思うまま
「ラディルさん」
「なんだ」
つい最近くだらない事でへし折られ、生きたドワーフとかいう呼び名の鍛冶屋で打ち直された、シスターなる人物の形見だとかいう長剣が俺を呼ぶ小僧の手元にある。
何かを感受している眼で、ただただ一新された刀身を眺め。
やおらぽつりと口にする。
「炎、って」
「んん」
「こわいもんだと思ってた」
間違いきった認識でもないが。とは口にせず、発言を待つ。
「でも、同じだったんだ。ううん、剣と似てるんだ」
剣とは、見定めたなにかを断つものである。
断つということは、何かを分けるということ。持ち手にとって都合の悪い何かを、持ち手にとって都合のいい何かごと殺すこと。
でも殺すことは、誰かを生かすことで。それは剣に限った事じゃないけど……何かを殺す事と生かす事は、随分近いことだ……って。
つまり剣を磨くという事は、断つ事に――殺すことに近付くこと。
シスターから、そう教わった。
……要領を得づらいその語りは、思った事の垂れ流しを、辛うじて聞かせるために体裁をとっているだけと。
というかそれは一体どこの生臭シスターなのかと問いたいが、こいつにとっちゃそれなりに重大な事なんだろう。
黙って聞いてやるさ、乗り掛かった船だ。
新鮮なものを見定めるような心地で耳を傾ける。
「炎も同じだったんだ。燃やすことは殺すことだけど、遺った灰は何かを産む」
剣で断った後に遺る、分かたれた何かと同じように。
殺したことで守れる生のように。
「……おれは、炎になりたい。戦争だって、むちゃくちゃやる連中だって灼き殺せる、炎に」
……よもや形見の剣を打ち直されただけで、よくもそこまで思い至れるもんだな、天然の馬鹿ガキは。とその時は思ったが。
――しかしまさか、そんな妄想か寝言に近い世迷い言を、延々ずっと本気で成し遂げようとしていたと。度肝を抜かれる事になる。
どこか寒々とした空気漂う王城の廊下。何度見たかわからない視界情報それ自体は、記憶にこびり付いたそれと差は無い。
ただ、遠くから真新しい血の臭いがする。城内をたむろしていたとかいう影共の原型。虐殺の蹟。
息を吐く、吐き出しなれた荒い息。たかが十秒前後、単純な全力疾走による体力減少。一心地つく。このままじゃ行動に差し支える。時間は無いが、それ以上に失敗は赦されない。
――らでぃる……
息を落ち着けつつ辺りを伺えば、見慣れた回廊が異質な何かに変質しているのを五感で感知できないような違和感。
空間的な異相がズレているからと、知らないハズの知識が回答する。
蠢いていた影、死霊が見当たらないのは……アレにビビったからか――呑まれたからか。
――らでぃる……
アリューシャからした俺の情報継承はこんな感じなのかもしれん。
知らない何かが無断で、頭の中の疑問に答える。気色悪い。
――らでぃるぅ……
……ついでに何か、余計な囁きまで聞こえるんだが。なんだろうな、さっきから。ああ気色悪い。
断じて、本来ならば俺の寝床に通じる扉――のあった場所を、楽な姿勢から一瞥。
部屋があるハズの空間には、腐った肉のような色合いのグロテスクが敷き詰められ、醜くのた打ち蠢く。ディ・ベルゼブ。
肉が蠢き、胎児の断末魔じみた音のみが耳に聞こえるという不協和音。この先であのバカが暴れているのに無音とは、それだけでもう完全におかしな状況だ。
境界を塞ぐ肉塊への一瞥は一瞬。奈落で蠢く肉塊は、それだけにまだ奈落に沈みきっていないこっちの空間への侵入はできない。
今のアレでは、人間が認識できる人間の世界じゃ暴れられないと、あの無機物は言った。
勝手に流れてくる知識も相違ない。
ならなんで計ったように俺らが居た聖域が"おちた"のか……タイミング的に考えれば、あの亡霊が要因だろう。寄生虫め。
更にその中に寄生虫が居るとは。どこまでもナメくさった真似をする。
「……縋るな、強請るな……」
最悪に近い気分で、縋り噛みついてきた馬鹿ガキに吐いた言葉を口にする。
なりふり構わないのは追い詰められていると同義。縋るのも強請るのも心情から背いたゲスな事も、その為の手段でしかない。手段よりは目的を優先。しかし――
「……そんなばっかじゃ、負けと変わんねーんだよ」
甘えてくるのは鬱陶しいし、頼られるのも面倒だが、許容できない範囲じゃない。
