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第2章記憶の隙間に咲く花

第二章 多分偶然なんかじゃない

週明けの月曜日。朝から空はどこかぼんやりしていて、教室の窓には湿った光がにじんでいた。

 尚弥は机に肘をつきながら、ぼんやりとノートの罫線をなぞっていた。ノートには何も書かれていない。ただ線を追っているだけ。隣の席の男子がくだらない冗談を言って女子に笑われる声が耳に届いていたが、それすらも遠くの風景のようだった。


 あの子に、また会えるだろうか――。


 ふと、頭の中によぎったのは「風間駅」のあの夕暮れと、名前を呼び合った最後の場面だった。

 澪。日向澪。


 名前を交わしただけなのに、不思議な存在感だった。柔らかく、でもどこか距離を感じさせる子。

 スケッチブックを覗き込んできた彼女の視線が、今でも脳裏に焼きついて離れない。


 昼休み、尚弥は人混みを避けるように、図書室へ向かった。騒がしさから逃げるには、静寂が満ちているこの場所が一番だった。


 窓際の席に鞄を置き、適当に背表紙を眺めていると、ふと人の気配を感じた。


 (……あれ?)


 通路の先、自然光の差す本棚の向こう側に、ひとりの女子生徒の姿が見えた。

 セーラー服の上にグレーのカーディガンを羽織っている。髪はゆるくひとつに結ばれていた。

 その後ろ姿に、尚弥の指先が止まった。


 (……澪?)


 確信はなかった。けれど、その佇まいや、背中に漂うどこか頼りない雰囲気に見覚えがあった。

 思わず歩を進めようとしたそのときだった。


 彼女が振り向き、尚弥と目が合った。


 一瞬、時が止まったような錯覚。

 けれど次の瞬間、彼女はふわりと目を逸らし、何事もなかったかのように歩き去っていった。


 (……え?)


 確かに目が合った。尚弥の心臓が早鐘を打つ。

 けれど、彼女の表情はまるで“初対面の他人”を見るようだった。


 (どういうこと……?)


 図書室の中を見渡したが、もう澪の姿はなかった。幻だったのかとさえ思えてくる。


 それでも、胸の奥に残る感覚――たしかに彼女だった、という確信だけが、尚弥を落ち着かせてくれなかった。


 放課後、美術室の扉の前で、尚弥は立ち止まっていた。

 入るか、帰るか。ここ数日、同じことで迷っている。


「来るかなって思ってた」


 声がした。振り返ると、椎名が窓枠にもたれかかっていた。


 「……今日は、ちょっとだけ」


 尚弥はそう言って、美術室の扉を開けた。誰もいない室内。静けさの中に、絵具の匂いが漂っている。

 椎名は追ってこなかった。たぶん、尚弥の空気を読んでくれたのだ。


 カバンからスケッチブックを取り出す。その表紙を開こうとした指が、ふと止まる。


 (……なんで、気づいてくれなかったんだろう)


 図書室の澪の表情が、鮮やかに蘇る。

 目が合ったのに、知らない人のような顔だった。


 (……俺のこと、忘れてる?)


 そんなバカな。つい数日前、あんなに自然に会話して、名前まで交わしたというのに――。


 尚弥は鉛筆を握った。紙の上に、彼女の横顔を描こうとした。

 けれど、うまくいかない。記憶が曖昧なのではなく、「わからない」という感情が混ざって、線がブレた。


 (もう一度、会えたら……話をしてみたい)


