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ゲリラ豪雨を愛せよ

作者: 蜂蜜電波

「……ところでさあ!」

「うわっ! ……あん、何だよ。急に話しかけんなよ」

「ごめんごめん。でも、暇だからいいだろ?」

「いや、見れば分かるだろ? 読書(どくしょ)中だ。(ひま)じゃない」

「え? どう見ても暇じゃん。ページだって進んでないし」

「違う。目が疲れたから少し外を見ていただけだ」

「つまり、読書中じゃないってことだな? 」

「いや、暇じゃない」

「なあ~? 話そうよ~……?」

「本当にウザいなあ……。何の用だよ」

「あ、やっぱり暇だったんだ」

「違う、しつこいからだよ。……ほら、さっさと用件を言え」

「はいはい、素直じゃないんだから……。なあ、()()()って知ってるか?」


「……いやいや、どの(うわさ)だよ」

「いやいや、そこはさ? 俺たちの仲じゃん? 言わなくても伝わるはず……」

「無理だろ。超能力者じゃあるまいし」

「試しに当ててみ? 案外(あんがい)当たるんじゃね?」

「……じゃあ、新作のゲームか?」

「いや~、残念っ! ハズレ!!」

「……くそ、ウザいわ」

「ああっ、読書に戻るな! もう答え言うからっ!」


「……じゃあ、何の噂だってんだよ?」

「そんなの決まってんじゃん! 異世界(いせかい)に行く方法、だよ!」

「………………はあ」

「何だよ! そんなにハッキリとため息つくなよ!」

「お前はネットの見過ぎだ。現実にそんなものがあるわけないだろ」

「それがあるんだって! 実際に行けたって報告もあるんだから!」

「ふーん……。で、ちなみにソースの出どころは?」

「え? ネットだけど?」

「……はあ。(だる)いわ……」


「ちゃんと信憑性(しんぴょうせい)のある話なんだって! ()()()()()()()()も異世界に行けたって言ってるし! 界隈(かいわい)では結構(さわ)がれてるんだから! な、興味あるだろ?」

「興味ない」

「ああっ、本読むなって! おーい? おーい!?」

「耳元で叫ぶな……。うざいなあ、もう……。分かったから話してみろ!」

「へへへ」

「笑ってないでさっさと話せよ」


「そうだな。……夏にはさ、よくゲリラ豪雨(ごうう)ってあるだろ?」

「ん……? ああ、あるな」

「あれってどう思う?」

「何だ急に? ……どう思うって、まあ。急にドサッと雨が降ってきて(いや)なんだよな」

「ふーん、そうか。(きら)いなのか……」

「そりゃそうだろ。あんなもの、好きな奴なんているのか? 突然(おそ)ってきて、あっという間に濡れるし、雷がうるさいし、いいことなんてないだろ」

「俺は好きだけどな? こう、ロマンがあるっていうか」

「は? ロマン? どういうことだよ?」

「なんか()()()って感じしない?」

「……意味分からんが」

「誰にも予想できない、神出鬼没(しんしゅつきぼつ)の黒い雲!」

「はあ」

「そして大量に降り(そそ)ぐ、爆撃(ばくげき)のような大粒の雨!」

「……」

「家もビルも(しず)むほどの勢いで、あっという間に日本沈没(ちんぼつ)!」

「……色々と誇張(こちょう)し過ぎだろ。創作(そうさく)の読みすぎだ」

「えー? ()()()()()ってこうじゃないの? 強そうな名前じゃん」

「もっと現実を見ろ。日本沈没なんてありえない。そんな状態になったら連日(れんじつ)大ニュースだぞ?」


「む、そうか……。まあ、それでね、異世界へ行く方法なんだけどさ」

「ああ」

「ゲリラ豪雨について行けばいいんだよね」

「はあ? 何言ってるんだ?」

「ゲリラ豪雨ってさ、いつどこに(あらわ)れるかイマイチわからなくて、気象予報士でも完璧(かんぺき)には当てられないじゃん?」

「まあな」

「あの黒い雲ってどこから来てると思う?」

「いや、知らんけど」

「どうやら、()()()()()()()()らしいんだよね」

「は?」

「別の空間から次元の垣根(かきね)を越えてやって来てる。だから事前に気付けない。予測できないんだって」

「……はあ? つまり、どういうことだよ?」

「つまり……」

「つまり?」

異世界(いせかい)

「……」

「だから、あの雲の中に入れば、異世界に行けるんだよ」


「ツッコミどころはたくさんあるんだが……」

「おう」

「まず……、どうやって雲の中に入るんだよ? 飛行機か?」

「それがさ、ずっと雨に打たれているとどういうわけか、雲の中に行けるらしいんだよね」

「……はあ?」

「多分、待っていると連れてってくれるんでしょ」

「ただ待っているだけ?」

「そう」

「傘をさして外に立っていればいいのか?」

「いやいや、傘をさすなんてゲリラ豪雨に失礼でしょ」

「は? ()れたまま待つのか?」

「そう」

風邪(かぜ)ひくだろ」

「風邪くらいで異世界に行けるなら安いもんでしょ」

「嫌だよ。安くねえよ。もし仮に異世界に行けたとして、異世界で風邪でうなされるのか? 何しに行くんだよ。意味分からん」

「なあ、一緒にやってみようぜ?」

「勝手に一人でやってろ」

「ええー……。あ、そうだ自由研究! ゲリラ豪雨で異世界に行く研究に……」

「ウチの高校には自由研究の宿題は無い」

「ケチ!」

「はいはい」


・・・


 夏休みが始まってから一週間。俺は自室にひとり、何もすることがなく、完全に(ひま)を持て余していた。


「……(だる)いな」

 スマホを握りながらベッドに横になる。面白そうだが見る時間がないと溜めていた動画も、いよいよもって()きてしまった。ゆえにただ寝転がるばかりで、何もせずに天井を見ているだけの有様(ありさま)だった。