だが、縋るな。いつまでもそのままでいいと思うな。未完成な成人ですらないガキがそのまま停滞するなど、誰が許しても俺が許さない。自分で立てずとも立てるようになるのがガキの仕事。
成長しないガキなど、死んでいるのと同じだ。
「本当に欲しけりゃ……自分で勝ち取ってみせろ」
かつて自分で実行した言葉を口に、休んで回復した体力を杖に、二本の足で立ち上がる。
――らでぃる……ぅ
今に満足しない目的をたて、目的を果たすための手段を整えろ。歩く事を決めた誰かのように、今を築いた過去の誰かのように、
「あの、馬鹿みてぇに」
取捨選択。許容できない喪失を回避する為の生贄。暗殺者の時から慣れ親しんだ言葉。己を切り売りして真っ当な人間から外れていく一面を含んだ言葉。
例えば、達観した誰かが言った。人は喪失なくして何かを得る事ができない。
しかしと、何時かの馬鹿で甘い未熟な小僧が言った。
喪失したって何も得られないことがあるなら。喪失無しに何かを掴みとれる事だってある。
そこから続けられたのは甘い言葉。誰かを助けたい、今度こそ護りたい、聞くに堪えない甘言。吐き気がするくらいに聞こえのいい、同じ人間かと頭をかすめるくらいに現実を見ない世迷い言。俺とは根本から異なる発想。
だが……
過去の己を踏み台に成長していくこと。それだってある種の取捨選択。矛盾しているが、人間など必ずどこかしら矛盾を抱えているもの。人間のやることに完全など無い。
確かな覚悟があるなら。阿呆そのものに信じ続けていくならば。それは糧になりうるのか。
栓のない話、だが――その甘い馬鹿な小僧は隊長や衛宮家と同じ存在に、異能に到ったという。言葉通りに力を手にしたという。荒唐無稽な目的のための手段を手に入れたという。
真実本当なら、それ位は評価に値する。
「……俺みたいにゃ、なるな」
人の忠告を散々無視して突っ走るあの馬鹿は、それでもこの言葉だけは守ったらしい。
取捨選択の幅が狭く、殺す事に慣れきっているのは、俺が非力だからだ。殺さなけりゃ殺されるしかなかったからだ。それが仕方ないと妥協したからだ。色々なものをとっくの昔に諦めたからだ。
……だから。
口にした俺が、肝心要で転けるなど、何がどうだろうとあってはならない。
薄暗い通路の先を見据え、歩を進める。
――らでぃる……
囁き共々頭にこびり付いたのは、気絶させる直前に吐血して、狂ったように暴れだしたアリューシャの姿。
客観的に見て、禁断症状に蝕まれているような。俺みたいな、観れたものじゃない有り様。舌を噛む所だった。
症状からしてひょっとしたら、と思い付き俺の唾液を飲ませて鎮静させなけりゃ気絶さえできなかったろう。
禁断症状の鎮静方が俺と同じだとしても、鎮静が続くのはどれくらいか。得体のしれない知識が応答する。
煩雑してあまり理性的じゃない思考のまま、時間がない、と呟いた。
そこかしこに致死量の血痕が目につく道のりから、どこからともなく鼓膜の内側に響くガキの囁きを無視しつつたどり着いたのは、四階の最奥、謁見の間。
扉から見える、建ち並ぶ柱の間に聳える玉座。城という重要建築物には必ずといって良いほど存在する、王が座る場所。国中の豪華を結集させた、居心地の宜しくない所。
そこに今、俺を除いて二つの人影がある。
胸の奥の底、体中に浸透している魔人の因子がうずく。ディ・ベルゼブに侵されたイルドと相対した時のような、得体の知れない知りたくもない感覚。
それに従った結果。確かにそいつらは、そいつは、装飾とは違う大量の赤がこびり付いた玉座の傍らに居た。
「……来たか」
礼服の上に外套を羽織った片方が、愉悦の滲む呟きを零す。
もう片方、纏められていた黒髪が揺れ、メイド服が朱に染まり血を吐く。
前者に貫かれた後者が、鮮血で尾を引きながら謁見の段差から力無く転がり、落ちる。
こっちに転がってきて、脚の先で止めて対処。鮮血が脚と頬に掛かった。
確認するまでもなく、まだかろうじてだが息があるそいつは、あのびんぞこ眼鏡に取り入り暗殺を企て、黒と白のエプロンドレスで剣聖とイイ勝負をしていた――シズルとやらに相違なかった。
……道すがら遭遇したアスカの証言から生存は確認していたが、剣聖とまともにやり合える化け物がこの有り様とは。
一代で宰相までのし上がった古豪。数多くの敵に暗殺者、身内も味方も自身の手を含めあらゆる手段を使い、国王さえ傀儡にしていたやり手は――そうまで規格外れだったか?
