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お前は要らないと憧れの上司に言われたので、とりあえず転職して部下にしてみた。

作者: 十字路
掲載日:2026/09/11

 ローズ・ハーグレイヴは、仕事が好きだった。


 好き、という言葉では少し足りないかもしれない。


 朝起きて今日一日の予定を確認し、優先順位をつけ、必要な人間へ指示を出す。予定外の問題が起こればその場で判断し、昨日より今日、今日より明日、ほんの少しでも効率を上げ、目に見える形で成果を積み重ねていく。そして、その成果を正当に評価される。


 素晴らしい。


 これ以上、人生に一体何を求めるというのだろう。


 ローズには前世の記憶があった。現代日本という遠い世界で生まれ、会社員として働いていた記憶である。


 とはいっても、前世で工学を修めていたわけでもなければ、医学の専門家だったわけでもない。電子機器の構造など知らないし、火薬の配合比も知らない。農業改革を起こせる知識もなければ、魔法と科学を融合させて世界を変えようという大志もなかった。


 転生したからには、この世界へ何か革新的なものをもたらさなければならない、などという使命感もない。


 むしろローズは、世界など勝手に回っていればいいと思っていた。


 その中で、自分に仕事をさせてほしい。できれば難しく、結果が数字に表れ、努力に見合った評価を受けられる仕事を。


 それだけだった。


 前世から持ってきたものといえば、健康な身体がどれほどありがたいかという実感と、退屈を何より嫌う性格、それから、締切が迫っていても人間は案外すぐには死なないという妙な自信。


 そして何より、社畜時代に鍛え上げられた根性である。


 ローズは、そのすべてを今世へ持ち込んだ。


 結果。


「よし! ロイド君、本日の予定!」


「ゾス!」


 王国政務院産業局、産業振興課。


 朝一番の執務室に、今日も威勢のいい声が響いた。


「午前中は新規許認可三件の決裁上程! 午後から財務局担当官二名を連れ、南東地区橋梁建設予定地の現地確認へ向かいます!」


「宜しい! 財務局の人間は細かい! 非常に細かい! 昨日確認した資料以外の数字を、その場の雰囲気で口走らないように!」


「ゾス!」


「特に概算を断定口調で言うな!」


「ゾス!」


「『多分このくらいです』も禁止!」


「ゾス!」


「よし! 次、メアリー君!」


「はい!」


「声が小さい!」


「ゾス!」


「宜しい!」


 メアリーはすぐに背筋を伸ばした。


「私は昨日に引き続き、隣国ツイリー商会誘致に向けた産業局側の資料をまとめます! 本日退庁時間までに一次案を完成させ、明朝ローズ主任官へ確認を依頼、来週頭には商務局の担当者と審議へ移せる状態を目指します!」


「今月最大の案件だ! 気合いを入れてかかれ!」


「ゾス!」


「だが残業は禁止!」


「ゾス!」


「期限に間に合わない場合は!」


「早めに申告!」


「その通り!」


 ローズは満足そうに大きく頷き、その後も班員たちの予定を一人ずつ確認していった。


「ヘンリー君!」


「ゾス! 北部繊維組合からの補助金申請書類を精査します!」


「前回、添付図面が一枚欠けていた!」


「確認済みです!」


「宜しい!」


「ゾス!」


「エレン君!」


「ゾス! 新設工房への設備貸付審査を――」


「昨日熱があっただろう!」


「今朝は下がりました!」


「医務室へ!」


「えっ。」


「体温を測って正常なら戻ってこい! 異常なら帰れ!」


「しかし――」


「労働者の雇用を作る立場の人間が倒れてどうする!」


「ゾ、ゾス!」


「よし!」


 最後の一人まで確認し終えたところで、ローズは満足げに腕を組み、それからゆっくりと部屋の一番奥へ顔を向けた。


「私は午前中、福祉局と先月の雇用統計について確認、および来月目標の設定会議! 午後は人事局へ赴き、半年間却下され続けている戦力増員要求について七度目の嘆願を行います! ――ということです。課長!」


 一番奥の机に座っていた中年男が、びくりと肩を震わせた。


「は、はい……。」


「本日の予定に異論は!」


「ありません……。」


「宜しい!」


 ローズは再び全員へ向き直った。


「皆、課長の許可も出た!」


 誰も、課長が一体いつ許可を出したのかとは言わなかった。


「我々は!」


「国民のために!」


「残業は!」


「しない!」


「成果は!」


「出す!」


「よし! 今日も一日働くぞ!」


「ゾス!」


「解散!」


 一斉に職員たちが散っていく。


 異様な光景である。


 もっとも、同じ階で働く他課の職員たちは、もうすっかり慣れていた。


 ローズが十八歳で王国政務院へ入ってから、八年。


 伯爵家の令嬢が家の伝手を使わず一般の採用試験を受けて役所へ入り、それも腰掛け程度で済ませることなく本気で働こうとするだけでも珍しい。


 しかもローズは、入職一年目から書類整理の方法へ口を出し、二年目には案件ごとの進捗表を作り、三年目には班ごとの業務量を可視化した。四年目には人事局へ「人が足りない」と殴り込みに近い嘆願を始め、六年目には新人教育用の手引書を作り、七年目には課全体の休暇取得率を政務院でも上位へ押し上げた。


