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決壊 (2)

 

 

 

 来た道を通ってルウケの館に戻ったラグナは、少し逡巡したのち、フェリアを二階の自室へと連れて上がった。おどおどと落ち着かない様子でひどく周囲を気にしているフェリアを見るに、不用意に話を大きくするのは拙いと思ったのだ。

 ラグナが部屋の扉を閉めると同時に、フェリアは先刻と同じ台詞を繰り返した。お願いだからウルスを助けて、と。

 ラグナは、深く息を吸い込むと、ひとまず奥の長椅子をフェリアに勧めた。


「まずは座ってくれ。あの距離を走ってきたのだろう? 足元がふらふらじゃないか」

「ゆっくりしている時間はないの。このままだと、ウルスが……、ウルスが……!」


 フェリアが頭を振るたびに、見慣れた短い髪がふわりと揺れる。自分の鼓動が早まるのが分かり、ラグナは軽く唇を噛んだ。平静を装いながら、諭すようにフェリアに語りかける。


「落ち着くんだ、フェリア。選鉱場から宝石が無くなった件なら、奴が盗ったと確定しているわけではないんだろう?」


 フェリアは、喘ぐように息を継いだのち、強く唇を引き結んだ。そうして、ゆるりと首を横に振った。

 ラグナには、フェリアのその反応が、俄かには信じられなかった。思わず息を詰め、フェリアをじっと見つめ続ける。今にも泣きだしそうな彼女の表情に、半ば絶望を覚えつつ、ラグナはようやく一言を絞り出した。


「どういうことだ」


 フェリアの唇が、痙攣するように震えた。


「ラグナも分かるでしょう? ウルスが宝物を隠しそうな場所」

「……盗品を、見つけたのか」


 ラグナ自身が驚くほど、その声は酷く掠れていた。

 フェリアが、髪の毛を振り乱しながら、ラグナの眼前に身を乗り出してくる。


「ウルスは、本当ならこんなことする人間じゃないわ。魔が差したのよ。ねえ、ラグナ、どうか皆に、大目にみるように頼んでちょうだい」

「そんなことをしても、あいつの罪は消えないぞ。盗人の烙印だけでなく、余計なものまで背負わせるつもりか」


 ヘリストが出がけに言った言葉が、ラグナの耳元でこだまする。

 フェリアは大きく息を呑んだ。それから唇を噛んだ。自分の要求が道理に(もと)るということが、分からないフェリアではない。恥じ入るように足元へと視線を落とし……、それでも、まだ諦めきれないのか、ぼそりと一言を呟いた。


「彼が盗んだのは、紅玉だったのよ」


 その一瞬、ラグナは、うなじを冷たい手で撫でられたような気がした。

 フェリアが、そろりと顔を上げた。零れんばかりの涙を両目に湛えて。


「工房の裏手、古い樫の木のうろの中に、手巾にくるんで隠してあったわ。女性像……髪の短い女性の像を彫りかけた紅玉が」


 フェリアの頬に、涙が光る筋を描く。

 ラグナは全てを理解した。ウルスが、紅玉でフェリアの像を作ろうとしていたということを。あの火事の夜に、嫉妬心からラグナが放った負け惜しみが、ウルスをここまで追い詰めてしまったのだということも。

