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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

最後の楽園

掲載日:2026/02/07

見たことのないバス停で、年季の入った木製のベンチに座っていた。日野はぼんやりと世界がぐらついている気がしていた。

「おはようございます日野様。視界はいかがでしょうか。不可解な点があれば随時私にお尋ねください」

日野は目を疑った。目の前の男は首から上がブラウン管テレビであった。目も口も髪の毛もない紳士な男は、ゆったりと口を開く。

「こちらのバス停からは日野様の望む場所に向かうことができます」

明らかに異常な状況なのに、男の言葉はすんなりと入ってきた。

「分かった」

「日野様がいらっしゃるこの場所は、最後の楽園でございます。命の機能が停止する直前の方のみ招待させていただいております」

日野は瞬きをして、鎖骨のあたりを何度も掻いた。

「俺は死んでいるのか?」

「いえ、日野様の心臓はまだ機能しておられます。ご安心ください」

「もうすぐ、死ぬ、ということか?」

「左様でございます」

表情が読み取れないからか、男の返答は冷めきっているようだった。いつのまにかバスが目の前に止まっていた。

「では、ごゆっくり」

日野は気付けば座席に座っていた。車内は空いていて、前の席に女子高生が座っている。

運転手がいないのに勝手に動くバス、窓から見えるのは不思議な木々。しかし日野は、前に座る女の子の黒髪を見ていた。ふとした瞬間にその髪をぎゅっと握っていた。

「どちらさまですか」

女の子は振り返る。

「あ、すいませんちょっと寝ぼけていて」

彼女は微笑んで「敬語じゃなくても大丈夫ですよ」と言いながら髪型を整えた。

「大学生ですか?」

「都内の中堅大学の三年生だよ。中高と都会で暮らしてきて、いろんな友達ができてそのままエスカレーター式で大学に入って。なんとなく楽しんで生きてたんだけど、ふと一人旅したくなって」

日野は本当と嘘を交えて淡々と話した。

「私もそんな気持ちになることがあります。お兄さん、私、付いて行ってもいいですか?なんだかお兄さん優しそうだし」

「全然いいよ」

女の子は行儀よく隣に座ってきた。行き先など決まっていない。それから長い間、二人はだらだらと話をして時間を過ごしていた。彼女は大人しかったが、軽い話題を何度も振ってくれた。バスから見える景色はいつも幻想的だったが、少しぼやけている。

 停車した。地面に石畳があり、小川に湯が流れている。

「いい温泉地ですね」

「親に連れて行ってもらったことはあるけど、一人で来てみたかったんだよ」

「私も入れて二人ですよ。すこし宿のまわりを散歩しませんか」

「うん」

灯籠が配置されている日本庭園に、涼しい風が吹いている。

「私、最近髪をとかすのが面倒で、思い切ってショートヘアにしてみたんですよ」

「ショートめっちゃ似合ってる。でもロングも見てみたかったなあ」

「いつか見れますよ、お兄さんとは長い付き合いになりそうですから」

「そうかな」

一周回って入り口に戻ってきた。宿に足を踏み入れた瞬間に、地面がゼリーのように揺れて、日野はめり込むように奈落に落ちていった。数秒後には日野の視界は真っ暗になった。



 病院は静かだった。時計を確認すると午前三時、時計の薄いライトを頼りにスマホを探した。待ち受けはスノーボードサークルの集合写真。学科で知り合ったグループと新歓に行ってその場で輪ができた。全員がいい加減に生きていて、軽く話ができる雰囲気が好きだった。ホーム画面は湖の写真で、高校時代の数少ない友人と身内ノリで盛り上がっていたことが脳裏に浮かんだ。余命二年。そう伝えられるまで人生は軽かった。体を起こして置き手紙を見るとこう綴られていた。


 体の調子はどうですか?いつも勉強もせず家で遊んでたケントが、大学入学と同時に一人暮らしを始めたのは内心不安でした。兄から、ケントは楽しそうに生きてると聞いています。大学の単位は大丈夫かな、就職活動は順調なのかな?インスタグラムの投稿を見てもっと心配になりました。そんな矢先にケントが急病で緊急手術をすると電話がありました。ここに書ききれない思いは、ケントが起きている時に直接話したいと思います。