 仕事量そのものは増えたにもかかわらず、残業時間は減った。


 その一方、担当施策によって支援を受けた商会や工場の雇用者数、生産高は数年間で二倍近くまで上昇している。


 何がどうなっているのか、他課の者にはよく分からなかった。


「ローズ主任官。」


「なんだ!」


 隣の机から、ロイドが顔を出した。


「去年入った若手が、また一人うちへの異動願いを出したそうです。」


「何!」


「仕事ができるようになりたいそうで。」


「素晴らしい!」


「ただ、人事局が『産業振興課ばかり希望者が集まる』と困っていました。」


「なら人数を増やせばいい!」


「その話をしたら、担当官が頭を抱えていました。」


「分かった! 午後に直接説明する!」


「……多分それが嫌なのでは。」


「何か言ったか!」


「ゾス!」


「よし!」


 ローズは満足した。


 仕事は楽しい。部下は育つ。成果も出る。人事局は相変わらず渋いが、交渉相手としては悪くない。


 自分の人生は、実に順調だった。


 少なくとも、その男が来るまでは。


     ◇


「本日付で産業振興課長に着任いたしました、セドリック・アルヴェインです。」


 第一印象は、「仕事ができなさそう」だった。


 ローズは新任課長を正面から眺めながら、内心でほんの少しだけ肩を落とした。


 二十二歳。侯爵家の三男。貴族院を飛び級に近い成績で卒業し、政務院入りからわずか四年で課長職へ抜擢されたという。


 経歴だけを見れば異常な出世速度である。


 ただ、見た目がどうにも頼りない。


 ローズは女性としてはかなり背の高い方だったが、セドリックは彼女よりほんの少し低かった。淡い茶色の髪は陽の下では金色にも見え、同じような明るい茶色の瞳はやや大きく、綺麗なアーモンド形をしている。


 顔立ちはとても整っている。


 とても整ってはいるが。


 可愛い。


 どう見ても、可愛い。


 威厳がない。貫禄もない。部下が姿を見ただけで震え上がるような圧もない。


 もっとも、ローズは人の容姿にはそれほど興味がなかった。自分自身がかなり美人らしいことも周囲の態度から何となく把握しているだけで、それをありがたいと思ったことはほとんどない。


 長く艶やかな黒髪、深い海のような紺碧の瞳、端正な面立ちは冷たく見えるほど美しく、均整の取れた体躯と共に、舞踏会に出席させられれば会場に咲く一輪の薔薇として評されてもおかしくない容姿だった。


 しかしローズ本人にとっては、その恵まれた見た目も、仕事上ではむしろ、「顔で採られた」「伯爵令嬢だから昇進した」などと陰口を叩かれる理由になると、邪魔なものとして認識しているほどだった。


 だからセドリックに対しても、可愛らしい顔だという以上の感想は特になかった。


 仕事さえできればいい。


 なお、ローズにとっての「仕事ができる」の基準が、周囲から見ればかなり高いという事実については、本人だけがあまり理解していなかった。


「ローズ主任官。」


「はい!」


「こちらの報告書、差し戻します。」


「……何故ですか。」


 着任から三日目、ローズがそれなりに自信を持って仕上げた報告書が、赤い書き込みだらけになって返ってきた。


「この二つの数値ですが、相関が弱すぎます。傾向があるようには見えますが、これだけで因果関係を示す根拠にはなりません。」


「しかし、過去五年を見ると――」


「こちらもです。来年度見込みを前年比一・二倍としていますが、何を根拠に置いた数値ですか。」


「過去三年の伸長率からです。」


「昨年度、制度改正がありましたよね。」


「……はい。」


「なら前提条件が違います。同じ伸び率をそのまま当てはめるのは不適切です。」


 明るく澄んだ瞳が、静かにローズを見上げている。


 可愛らしい顔で、言っていることは全く可愛くない。


「……しかし。」


「私は何かおかしなことを言っていますか?」


「……いえ。」


 腹が立った。


 ものすごく腹が立った。


 だが、正しい。


 ローズは書類を受け取り、席へ戻った。


 たまたまかもしれない。今度からはもっと念入りに確認してから上程しよう。部下へ残業するなと言っている手前、自分だけ遅くまで居残るわけにもいかない。時間内に終わるよう集中して取り掛かった。