 ラグナの胸を、激しい後悔の念が締めつける。だが、その一方で、えもいわれぬやるせなさも募ってゆく。


「馬鹿な奴だ」


 ラグナの口から、苦い声が漏れた。原因がなんであれ、それでも、罪は罪なのだ。どんなに情状を酌量しようと、ウルスの罪自体が消えてなくなることはない。

 はらはらと涙を流すフェリアを見据えると、ラグナは静かに口を開いた。


「それでお前は、この俺に、愚か者の命乞いをせよ、と言うのだな」


 フェリアが俯いた。

 ラグナはなおもフェリアに言い募る。


「実の母親が死に瀕した時ですら、王太子の助けを固辞した、お前が、か」


 そんなにあいつが大切なのか、との問いを、ラグナは辛うじて呑み込んだ。代わりに溢れ出すのは、皮肉めいた台詞。


「八か月の間に、随分と処世術を身につけたものだな」


 フェリアが、蒼白な顔で数歩あとずさった。

 そんな彼女の様子を見つめながら、ラグナは心の中で呟いていた。解っている、解っているんだ、と。単なる事故に過ぎなかった母親の件とは違い、今回のウルスの窃盗は、自分が引き起こしたも同然だとフェリアは考えているのだろう。

 お前は何も悪くない。ラグナは、フェリアにそう言ってやりたかった。……彼女が庇っているのが、ウルスでさえなければ。


「俺なら、お前の言いなりになると思って来たんだろう?」


 本心とは裏腹な言葉が、またもラグナの口をついて出る。フェリアがそんな傲慢な考えを持っているなんて、ラグナは微塵も思っていなかった。藁をもすがる思いでラグナを頼ってきたということぐらい、誰に言われなくとも解っている。


「自分に惚れている男だからな。なんでも言うことを聞いてくれる。そう思って来たんだろう?」


 それなのに、ラグナは暴言を止めることができなかった。口を開くたびに、胸の奥にたまった(おり)が、腐臭を放ちながらあとからあとから込み上げてくる。


「俺も随分と安く見られたものだな」


 嘲笑うように言い放てば、フェリアが大きくかぶりを振った。


「殿下を言いなりにさせようなんて、考えてなどおりません!」


 ラグナとフェリア、二人の隔たりは僅か一丈ほど。数歩進めば手が届く距離にもかかわらず、ラグナには途方もなく遠く感じられた。

 フェリアは、流れる涙を拭おうともせずに、ゆっくりと床に膝をつけた。忠誠を誓う騎士のように、祈りを捧げる修道士のように、神妙な顔で(こうべ)を垂れる。


「でも、ウルスを救えるのは、殿下だけなのです……。どうかお願いです。私がご用意できるものは全て……たとえこの命であろうと、殿下に捧げます。足りない分は、一生かかってでも、なんとしてでも。ですから、どうか……」


 ラグナは奥歯を噛み締めた。

 感情のままに泣き喚かれたほうが、いっそよかったのかもしれない。ならば、フェリアに対するラグナの気持ちも醒めてしまっていただろうから。だが、彼女は、そうはしなかった……。

 改まった口調が、ラグナの逆鱗をかき撫でる。途端に、ぞくりと身体中を駆け巡る震え。捌け口を見つけた怒りが、歓喜に席を譲り渡す。

 ラグナは、下目でフェリアを見下ろして、静かに問うた。


「なんとしてでも、と言ったか」


 フェリアが、おずおずと顔を上げた。

 ラグナは、彼女に向かってゆっくりと右手を差し出した。


「こちらへ来い」


 ぎこちない動きで立ち上がると、フェリアは一歩前へ踏み出した。

 もう一歩、更に一歩。

 微動だにしないラグナを怪訝に思ったか、フェリアはそこで足を止めた。


「もっとだ」


 それでも躊躇い続けるフェリアに向かって、ラグナは大股で距離を詰めた。

 フェリアが、慌てて後ろに下がろうとする。

 ラグナはすかさずその腕を掴まえた。そのまま力一杯手元に引き寄せ、フェリアを胸に抱きしめる。

 身をよじるフェリアの肩口に、ラグナは無言で顔を(うず)めた。


「ラグナ……」


 上ずった声が、ラグナの名前を紡ぐ。

 ラグナは、フェリアを抱く腕に力を込めた。このまま時間が止まってしまえばいい、と、詮無い望みを心で叫びながら。

 フェリアが、もう一度「ラグナ」と呼んだ。それから、囁くように言葉を継いだ。


「ウルスを、助けてくれるの?」


 ラグナは、ここでようやく我に返った。我に返ると同時に、ああ、と、嘆息した。今、まさにこの瞬間、ラグナは永遠に失ったのだ。おのれが何よりも渇望していた、フェリアの心を。