「随分と遅かったではないか、低俗」
比喩じゃなく血で汚れている玉座の手前、白髪をオールバックにした老いぼれが――不倶戴天の怨敵がほざく。
しかし感情は平坦。さざ波ひとつたたない。
天秤にどれだけ重石を載せようと、釣り合ってさえいれば揺れはしない。停滞した感情。
「テメェが寄生虫とその寄生虫なんぞを寄越すからだ……オズワルテ=ツェペシュ」
黒幕を、積年の怨敵を前に口を吐いたのは、詰まらない皮肉。
「ほう、貴様を慕っていた異母弟を寄生虫とは。恐れ入る」
口角がつり上がり、爬虫類じみた眼が細められた。
血みどろの身なりと歴戦の数だけ刻んだと思わせる皺とあいまって、凄惨な狂相がかたどられる。
詰まらない皮肉だ。お互いに。
まあいい。どうせ、万の暴言に億の悪辣を並べ連ねても足らん相手だ。
「イルドは死んだ。俺が殺して、もういない」
「そうだ。兄弟姉妹、関係の無い者もある者も、全て等しく殺したな」
「だから?」
今ここでどういう関係があるのかと斜に睨む。
「主に刃をたてた殺戮人形」
返ってきた答えに、一定だった感情の波に異物が混じる。つい先程、思い出す事ができた事実。
信じがたいし、手段が今一判らないが……野郎の、他の人間と同じ心臓を抉った瞬間は、確かに頭の中に残っている。
人形と主……いや、そうか。俺からしても記憶を掘り起こせたカギはイルドだった。なら、元々の雇い主が知ってても不思議じゃないか。
そういえば、野郎の知り合いとかいう話でもあったな。
「よもや、貴様が奴を殺した当人……親殺しだとはな」
親殺し、それ以前に暗殺者で兄弟殺しでもあるわけだから、随分と今更な。
しかし、あの自称保護者が殺したとばかり思っていたが……というか何故に忘却していたのか。
疑問はさて置き。
「仇討ちか」
「否。だが、奴を殺した貴様を殺す事に意味がある」
異能力者を殺しかけるような暗殺者を殺した者に。という事かとまず思ったが、違うな。
イルドとは比較にならん年月で熟成された淀みに濁り染まり汚染され、同一化したといって良い眼が細められている。
覚えのある、ありすぎる目。
……そうかい。テメェもあの野郎が憎かったんかい。
「……答えろ。イルドとリリアに妙な仕掛けを施したのは」
「私だ」
「うちの元・部下とその家族が行方不明になったのは」
「始末した」
淡白な物言いに感じる事はない。ただの事実確認。
「城の連中もか。傀儡にしてた王族も」
サーガルド国王は有能とは言い難いが無能でも無かった。
だから都合のいい傀儡だった訳だが、王族以外座る事の許されない玉座まで血まみれという事は、つまり。
「それは本意ではなかったがな」
そうかい。
「質問は終わりか。ならば、」
「喧しい」
言の途中、手に滑らせた仕込みナイフが――微動だにしなかった的の寸前で掻き消える。
暴食の特性と推測。因子とやらをついさっき植えた奴が、なんでそんなに馴染んでるのか……いや、テストケースに準備期間、比較するまでもないか。とあたりをつけてる間に、詰まらなさそうに皺を寄せる怨敵。
「人の話は最後の最期まで聞くものだ。ラディル=アッシュ――いや。透刃、アウレカ」
落差無く落としていた感情を押し上げる。
余分な害意や悪意無く、殺意。
「下らない能書きを垂れてる暇があるなら腐って死ね、老害」
込み上げてくる熱と、それと同等の冷えたものが混ざる。結果として口を吐いたのは平常のそれ、だと思う。
一度合流したアスカから受け取った果実型爆弾を投げ、銃撃。引火、室内を震わす小規模爆発。
必要以上の爆音に顔をしかめながら、足元に転がっていたメイド服の半死人を盾に爆風をしのぎ、
「――相も変わらず無粋な輩めが!」
無音かつノータイムで背後に出現した気配に発砲と後退。
手放した肉盾が力無く転がるのは無視。得体の知れないナニかに銃身を抉られた感覚。グリップから先が消えたと、持ち手の重みから瞬時に判断。鉄の残骸を気配のする方に手首の捻りで投げる。
「――無様!」
裂帛と殺意に反応し伴う寒気に従い、風切りから逃げる。
三歩分の距離を跳べば、素手で城床を抉る老人の皮を被った人外の姿。どこの異能力者だ。いや、
「――ガキの力でっ」
「お互い様であろう!」
投げたナイフが腕で弾き落とされ、無色の鋼糸は得体の知れない――いや、暴食の特性で接触箇所から"喰われ"消える。
「薬漬け監禁趣味と一緒にすんなっ、反吐が出るんだよ、吐くぞコラァ!」
「変わらぬさ! 己のいい様に利用しているという意味ではな!!」
血に濡れた外套が翻り、鋼糸に巻き付け死角に回した凶器が迎撃され、残骸が転がる。
半ばの予想通りに舌打ち一つ、後退が追い付かれ、至近距離。
「気の効かねぇ屁理屈だなぁっ? そういうのは偽善者か審問官にでもほざいてろやァ!」
「これほどの力の断片すら見いだせぬ劣等がァ!」
軍用ナイフによる鍔競り合い。火事場の馬鹿力で踏ん張るも、拮抗は一瞬。魔物じみた一押しで弾き飛ばされる。痺れた腕からナイフが抜けた。
圧倒的な力量差。
年齢こそ棺桶に片足突っ込んだ老いぼれだが、暗殺者殺しの腕前はそこらの現役騎士とさえ比較にならない。それが因子によって更に化け物じみて活性化してる。
敗北した以前よりも、更に力量差が開いている……が。
「――がっ、あ!?」
「弱い……まだ其処に転がる暗殺者のが強かったぞ!」
脚から飛ばした仕込みナイフが空を切り、刹那の間に背後に回られ首を掴まれる。
視点が上がり、息が詰まる。率直な死の気配、だが……
「何故、奴の最高傑作が! 何故に奴を殺した貴様がァアア!!」
咆哮と共に視界が飛び、投げられたと把握するに一瞬の間。
床に肉を打ちつけられコートを擦らせながら壁に叩きつけられ、呼吸と動きが止まり、咳き込む。
間違いない――ンの糞野郎、さっきから……遊んでやがる!