 そして翌日。


「ローズ主任官。」


「はい!」


「差し戻します。」


「……また、ですか。」


「またです。」


「どこがでしょう。」


「七割ほど修正が必要です。」


「……ほぼ全部ではありませんか。」


「はい。」


 腹が立った。


 しかし、説明を聞けばやはり正しい。


 嫌がらせならまだ腹の立てようもあるのだが、事実しか言われないので怒りの持っていき場がない。これまでの上長なら、最終的にはローズの勢いと過去の実績で押し切れたものが、セドリックには全く通用しなかった。


 そして着任から一週間ほど経った頃。


「ローズ主任官。」


「はい!」


「この契約案ですが。」


「……今度は何でしょうか。」


 それまでの経緯もあり、若干身構えながら課長席の前へ立つ。


 セドリックはローズの作成した契約案を読みながら、静かに頷いた。


「この条件、非常に良いですね。」


「…………。」


 ローズは固まった。


「先方が補助金額について難色を示した場合の代替条件として、借地の一部転用について貸主から事前合意を取ったのですね。確かにこれなら、こちら側に追加の譲歩を上乗せする必要はありません。」


 そこでセドリックは顔を上げた。


 アーモンド形の大きな瞳が、窓から入った光を受けて僅かに明るく見えた。


「よく考えられています。さすがですね。」


 ローズの心臓が、一度だけ大きく鳴った。


「ローズ主任官?」


「ゾス!」


「……何ですか、それは。」


「気合いを入れる合図です!」


「……気合い?」


「はい!」


「よく分かりませんが、私に向かって使うのは控えてください。」


 危なかった。


 何が危なかったのかは分からないが、とにかく何かが危なかったのである。自分へ喝を入れなければならない程度には、ローズの頭は混乱していた。


 その日からだった。


 セドリックが仕事をする姿を見るたび、妙な感覚を覚えるようになったのは。


 細い指で書類をめくる姿は可愛い。


 眉を寄せて数字を追っている横顔は格好いい。


 ローズたちの「ゾス!」にいまだ慣れず、時折目を瞬かせるのは可愛い。


 部下の報告を聞きながら一瞬で問題点を拾い上げるところは格好いい。


 財務局との会議で、柔らかな口調を崩さないまま相手の論理の穴を一つずつ指摘する姿など、目を逸らすのが惜しいくらい格好よかった。


 ローズは二十六年の人生で、初めて出会ってしまった。


 明確に、自分より仕事のできる人間に。


 そして同時に、罹患してしまった。


 可愛くて、格好よくて、仕事をしているところを見ているだけで胸が妙に苦しくなる、仕事以外の激情に。


 つまり。


 惚れたのである。


「課長。」


「何でしょう。」


「本日も格好いいですね!」


「……何の話ですか。」


「も、もちろん仕事ぶりです!」


「それは……ありがとうございます。」


「ゾス!」


「だから、それは一体何なんですか。」


 困ったように眉を寄せる顔まで可愛らしく、ローズは内心で胸を押さえた。


 完璧ではないか。


 しかし、ローズからセドリックへの評価が日を追うごとに上がっていったのとは反対に、セドリックからローズへの評価は、どうやら少しずつ下がっていったらしい。


     ◇


「ですから! 今ここで人員を三名増やせば、来年度の処理件数を二割増やせます!」


「その三名をどこから持ってくるんです。」


「人事局と直談判します!」


「人事局に余剰人員はありません。何度も申し上げていますが。」


 セドリックは、珍しく険のある表情でローズを見上げた。


 無理もない。


 来年度の予算と人員計画の締切りを目前に控え、増員案を差し戻されるのは今週だけですでに四度目だった。


 しかし、どれほど好きな相手であろうとも、仕事上の信念まで簡単に曲げられないのがローズである。


 来年度こそ増員できれば、さらに多くの案件を処理できる。新規支援策も始められる。課の成果が上がれば、課長であるセドリックの評価も当然上がる。


 つまり、皆が幸せになる。


 ローズの中では、そういうことになっていた。


「でしたら、まずは定期雇用として課で直接採用しましょう!」


「政務院での初期教育も受けていない新人が、いきなり即戦力になると思っているんですか。」


「育てます!」


「誰が。」


「我々が!」


 セドリックはさらに眉を顰めた。


「……その時間は、どこから出てくるんです。」


「作ります!」


「どうやって。」


「気合いで!」


「それをやめてください!」


 セドリックが珍しく机を叩いた。


 乾いた音が執務室へ響き、それまでそれとなく聞き耳を立てていた職員たちが一斉に手元へ視線を戻す。


 ローズも黙った。


 セドリックはゆっくりと席から立ち上がった。ローズより僅かに低い位置から、明るい茶色の瞳が真っ直ぐにこちらを見る。


「ローズ主任官。」


「はい。」


「気合いは制度ではありません。」


「……。」


「あなたは確かにできるのでしょう。仕事が速く、判断も早い。多少の予定外が入っても、その場で調整して終わらせられる。ですが、全員が同じようにできるわけではありません。」