 からからに乾いた喉を湿そうと、ラグナは無理に唾を呑み込んだ。きつく目をつむり、一言を囁く。


「お前が望むなら」


 胸の奥で、何かが酷く軋んでいる。それを誤魔化すように、ラグナはフェリアに口づけた。


 


 


 


 茜差す寝台の海に、敷布の波がうねる。ラグナのもとに打ち寄せては引いて、彼を内部から凄烈に揺さぶる。

 波間で溺れそうになりながらも、ラグナは夢中で身体を動かした。荒い息を繰り返し、水面(みなも)に落ちる艶めかしい影を、ひたすら追い求める。

 ヴァスティの町まで二里足らず。人の足では一時間半ほどといったところか。投げ入れた石が生むであろう波紋が、岸辺に届くまでは、まだ少し間があるだろう。

 触れた肌が次第に汗ばんでゆくのを感じながら、ラグナはそっと唇を噛んだ。


 


 なんとかしてフェリアを振り向かせてやる。そう考えなかったわけではなかった。相手は、何事にも慎重で控えめなウルスだ。下手を打たない限り、勝てるのではないかとも思っていた。

 たぶん勝てた。

 そして、そう思ったのは、ラグナ本人だけではなかったのだ。


 ラグナは、ウルスが紅玉を見つけた時のことを思い描いた。

 火事の晩にラグナが射かけた負け惜しみの一言は、ウルスにとっては宣戦布告も同様だったのだろう。王太子が本気を出せば、平民のウルスには勝ち目なんてない。そう絶望していた彼の前に、奇しくも大きな紅玉の原石が現れたのだ。

 鉱石の持ち出しは、鉱山の門にある詰所にて、専任の魔術師を始めとする複数の係員によって厳しく検査されている。逆に鉱山内に限るなら、鉱石の移動は比較的容易だった。鉱石は、鉱山の外に持ち出して初めて、価値を持つようになるからだ。

 ウルスにとって、その原石は、絶望の闇に差した一筋の光だったのだ……。


 フェリアは、ウルスが罪を犯したのは自分のせいだと思っているのだろう。だがそれは違う。全ての元凶はラグナにある。

 あの時ラグナがウルスに放った、不用意な一言。それは、堤にあいた、たった一つの小さな穴だった。しかしそこから染み出した水は、少しずつ、だが確実に、周囲の土を削り続け、そして遂には濁流となって、全てを押し流していったのだ。


 


 先刻から、フェリアは一言も言葉を発していなかった。どんなに激しくラグナが攻め立てても、ただ押し殺した声を漏らすのみ。

 肌がどんなに熱を帯びようと、その芯が冷え切っているのが分かる。八カ月前の事故の際、助けてやる、と言って抱きしめた時の、服越しに感じられた彼女の温もりは、もうどこにもない。

 ラグナは小さく息を呑んだ。まさかウルスは、ここまで計算していたのだろうか、と。どうせ奪われるのなら心だけでも自分の元に、と、そう考えて紅玉を懐に入れたのだろうか、と。