 風が、校舎の窓を揺らした。その音に混じって、遠くで吹奏楽部のトランペットの音が流れてくる。


 尚弥は鉛筆を置き、スケッチブックを閉じた。今はまだ、描けそうになかった。



 次の日の放課後、尚弥は誰にも告げずに学校を後にした。今日は美術室には顔を出していない。椎名の気遣いの視線を背中に感じながら、それを無視するように昇降口を出た。


 リュックの中には、昨日と同じスケッチブック。中身はほとんど進んでいない。鉛筆の線が昨日の空気をなぞったまま、時間だけが止まっているようだった。


 廃駅・風間へと続く坂道に入ると、風が頬を撫でていく。目を閉じると、あの少女――日向澪の笑顔が浮かんだ。


 もう、偶然とは思えなかった。


 坂を登りきり、ホームに足を踏み入れたとき、思わず立ち止まる。


 この前と同じ、いや、それ以上に静かな空気の中――誰かが、いた。


 ベンチの端。制服姿の澪が風に髪をなびかせながら、背を向けて立っていた。


「……澪?」


 無意識に声を漏らした尚弥に、彼女がゆっくり振り向いた。


 「……あ、ごめん。誰かに見られてたの、気づかなかった」


 その反応に、尚弥は胸の奥でなにかがズレたような感覚を覚えた。

 この前、名前を交換したはずなのに。彼女の目は、まるで今日が“はじめまして”のようだった。


 「邪魔しちゃった?」


 「ううん、そんなことないよ。むしろ、ちょうどよかったかも」


 そう言って、彼女はベンチに腰を下ろした。スカートの裾を押さえながら、尚弥の方を見ず、視線はどこか遠くへ向いていた。無意識に日記帳を抱える手元に目がいく。


 それは、この前も彼女が持っていたものと同じだった。小さな布張りのノート。

 この前とまったく同じ光景なのに――今日の彼女は、どこか違って見えた。


 「風、今日のほうが気持ちいいよね」


 「……ああ。たしかに」


 当たり障りのない返事。けれど、それ以上の言葉が見つからなかった。この前はもっと自然に話せた気がするのに。今日の彼女は、どこかふわふわしていて、掴みどころがない。


 「絵……まだ描いてるの?」


 「……うん。一応」


 「この前と同じやつ?」


 その言葉に尚弥は、息を詰めそうになった。彼女は……覚えているのか、いないのか。言い方が曖昧すぎて、判断できなかった。


 けれど尚弥は、あえて「この前」のことに触れた。


 「この前より……色が濃くなったかもな、空」


 澪はその言葉に、少し間を置いて、笑った。


 「うん。そうだね。――日によって、同じ景色でも違って見えるから。不思議」


 尚弥はそれ以上追及しなかった。ただ、風が吹くたびに彼女の髪が揺れるのを見つめていた。


---



 家に帰っても、尚弥の頭から澪の表情は離れなかった。


 リビングではテレビの音が鳴っていたが、父は黙ったまま新聞をめくり、母はスマホで明日の予定を確認していた。誰も尚弥に話しかけない。その静けさは、風間駅とは違う“孤立”の静けさだった。


 部屋に戻ってスケッチブックを開いた。あのベンチに座る澪の姿を、記憶の中から描こうとしたが、うまく手が動かなかった。


 「……やっぱり、変だったよな」


 彼女の反応も、言葉も、笑顔さえも――この前とは少しずつ違っていた。


 けれど、同じ場所にいた。風間駅で、ふたりで並んで座っていた。それは、間違いじゃない。


 尚弥は鉛筆を置き、ふと気づいた。


 ――また、会える気がする。


 そう思えたのは、彼女の最後の言葉がどこか優しく、何かを隠しているように聞こえたからだった。


---


 翌日、学校。


 教室の窓から吹く風が、昨日のホームを思い出させた。


 「雨宮、スケッチブック忘れてるぞ」


 後ろの席の男子が声をかけてきた。尚弥は軽く会釈して、それを受け取る。


 誰とも目を合わせないまま机に向かうと、ふと、背筋に寒気が走った。


 ――もしかしたら、あの子は同じ学校の生徒じゃないか?