 夏休み中は毎日が快適だ。教室内のように突然うるさい声話しかけられることもないし、放課後に行くべき部活(ぶかつ)もない。ストレスフリーで快眠が続いている。

 ただ、面倒事(めんどうごと)が減って嬉しい反面、暇が増えてしまった。全ての雑用がなくなった途端(とたん)、時間が余ってしまった。随分(ずいぶん)と長い時間、耐えられないほどの退屈(たいくつ)を持て余していたのだ。


「はあ、どうするかな……?」

 しかし、いくら暇だからといって、夏休みの宿題は手につく状態ではない。昼間は暑すぎて頭がどうにも働かないのだ。太陽から降り注ぐ熱はやる気をそいでくる。体を冷やさなければやる気は起きないが、わざわざそこまでして勉強体を始める気力もない。そんな具合にどうしようもなく、自室でのっそりと倒れていた。

 そもそも最後の週になってようやく(あせ)り始め、()()()()()()()()()()()()()()()()()が入っているのだから、今から始める必要などありはしない。毎年、それで始業式までには間に合っているのだから、心配することはないのだ。


 ならばと気楽な趣味(しゅみ)を進めようと、夏休みにやろうと思っていた積読(つんどく)の消化をしようとしたが、それもやる気に()(あふ)れた夏休み最初期の自分自身が本気を出してしまい、(わず)か三日のうちに読み終わらせてしまっていた。気分が乗ったときの行動は早い。しかしだからこそ余った時間は、本当に何もやりたいことが見つからないのだった。


 やりたいことは(びょう)で終わるが、しなければならないことは手を付けたくない。

 ……実に暇だ。一か月ほどある夏休みの一週目にして、虚無(きょむ)(おちい)ってしまった。


 そうして何でもいいから退屈を紛らわす方法はないかと、外からの熱が厳しい自室の中で半目になり、脳内でぐるぐると思考を重ねていた。その結果、自室に居てもあまりにも退屈(たいくつ)で仕様がないからと、駅前にあるコンビニにでも行くかと思い立ったのだった。


 最近、巷で話題となっている商品がある。あるコンビニに置かれている新作のキワモノ系の(しお)アイスだ。無駄にカラフルで斬新(ざんしん)なパッケージで世間の目を集めたのも話題のひとつだが、なによりもその味が常軌(じょうき)(いっ)していると、多くの声が上がっていた。

 SNSには実際に食べてみたレビューがいくつも転がっていて、やれ()()()()()だの、()()()()()だのと、賛否両論(さんぴりょうろん)喧々諤々(けんけんがくがく)一触即発(いっしょくそくはつ)地獄絵図(じごくえず)となっている。クラスメイトも何人かその流れに乗っては、ウマいだのマズいだのと戦場にレビューという名の援護射撃(えんごしゃげき)を撃ち込んでいる。俺も一度食べてみて、その戦争に乱入するのもアリかもしれない。

 普段はそうした雑談めいた(もよお)しに積極的に参加する方ではなく、むしろ無駄(むだ)だと切り捨てる側なのだが、暇な長期休みともなれば例外である。この程度のくだらない論争でも、暇潰しにはちょうどいい。そのくらいに興味のハードルは低くなっていた。


 そして思い付いたからには善は急げと、財布をポケットに入れて自室を飛び出し、サンダルを足にひっかけて玄関からマンションの外に出た。

 ……その瞬間、なんて愚行(ぐこう)を思いつき、そして実行してしまったのかと、非常に後悔(こうかい)したのだった。


「あっつい……」

 太陽は人類を嘲笑(あざわら)うかのように、連日のように最高気温を更新している。カラスもバテて空を飛ばないほどの真夏日(まなつび)だ。こんな時期に外に出るなど正気の沙汰(さた)ではない。……つまりは俺の脳みそは暑さにやられ、正気な状態ではなかったらしい。ああ、(だる)い。本当に(だる)い。

 時刻は午後の三時。太陽が真上ではないとはいえ、それでもまだ暑い時間帯だ。しかもアスファルトに溜まった熱を考えれば、もしかしたら今が暑さのピークかもしれない。地面と空の両方から放たれる熱のサンドイッチ状態となり、オーブントースターのように熱波(ねっぱ)を浴びて、人類の(もろ)い体なんてものは焼け()げる寸前だった。

 

 その結果、コンビニに入るころには猛暑に体力を(けず)られており、完全にグロッキーになっていた。汗が止まらない。熱で頭も痛い。

 ……やはり、夏は外に出ないに限る。夜型(よるがた)バンザイ、夜型バンザイ。昼間の地獄(じごく)のような時間を睡眠で誤魔化(ごまか)し、夜の(すず)しい時間に活動する。そうした()()()()()享受(きょうじゅ)するために、夏休みというものがあるのだろう。