 急に視界が昏さを増したように、ラグナには思えた。込み上げてきた衝動のままに、彼はフェリアの耳元に口を寄せる。


「愛してるよ、フェリア」


 少し抑揚を抑え、心持ちゆっくりと、やや擦れたように発音する。

 固くつむられていたフェリアの目が、見開かれた。そうして、錆びついた自動人形のような動きで、ラグナを見上げる。


「やめて」


 そっと、ラグナは微笑んだ。穏やかな月の光を思わせる、はにかむような()()笑みを、心の中でなぞるようにして。


「フェリア、()を、愛してる」

「お願い。やめて」


 もっと声を聞かせてほしい。俺を見てほしい。まさしく何かに憑りつかれたかのように、ラグナはなおも言葉を重ねてゆく。


「どうして? フェリアは、()のことが嫌いなのかい?」


 フェリアがゆるゆると首を横に振った。涙を湛えた瞳が、まるで宝石のようだった。西日を映して煌めく琥珀。そこに映るは、果たしてどちらの顔なのか。

 フェリアの唇が、微かに震えた。


「ごめんなさい……」


 それは、とても小さな声だった。

 ラグナは、頭から冷水を浴びせかけられたような気がした。身体の中で荒れ狂っていた熱が、急速に那辺へ引いていくのが分かった。


「……違う」


 ラグナが漏らした呟きを聞き、フェリアが怪訝そうに眉を寄せた。


「違うんだ。謝るべきはお前じゃない。……俺、だ」


 フェリアが、ラグナに向かっておずおずと手を差し伸べた。

 温かい指先が、そっとラグナの頬を拭う。そこで初めて、ラグナは、自分が涙を流していることに気がついた。


 フェリアの手は、そのままおとがいをうなじへと滑ってゆく。そして彼女は、ラグナの頭を優しく抱き寄せた。

 散じた熱が、再びひとところに集まりだす。

 ラグナは無我夢中でフェリアを胸にかき(いだ)いた。熱に浮かされたように、ただひたすら彼女を求め続ける。

 フェリアの身体がいよいよ熱くなるのが、ラグナには(じか)に分かった。ほどなく、ラグナの(しん)が、胸の奥が、強い力で締めつけられる。

 一際大きな波にはね上げられ、波間に叩きつけられ、そのまま二人は沈んでゆく。どこまでも深い、海の底へと。

 静けさを取り戻した水面(みなも)に、いつしか月の影が柔らかく降り注いでいた。


 


 


 


 夜遅くになって、ようやくルウケの館は騒がしくなった。玄関扉が慌ただしく開け閉めされる音に続いて、複数人の足音が入り乱れる。使用人頭が夜食をどうするか尋ねる声を遮って、ヘリストがラグナの所在を問う声がした。

 廊下に出ていたラグナは、部屋に戻ると静かに扉を閉めた。ほどなく騒々しい足音が廊下を駆けてきて、扉が激しく叩かれる。ラグナが「入れ」と告げる間もなく、扉は勢いよく開かれた。


「もっと早くやってくると思ったが、意外と遅かったな」


 そうと分かっておれば、もう少しゆっくりしたのにな、と思わせぶりに呟いてみせてから、ラグナは口角を引き上げた。

 肩で息をするウルスが、そこに立っていた。尋問とやらの名残だろう、口の()と右の頬には膏薬が貼られ、両手には指先まで隙間なく包帯が巻かれている。

 やや遅れて、ヘリストもその後ろに駆けつけてきた。サヴィネは、恐らく厩に馬を繋ぎに行っているのだろう。

 ウルスは、つかつかとラグナの面前に進み寄り、真っ直ぐラグナの目を覗き込んできた。


「君が手をまわしたんだな?」


 有無を言わさぬ口調で、ウルスが訊いた。


「突然、お咎めなしと放免された。誰に聞いても、何も言ってくれやしない。すまなかったな、と謝るばかりで、埒があかない」


 ウルスの背後から、ヘリストも、咎めたてるような声で呼びかけてくる。


「ラグナ様、先ほど使用人頭から、ラグナ様が夕刻に町へ手紙を届けさせたと聞きました。一体、何をなさったのですか。お教えください」


 ラグナが何も言わずにいると、ウルスが、ふ、と目を伏せた。唇を噛みしめ、両手をじっと見つめ、それからまなじりを決して視線を上げた。そして、もう一度ラグナと目を合わせ、一音一音を噛み締めるように言葉を発していく。