 制服姿。あのスカートの色、ブラウスの形、そして胸元の校章。


 間違いない。


「……なんで、今まで気づかなかったんだろ」


 呟いた声は誰にも届かない。けれど、胸の奥で確かに何かが動き出していた。


 翌朝。いつもと変わらないはずの教室が、少しだけ色を変えて見えた。窓の外には薄曇りの空が広がり、グラウンドの端では野球部が朝練をしている。けれど尚弥は、そのざわめきの一切が耳に入ってこなかった。


 風間駅での再会のあと、昨夜はほとんど眠れなかった。


 あのときの澪――制服姿で、まるで初対面のような態度。スケッチブックの話題を出したときも、彼女ははっきりと覚えている様子ではなかった。


 名前も、会話も、風のことも。

 すべてが夢だったんじゃないかと思うほど、彼女の表情は他人のようだった。


「雨宮ー、プリント回してー」


 前の席の女子に声をかけられ、尚弥は我に返った。無言でプリントを受け取り、後ろへと回す。指先がほんの少し震えていた。


 あの子は、日向澪――そう名乗った。けれど、それ以上のことを自分はほとんど知らない。

 もし、彼女が本当に「知らないフリ」をしていたのなら、それはなぜなのか。


 チャイムが鳴って一限目が始まっても、尚弥の意識はずっと、あのホームに取り残されたままだった。


 ――風が吹いた。空気が揺れた。


 ふいに浮かぶ、澪の言葉。


 けれどそれは“昨日”の澪。今日の彼女は――。


 昼休み。尚弥はいつものように弁当を持って教室を出た。向かった先は図書室。人の少ないこの空間は、昔から彼にとって唯一落ち着ける場所だった。


 けれど、今日はなぜか足取りが重かった。


 入り口のガラス戸を開けると、ほんのりと紙のにおいが鼻をくすぐる。館内の奥、窓際の席にひとりの生徒が座っているのが見えた。


 その姿を見た瞬間、尚弥の心臓が跳ね上がった。


 ――澪だ。


 昨日と同じ制服、同じ髪型。窓から差す光に髪の先が透けて見えた。日記帳のようなノートを机に広げて、黙々と何かを書いている。


 尚弥は、静かに近づいた。


 まさか、同じ学校だったなんて。けれど昨日、彼女はそのことに触れようとしなかった。初めて気づいたような顔で、彼を見つめていた。


 「……澪?」


 思わず声に出してしまった。


 彼女の肩がびくりと動いた。


 ゆっくりと顔を上げたその目には、驚きの色が浮かんでいた。けれど、それは“名前を呼ばれた驚き”ではなかった。


 まるで――「知らない人に話しかけられた」ような、そんな反応だった。


 「あ……ごめんなさい。私、今、集中してて……」


 尚弥は、一歩だけ後ずさった。足元が少し揺れるような感覚に襲われた。


 「……昨日、風間駅で……会ったよね?」


 言葉が途切れた。


 澪は、ほんの一瞬だけ目を伏せ、それから苦笑いを浮かべた。


 「昨日……?」


 彼女の声が、まるで“探るように”響いた。


「ごめんね。人違いじゃないかな、私……」


 尚弥は何も言えなくなった。


 確かにそこにいるのに。確かに昨日、名前も交わしたのに。彼女は、まるで“それ”を知らないように、尚弥から視線を外した。


 「……ごめん。邪魔したね」


 尚弥は背を向けた。


 図書室の外に出ると、風が窓の隙間からすり抜けてきていた。額に手をあてる。頭がぐらぐらする。記憶が混濁していく。


 ――なんなんだよ、あれ。


 たしかに昨日、絵を見てくれた。

 「綺麗な線だね」って、笑ってくれた。

 同じ空気を吸って、同じ風の音を聞いたはずなのに。


 放課後。下校途中の道すがら、尚弥は風間駅へ向かうことはなかった。


 代わりに、商店街の外れにある小さな公園に立ち寄った。ベンチに座り、スケッチブックを膝に置いたまま、鉛筆を握ることもできずに、空だけを見上げていた。


 ふと、スケッチブックの隙間から、昨日描いた風間駅の絵が見えた。澪がいた場所。あのベンチ。あの風の音。


 「……あれが夢だったら、どれだけ楽か」


 けれど夢じゃない。確かに描いた線。確かに見た景色。


 ただ、彼女の中だけが――昨日の続きを失っている。


 尚弥はスケッチブックを閉じ、深く息を吐いた。


 どこかで、もう一度、彼女と出会える気がした。

 今度こそ、昨日の続きを、ちゃんと始められるように――。


 文化祭が近づくにつれて、校舎の空気はにわかに浮つき始めていた。廊下には模造紙や道具の山が並び、昼休みの教室では企画の話に花が咲く。

 尚弥のクラスも例に漏れず、「人と人を繋ぐ物語」というテーマに沿った展示を準備していた。けれど、尚弥はその輪に加わることなく、静かに机の隅で筆を動かし続けていた。


 絵を描く――それだけが、尚弥に与えられた“役割”だった。


 提出した数枚のイラストは、美術部の展示の一角に飾られることになっていた。旧図書室を利用したその展示は、廃線跡の風景をモチーフにしたものが多く、その中には、風間駅を描いた一枚もあった。