 半年近く彼を見てきたローズには分かった。


 これは、セドリックが本気で何かを伝えようとしている時の顔だった。


「それは、理解しています。」


「いえ。あなたはまだ十分には理解していません。」


「しています。」


「していません。」


 真正面から否定され、ローズはぐっと唇を引き結んだ。


 腹が立つ。


 ただし、自分でも分かっていた。


 これは刺されれば痛いところだと。


 ローズは部下へ残業をさせない。休暇も取らせる。体調不良者は帰す。成果を出せば必ず褒め、失敗した部下だけを上司の前へ一人で立たせるようなこともしない。


 自分なりに、人を大切にしているつもりだった。


 しかし、ローズ自身が、そもそも一般的な人間の標準から少し外れている。


 判断が速い。作業そのものも速い。複数の案件を同時に抱えても、頭の中で優先順位を入れ替えながら処理できる。そして何より、仕事に対する熱量だけが異常に高い。


「例えば、毎朝全員の予定を確認すること自体は、悪いとは思いません。」


 セドリックは続けた。


「ですが、あなたが毎日あれだけの熱量で声を掛ければ、同じようにできない者は、いずれ自分に問題があるのではないかと思い始めます。」


「私は強制しているつもりはありません。」


「分かっています。だから厄介なんです。あなたには強制しているつもりがまったくない。残業をするなとも、休めとも、むしろ人一倍言っている。しかし主任官であるあなた自身が、誰より速く働き、誰より成果を出し、それを誰より楽しんでいる。」


「仕事が好きなので。」


「ご存じの通り、ここは役所です。成果を二倍出したからといって給金が二倍になるわけでもありません。昇進できる席にも限りがあります。それでもあなたの速度が、この課の普通になりつつある。」


 ローズは何も言えなかった。


 セドリックの言葉は正しい。


 ここは前世でローズが働いていた、成果と報酬が比較的直結する民間企業ではない。それぞれの職員には、それぞれの人生がある。


 恐らく。


 いや、かなり。


 彼の方が実態に即している。


 だからこそ腹が立った。


 そして、だからこそ好きだった。


 自分では見えていなかった部分を、ここまで正確な言葉にして突きつけてくる人間に、ローズはこれまで出会ったことがなかった。


「……すぐに全部を変えることはできません。」


 しばらくして、ローズは言った。


「現在進行中の案件もありますし、今ここでやり方を一気に変えれば現場が混乱します。」


「分かっています。少しずつ変えてください。」


「……努力します。」


 ローズの返事を聞き、セドリックは疲れたように眉間を押さえた。


「あなたはいつもそう言う。」


「実際、努力しています。」


「そうして努力した結果が、新規案件の増加ですか。」


「それは必要なものでした!」


「それが問題なんです。どうして分からないんですか。」


「必要な仕事を放置しろと言うのですか!?」


「優先順位をつけろと言っている!」


「つけています!」


「全部一位でしょうが!」


「重要案件なので!」


「それを優先順位とは言いません!」


 二人の怒声が執務室へ響いたが、周囲の職員たちは誰一人顔を上げなかった。


 この半年間、何度も繰り返されてきた光景だったからだ。


 二人は、とにかくよくぶつかった。


 仕事の方向性。人の使い方。数字の見方。制度に対する考え方。


 ローズは、必要ならまず動く。セドリックは、動く前に仕組みを整えようとする。


 どちらかが明確に間違っているわけではない。


 だからこそ厄介だった。


 そして、ある日の夕方だった。


 その日も二人は、新規事業の優先順位を巡って散々言い争った。いつもなら最後にはどちらかが折れるか、翌日に持ち越すかして終わる。


 ところが、その日は違った。


 言い争いが途切れた後、セドリックがいつになく長く黙っていた。


 何となく普段とは雰囲気が違うことに気付き、ローズもいつものように反論を重ねるのをやめた。


「ローズ主任官。」


 やがて発せられた声は、異様なほど静かだった。


 怒気も冷笑もない。


 だからこそ、妙に嫌な予感がした。


「はい。」


「あなたは優秀です。」


 ローズの胸が、一瞬だけ大きく鳴った。


 しかし、セドリックの表情を見た途端、すっと背筋が冷えた。


「ですが、あなたのやり方では、いずれ組織が保たなくなる。」


「……改善します。」


「その言葉はもう何度も聞きました。」


「なら、もっと具体的に――」


「ローズ主任官。」


 セドリックが、彼女の言葉を静かに遮った。


「この課に、あなたは必要ありません。」


 ローズは何も言えなかった。


 これまでセドリックに何を否定されても、腹が立つだけで済んだ。数字の根拠が弱いと言われれば調べ直せばいい。報告書を差し戻されれば書き直せばいい。仕事の進め方に問題があると言われれば、正しいと思った部分を取り入れればいい。