「なんだこの様は! 劣等以下の腑抜けが、塵が!!」
「――アッシュ!」
老害の罵声と新手の悲痛が重なり、開け放たれた謁見の間に新た気配と最新鋭のアサルトライフルによる銃声が轟き、内装が破壊されていく音。
投げ捨てられた体勢を整えるよりも早い展開に舌打ち。
「――っの、バカ野郎……が!」
俺が合図するまでは何があっても動くなと……罵声を呑んだ隙に暴力的に淡々とした銃声が中断され、血しぶきが視界の隅に映る。
乱れた息を治しながら、王国の紋章が吊された壁を背に立ち上がると、暴食の特性で得物ごと脇腹を抉られたアスカの姿。
「感情をたぎらせる。情などという不純物を保つから腑抜けるのだよ、女ァ!」
「ーぎぃ、ぁ……っ!」
角度からして、柱の一つに叩きつけられたのだろう。傷口を更に抉られたらしく、鮮血が中央の敷物まで届いた。
いわんこっちゃない。
「籠絡された狗が……!」
「どこを見てやがる!」
叫び、転がっていた軍用ナイフを回収・投擲。
空を切った質量はあっさりと指二つで止められる。
続けてコートの裏から引き抜いた虎の子の小型軽機関銃皇国四型の二丁による斉射は、非人間的な軌道で軽やかに回避され、
「――もう、いい」
鉄筒が転がる音に混じった、熱狂から醒めた声。
弾幕や距離を無視した謎の移動術。
出現と同時、零距離で虎の子の二丁が握り潰され、
「興醒めだ」
失望の息と共に、左の指から脳を灼く灼熱が疾る。
腹部殴打、威力を殺ぐ隙も無い一瞬で再び床を転がされる。転がりながら損傷確認……右腕、指の二番と三番が根元から千切られてる。殴打された腹部、臓器が少しばかり潰され、あばらの下半分にひびとズレ。
装備で衝撃が吸収というか、変な風に拡散されたせいか。コートとスーツが無けりゃ死んでる。
壁か柱にぶち当たって止まり、咳き込んで吐血。
内蔵はもとより千切られた指が地味に痛む。痛覚遮断。
「かつてあった、我を見下し嘲笑した殺刃。その継承は、既に錆び果て見る影無し、か」
「……嘲笑ね。てか……誰が誰の、継承……だ」
立ち上がる前に踏みにじられる。何度目かの率直な死の危機。
隔絶された戦力比。殺されないのは、害しうる敵と見なされてないから。
冷たい思考がそう囁く。押し殺されている奥の奥は明確な殺意で満ちているが、現状は……っ!
「……おや、加減を間違えたか」
身の毛がよだつ嫌な音。関節が出来上がり筋繊維が千切れ骨が軋みひびが広がる音が、鼓膜の奥から伝わる。
痛覚を遮断してなけりゃ絶叫を噛み殺す必要があったろう。
壁との衝突からやや違和感があった右腕の肘が逆に曲げられたのだ。
「かつての屈辱を拭うために必要な通過儀礼、だったというに」
……勝手に期待して勝手に失望。というかイルドから伝わった話だというなら最近の筈。
脂汗がにじむ頭で浮かんだ疑問に答えるような独り言。
怨敵の子を飼い殺しにしておくのも一興とか、全くもってふざけてる。子が親殺しなら殺して、過去を拭えるとか。
腕と内蔵をちょっとばかり潰したくらいでもう終わりと思ってんのか? 余裕こきやがって……いや、今詰んでるけどな。
「……いつでも、気付いていたろうが、私は今に限らずいつでも貴様を始末できた」
そうしなかったのは利用価値があったから。異能力者への、隊長(フォリア=フィリー)への鎖という代え難い価値が。
「道具にも成りきれぬ、因子を植え込まれてこの程度の半端が。無力を噛み締めるがいい」
好き放題言って――ぐっ、あ……てめ、潰れた内臓を更に圧迫するか?