「インスタ、見てたのか」

こっそり見てたのか。こんな事態になっても勉強とか就活、こういうのを毒親っていうんじゃないのか。寝ていてよかった。次に会うときは嫌味とか皮肉をぐちぐち言われるのだろう。こんなことならお兄ちゃんにインスタを教えるべきじゃなかった。もっとましな十代を過ごしていれば、あのグループの中で彼女の一人くらい作れたのだろう。全てあいつらのせいだ。いや。東京住みなのに一人暮らしを許可してもらって、私立の文系大学の入学も許可してもらって、教育費も払ってもらった。いまだに反抗期を引きずっているのか。全てが俺のせいなのか。俺がもし、腹にナイフを突き立てて自殺したら、お母さんは後悔するのだろうか。もしそうならば死にたい。一分が長い。これが鬱っていうものか。分からない。

 日野は夜を恨んだ。朝になると担当の看護師が病院食を持ってきた。

「よく眠れましたか?」

「まあ、しぶしぶって感じです」

「んふふ、なんですかそれ」

言葉のチョイスに若い看護師は笑って、料理を置く。

「それにしてはちょっと元気ないですけど、悩み事があるならなんでも言ってくださいね」

「夢、なんか変な夢を見た気がします」

「思い出せずもやもやします?私、悪夢だけなぜか思い出せちゃうんですよ、なので思い出せなかったってことは、良い夢だったということです」

「そうなんですかね」

看護師の束ねられた長髪を一瞬見て、そっと目をそらした。

「あの、こういう料理ってこの病院内で作っているんですか」

「はい、病院内の厨房で作られていますよ」

「どのあたりで?なんか変に気になっちゃって」

「地下一階です。ちょっとした事ほど気になっちゃいますよね。分かります」

一呼吸おいて、日野の肩をトントンと触ってこう言った。

「安心してください日野さん。うちの院長は面倒見がいいし、私もこう見えて評判のいい看護師なんですよ。なんでも頼ってください」

味気ないご飯を残して看護師は退室した。


 日野は和室にいた。広すぎず、しっかりとした畳だった。

「お兄さん、景色がきれいですよ。良かったら一緒に見ませんか?」

「うん」

日野は障子戸を全開にして、女性の対面に座った。女性は白衣を着ていて、すこしお茶目に言った。

「なんだか不思議ですね、見ず知らずの人とこんなにくつろいでいるなんて」

「息が合うんじゃない?」

「ふふ、そうに違いないです」

「露天風呂入ろうかな」

「大浴場のほうは晩御飯の後にしませんか?混む前にレストランに向かいたいです。それに食べたい料理が無くなっちゃうかもしれませんし」

ビュッフェのメニュー冊子を見ながら女の子は言った。

「そだね、とりあえず浴衣に着替えてから行こうか」

「楽しみ」

日野が横にいるのにも関わらず、その女性は下着姿になった。女性が浴衣を渡そうとすると、日野は左手で胸部をさすっていた。

「あ、ごめん」

「なんで謝るんですか、ふふふ」

日野は右手で女性の髪を触りながら、「あとで存分に味わわせてもらうよ」と言って部屋を出た。

 ビュッフェの時間はあっという間に過ぎた。日野は唐揚げとソーセージとコロッケを大皿に乗せて、空いたスペースに赤だしの味噌汁とふりかけをかけた白米、申し訳程度の野菜に思いっきりごまドレッシングをかけて席に座った。目の前の女性は様々な料理を少しずつ小皿に分けて運び続けていた。

「すみません、私こういうの全部食べたくなっちゃうタイプで」

「わかる」

中身のない話をだらだらと続けながら、腹が悲鳴を上げるまで食べ物を入れ続けた。

 大浴場は深夜まで空いているので、午前三時まで部屋で起きることになった。客室露天風呂で足湯。足湯をしながら二人は恋人つなぎをして、お互いに額を引っ付けていた。

「あら、もうそんな年頃なのね」

突然、後ろから誰かに話しかけられた。日野は片目で見ると、それが母親であることに気づいた。

「インスタグラムで見たわよ。あなたは集合写真に写っていた子?」

頭がパンクしていた。

(こんなところになんでいるんだ)

(いつまでいい母親だと勘違いしているんだ)

(軽いからかいのつもりでも、俺からしたらものすごく邪魔なんだよ)

「違う、お前には関係ないだろ」

語気が荒くなっている。ぐちゃぐちゃになった脳内がショートして日野を狂わせる。日野の両足は母親に詰め寄り、その勢いで母親の首を絞めていた。無抵抗に倒れこむ母親を追撃するように、首をつかんだまま地面に押し付けた。日野は血の巡りが緩くなるまで、力を入れ続けた。