 自分より仕事のできる人間から欠点を指摘されることは、悔しい反面、まだ自分には改善できる余地があるということでもあった。


 もっと良くなれる。


 もっと仕事のできる人間になれる。


 だからローズは、彼に否定されることを、どこかでは喜んですらいたのだと思う。


 その彼から。


 必要ないと言われることだけは。


 思っていたより、ずっと痛かった。


「……承知、しました。」


 自分でも驚くほど静かな声が出た。


 セドリックの眉が僅かに動いた。何かを言おうとしたように見えたが、ローズはそれを待たずに頭を下げた。


「本日は、これで失礼いたします。」


 その日は、入職以来初めて、退庁時刻より少し前に机を片付けた。


     ◇


 帰宅したローズは、夕食を半分ほど残した。


 普段なら仕事の話をしながらでも綺麗に平らげる主人が珍しく手を止めたものだから、侍女から熱でもあるのかと心配されたが、もちろん体調が悪いわけではない。


 風呂にも入ったものの、いつもの半分ほどの時間で出てしまい、寝る前に読む本にも手が伸びなかった。翌日の予定を確認する気にすらなれず、そのまま寝台へ横になったが、今度は一向に眠れない。


 目を閉じれば、昼間の言葉が何度も蘇る。


 ――この課に、あなたは必要ありません。


 失恋とは、こういうものなのだろうか。


 いや、まだ告白すらしていないのだから、厳密には失恋ですらない。


 しかしローズにとっては、恋愛以前に仕事で「要らない」と言われたことの方が、ずっと堪えた。


 仕事は、単に好きなものではない。


 自分が役に立てる場所であり、自分が積み重ねたものを目に見える成果へ変えられる場所であり、ローズが自分自身の価値を最も強く感じられるものだった。


 その仕事で。


 しかも、憧れている人間から。


 要らないと言われた。


 胸の奥がじくじくと痛む。


 ローズは枕へ顔を埋めた。


「……ゾス。」


 気合いの言葉でも、元気が出なかった。


 初めてだった。


 そんな夜だった。


     ◇


 翌朝、いつもの時間に目を覚まして鏡を見ると、少し目が腫れていた。


 泣いた記憶はなかったので、眠ってから少しくらい泣いたのかもしれない。


 酷い顔だとは思った。


 しかし、だからといって仕事がなくなるわけではない。


 ローズはいつも通り顔を洗い、髪を整え、朝食を食べ、仕事着へ袖を通した。


 そして家を出た。


 ただし、その日向かった先は産業局ではなかった。


 人事局だった。


「以前いただいていたお話なのですが。」


 受付を通り、顔見知りの人事官を訪ねると、相手はローズの顔を見るなり目を丸くした。


「ハーグレイヴ主任官?」


「商務局への転局のお話です。」


「ああ……。まだ正式には撤回されていませんが、ずっと断っておられましたよね。」


「受けます。」


「……はい?」


「異動希望を出します。」


 人事官はしばらくローズを見つめた。


「急ですね。何かありましたか?」


 ローズは一瞬だけ黙った。


 昨日の言葉を思い出すと、胸の奥はまだ少し痛む。


 しかし。


「私は、あちらでは不要だそうですので。」


「……。」


「必要としていただける場所で働きます。」


「その……もう少し考える時間を置かれても。」


「いえ!」


 ローズは首を振った。


「私は仕事が好きです!」


「はい。」


「仕事がある場所で働きたい!」


「はい。」


「産業局で不要なら、商務局で働きます!」


 人事官は何とも言えない顔をしたが、やがて諦めたように書類を一枚取り出した。


「……分かりました。手続きを進めましょう。」


「ありがとうございます!」


 胸はまだ痛かった。


 恐らく今日も、家へ帰れば少しくらい落ち込むだろう。


 しかし、新しい仕事がある。


 ならば、やるしかない。


「ゾス!」


「……ここ、人事局ですよ。」


「失礼しました!」


     ◇


 転局を決めたからといって、仕事を投げ出すようなローズではなかった。