言葉を発する事も出来ず、脆弱だのといった下りがどこか遠くに聞こえてくる中、こみ上げてくる鉄分を吐き、
「――お爺様」
そんな声を聞いた。
視点を上げ、確かめるまでもない、案外に饒舌な知人の、数える程度にしか聞いた事のない静かな声。
「……キルエリッヒ」
老人が孫の名を口にする。足蹴にしているモノなど、もう眼中にないとでもいうように。
「何故、此処に居る」
「巻き込まれました。先ずは戦勝おめでとう御座います……と言うべきでしょうか」
「戦などでは無い。虫螻を潰すそれに、何の感慨も無い……聞きたい事があるのではないか?」
……言ってくれるじゃねぇか。この糞野郎。
キリーの方も足蹴にされてる俺が見えん訳じゃないだろうに、これといって動じた風も無く。
「幾つか。伺っても?」
「よかろう」
嫌みったらしい声だ。足をもがるた虫が水底に沈んでいくのを嘲笑う声だ。
時間制限がどうのこうの以前、現状何もできない。それを愉しまれてる。
吐き気を堪える為に噛み締めた歯が鳴った。
――城の者は殺されたとか、この状態の要因とか、俺でも知っている基本的な情報が交わされる。
――間もなく魔人が墜ち、伝承通りの継承が行われる。因子持ちが魔人と取って代われるのだと、糞偉そうにのたまう。
知識とも符合する、時間経過で糞爺の傀儡が暴れてアリューシャが弱っていき、やがて死に至る。
アリューシャの死が俺たちの敗北条件で、糞爺にとっての達成目標。
だからアリューシャがくたばる前に、どうにかする他ないわけだが……
「魔人……軍事転用はおろか、そんなものに成ろうというのですか、お爺様は」
「彼の力が在れば、東の忌々しい雌狐と異能力者共を抹消できる」
雌狐。こき使われていた時代にも何度か耳にした名刺だが……ああ、なんか一人思い至るな。この糞爺に煮え湯を飲ませてそうなの。
妙な納得を抱きながらも孫爺の問答は続く。
狂気に至った動機とか、強行の理由のさわりも語られた気がしたが、知るか。心の底からどうでもいい。殺すだけだ。
「――硬直状態を動かしたい、貴様とて解らん訳ではないだろう」
都合のいい耳が気になる言を拾った。気づかぬと思っていたかククク、みたいな一々腹の立つ繋ぎは無視し、何か引っかかる単語、硬直の……あ。
――俺が動く、そもそものキッカケになったのは、ヴァルカが持ってきた情報が有ったから。
その裏付けに動き、証拠に手を掛けた所でアスカと遭遇した。なし崩しに離反が決定した。
だが、あんな情報……ヴァルカの阿呆は阿呆だが腕だけは確かな阿呆だ。最優先と言っていたが……あんな内容、流すか普通? 流さんだろと普通に考え、独自にパクってきたものだろうと判断していたが……
パクらせたネタ元が、わざとだとしたら。そしてネタを掠める事ができるような奴で、国が潰れかねない機密を俺に流す利点と動機がある奴は、
「キルエリッヒ、お前であろう。極秘文書を虫螻に流したのは」
「……はい」
やっぱしオマエかい。
「そこで寝ている二匹もお前の子飼いで……裏切りか?」
「違いますよ。ラディル君とアスカさんとは友人で、静流さんとは契約書だけの間柄です」
アスカともかい……となると、最初、あのタイミングで遭遇したのもテメェの差し金とかじゃねぇだろな?
溜まった血反吐が出るばかりで、悪態すら出せんストレス。度合いで云えば足蹴にされている事に比べれば可愛いもんだが、重なれば相乗効果、悪夢だ。
忌々しい。
「利がなかった訳じゃない。双方ともに忌むべきは停滞で、僕もラディル君も命を賭けていた。利用されつつ、利用する。だって僕たちは友達じゃないか、ねぇラディル君」
利用されていいと思い合える間柄が、友達。いつか零したキルエリッヒ=ツェペシュの理屈。間違ってるとは思わんが、犯罪者臭い言い方だとは思う。
一般的に云えばどうか知らんが、まあそうだな。俺もどうこう言える事してねぇし。
言い訳じみた発言や裏切られたなとか煽る戯言を聞き流しつつ、そろそろかねと敵と中立の対話の合間を狙い澄ましていると、
「……――は」
唐突極まりなく、幽鬼じみた気配が現れた。
「……何だと?」
「静、ルさ……ひっ」
動揺の息と純粋な怯え。後者は尻餅をついたらしく、振動が床を伝った。
腹に派手に風穴空けられたエプロンドレスの化け物が、ふざけた殺気を噴き散らしながら立ち上がればそんな風になるだろう。
「、ーくかぁ、くかけ、ゃキけきけけけけけけけゃけけけけけけけけけけッ!」
人間の出せる声かどうかという根本的疑問と、常人どころか戦慣れした傭兵あたりでも、相対すれば心が折れると断言できる殺意が吹き出て、暗殺者殺しで名をはせる因子保ち宰相が呻いた所で、一つ悟る。
――こんなん相手にした剣聖、生きてねぇだろーな。と。
僅かな呆れさえ含め――哄笑とも絶叫ともつかん音がブレるのを知覚。
温存、回復していた体力を消耗する、賭けに出るならここだという直感に従い、内出血で鈍い腹に力を入れ、足蹴を押しのける。
力点がズレる。唐突に復活した殺意の塊に脅威を感じていたか、意外な程に虚を付けたらしい。
暴力的な束縛から逃れ転がり、関節の歪が酷くなるのを知覚しながらも無視し、
「――ぐ、がっ」
「――ち」
何がどうなった過程は不明だが。両者の交錯は終わり、その結果が視界に映る。
右腕を千切られ、間抜け面をさらす糞爺。異様に綺麗な断面を覗かす右腕を無造作に掴み、壁に脚を付ける黒髪黒目の化け物。
「ク、けキけゃけけけけかけけカけゃけ」
怪物じみた狂喜に歪みきった面が哄笑する。本能以前に原始的な恐怖を掻き立てる、そこらの魔物が愛玩動物に思える狂相が壁の王国紋を踏みにじり、顔を合わせた爺にその腕を投げ。
暴食の特性がそれを喰らい、その隙にメイドの皮被ったナニカが、中空から剣を抜き放ち――壁をくり貫いた。