 ……にもかかわらず、夏の暑さに浮かされたためか、迂闊(うかつ)にも昼間に炎天下を歩いたせいで、貴重(きちょう)な体力を大量に失ってしまった。ああ、非常に(だる)い。冷房の効いた店内で十分(じゅうぶん)休憩(きゅうけい)を挟まなければ、帰る前に倒れてしまうだろう。


 こんな時こそアイスである。冷たさと糖分を同時に摂取できる夏の必需品だ。熱くなった体を冷やし、失った体力を取り戻す。これほどまでに画期的な食べ物はないだろう。

 ……だがこれから食べようとしているのは、例の(ちまた)を騒がせている商品だった。そう気づいてしまった瞬間、何とも言えない無力感が襲って来た。どうして(ばつ)ゲームを(みずか)ら受けるような選択をしてしまったのか。これだから夏は嫌なんだ。人間の冷静な思考能力を、いとも簡単に奪ってしまうのだから。


 冷凍ケースを見に行くと新商品と赤文字で書かれたポップと、山積みになっているネットでよく見たパッケージを見つけてしまった。長ったらしいカタカナで書かれた、どう考えてもネタにしかならないネーミングセンスをしている商品だ。値段は三百円。少々高めで一発ネタとして手を伸ばすには躊躇(ちゅうちょ)するギリギリのラインだ。

 ……しかも、その周りには大量に美味(おい)しそうな商品が並んでいる。定番のよく見るパッケージは、売れているから年中置かれているのだ。当然、味は担保(たんぽ)されている。絶対に美味(うま)いに決まっている。

 ……もう別の商品にしようか。いや、何のために炎天下を歩いたのか。今日の目的はこれなのだ。そうして苦虫(にがむし)()(つぶ)しつつ、賛否両論の品をレジまで持って行ったのだった。


 店内にある誰も居ないイートインまで持って行き、席に座って食べてみる。

 まずは一口(ひとくち)。……ああ、うん。そうだよな。分かってた、分かってた。

 ……いや、まあ。何と言うか、マズいと吐き捨てるほどではないが、確実に美味(おい)しくはない。点数をつけるなら三十点だろう。

 複雑に組み合わさった塩味(えんみ)(ほの)かな甘さを際立(きわだ)たせた一品。……とは、ホームページの紹介文から引用したキャッチコピーだが、コンセプトが先行して味がついてきていない。一口(ひとくち)食べた限り、そんな印象だった。

 パッケージにも書かれている四種類の塩たちの独自主張(しゅちょう)が強すぎて、甘いという概念(がいねん)がどこかに封印(ふういん)されてしまっている。つまりは際立っておらず、まったく甘くないのだ。もう、ほぼ塩だった。

 塩がたくさん取れるので、脱水症状(だっすいしょうじょう)の時ならばギリギリ食べたくなる可能性がある……、かもしれない……。まさに今の俺のような、炎天下を歩いてきた人間にとっては……。いや、それでも好んで食べたいとは思わない。ただの塩だし。つまりはハズレであった。

 事前に()()()()()()味とはまったく違ったが、()()()()の微妙な味だ。しかもそのくせに、周りの商品と比べても割高の値段。これは(まぎ)れもなくアウトだろう。


 スマホを取り出してSNSを起動し、ポチポチと文句を書き込み始める。少々表現を誇張(こちょう)して、これは食品ではなくただの塩だと投稿。すると反応が早い、もうコメントが付いた。……ああ、ネットの中はいつも暇人(ひまじん)(あふ)れている。待ち時間を使わなくてもいいことだけは、ネットの数少ない長所だろう。

 見知らぬアカウントに味覚音痴(おんち)だの、()()()()()()()()()だのと(あお)られては、そっちが馬鹿舌(ばかじた)だとの言い争いの手が進む。クーラーがガンガンに効いた店内で、塩を食べつつヒートアップだ。

 (うった)えられないギリギリのライン。相手の意見を的確に論破(ろんぱ)しつつ、面倒な話題は誤魔化(ごまか)しつつ、適度に(あお)っては反応を楽しむ。ルール無用のチャットファイトが、同じく暇人の無数の乱入(らんにゅう)者を巻き込んで行われた。


 そして、何の話だったかもう忘れるほどに脱線(だっせん)し、いつも通りに収拾(しゅうしゅう)がつかなくなってしまったところで……。そろそろ帰るかとスマホをポケットにしまった。暇潰しにしかならない無益なやり取りも、暇潰しを求めてここまで来たのだから十分(じゅうぶん)戦果(せんか)だろう。

 こんなくだらないことをしている間にも、炎天下を家まで帰る程度の気力は回復した。さて、気を()()めて家に帰ろう。またあのオーブントースターのような熱波の中を歩かなければならないのだから……。

 少々気が滅入りつつも、アイスをイートインの(すみ)にあるごみ箱に捨ててコンビニを出た。そして視線を上げると……、


「……早すぎるだろ」

 (わず)かな外出の間に、空は分厚(ぶあつ)い雲によって真っ黒に染まっていた。さっきまでの異常な暑さなど嘘のように寒くなり、風が強く吹いては強烈な音を鳴らしていた。