 進行中の案件をすべて洗い出し、担当者、外部関係者とその連絡先、現在の進捗、想定される懸念事項、次の期限、年間予定、参照すべき統計資料まで一つずつ整理する。


 さらに、自分だけが把握していた過去の交渉経緯や、各取引先との細かな取り決めまで書面へ落とした。


 結果。


 引継書は三冊になった。


「……これを全部?」


 産業局への最終出勤日、机の上へ積み上げられた三冊を見て、セドリックが珍しく呆れたような顔をした。


「はい!」


「いつ作ったんですか。」


「昨夜と一昨日です!」


「残業は禁止では。」


「自宅作業です!」


「もっと駄目です。」


「最後なので!」


 セドリックは何か言いたそうに口を開き、結局何も言わなかった。


 ローズも少しだけ黙った。


 まだ彼を見ると、胸の奥が痛い。


 相変わらず可愛い。


 相変わらず格好いい。


 それが余計に辛い。


「……お世話に、なりました。」


 結局、口から出たのはそれだけだった。


「こちらこそ。」


 セドリックも、それ以上は言わなかった。


 ローズは一礼し、振り返らずに歩いた。


 扉が閉じた瞬間だけ、少し泣きそうになった。


 しかし廊下の先では、商務局の職員が待っていた。


「ローズ主任官!」


「はい!」


「本日からよろしくお願いします! 皆、あなたが来られるのを楽しみにしておりました!」


「こちらこそよろしくお願いします!」


 ローズは胸を張った。


「では早速、現在の案件一覧を!」


「こちらです!」


「人員数!」


「二十一名!」


「平均残業時間!」


「月十七時間です!」


 ローズの顔色が変わった。


「多い!」


「えっ。」


「まずそこから改善する!」


「今日からですか!?」


「今日からだ!」


「ゾ、ゾス!」


「宜しい!」


 ローズは元気だった。


     ◇


 新しい職場は面白かった。


 商務局には民間の商会や工房から登用された人材も多く、産業局とは物事の見方が違う。国内産業の保護や育成を中心に考える産業局に対し、商務局は交易や市場、国外資本の動きから物を見る。


 ローズは夢中で学んだ。


 そうして一年ほど経ったある日。


「……これ、局を分けている意味がありますかね?」


 会議室で資料を広げながら何気なく呟くと、その場にいた職員たちが揃って視線を逸らした。


「国外企業の誘致は商務局。しかし国内企業が絡めば産業局。輸出入支援は商務局ですが、生産基盤の整備に関わる部分は産業局。企業への設備補助は基本的に産業局ですが、そこに国外資本が入れば商務局。」


 ローズは資料を順番にめくっていく。


「同じ企業に、産業局と商務局が別々に調査票を送っていますね。」


「……はい。」


「同じような数字を、それぞれの局で集計している。」


「はい。」


「決裁も二重です。」


「……はい。」


 ローズはしばらく資料を眺め、顔を上げた。


「統合しましょう。これでは無駄が多すぎます。」


「……はい?」


 そう気付いてしまえば、ローズが放っておけるはずもなかった。


 まず両局の過去五年分の案件を洗い出し、どの業務が重複しているのかを比較した。同じ企業に二種類の調査票を送り、ほとんど同じ数字を別々の部署で集計し、片方の決裁を終えてから似た内容でもう一方の決裁へ回している案件がいくつも見つかった。


 統合した場合に削減できる事務時間と人員を数字に落とし、制度案を作る。財務局とは予算を巡って揉め、人事局には配置転換について何度も足を運んだ。ようやく形になった案を法務局へ持ち込めば当然のように差し戻されたので、直してまた出した。


 議会向けの説明資料を作り、反対する貴族や官僚には一人ずつ説明し、現場職員への聞き取りも重ねた。


 もちろん、今度はローズ一人ではやらなかった。


 誰に何を任せるのかを決め、期限を設定し、途中で進捗を確認する。自分でやった方が速いと思うことも何度もあったが、そのたび、可愛らしい顔で「あなたのやり方では組織が保ちません」と言った人間の声が頭の中に蘇った。