なんか剣聖が振ってたのと似た――いや、状況からしてぶんどった剣か。神器もどき。
「剣聖の剣だと?!」
案の定らしい驚愕を露わにする糞爺を尻目に、円形に貫かれた内壁の先に波立つ髪を羽根のように靡かせ、その先の回廊に跳び込むメイド服の怪物。
憤怒の形相が舌を打ち、右腕があった箇所を撫でながらそれに追いすがる、が。
回廊の壁が切り裂かれる音。音源からして外壁だろう。くり貫かれた瓦礫が外に落ちて行く音と平行し、殺気と悪意の塊が遠ざかり、消えていく。
行きがけの駄賃とばかりに、剣聖の剣が投擲されていたが、暴食の特性がそれを貪る。
それが功を奏したか、一瞬の苦痛が爺から漏れ――畳み掛けるように轟音。
堅牢な外壁と内壁が、竜種の爪でも打ち付けられたみたいに一緒くたに打ち砕かれ、一瞬にして瓦礫と粉塵が出来上がり、謁見の間を蹂躙するように吹き荒ぶ。
無力化してない片腕で目鼻を防ぎながら、瓦礫に混じって血肉の匂いが微かに香った。
……まさか、本当に壁を抜いて離脱するとか。
あのメイドというか、もっと根本的な所でナニカを被ってる女。
勝てなけりゃ戦術的撤退を選び、その時にはとご覧の通りな逃走を繰り広げるだろうと自信満々に言った女男が居た。アスカやキーリと対面した三階で、柏木 司とも対面していた。
そのくり貫かれるだろう外壁を張るとか、逃げの方便だろうと半分以上気にしてなかったが……成っちまった。
破られた外壁目掛け、最新型の対竜試作兵器で狙撃……砲撃とか。有り得たんだな。流石ご同郷か。
人体に向ければ肉塊さえ残らんオーバーキルの爪痕は、街並みと二階分の天井と石床を無くした階下を見下ろせるものであからさまに過ぎ。
更には、どす黒いのに街並みは明るいという変わり映えのない異常が一望できる有り様には、腹の奥に溜めた息を血ごと吐き出したくなるような新境地に陥るに足る。
へし折られた右腕を左手で意味もなく支えながら、DSPで粉砕された内壁の先を見る。気配が消えたキーリは余波で吹っ飛ばされて気絶でもしたか。アスカはどうなったか。両者の姿は見当たらない。
更に理解したくない感覚で解るが――薄皮三枚程隔てた頭の奥で、どっかの薄桃頭のガキが苦しみ俺を呼んでいるような。頻度が低くなった分、弱々しさが増したような囁き。
義務感やらエゴの完遂でなく、脅迫観念に近いもんをかきたてるそれが、糞爺が肉片になった現状でも続いてるという事は――ディ・ベルゼブが健在だからか。
いや、と頭をかすめた持論を否定しながら振り向く。
「――この程度じゃ死なん、か……」
中指と人差し指が無くなった左手で口の端の血を拭い、肉片が散らばっていた中心辺りに佇む――右腕を欠損した怨敵を見た。
肉片になる寸前と違わぬ姿形が口の端を歪め、笑う。
さながら、数ある異名の一つにある、生き血を啜る鬼のような笑み。
同時に、見慣れた欲望と感情に淀んだ面でもある。力に酔い、溺れつつある表情。
すきま風が吹く中、唾棄しながらコートに仕込んでいた短刀を抜く。指が二本無いから持ちにくいが、贅沢を言える状況じゃない。
露出した骨肉に神経が風に辺り刺激される、地味な痛み。痛覚遮断も短期間なら全く問題はないが、長期戦となると無理が生じる。
更に――肉体的、物質的な死は効果的じゃないと知識は云う。
「まだ戦うか、半端が」
出来損ないの不死者がいつものように人を見下す。
どうしろってんだ。得体の知れない知識から情報を読みつつ、口を開く。
「積年の恨みがある……ついでに、ガキもうるせえし」
「幻聴か」
ああ、てめぇにゃ聞こえねぇのか。
変な能力の質に差は因子の適正の違い……ま、どーでもいい。成す事に変わりはない。
「勝てる気でいるのか? 暗殺者風情が、身の程を知れ」
「生きれる気でいるのか? 力に溺れた酔っ払いが、老い先を知れ」
不毛なやりとりが半壊して埃舞う謁見の間で尚、空々しく。
しかし直ぐにでも激突しない方が可笑しい鬼気が溢れている。
そんな爺に嘲笑を一つ。
そろそろ、か。頃合と直感し、閉じて楽になろうとしやがる瞼に活を入れた。
「何が可笑しい」
「時間が無い、アリューシャが死ぬ前に決着をつけなけりゃならないからな。殺す」
取り合わず、前提を口にした。
「随分と時間を浪費しているが……さて。彼の魔人はまだ正気を保てているかね」
アリューシャの苦痛は、因子を植えられた俺の禁断症状に匹敵する。
人が正気を保てるようなもんじゃないと知識が言う。爺もご存知らしい知識が。
本能で喉をかきむしったり舌を噛み千切ろうとするレベルだと。俺と同じ方法ですら気休め程度で、鎮静しきれない。気休めにはなっていたが。
「暗殺者風情に、殺し以外の何ができるものか」
だが――と、害悪の嘲りを一笑にふす。
嘲笑が怪訝と苛立ちを押し込めた無表情に変わるのが可笑しくて笑えて、臓器と右腕が潰されてなけりゃ腹を抱えて笑っていたかも知れない。
「何が可笑しい」
言う必要は無いね。まだな。
「異能力者、隊長を足止めして俺を招き寄せた。それはテメェの感傷でもあるが、勝つ為の兵法でもあった」
隊長にディ・ベルゼブを当て、それ以外を因子持ちで暴食の特性まで身に付けた糞爺がそれ以外を担当。
お互いにとっての鬼札を相殺させる。対抗できるのが鬼札同士なだけに、双方にとって良くは無いが悪くも無い流れ。
戦力的にどちらかと云えば隊長の旗色が悪いくらいだから、爺の手は正しく悪くない。爺本人の戦力がかっとんで強化されていたという伏せ札まであった訳だから、俺単体ではどうあっても目標達成できないという意味では詰んでいる。
オマケに肉体的な損壊に対した意味が無いとくれば持ち札、手持ちの手段じゃあ、どう足掻いても現状を覆しようがない。
だがしかし――前提を覆せば、どうなる?