 風が抜ける草原、朽ちたホーム、誰もいないベンチ。

 その絵の前に立った誰かが、ほんの少しでもその“寂しさの中の温かさ”に気づいてくれれば、それでいい。そんな思いだけで


 文化祭当日。校内は普段より多くの人で賑わっていた。


 制服の上にクラスTシャツを羽織った生徒たちが呼び込みに奔走し、体育館からは吹奏楽の演奏が聞こえる。

 そんな喧騒から少し離れた旧図書室の展示スペースは、静けさを保ったまま、ぽつぽつと来場者を迎えていた。


 ――そして、彼女はそこに現れた。


 澪だった。

 制服姿で、ひとり。手にはいつものように、小さな布張りのノート。


 彼女は静かに展示スペースを歩き、尚弥の絵の前で足を止めた。

 廃駅を描いたその一枚を、まるで吸い込まれるように見つめている。


 尚弥は少し離れた場所から、その様子をそっと見ていた。

 鼓動が早まる。言葉にできない何かが、喉の奥で渦巻いていた。


 ――気づくだろうか。

 風間駅のベンチ。あの空の色。あのときの風。

 きみの前で、僕はこの絵を描いていた。


 そして彼は、意を決して澪に声をかけた。


「……見てくれて、ありがとう」


 澪が振り返る。穏やかな笑顔。だが――そこに、昨日の記憶はなかった。


 「うん。すごく素敵な絵だね。……君が描いたの?」


 その瞬間、尚弥の心が冷たく沈んだ。


 「……え?」


 絞り出した声は、かすれていた。


 「これ、描いたの君? すごいね。なんか……優しい風が吹いてる感じがした」


 ――やっぱり、覚えてない。


 風間駅で何度も会って、名前も交わして、絵も見せた。

 昨日だって、一緒に並んで話したばかりだ。

 それなのに今の彼女は――まるで初対面のように、僕に「君」と呼びかける。


 尚弥は、堪えきれなかった。


 「……どうして」


 「え?」


 「どうして……忘れるんだよ。あそこで一緒にいたじゃん。風間駅で、ベンチに座って、話して……俺が描いてたの、君も見てたじゃん」


 澪の表情が強張った。瞳が揺れる。


 「昨日、のこと……?」


 「何回会ったら、覚えてくれるの? 名前だって、もう何度も会ってるじゃん。なんで、君だけ何も覚えてないんだよ……!」


 自分でも驚くほどの勢いだった。

 怒りと悲しみと、置いてきぼりにされた寂しさが、声に混ざっていた。


 澪は一歩、後ろに下がった。


 「……ごめん、ちが……あの、ちがうの……」


 掠れた声で、何かを言おうとする。でも、その言葉は続かない。


 「そのノートに、全部書いてるの?」


 尚弥が視線を澪の手元に向けると、彼女は小さく震えた。


 「ほんとは……覚えていたいんだよ。でも……」


 言葉が途切れた。目を伏せたまま、唇を噛みしめている。


 尚弥はその姿を見つめながら、心のどこかで叫んでいた。


 「なんで、そんな顔するんだよ……」


 胸の奥が痛かった。わかっている。

 澪は悪くない。何か事情があるんだって。

 けれど、わかっていても、もう、どうすればいいかわからなかった。


 「……ごめん」


 小さな声が聞こえた。


 それは確かに謝罪の言葉だった。けれど、その奥にある本当の言葉は、最後まで聞こえなかった。


 尚弥は堪えきれずに、後ろを向いて駆け出した。


 誰かとすれ違った気がしたけれど、もう何も見えなかった。

 教室も、廊下も、風景のすべてが滲んでいた。


 ――どうして、僕だけが知ってるんだろう。