 腹は立つ。


 今思い出しても腹は立つ。


 しかし。


 確かに正しかった。


 だから自分のやり方を少しずつ変えていった。


 そうしてローズが商務局へ移って二年後、産業局と商務局は正式に統合された。


 新設、産業商務局。


 初代局長。


 ローズ・ハーグレイヴ。


 二十八歳。


「ゾス!」


 人事発令書を受け取ったローズは、思わず拳を握った。


 そして、新組織の人員一覧へ目を落とし、その少し下にある名前で手を止めた。


 産業振興部長。


 セドリック・アルヴェイン。


 二十四歳。


「…………。」


 ローズはしばらく、その名前を眺めた。


 それから。


 にっこりと笑った。


     ◇


「お久しぶりです。」


 二年ぶりに見るセドリックは、相変わらず可愛かった。


 そして、相変わらず恐ろしく仕事ができそうだった。


 つまり。


 最高だった。


「……お久しぶりです。ハーグレイヴ局長。」


「本日付で産業商務局長に就任いたしました。改めて、よろしくお願いいたします!」


「こちらこそ、よろしくお願いします。」


 二人で儀礼的に頭を下げる。


 ローズは顔を上げた後、早速口を開いた。


「ところで。」


「……何でしょう。」


「二年前のお話を蒸し返してもよろしいでしょうか。」


 セドリックの眉が僅かに寄った。


「業務上必要な話ですか。」


「いいえ、まったく。」


「ではやめてください。」


「完全なる私情です。」


「余計に駄目です。」


「いえ、言わせてください。」


 ローズは目の前の青年へびしりと指を突きつけた。


「あなたは二年前、私を要らないと仰いましたね!」


 セドリックの顔が僅かに強張った。


「……言いました。」


「ですので。」


 ローズは満面の笑みを浮かべた。


「取り敢えず転職して、あなたを部下にしてみました!」


「……意味が分かりません。」


「私にも、どうしてここまで大きな話になったのか実はよく分かりません!」


「なら言わないでください。」


「ですが、結果的にこうなりました!」


「それは制度改正と人事上の結果でしょう。」


「これはすなわち、運命では?」


「違います。」


「即答ですか。」


 ローズは笑った。


 セドリックは額を押さえた。


 しかし、こうして二人の仕事が、再び始まった。


     ◇


 もっとも、局長になったローズは、仕事の上でセドリックを特別扱いすることは一切なかった。


 むしろ、彼から二年前に言われたことを、ローズは一つ残らず覚えていた。


 自分の熱量を部下の標準にしないこと。


 数字には根拠を持たせること。


 誰か一人の能力に依存する仕組みを作らず、担当者が変わっても引き継げる形へ落とすこと。


 自分がいなくても回る組織を作ること。


 ローズはこの二年間、それらを少しずつ自分の仕事へ取り込んできた。


「セドリック部長、この資料は差し戻しです!」


「何故です。」


「こちらの見込み数、根拠が弱いです。」


「……。」


「何ですか?」


「いえ。二年前の私と同じことを言うようになったなと思いまして。」


「あなたに教えていただきましたから。」


「そうですか。」


「ゾス!」


「……それは教えていません。」


 セドリックも、それに気付いていた。


 ある日の夕方、二人だけになった局長室で、書類へ目を通していた彼が不意に言った。


「あなたは、変わりましたね。」


「何がでしょう?」


「仕事の仕方です。」


「あなたに要らないと言われましたので、改善しました!」


 セドリックの表情が僅かに曇った。


 ローズはすぐに続けた。


「ですが、確かに正しかったので。」


「……はい?」


「腹は立ちましたけど!」


「でしょうね。」


「死ぬほど落ち込みましたし!」


「……。」


「一晩寝ても治りませんでした!」


「それは……申し訳ありません。」


「はい。三日掛かりました。」


「短いな。」


「長いです! 私にとっては!」


 セドリックは、とうとう堪えきれないように笑った。


 ローズは一瞬、言葉を失った。


 可愛い。


 そして、格好いい。


 二年間離れていたのに全く治っていない。


 むしろ悪化している。


「セドリック君!」


「……何でしょう。」


「今夜、一緒に夕食はいかがです!」


「お断りします。」


「では明日!」


「なぜそうなるんですか。」


「明日のご予定は!」


「教えません。」


「なら人事記録を――」


「職権濫用ですよ。」


「おっと、危ないところでした!」


「本当に危ないな、あなたは。」


 セドリックは当初、ローズから向けられる好意をそのまま信じることができなかった。


 当然といえば当然だった。


 彼は二年前、彼女が心血を注いできた職場で彼女に対し「必要ない」と告げた人間である。


 その女が数年後、自分の上司になった途端、毎日のように満面の笑みで食事へ誘ってくる。


 復讐か。嫌がらせか。あるいは何らかの意趣返しか。


 そう考える方がまだ自然だった。


 ところが、どうも違う。


 ローズは勤務中、恐ろしいほど公平だった。セドリックの案に問題があれば平然と差し戻し、良ければ他の職員と同じように評価する。私情で権限を使うこともない。


 なのに、勤務時間が終わった途端におかしくなる。


「今日の服、どうでしょうか。」


 ある日、退庁時刻を過ぎた直後に尋ねられ、セドリックはローズを見た。


「……服?」


「少し、女性らしいものを選んだつもりなのですが。」


「いつもと違うんですか?」


 ローズの顔が目に見えて曇った。


「……選ぶのに三十分掛けました。」


「……すみません。違いが分かりません。」


「そうですか……。」


 あからさまに落ち込んだ。


 そしてまた後日。


「今日の髪型はどうでしょうか!」


 今度は朝から聞かれた。


 セドリックは慎重に彼女の頭を見る。


「……少し、違いますね。」


「分かりましたか!?」


「……勉強しましたから。女性の髪型を。」


「なぜ?」


