3035年 枯木と少女2
少女が目を覚ますと、バケツを持った枯木がまず目に入った。
「…………」
沈黙。
「はふ」
少女の口から空気が漏れる。再び意識がさよならしようとしていた。
「……」
枯木は語らず、少女の目を見る。
静かな佇まい。穏やかな相貌。
少女は、その枯木から害意も悪意も敵意も感じなかった。
「……あなたが、助けてくれたの?」
枯木は語らず、バケツを少女の足下に置いた。
木製。藻や苔がびっしりと生えた、古い古いバケツ。
ちゃぷちゃぷという水音。たっぷりとした水がバケツ内で波打つ。
(……?)
少女はなぜバケツを差し出されたのかが分からない。枯木は動かず、その朽ちた双眸を閉じる。野原に一陣の風が吹き、周囲の草花がせわしげに揺れる。
照りつける太陽を、立体的な雲が覆う。
野原一体に影が生じる。そしてすぐに影は消え、再び明るくなった。
静か、だった。なにもかもが。
枯木の肩に小鳥が止まり、歌を奏で始めた。枯木は目をつぶったまま、ただただ不動。その時間が止まってしまった風に、少女には見えた。
(ここは、どこなんだろう)
立ち上がろうと、少女は身体を動かし――自らの粗相にようやく気付く。して、身体をべっとりと濡らす暗く赤い血にも。
「――――ぁ」
瞬時に頬が紅潮し、青ざめ、再度紅くなる。羞恥と恐怖のダブルパンチであった。
「うう……」
枯木は依然として目をつむる。見てないぞ、という無言の声を少女は聞いた。
「そ、そういうこと……だったの、ね……」
少女はバケツを握り(ぬるっとした)、一気に頭からかぶった。
「ひゃ」
(冷たっ)
身体の芯まで冷えてしまいそうなほど、その水は冷たかった。身震いをする少女を、降り注ぐ太陽光が優しく温める。甚だしい程の晴天である。服はじきに乾くだろう。
少女は藻と苔に塗れたバケツを再び足下に置く。そして、
「んー……」
まじまじと枯木の姿を見た。
(人、なの?)
枯木は人の姿をしていた。長身痩躯のすらりとした人間のような、形。
枯木は語らず、微動だにせず佇立する。肩には小鳥がちょこんとある。どこかから一羽飛んできて、枯木の帽子の上に乗った。一羽増えた。
ボロボロの帽子を、枯木は被っている。
顔は干からびて真っ白で、まるで枯木のよう。
着る服は、黒い染みや赤い染みに塗れて、もとが何色であったのか分からない程に汚れている。袖は手首まであり、裾は足下まで。身を縛る、と形容されるが一番近いだろうか。そのような服を枯木は着ていた。
胸元には勲章らしきもの。サクラを模した形で、金色。
腰には一本の刀。抜き身で、刀身は錆だらけ。
手も顔と同様、白く干からびている。
(人、じゃない……? ううん、でも、見た目は)
――人間のような姿をしているのに。
そう、“ような”である。人間の“ような”姿なのに、人間とはかけ離れた姿をしている。まるで人がそのまま朽ちたような、人の生命が枯渇したかのような姿。
ひとり孤独にひっそりと在った、枯木。
「助けてくれてありがとう、その……枯木さん」
礼を述べる。さっきの化け物はきっとこの枯木が倒してくれたのだ、と少女は解釈した。呼び方が分からなかったため、呼び名には最初に抱いた印象を。
枯木は目を開け、視線を少女に向け、肩に止まる小鳥に転ずる。
「私は、イラって言うの」
こくりと、枯木は頷く。そして少女に背を向け、どこかへと歩き始めた。肩の小鳥が羽ばたきどこかへ飛び消える。
「あ、待ってっ」
慌てて少女も枯木の後を追う。