 ――どうして、君だけが何も覚えてないんだろう。


 文化祭の喧騒が遠ざかっていく。

 尚弥は、ただ逃げるようにして、誰もいない校舎の裏手へと走り去った。


 校舎の裏手は、文化祭の喧噪から切り離されたように静かだった。夕方の斜陽が伸びた影を落とし、風に揺れる木々のざわめきが遠くの歓声をかき消していた。

 尚弥は荒くなった呼吸を整えながら、背中を壁に預ける。胸の奥に渦巻いているのは、怒りと後悔と、どうしようもない混乱だった。

 ――なんで、忘れるんだよ。

 あの瞬間に吐き出した言葉が、自分の耳にまだ残っていた。澪の顔、怯えた瞳、震える声。すべてが、尚弥の心を締め付けていた。

「……俺、何やってんだ」

 拳を握りしめる。けれどどうすることもできないまま、その場に立ち尽くしていると――。

 「……雨宮くん」

 背後から、小さな声がした。

 振り返ると、そこに澪が立っていた。制服の袖をきゅっと握りしめ、うつむき加減にこちらを見ている。瞳は赤く、頬にはまだ涙の跡があった。

 「……ごめんね。さっき、びっくりしたよね」

 尚弥は言葉を失った。謝るのは自分のほうなのに、なぜ彼女が――。

 澪は小さく息を吸い、ためらうように唇を開いた。

 「……あのね。私……記憶が、続かないんだ」

 その声は震えていた。

 「寝て起きたら、昨日のことがもう思い出せなくなっちゃうの。だから、こうして毎日……」

 彼女は胸に抱いた小さな布張りのノートを見下ろす。

 「……ここに書いて、残してるの。そうしないと、私……昨日の私と繋がれなくなっちゃうから」

 ぽろり、と雫がノートに落ちた。澪は慌てて袖で拭ったが、次の涙がまたこぼれてしまう。

 「本当は……忘れたくなんてない。誰かと過ごした時間とか、話した言葉とか……私だって、ちゃんと覚えていたいのに」

 言葉は途切れ途切れで、それでも必死に伝えようとしていた。

 尚弥は、立ち尽くしたまま動けなかった。

 頭では理解できなかった。ただ、その必死さと悲しさだけが胸に刺さった。

 ――自分は、そんな彼女に「なんで忘れるんだよ」なんて。

 ――一番、傷つける言葉を投げてしまった。

 「……俺、最低だ」

 口からこぼれた声は、誰に向けたものでもなかった。

 澪は小さく首を振る。

 「ちがうよ。私が、ちゃんと説明できなかったから……ごめんね」

 その言葉が、かえって胸を締め付けた。

 謝る必要なんてない。悪いのは自分なのに。

 尚弥は、深く息を吐いた。

 「……俺、君のこと……もっと知りたい」

 気づけば、そう言葉にしていた。

 澪は驚いたように目を瞬かせ、ゆっくりと顔を上げる。

 その瞳の奥に浮かぶ不安と期待が、まっすぐに尚弥の胸を貫いた。

 「俺、君の一番の……いや、せめて、君を一人にしない人間になりたい」

 自分でも何を言っているのかわからなかった。けれど、それだけは本心だった。

 澪の表情がふっと揺れた。今にも泣き笑いしそうな、そんな顔。

 「……ありがとう」

 小さな声が、夕暮れの風に溶けた。

 尚弥はその瞬間、心の奥で何かが芽生えるのを感じた。

 それはまだ名前のつかない感情。けれど確かに、澪を守りたいと思わせる力だった。

 校舎の中から、文化祭の終わりを告げるアナウンスが流れてきた。

 ざわめきの消えゆく音に包まれながら、尚弥はひとつ決意する。

 ――明日もきっと、彼女は僕を忘れる。

 ――でも僕は、忘れない。

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