 夏の空は異常そのもの。まったく油断(ゆだん)(すき)もない。もう少しゆっくりと店内でレスバを続行していたならば、本降りの雨の中でコンビニ内に閉じ込められ、帰るタイミングを(のが)していたことだろう。

 家に帰れるギリギリのタイミングで気付けたのだから、運が良いのだろうか。……いや、予定にない雨が降ってきたのだから、その時点で運は悪いのだろう。最悪だ。


 (かみなり)が鳴る。周りも(あわ)ただしく走り出している。駅から出てきた通行人が、空を見上げてはダッシュでどこかへと走り去っていった。強い風が吹いてカラカラと空き缶がどこかへと転がっていく。みるみるうちに辺りは暗くなっていき、雨がぽつぽつと降り始めた。

 ……今にも嵐になる予感がする。いかにもヤバそうな雰囲気(ふんいき)だ。俺もここで立ち止まっていても仕方がないと、すぐに覚悟を決めて屋根の下から外へと飛び出したのだった。


 まあ、今ここでビニール傘を買えば、濡れる心配もせずに帰ることは出来るだろう。だが、まさか家までほんの七分程度の距離しかないのに、傘を買うだなんてもったいない買い物はしたくはない。ゲリラ豪雨なんて年に何回も遭遇するものに、いちいち傘を買っていたら家が傘で埋まってしまうだろう。

 走れば家なんてすぐに着く。うだうだ考える前に走り始めて、本降りになる前に家に()()めば万事(ばんじ)解決だ。簡単な話じゃないか。

 そうしてサンダルをパタパタと鳴らしながら、雨の中を全速力で駆けて行ったのだった。


 ――だが結論としては、その判断はミスだったらしい。雨はものの数秒の(のち)土砂(どしゃ)降りとなって、一瞬で全身がびしょ濡れとなってしまった。


「くそ……」

 これがゲリラ豪雨。予測なんて不可能な災害。俺の想定を超えて爆発的に強まり、ビシャビシャと街と俺を濡らしていった。

 まだ家まで半分以上の距離があるが、もうすでに下着まで濡れている。小学生のころだったかにした、着衣(ちゃくい)水泳のときのような惨状。全身がズブ濡れ。(だる)い、(だる)すぎる。これだから雨は嫌なんだ。

 それもこれも、炎天下の昼間に外に出るなんて愚行を(おか)したのが原因だろう。やはり、夏の昼間は()るに(かぎ)る。興味本位(ほんい)で外に出てはいけなかったのだ。


 雨も風もさらに強くなる。もはや夏の暑さが恋しい。早く晴れてくれ。こんな日にテンションが上がるのは……、()()()くらいなものだろう。

 今、(となり)にアイツがいたならば、異世界に行くチャンスだと外へ飛び出し、雨の下で必死になって色々と試していたところだろう。なにせ、人並(ひとな)み外れた馬鹿だからな。

 ……いや、もしかしたら今この瞬間(しゅんかん)にも、数キロ(はな)れた場所でテンションを上げているのかもしれない。いや、きっとそうだ。無駄に頭を働かせなくとも容易(ようい)に想像できてしまう。

「もうすぐ異世界に行けるよ! ほら、ほらっ!」

 ……ああ。余計な想像をしていたら、うるさい幻聴(げんちょう)が聞こえてきてしまった。雨音に混じる不快(ふかい)なノイズが酷い。勝手(かって)に他人の脳内(のうない)に入って来るな。……まったく面倒な奴だ。


 だが、そんな妄想(もうそう)で現実から目を(そむ)けなければため息が出てしまうほどに、頭上から降り注ぐ雨は非常に強く、そして何よりも鬱陶(うっとう)しかった。水分は服を濡らして肌にへばりつき、前へ進む気力を奪っていく。しかも、普段のゲリラ豪雨よりも三割()しで雨も風も激しい気がする。俺の勘違(かんちが)いでなければだが。


「くそ……、何で今日に限って……」

 こんな日に濡れた道をサンダルは走るのはキツイ。それに暗くて足元が見えづらいのも面倒だ。たまの稲光(いなびかり)が嬉しく感じてしまうほどに、辺りは真っ暗で視界が悪くなっている。

 昼間にもかかわらず街灯(がいとう)がつき始めた。車も後方に飛沫(しぶき)を上げながら、ヘッドライトをつけて走っていた。

 ……何故俺はこんな時に外に居るんだ? 俺が何をしたって言うんだ? 滅多(めった)に外出しないのに、どうして偶然にも雨に降られてしまうのか。本当におかしい。これを雨男とでも言うのだろうか? 外に出た時に限って、空の天気はいつも最悪だ。そして俺の気分も常に最悪だった。


 しかもまだまだ足りないと言わんばかりに、雨はさらにさらに強くなる。ついには目も開けていられないほどに、雨も風も容赦なく襲って来た。

「ぐうっ……!」

 ヤバい、ヤバすぎる。視界が悪いという表現では足りないほどの豪雨だ。まるで山奥にある(たき)に打たれる修行(しゅぎょう)かのよう。タンクの水をぶちまけたかのような量が、頭の上に降り注いだのだ。

「げほげほっ……。何だこりゃ?」

 水が多すぎて息をするのも難しい。これでは流石(さすが)に歩けない。()()()()なんてことがあるのか。気を抜くと潰されてしまいそうだ。

 ()()()とアスファルトが音を立て、跳ね返る飛沫(しぶき)は下からも体を襲う。おおよそ街中で聞かない音。アスファルトと共に地球が壊れるのではと心配になるほどの異常事態だ。