「テメェとあの汚物に妙な繋がりがあるのは解っている。いや、ひょっとしたらイコールか?」
半分程の思いつきを口にするも、相対する爺は口を割らない。
時間を掛けるのは俺の首を絞めると判断しているからこその放置か、それとも気に止めた発言の真意の方が気になるのか。どちらにせよ、口は動かせる。
「どっちにしろ、あっちの戦況もある程度は把握してる筈だよな。どうだ、隊長はくたばったか?」
隊長が負けたというならば、隊長さえ呑み込んだ汚物の浸食が早まる。決定的な敗北が確定する。
だが、魘される囁きが聞こえる。らでぃるらでぃると舌っ足らずに喧しく鬱陶しく、おちおち眠れもしない、まだ生きてる声が続いてる。
あのガキさえまだしぶとく生き延びているんだ。
なら、
「あの隊長だ。デカくなったり小さくなったり山吹き飛ばしたり竜殺したり人に噛みついたりと、非常識にも程がある、前代未聞の馬鹿だ」
知識が言う。異能力者ではアレに勝てないと。
そんなことは糞爺だって習知、でなきゃ隊長の足止めなんぞにアレを回さない。
だが、俺は知っている。
「信じている、とでも世迷う積もりか? 馬鹿馬鹿しい。後天的異能力者でさえ勝てぬ存在に、自力で到れぬ先天的異能力者が勝てる道理など無い」
「道理も常識もぶっ壊すのが異能力者だ。俺はそれを、さんざ見せつけられてきた」
先天的と後天的の差。後天的は自力で異能に到り、先天的は異能力者から産まれる。異能の血が全て継がれる訳じゃないが、血を重ねる度に異能は薄れていく。そこに埋められない差がある。
事実として、後天的異能力者である現・衛宮の当主に、先天的異能力者である隊長が勝てた試しはない。
だが、それでも、信じてるさ。テメェで見てきたものくらいは。
少なくとも、俺が眼前の化け物に勝つ、とかと比べれば現実的だと思えるくらいにはな。
俺の言に何かを感じたか、怨敵が間合いを詰めてくる。無手だが、その無手にさっきから圧倒されていた。列記とした驚異。
だが、この速度はまだ常識的で。
既に状況は変わっている。
風吹く音と、風切り音。尖った鉛の塊が空を切る、実に聞き慣れた音。
「――狙撃か!」
何のために俺がわざとらしく戦闘体勢とって、外から見える位置に立ってると思ってんだ。
得物を手に、一点を警戒してるのを見てりゃあ、その一点にまだ敵がいると伝わるに決まってるだろ。外の狙撃手に。
なら俺は動かず、どういうわけか無手の敵の接近に合わせて通常の狙撃銃でも、空いた外壁から狙い撃てば良い。
そしてそれで忌々しく舌打ち間合いをとるってことは、どうやらそれなりに有効のようだな。
「さっきより弱ってるなぁ? 肉体的な死が致命的じゃなくとも、全くの無駄っつー訳じゃあ無いらしい」
「……そういう貴様も顔色が悪いな。お仲間の援護がある癖、当人は構えているだけで脂汗さえ流すとは。虚弱体質とは難儀なものだ」
喧しい。損傷の度合いから肉体的な稼動限界はもう直ぐというかもう限界と訴えてるが――テメェをくびり殺すまで寝てられるかよ。
「……時間稼ぎ……最初からその腹であったらしいな」
知識の盲点を突いた大博打。本来は足止めである隊長の勝利を期待した、本丸の足止め。いや隙あらば殺してたがな。想定以上に化け物だったからアレコレ利用して足止めに専念するしか無かった。
短期決戦のカモフラージュに、失敗した時にとキーリを拝み頼んだ対話による引き延ばし。アスカのポカに人外メイド擬きの奇襲、女男の奇策成功は想定外だが、全体的にそう悪かない展開だ。
「……馬鹿馬鹿しい。どれだけの人外であろうと、アレには」
「怖いか」
砕かれた瓦礫の一部がずり落ちるタイミングで、嗄れた口が止まる。
「テメェは、ずっとびびってたんじゃねぇか? どれだけ権力を得て、どれだけ暗殺者を返り討ちにする力を磨いても、只の気紛れ一つで踏み潰せる異能力者ってヤツを」
戦術を通り越し戦略を左右する、天災と同意義の異能力者を恐れない権力者は居ない。