「僕は、確かに、罪を、犯したんだ」

「なんだって?」


 素っ頓狂な声が、ヘリストの喉から飛び出した。

 ウルスは、ぎゅっと強く両目をつむってから、恐る恐る後ろを向く。


「……すみません、先生。自分のしでかしたことが、そして何より王家の皆さんに迷惑をかけてしまうことになるのが恐ろしくて、今まで言えませんでしたが……、紅玉を盗んだのは、僕なんです……」

「なんてことだ……」


 ヘリストが、がくりと壁に寄りかかった。爪を立てるようにして両手で額を押さえ、ずるずると床にへたり込む。

 ウルスは、再度ラグナに向き直るなり、右手を大きく振り開いた。


「そうだ。僕は裁かれるべき盗人だ。なのに、王太子である君が、その片棒を担いでどうするんだ!」

「何故、そんなことを……」


 震える声で、ヘリストが問う。ウルスは、師に背を向けたまま、力無く俯いた。


「僕は……僕は、どうかしていたんです。あの紅玉さえあれば、もしかしたらラグナに勝てるんじゃないかと……、彼女を振り向かせることができるんじゃないかと……」

「紅玉の、像……」


 ヘリストが、愕然と呟いた。

 ウルスは、足元を見つめたまま、今度はラグナに向かって声を絞り出す。


「それに、僕は、君を出し抜こうとしたんだぞ。君に助けてもらう資格なんて……」

「勘違いするな。俺はお前のためを思って行動したんじゃない」


 満を持してラグナが口を開けば、ウルスが驚きの表情で(おもて)を上げた。


「大切な幼馴染みを助けたい、という彼女の――我が愛しい婚約者の願いを聞いたまでだ」

「婚約、ですと? それは一体どういうことですか!」


 床に膝をついたまま、ヘリストが声を荒らげる。その顔は、僅かな時の間に、すっかりやつれ果ててしまったように見えた。

 ラグナは、芝居の語り手のように、少し改まった声で話し始めた。


「自分の父親と同様、故事にちなんで好きな女に求愛しようとした我が儘王子が、彼女に内緒で紅玉の女神像を作るよう、手先の器用な従兄弟に依頼した。良い原石が見つかったら確保しておいてくれ、あとで自分が買い取るから、と。

 しかし、なにしろ王子はいい加減な性格なため、従兄弟と約束した諸手続きを見事に忘れてしまっていた。不本意にも盗みの嫌疑をかけられた、忠実なる従兄弟は、王子に醜聞が立つのを恐れ、黙秘を続けている。――それが、俺が届けさせた手紙の内容だ」


 ラグナが話し終わるのと同時に、二人の口から言葉にならない唸り声が漏れた。


「像はまだ完成していなかったようだが、彼女は俺の求婚を快く受け入れてくれたよ」


 そう言って、ラグナは後ろを振り返る。

 寝室の扉があいて、フェリアが無言で姿を現した。


 


 


 ウルスは、何も言わなかった。何も言わずに、部屋を出ていった。ようやく本館に戻ってきたサヴィネが、家まで送ろうと声をかけたようだったが、ウルスの返事は聞こえてはこなかった。

 おそらく彼は、全てを理解したんだろう、と、ラグナは悟った。それこそ、ラグナとフェリアの間で、どのような取引がなされたかも、全部。ウルスに全て見透かされた、とラグナが認識していることすら、ウルスは解っているのだろう。

 ヘリストは、しばし壁にもたれて放心していたが、開けっ放しの扉からサヴィネの足音が近づいてくるのが聞こえるや、あっという間に自分を取り戻した。サヴィネに、明朝に王都へ早馬をお願いする、と予め告げ、書状をしたためるから、と、フェリアを伴って部屋を出ていった。


 


 一人取り残されたラグナは、掃き出し窓をあけてバルコニーへと出た。

 小さい頃に一度、冒険譚のようにここから部屋を抜け出せないか、と、三人で縄梯子を作ろうとし、ヘリストにこっぴどく叱られたことがあった。実行しようと言い出したのはラグナだったが、話のきっかけはフェリアだった。そして、より安全に降りられるよう、単なる縄ではなく縄梯子を作ろう、と主張したのが、ウルスだった。