 腕で頭を守るようにして、滝の中で押し(つぶ)されないように耐える。雨で周りの音も聞こえない。何も見えない。


 誰がどう見ても分かる天変地異だ。……もしや、このまま世界が終わってしまうのでは? そんな予兆(よちょう)脳裏(のうり)を過った。そして同時に背筋(せすじ)が凍った。

 このペースで雨が降り続けたとしたら、都市機能で排水できる速度を余裕で上回り、この街は沈没(ちんぼつ)してしまうだろう。……そんなバカな。あり得ない。異常事態にも限度(げんど)がある。許されないラインを超えている。


 そして何よりも恐ろしいことは、アイツの予言が当たってしまうことだ。アイツの意味不明な冗談が、現実のものとなって真実になり、未来予知者になってしまう……。それは非常に困る。あってはならない。こんな異常気象なんかよりも、さらに許されない異常事態だ。たとえそれがラッキーパンチだとしても許してはならないのだ。


 ……だが、そんな風に一瞬(いだ)いた一抹(いちまつ)の不安は、杞憂(きゆう)となってすぐに消えた。世界が崩壊(ほうかい)するほどの絶望的な降り方は、ほんの数秒で打ち止め。すぐに視界は戻ったのだった。(とお)(あめ)の名の通り、ピークが上空を通り過ぎて行ったのだろう。ついでに風も弱まり、少々強めの雨だけが残ったのだった。

「はあ……、そりゃそうだよな」

 髪についた水を軽く払い、()()と息を吐く。

 洪水なんて、そうそう簡単に起きるはずがない。雨雲にも蓄えられる水分に限界があるのだから、降る量にも限度は決まっている。一瞬の焦りで心配し過ぎた。そんなこと、あるはずがない。


「ん? 何だ……?」

 一連(いちれん)の異常事態で疲れたのだろうか? 視界がなんだか、ぼんやりと()()()()いるように見える。体が冷えたのかもしれない。()()()じゃないのだから、このままだと風邪をひいてしまうだろう。

 ……いや、違うか。目のせいではない。街灯が消えてしまったのだ。さっきの異常な衝撃で、街全体が停電(ていでん)になってしまったのだろう。大雨で電線がイカれたか、どっかの施設でトラブっているのかもしれない。それほどまでにさっきの降りはおかしかった。


 だが、暗くとも歩けないほどではない。ぼんやりと縁石(えんせき)輪郭(りんかく)は見えるし、雨の勢いも()()()()()()()()()()に収まっている。(にく)たらしい雷も、たまに光って道を照らしている。慣れた道なのだから、ほんの少しの光でもあれば十分(じゅうぶん)だろう。

 またさっきのような、()()()()()()()()()()()が起きても(だる)いだけだ。さっさと家に帰ろう。そして温かいシャワーを浴びよう。……ああ、そうだ。停電がすぐに直るといいが。夏とはいえ冷たいシャワーはもう十分(じゅうぶん)だからな。


 そうして一歩、再び家に向けて()を進めようとした。

 ざぽん。

「うわっ!」

 その歩き始めた一歩目、右足が足首ほどまで水溜まりの中に埋まってしまった。さっきの土砂降りで側溝(そっこう)で排水もできないほどに、急激に水が増えてしまったのだろう。そう思って足元を見た。

 ……しかし、目に映ったのは水溜まりではなかった。

「……は?」

 不定形の黒い(もや)。液体とも気体とも呼べない(なぞ)の物体。まるで今まさに空を(おお)いつくしている黒雲が、破片はへんとなって地上に落ちてきた……。そうとしか思えない不気味な異物(いぶつ)がアスファルトの上に落ちていたのだ。


「おいおい……。何が起きてるんだよ……」

 あり得ない。何かの見間違いじゃないかと目を()らす。しかし何度見ても結果は変わらなかった。そこにあるのは非現実的な光景だった。

 見た目は(きり)に近いのだが、足に触れている感触はただの水そのもの。まるで幻覚(げんかく)によって上書きをしているかのように、気味(きみ)の悪い(ゆが)みが足元に(から)みついていたのだ。

「何だよこれ……」

 重い毒ガスのように足元で停滞(ていたい)する水に、ヤバいと(あわ)てて足を引き抜くが、別に足に違和感(いわかん)はなかった。見た目が現実的ではないこと以外に、特に害になりそうな様子はない。ひんやりとした、ただの水溜まりである。水面に映像を差し込んだかのように、見た目が変わっているだけだった。


 それでも気味が悪いことには変わりはない。距離を取ろうと一歩下がる。だが、後ろもすでに(もや)で覆われていた。後ろに引いた足もまた、チャポンと黒雲の中に沈んでしまった。……というか、浸水ならぬ、雨雲による地上の浸食(しんしょく)が始まっていたのだ。

「おいおい……、どうなってるんだよ」

 もはや逃げ場はない。サンダルを()いた足は完全に雲の中に浸かっており、くるぶしの上ほどまで溜まった水の感触(かんしょく)があった。これが雲ではなくただの水であったとしても、普通に浸水としてヤバい状況である。洪水(こうずい)が起こる前触(まえぶ)れだった。