「ケント、ごめんね」

日野は消え入るような母親の声を聞いた。

鈍い音がした瞬間に空間が歪み、日野は十八階の客室から奈落に落ちていった。



「起きたか、ケント」

兄がいた。その横で母親が泣きながら椅子に座っていた。

「ずいぶんうなされていたけど大丈夫か。手も震えてるし」

「あ、ああ」

鮮明に覚えている。この手が母の首を折った。体から汗が出てくるのを感じる。

「手紙読んでくれた?」

「うん」

「私が言いたかったことはひとつだけ。幸せになってほしかった。辛い思いをせず生きてほしかった。だから過度に心配しちゃってケントの邪魔ばっかりしてきたかもしれない。これからいつまで生きられるか分かんないけど、したいことがあるなら限界まで要望に応えるから。後悔を残さずに生きてほしい」

「あ、うん。全然邪魔なんかされた覚え、ないよ」

「う、うん、だったら良かった」

母がまた泣き出した時、抑えていた涙が、ダムが決壊するように流れてきた。脳みそのヘドロが落ちていくようだった。さっきまで感じていた憎悪はなんだったのか。いつもここで自問自答を繰り返していた。家族の前で大泣きするなんて、普段の自分からすれば地獄のような状況なのだが、涙が止まらなかった。


看護師は泣き続ける俺に気を遣って、無言で病院食を持ってきた。薄い味のスープも美味だった。


布団に潜って目を開く。

 自分勝手だ。どうしようもない人間に育ってしまった。人生の不完全燃焼をお母さんに押し付け、欲望のまま生きて。どうせまた辛くなったらお母さんのせいにしてしまうのだろう。俺の死で悲しんでくれる人がいるのなら、俺は幸せだ。だから一人で苦しむのは終わりにしよう。もう、もういやだ。

体を起こして病室を出た。向かう先は地下一階。真っ暗な厨房をスマホのライトで照らして徘徊する。調理棚に刺さった包丁を取り出した。すぐさま刃先を腹に当てる。血が少し流れ、離す。

「怖い」

包丁を咄嗟に投げた。

「イメージ通りなら、できるのかな」

泣き出しそうになりながら、包丁を手に持って自分の部屋に向かった。

足音など気にせず、早足で歩いていた矢先、ドアから担当の看護師が出てきた。

「あら日野さん、体にも悪いですし、ゆっくり歩いて」

看護師は固まった。日野が血の付いた包丁を持ってこちらを見ていたのだ。

夜の病棟に悲鳴が響いた。衝動的に弁明しようと看護師に近づいた。

「来ないで!来ないで!」

放心状態で、逃げる看護師を追いかけた。病院玄関まで包丁を握ったまま、叫びながら逃げる彼女に「違う、違う」となんとか声を引き出していた。

「なにがあったんですか!」

そこには、警備員が立っていた。車道を通り過ぎるライトが、暗い病院内を少し照らした。泣き叫ぶ看護師の後ろに、荒い息遣いをして包丁を握る男。この瞬間、日野は犯罪者になった。

 その翌日の晩、精神病院でテレビが流れていた。都内の病院で包丁を持った日野建斗容疑者が担当看護師と無理心中しようとした疑いがかけられている。日野建斗容疑者は警備員の通報により現行犯逮捕された、と締めくくられた。


 見たことのあるバス停で、日野はベンチに座って誰かを待っていた。

「おはようございます日野様。視界はいかがでしょうか」

ブラウン管テレビの男が立っていた。

日野の口は、開かなかった。

「では、ごゆっくり」

何かに飲み込まれた。


病院で母親に励まされた記憶。母を絞め殺した記憶。子供の頃、一緒にディズニーランドに行った記憶。受験生時代に、「あなたに何円の教育費を支払ってると思ってるの?」と言われた記憶。


フラッシュバックするように、交互に脳裏に現れる。日野は頭を抱えながら、バスを素通りして道路まで歩く。


「バスで向かわないのであれば、自分の目を背けたいことから目を背けず、死ぬ気で歩いて下さい。その際、死んでしまう者もいますが。お気をつけて」


ブラウン管テレビの男が、口などないのにニヤリとした顔をした。そう理解した。この男は自分を映す鏡だった。


何度もよぎる。殺した瞬間の光景。そして悲鳴をあげる看護師。警棒で戦ってきた警備員。

何も感じたくない。何も聞きたくない。テレビの報道が目に映る。俺だ。俺が写っている。ニュースキャスターが淡々と事件を読み上げ、俺の過去を話している。うるさい。


もう、何も見たくない。


日野は自身の目玉をちぎった。痛覚が体を走る。頬が痒い。血液が流れ出ているからだ。血の匂いがする。

だが、痛みなど気にならないほど、日野は開放感に包まれていた。


病室のテレビが笑った。

「全部、お前のせいだ」

そう聞こえた瞬間、日野は命を落とした。死因は、出血死ではなかった。


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