「あなたが、うるさいので。」


 ローズの顔が一瞬で真っ赤になった。


 セドリックは固まった。


 いつもなら大臣相手にでも平然と反論し、局全体を率いて一歩も退かない女が、髪型について少し言われただけで耳まで赤くしている。


 そこで初めて。


 もしかして。


 本当に。


 この人は自分が好きなのではないか。


 そんな可能性を、セドリックは考えた。


「……ローズ局長。」


「はい!」


「何故、私にいつも服装や髪型の感想を求めるんです?」


「それは……。」


 先ほどまで赤かったローズの顔が、さらに赤くなった。


「その、すすす、好きだからです! 二年以上前から!」


「…………。」


 言った本人も固まった。


「だ、駄目でしたでしょうか!」


 次はセドリックが固まる番だった。


 いつもなら数字を突きつけられても顔色一つ変えない青年の白い頬に、見る見る赤みが差していく。やがて耐えられなくなったように片手で目元を覆い、僅かに顔まで逸らした。


「い、いえ。ただ……あなたのような見目麗しい女性が、その……私を?」


「はい!」


「少し……混乱しています。」


 その姿を見たローズは、胸の奥を思い切り掴まれたような気がした。


 仕事中はあれほど格好いいのに。


 どうしてこういう時だけ、こんなに可愛いのだろう。


「ゾ、ゾス!」


「……それは今言うところではないでしょう。」


 突っ込みだけは、いつも通り冷静だった。


     ◇


 そこから、二人の関係は少しずつ変わった。


 ローズは仕事が好きだった。成果を出すことも、人を育てることも、新しい仕組みを作ることも好きだった。


 そしてどうやら、好きな男を口説くことまで、かなり楽しいらしい。


 一方のセドリックも、ローズが過去の指摘を恨んでいないことを知った。


 むしろ彼女は、言われたことを一度すべて受け止め、自分で正しいと思った部分を取り込み、その上で以前より遠くまで進んでいた。


 仕事の上でも、二人は思っていた以上に相性が良かった。


 ローズには、前へ進む圧倒的な推進力がある。セドリックには、その先に崖がないかを確認し、全員が無事に辿り着ける道へ整える冷静さがある。


 ローズが新しい仕事を見つけて、


「やりましょう!」


 と言えば。


「予算は?」


 とセドリックが返す。


 ローズが勢いのまま案件を増やそうとすれば、セドリックが既存業務のどれを減らすのかと問い返す。


 かつては衝突の原因でしかなかった違いが、互いのやり方を理解して歩み寄っていった結果、一人だけでは決してできない仕事を可能にしていた。


     ◇


「よし! 本日の予定!」


「ゾス!」


 新設された産業商務局では、今日も朝から威勢のいい声が響いていた。


「我々は!」


「国民のために!」


「残業は!」


「しない!」


「成果は!」


「出す!」


「体調不良者は!」


「帰す!」


「有給休暇は!」


「取る!」


「予算は!」


「守る!」


 そこでローズが僅かに言葉を探すように止まった。


 すると隣から、セドリックが淡々と続けた。


「根拠のない見込み数は?」


 職員たちが一斉に答える。


「出さない!」


「よし!」


 ローズは満足そうに頷いた。


「では今日も一日!」


「働くぞ!」


「ゾス!」


「解散!」


 職員たちが一斉にそれぞれの机へ散っていく。


 その様子を眺めながら、セドリックは小さく息を吐いた。


「……結局、それは残したんですね。」


「当然です!」


「私が最初にやめてほしいと言ったのを覚えていますか。」


「もちろんです!」


「では、何故。」


 ローズは少しだけ考えた。


 自分の熱量を部下へ押しつけない。


 誰もが同じ働き方をできると思わない。


 仕組みを作る。


 無駄を減らす。


 休ませる。


 数字には根拠を持つ。


 セドリックから教わったことは、もうローズの中に息づいている。


 しかし、これは。


「私の人生ですので!」


 満面の笑みで答えると、セドリックはしばらく何も言わなかった。


 やがて、諦めたような、それでいてどこか嬉しそうな笑みを浮かべる。


「そうですか。では職場では諦めます。」


「ゾス!」


「ただし、家では控えてくださいね。」


「何故です?」


 ローズは首を傾げた。


 来月、二人は結婚する。


 すでに王都に新居を購入し、少しずつ荷物を運び始めていた。今日からは仕事を終えれば、二人で同じ家へ帰る。


「家でまで毎朝『ゾス!』とやられては落ち着きません。」


「家でも気合いは必要です!」


「しかし、将来子供に移っては困ります。」


 ローズが固まった。


 自分の発言が何を意味するのか理解したらしいセドリックも、少し遅れて耳まで赤くなった。


「こ、子供。」


「……今すぐ、という意味ではありません。」


「わ、分かっています!」


「なら何故そんなに赤くなるんです。」


「あなたも赤いではありませんか!」


「これは、その……。」


「ゾス!」


「それで誤魔化さないでください。」


 局長と部長の間に漂い始めた何とも言えない気恥ずかしい空気を察し、まだ近くに残っていた職員たちは、誰からともなく視線を机へ落とした。


 見ない。聞かない。仕事をする。


 それが、この局で長く働くために必要な能力の一つになりつつあった。


 こうしてローズ・ハーグレイヴは、「お前は要らない」と言ったかつて憧れの上司を自分の部下にして、その後。


 夫にもすることになった。


 仕事のやり方は少し変わった。


 組織の作り方も、人の使い方も変わった。


 生活も人生設計も大きく変わった。


 しかし、ローズ自身は、相変わらず仕事が大好きだった。


「セドリック君!本日も一日、頑張りましょう!」


「はい。」


「ゾス!」


「……家では本当に禁止ですからね。」


 その点についてだけは。


 結婚後も、しばらく協議が必要になりそうだった。

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