 こんな異常な現象が起きているのならば、周囲はさぞかし驚いていて、とんでもないパニックになっているだろう。車は進むことを恐れて立ち往生し、家の中からは外の様子を見て悲鳴(ひめい)が上がっているに決まっている。そう思って辺りを見渡してみた。

 しかし、歩いている人はおろか、車さえ一台も走っていなかった。

「はあ?」

 そういえば周りから物音ひとつしない。うるさい雨音のせいで気付かなかった。あの滝のような水が(おそ)ってきたあとからだろうか? 車のエンジン音や空調の音など、本来あるはずの何かしらの人の気配が全く消えていたのだ。

 ……いや違う。周りが消えたのではない。唯一、俺だけが、いまだゲリラ豪雨の中に取り残されていたのだった。


「……どうなってるんだよ」

 街灯の明かりも消えている。車の影もないのだからヘッドライトもない。唯一、目の前の道を照らしているのは、頻繁(ひんぱん)に光る雷だけだった。この異常な現象の元凶が、空でアピールを繰り返していた。

「くそ、調子に乗りやがって……」

 異常な黒雲に向けて毒づき、どうすればいいのかと考えている間にも雨は降り続けている。しかも黒雲はどこかへと流れ出すこともなく、降った分だけ着実(ちゃくじつ)蓄積(ちくせき)していた。地上に落ちた黒雲はプールに水を貯めるように徐々にせり上がって来ていて、すでにくるぶしを軽く超え、(すね)の半分ほどまで達していた。

 もう地面は雲に隠されて見えない。縁石(えんせき)も段差も見えない。走るには危ないし、そもそも水が重くて動きづらい。状況はみるみるうちに悪くなっていった。

「くそ、(だる)い……」


 ……対処の方法が分からない。思いつく可能性も()()せない。だがとりあえず、まずは家に帰ろう。あともう少しの距離なのだ。家に帰れば何か道具があるはずだ。財布とスマホしか持っていない現状では、何かしらの打開策(だかいさく)を思いつくことも、それを実行することも難しいだろう。

 そうして早くしなければと、一目散に家へと向かった。黒雲を足でかき分けながら必死に前へと進んでいると、すぐに自宅のマンションが見えてきた。……近くて助かった。これがニ十分もある距離だったら、間違いなく間に合わなかっただろう。


 空からは相変わらず強烈な雨が降り注ぎ、足元に積み上がる雲は信じられない速度で上昇している。水面が俺の体を登ってくる。(ひざ)(こし)、そして(むね)……。ああ、くそ、早すぎる。見えているのにあと一歩が遠い。雲が邪魔(じゃま)だ。しかも冷たい。体力が持たない。


「はあ……、はあ……」

 苦しい。()()()鎖骨(さこつ)を迎えたあたりから、息をするのも難しくなってきた。もはや足を地面に付けて歩くなんて不可能。サンダルは邪魔だと脱ぎ捨てて、泳ぐ体勢(たいせい)に入った。

 家まで残りは二十メートルほど。着衣しつつの苦手な平泳ぎだ。幸いにも黒雲はどこかに流れていかないためか、水流という概念は存在しなかった。だからプールよりかは泳ぎやすい。着衣という(かせ)をつけているなか、それだけが救いだった。


 なかなか進まないながらに必死に手足を動かし、マンションの敷地内には入ることが出来た。だが、そうしている間にも、あっという間に水面が一階を超えてしまっていた。()()()の上昇は留まるところを知らない。このまま待っていれば、どこまでも黒雲は積み重なっていくだろう。

 この調子でどこまで()()()が増していき、どのくらいの高度まで連れていかれるのかと空を見上げると、上空の異変に気付いてしまった。()()()()()()()()()()()いたのだ。目に見えて分かる速度で、俺の方へと近付いてきていた。


 黒雲が俺を飲み込もうとしている。上下で挟んで押し潰すつもりだ。しかも上の雲は()()()()とひっきりなしに光っている。触ったら感電するだろう。

「くそ……、何なんだよ……」

 少なくとも見える範囲には逃げ場はない。雲は建物を無視して水平線まで伸びている。たかが人間が(かな)うスケールではない。絶体絶命(ぜったいぜつめい)だ。


 上下からの黒雲に挟まれ、ゲリラ豪雨に飲み込まれた結果、俺はどうなってしまうのだろうか? ()()()の言ったとおりに感電しながらも異世界へ飛べるのか? それともただ異常気象に巻き込まれて死ぬだけなのか? 何が起きるかは実際に試してみないことには分からない。すでに異常だらけなのだから、何が起きても不思議ではない。

 ……だが、どっちの可能性もお断りだ。俺は別にこの世界に愛層(あいそ)を尽かしたわけではない。異世界なんて御免(ごめん)だ。まだ、この世界でやり残したことはたくさんあるのだから。


 ……さて、問題はどうやってマンションの中に入るかだ。まあ、律義(りちぎ)に雲の中に潜って、入り口から入るなんてあり得ないだろう。視界の悪い黒雲に(もぐ)るなんて自殺(じさつ)行為だ。緊急事態には緊急事態なりのやり方があるはずだろう。

