス片が足に刺さったのか、ひぃという声が聞こえる。そうしてそのままベランダから押せば、笑えるくらい簡単に二つの影は宙へと舞った。
想像してない、なんで?といった顔で二つとも落ちる。
地面を見下ろせば、クロみたいに首が反り返った姿と口から真っ赤な花を咲かす姿。
それだけ
ふと視線を上げると、ナツツバキの白い花がまた一輪咲き誇っていた。
そっと摘み取る。
「クロ、ナツツバキの花言葉ってさ、愛らしさなんだよ。クロに合うなぁって思ってたの」
それを窓の下へと落とした。白い花弁が真っ赤に染まっていく。
「でね、椿の花言葉って高潔な理性とかさ、心の美しさを表すものが多いの」
白から赤へと染まった花弁は、すぐにその近くの物と同じ様に雨に濡れ泥で汚れていった。
携帯で110と押しながらクロを抱え直す。
「すいませんッ、実はさっき泥棒が入ってきて…、ええ、それで…」
喋りながら思わず笑いだしそうになってしまった。
汚れた椿? くすくす
人殺し? くすくす
何を怯える必要があるの?ねぇ
猫が死んでしまった時点で
もう猫は死んでるのにね
にゃあ