だからこそ東方の異能力者、衛宮は人質をとられ国の傀儡になっているし、西方では異端とされて審問部から排斥されている。王国は西方側でありながら前者に近い方法で、だからこそ鎖が外されるのを警戒していたし、審問部とも密接に繋がっていた。
飼い犬にしたからこそ、その脅威が身近で解る。それは恐怖だ。
「審問部の剣聖や女狐を招いてたのは隊長への対策で、イルドを苗床にしたディ・ベルゼブの出現は東の国守共への牽制……違うか?」
「だったらなんだと?」
「いい年こいた死に損ないが、万難を尽くして怯えの対象を抹消しようとしている」
脅威を排斥する神経は、人間としちゃ間違ってないが。
「それだけ、その異能力者を超える魔人に縋って同一化して上位に立ちたがる、狂っただけの秀才。無様なもんだな、糞爺」
無造作に垂れていた左腕が振り上げられ――放たれたのは、銃撃。
肉体と一緒くたに再生された外套の内に仕込まれていたのだろう暗器は、黒光りが目に映る直前に顔をズラしたが、頬を掠めた。
狂気に殺意に、奈落じみた怒気が混じる。
「貴様に……貴様に何が」
ドロドロした何かが吐き出されかけた刹那――異物感、いや、何かせり上がってくる異様な感覚。
名状し難い感覚に従い、弾けるように外壁の外を見れば。
一瞬、言葉を無くす。
蒼穹。
雲一つない蒼が広がる、見た事が無いくらいに澄んだ蒼。
冬から春に移るように、夜から朝焼けが浮かぶように、下がっていた階層が浮かび上がっていく。せり上がっていく高揚感。口角がつり上がる自覚。劇的な事態に沸き立つもので、疲弊と負傷に萎えていた活力が溢れてくる。
蒼穹――よくよく観察してみれば、それは炎のように揺らめいていた。
「――自力で到った、後天的異能力者のお出まし、か」
おせえんだよと小さく無意味に独り言り、視点を戻す。
「ば、か……な」
呆然と佇む老人は蒼穹に釘付け、一変した世界に全ての意識を傾けていた。
正気も正気も無く、ただ愕然とした眼に――短刀を投擲。
それは、真実本当にこれ以上ないくらいの忘我だったのだろう。
通常の半分以下といった鋭さの投擲は、吸い込まれるように眼球とその先を射抜く。
「――がっぁ?」
訳の解ってない呻き、かろうじてたたらを踏んだのが奇跡といった、いや。眼球から脳髄まで貫かれてまだ何か生きてる時点でおかしいか。
界層が上がった。外側から馬鹿が馬鹿らしく馬鹿げた規模の馬鹿やってくれたおかげで、魔人の特色が薄れていく。異常が平常に移ろっていく。魔人の異常が特に力を振るえるのは――異常の中だけだ。
コートに仕込み残っていたハゲオリジナルの拳銃を逆手に、喉、心臓と胴体辺りを適当に狙い、撃つ。小指で引き金を引くのはなかなか疲れるが、撃つ、撃つ、撃つ。
赤い飛沫が飛ぶ、致命傷だが、柱に寄りかかった爺はまだ死なない。死なないというのは苦しそうだな、おい。
抵抗も回避もない、絶好の的を肉の塊に変えるべく――イヤ、と、舌打ち。
無造作に歩み寄りながらジャムった拳銃を破棄。死体にしか見えない老人を見下ろす。
虫の息。頭に短刀と銃弾五発ほど叩き込んだせいか、脳さえまともに機能してないようで、意味のない呻きだけを零している。
暴食の特性こそ見られないが、穴だらけの体中から異音が聞き取れる辺り、まだ再生しているりかも知れん。
だが、遅い。
死んでも死ねないというのは哀れなものだな、と頭の端で思いながら。左腰に差していた鞘を右に変える。
「――俺の道に、ガキ共の道に、オズワルテ=ツェペシュ。テメェは邪魔だ」
鞘を右腰に、転けた時にか多少壊れかけた柄に、左手を添える。血が滲み神経が露出した、指が三本しかない上に銃までばかすか撃って、損傷とは別の神経が千切れそうに痛むが掴み――居合。
「消えろ」
三本指と最低限の握力で振り抜いた刀がすっぽ抜けて、赤い力場に首を断たれた平常に拒絶され、砂灰のように肉塊が崩れていく末路を見届け。
急速に視界が薄れていく、保っていたバランスが崩れ、ナニカを吐いた。
――ああ、くそ……
舌打つ間も無く、抵抗も自制も効かない問答無用の空白が、頭を埋めていく。
――らでぃ……る……
そして舌っ足らずな囁きを最後に、全ての意識を手放した。