 まったくもって、変わり映えの無い。昔を思い出してラグナはくつくつと笑った。

 ふと、欄干に背を持たれかけて、思いっきり身をのけ反らせる。

 中天に、少し欠けた丸い月が見えた。

 今、足で軽く床を蹴れば、俺は頭から下へ落ちるのだな。他人事のようにラグナがそう考えた時、部屋のほうからノックの音が聞こえてきた。


「殿下、お客様がおいでで……」


 使用人頭の声が途中で途切れた、次の瞬間、扉がいきなり開かれ、エリック・ランゲがずかずかと中へ入ってきた。


「お客様、困ります! 下でお待ちくださいと申し上げたではありませんか!」

「うるせえ。こいつと話をしたら、さっさと出ていってやらあ。ぐだぐだ騒ぐな!」


 と、怒号をぬって、金属同士が擦れる甲高い音が、廊下のほうから聞こえてきた。


「ラグナ様! ご無事ですか!」


 明日に備えて寝支度をしていたはずのサヴィネが、長剣を握って飛び込んでくる。その抜き身のごとき気配に、さしものエリックも、ぎょっとした表情で動きを止めた。


「大丈夫だ、問題ない。二人とも下がれ」


 サヴィネと使用人頭は、互いに顔を見合わせてから、今一つ納得がいかない様子で、不承不承頷いた。そうして、ぶつぶつと口の中でエリックに対する悪態を呟きながら、部屋を出ていく。

 扉が閉められるのを待って、エリックがラグナに詰め寄ってきた。


「どういうことだ!」

「何がだ」

「盗られた宝石のことだよ! 昼間に俺が来たときには、知らないって言ってただろ!」


 肩で息をしながら、エリックがラグナを睨みつける。

 ラグナは、彼の視線をしれっと受け流した。


「自分がしでかしたことの大きさに気がついて、怖くなって、つい嘘を言ってしまった」

「ああ、確かにこの手紙にもそう書いてあったな。だがな、与太話も大概にしやがれ! あの時のお前は、間違いなく、この件について、何も知らなかった!」


 これがこいつの武器なんだな、と、ラグナは思った。粗野で愚鈍だが、人を見る目には、確かなものがある。

 とはいえ、今回ばかりはエリックには、この目をしっかりと閉じておいてもらわなければならない。


「だが、宝石は見つかったんだろう? 俺が手紙に書いたとおりに」


 エリックが、ぐう、と唸り声を漏らした。


「お前が信じたとおり、ウルスは仲間を裏切るような人間ではなかった。王太子という異分子が、彼に無理矢理そうさせただけだ」

「それも、この手紙に書いてあったな。何が『エリック・ランゲの公正な判断と仲間に対する信頼』だ、俺に恩を売っているつもりか!」


 束の間、二人は無言で睨み合った。

 やがてエリックが、大きく息を吐き出して肩を落とした。


「なあ、本当は、何があったんだ」


 ラグナは、ゆっくりと息を吸うと、同じ主張を繰り返した。


「手紙に書いてあるとおりだ」


 エリックの口元が怒りに歪んだ。顔を真っ赤に紅潮させ、「クソが!」と吐き捨て、靴音も荒々しく去ってゆく。

 玄関扉が乱暴に閉められる音が、壁越しに微かに聞こえてきた。


 再び訪れた静寂の中、ラグナは再び窓のほうへと足を向けた。バルコニーには出ず、窓際の長椅子の上に仰向けに倒れ込む。

 何度目か知らぬ溜め息が、仄かに差し込む月光を揺らす。

 堤は、決壊してしまったのだ。あとは、誰も彼も、ただ押し流されてゆくのみ……。

 

 

 


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