 今はむしろ、こっちが正規ルートだ。そう考えて、建物の壁を(つた)いながら、すぐ近くにあるベランダの方へと向かった。わざわざ玄関側へと回り込む必要はない。泥棒(どろぼう)も入るのが難しい三階のベランダは、いつも鍵が開いているのだから。


 ()()()はそろそろ二階の半分に差し掛かる。待機してタイミングを見計(みはか)らう。もう少し待てば、手を伸ばして登れるようになるはずだ。

 ここが正念場(しょうねんば)だろう。ふうと息を吐いて気を引き締めた。

「よし……」

 家に入れるチャンスは一度切り。それも室内が浸水(しんすい)する前、まともに動ける時間を考えると、四分程度しかないだろう。その間に家の中から()()()使()()()()()()を見つけて、そしてあの異常気象からどうにかして生き延びなければならない。


 ……いや、どう考えても無謀(むぼう)挑戦(ちょうせん)だろう。この世のものとは思えない大災害に対して、生身の人間が道具を片手に立ち向かおうとしているのだから。だが、(いど)まなければ飲み込まれるだけだ。やるしかない。

 ベランダから家に入り、出来るだけ多くの役に立ちそうな物をかき集める。出来るだけ臨機応変(りんきおうへん)に、そして()()()()()()、この危機(きき)を乗り切るしかない。相手が(ことわり)の外の存在だからこそ、対処法はあるかもしれないのだ。


 そしていよいよ、三階のベランダに手が届いた。

「ふんっ!」

 アルミ製の手すりを(つか)み、自分の体を上へと引っ張り上げる。そして(さく)を乗り越えてベランダの中に転がり込んだ。

 べちゃっ!

「はあはあ……」

 硬いコンクリートの床に倒れ込む。体が(きし)んで悲鳴を上げる。手足が冷たく、体の芯が寒くて思うように動かない。……しかし、休んでいる場合ではない。すぐに役に立つ道具を見つけなければ。

 タイムリミットは迫っている。ここで倒れていても冷たい雨雲が押し寄せてきて、(ふたた)(こご)えるだけだ。ここで気合を出さずにいつ出すのか。

 そうして心と体を(ふる)い立たせ、どうにか起き上がってベランダのガラス戸に手をかけた。……その時だった。


「……ん? うわっ!?」

 突然、後ろから強い光が差し込んできた。そして、急に気温が高くなった。

 緊急事態とは思えないほど()()()()()に思わず振り向くと、強烈な赤色が目に飛び込んできた。そして目が(くら)んでしまった。

「あ……」

 見えたのは夕日だった。ビル越しでも(まぶ)しいくらいに、赤く赤く(かがや)いている。昼間の暑さが抜けない、()()()()()()()()だった。


「はは……」

 ありふれた日常。普段ならようやく日が落ちたかと、暑苦(あつくる)しい太陽に文句(もんく)を言いたくなる時間帯。(だる)いと吐き捨てた街並みと、昼間の熱を吸った建物や道路がそこにはあった。

 当然のことだが、そこに()()()()()()()は、影も形も見えなかった。


「帰って来れたか……」

 どうやら助かったらしい。思わずベランダに倒れ、寝転んでしまう。

 ゲリラ豪雨は、来るときも早ければ()るときも早い。何とも身勝手(みがって)な異常気象だろうか。本当に(あき)れる。

 安堵(あんど)で疲れが()()()出た。苦手な水泳と緊張から、体力はとっくに限界を迎えていたようだ。

 夏は暑い。それは夕方でも変わらない。冷たい雲で濡れた服すらもすぐ乾くほどに、俺の体も温めていった。今だけは昼間に吸収したベランダの熱が、岩盤浴(がんばんよく)のように心地(ここち)よかった。


 空を見上げて息を整える。どうして黒雲は消えたのかと、分かるはずもない理由を探す。……すると、ふと、アイツの言葉を思い出したのだった。

「ずっと雨に打たれていると異世界に行けるらしい」

 覚え違いでなければ、そんなことを言っていた気がする。


 ……アイツの言葉なんて信用していないが、もしもその話が本当ならば一応の予想は()()つ。つまり、裏を返せば()()()()()()()よかったのだろう。

 雨に当たらない場所、建物の中や軒下(のきした)に入り込めば、雨を(しの)ぐことくらいはできる。(ぞく)にいう雨宿(あまやど)りだ。家に解決策を取りに入ったはずが、(はか)らずも雨の()()が届かない場所に避難していたらしい。そうして逃げ切り、帰って来れたのだ。


「はあ……。いや、そんな単純な話か?」

 必死になって家へと泳いだ苦労に見合わない、至極(しごく)単純(たんじゅん)な答え。……いやまあ、これはあくまで憶測(おくそく)の話だからな? 合っているとは限らない。

 聞きかじった情報と、たった一回の成功体験。それらを組み合わせただけ。予想の範疇(はんちゅう)根拠(こんきょ)は薄い。確実な理由が知りたければ……、もう一度仮定をもとに実践(じっせん)してみるしかないだろう。


 ……あん? いやまあ、もう一度なんて()()()()()に嫌だけどな? また雲に飲まれそうになって、挙句(あげく)の果てに仮定が間違っていたらどうするのか? 次こそは帰って来れないだろう。考えたくもない。


