ドアの中
お題:彼女とドア
「ねえ。私、ドアの中に入ってみたいわ」
彼女は言いました。
「ごめんなさい、それは出来ないんですよ」
そうドアは答えました。それはいつも通りの押し問答でした。
彼女は友達を知りませんでした。兄弟も姉妹も祖父母も、後はいとこだとかおじおばというものも知りませんでした。父と母は知っていましたが、二人はもう彼女にとっていないも同然の存在でした。なので彼女はいつも一人ぼっちでした。
彼女が唯一会話する相手がドアでした。ドアはいつでもきちんと彼女に答えてくれました。
「今日は暖かいわね」
と言えば、
「そうですね。けれど季節の変わり目ですから、羽織るものは持っていてくださいね」
という風に。
ドアはいつも優しく彼女に微笑みかけました。その微笑みが彼女も好きでした。けれどドアは、どんなときも微笑んでいるというわけではありません。彼女があることを要求する度、ドアは困ったように、そして少し悲しそうに微笑むのです。
「ねえ。私、ドアの中に入ってみたいわ」
「ごめんなさい、それは出来ないんですよ」
ドアは彼女のわがままを、それ以外はすべて叶えてくれました。もちろんドアはドアですので、あまり遠くへ動くことは出来ません。けれど彼女のわがままは、
「私と一晩おしゃべりしてくれない?」
だとか、
「私の歌を聞いて欲しいの!」
だとか、可愛いものばかりでしたので、ドアにも叶えることが出来たのでした。ドアに叶えることが出来ないのは、あのお願いだけでした。
「ねえ。私、ドアの中に入ってみたいわ」
「ごめんなさい、それは出来ないんですよ」
彼女は考えました。どうしてドアはそのお願いだけ聞いてくれないのだろうと。どうしてドアは、それを断る時悲しそうに笑うのだろうと。けれど考えてもわかりませんでした。
彼女は大変素直な良い子でしたので、わからないことは素直に聞いてみました。
「どうしてドアは、中にいれてくれないの?」
ドアは、本当に困り果ててしまったようでした。その表情を見た彼女が、どうしてこんなことを聞いてしまったのだろう、と後悔するほどでした。彼女は、ドアを困らせたいわけではないのです。
ドアは本当に困った顔をして、一言だけ答えました。
「ごめんなさい」
彼女はそれ以来、ドアに中に入れてと頼むのをやめました。
彼女は知らないことだらけのお嬢様でした。本当に何も知らない子でした。
例えば彼女は、本物のドアを知りません。本物のドアの前に立つ大柄な男を、ドアなのだと勘違いしているのです。
例えば彼女は、今父と母がどこにいるのか知りません。彼女にとっては、ある日突然帰ってこなくなった二人、というだけの認識です。
例えば彼女は、今自分がいる場所が、ドアの外ではなく中なのだと知りません。彼女が何度も入りたいと頼んだドアの中。それは今自分がいる場所なのだと、彼女は知らないままです。
彼女が知らないことだらけなのは当たり前です。ドアが――男が、教えてあげなかったからです。
男は何も知らない彼女を酷く愛していました。それはある種狂気にも似ていました。いいえ、狂気そのものと言ってもいいのかもしれません。男は深く深く彼女を愛していて、それ故に彼女には何も教えないのです。本当のことは何も教えてあげないのです。なぜなら男は、何も知らない彼女を、酷く酷く愛していましたから。
男は――いいえ、ドアは、今日も彼女のわがままに答えます。
「ねえ、私とおしゃべりをしましょう」
「ええ、いいですよ。喜んで」