 ……それはそうと、今は何時なのだろうか? コンビニを出たのが午後の三時半くらいだったはず。しかし今は夕方。大体六時くらいだろう。

 そうなると二時間くらいは異世界を彷徨(さまよ)っていたことになるのだが……。絶対にそんなに時間は経っていないはずだ。そんなに長時間、雨に当たったり、冷たい雨雲の中で水泳をしていたら、震えるほどに凍えてしまうだろう。

 どうやら異世界とやらは時間も当てにならないらしい。現実の常識は通用しない。もう忘れることにしよう。思い出したくもない。


 暑さの残るベランダに、大の字になって寝転がる。

 ああ、疲れた。もうゲリラ豪雨はこりごりだ。


 ガラガラ……。

「……何してんの?」

 ベランダで倒れているところを母親(ははおや)に見つかった。……最悪のタイミングだ。


「あ、えっと……。これは……」

「え? もしかしてベランダで寝てた?」

「違う」

「でも、ずぶ濡れじゃない。何時間前からそこに居たのよ? とっくの昔に晴れてるんだけど?」

「寝てない」

「寝てたじゃん。……ああ、暑いからって頭がおかしくなった?」

「おかしくない。俺は雲に乗ってベランダから……」

「……寝惚(ねぼ)けてるじゃん。風邪ひかないでよね? 看病するのも面倒なんだから……」

 (あき)れ顔で去ってしまった。弁解(べんかい)する隙はなかった。


 その日の夜、家族全員から揶揄(からか)われたのは言うまでもない。


・・・


 九月。高校も二学期が始まり、いつも通りの退屈な日常が戻って来た。夏休みは暇で暇で仕方なかったが、休みが明けるとそれはそれで億劫(おっくう)である。

 毎日の授業。宿題に予習、復習。学生は暇が少ない。それに部活もあるのだから、やることは多い。まったく、忙しさはいつも極端(きょくたん)だ。


 ふと窓の外を見ると、秋の薄い雲が浮いていた。夏の分厚(ぶあつ)い雲とは違う、雨も降らないし雷も鳴らない、ごく普通の雲だ。

「……」

 雲を見ると()()()()のことを思い出してしまう。思い出したくなくても思い出してしまう。あまりにも衝撃的で、人生でも二度も遭遇しないような、頭のおかしい災害だった。

 しばらく筋肉痛で動けなかったし、風邪もひいた。散々(さんざん)な目に遭った。何かしらの見返(みかえ)りが無ければ大損(おおぞん)だろう。例えば、鉄板(てっぱん)の笑い話になるとかな。それならば苦労にも甲斐(かい)があるというものだろう。


 ……だが、この体験を誰かに話す機会は一生ないだろう。説明するのがあまりにも(だる)すぎる。説明の苦労に見合わない。なにせ正直に話したところで、信じてもらえるとは限らないからだ。

「なあ、聞いてくれよ。外を歩いていたら空から大量の雨雲が降ってきてさ。……ああ、雨じゃなくて雨雲な。あのときは溺れるかと思ったよ。それで仕方ないから雲の上を泳いで、マンションの三階にあるベランダに逃げ込んだよな」

 ああ、完全に意味不明だろう。どこまでも現実離れした出来事(できごと)だ。もしも俺が聞く立場だったら、頭がイカれたのかと聞き流していることだろう。

 変人だと距離を置かれても不思議ではない。(とく)になる要素がひとつもない。だから、誰に言うこともなく、墓まで持って行くことにしたのだった。俺の脳内に封印し、二度と表に出すことはないだろう。


 もし仮にこの封印が解かれる日が来るとしたら……。まあ、友人と怪談をする機会でもあれば、その時はもしかしたら口を滑らせてしまうかもしれない。ただしあくまでも、()()()()()()()()()()()()()であって、俺の実際の話とは言わないがな。


「結局、異世界って何だったんだろうな……」

「……XXX!」

「ん? なんだよ?」

 後ろの席から声がした気がして、()()()()()()()(ひじ)を背もたれに回して振り向いた。

 ……しかし当然ながら、そこには誰も居なかった。今(すわ)っている席は教室の一番後ろにあるのだから、後ろの席から話しかけられるはずがないのだ。


「……なんだ気のせいか」

 どうやら空耳(そらみみ)だったらしい。……もしかしたら脳が疲れているのかもな。昨日も夏休みの習慣で、三時まで夜更(よふ)かしをしてしまっていた。

 ……早く昼型生活に戻さなければ。今日も朝から眠くて仕方なかった。一限の授業は眠すぎて、記憶から完全に飛んでいた。


「ふああ……」

 大あくびをして前へと向き直る。あとで顔でも洗うかと思い、机の上へと()()した。

 振り向いた場所にうるさい席があったのは夏休み前、一学期のときの話である。あの時は本当に最悪だった。とにかく耳元で声がしては、どうやっても無視もできずに際限(さいげん)なく呼びかけられていた。ストレスで頭がおかしくなりそうだった。

 だが、今は席替(せきが)えをして、一学期とは比べ物にならないほど静かで快適な席を手に入れている。もう小休憩(しょうきゅうけい)(たび)に話しかけられることもないし、授業中に()()()()()をかけられることもない。秋の学校生活は一学期とは大違い。静かで過ごしやすい日々が続いていた。

 もしも願いが叶うのならば、ずっとこの席ならいいのに。まあ、絶対にありえない話ではあるのだが。


「そういえば()()()……、誰から聞いたんだっけな?」

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