第1章 駅のベンチで君を待つ
六時間目のチャイムが鳴ったとき、教室の空気が一気に軽くなった。机の脚を引く音、笑い声、リュックのジッパーを開ける音。目の前で繰り広げられるこの光景は、いつも尚弥をどこか遠くへ押しやる。
「じゃあ、また明日ねー!」
クラスメイトたちが自然に作る輪から、尚弥の名は呼ばれない。別にいじめられているわけでも、嫌われているわけでもない。ただ、彼は“いないこと”に慣れすぎてしまった。
「雨宮くん、今日さ、美術部来れそう?」
声をかけてきたのは、同じ部の椎名だった。丸顔で笑うと目が細くなる、どこにでもいるような女の子。尚弥が三日連続で部室に顔を出さないのを気にかけてくれたのだろう。
尚弥は一拍遅れて、首をかすかに横に振った。
「ごめん、今日は……家、ちょっと」
曖昧な嘘。けれど、彼にとってはそれが限界だった。
「そっか。無理しないでね。今週、展覧会の作品締切だから……また時間あるとき来てね」
椎名の声は柔らかい。でもその「無理しないでね」の奥に、「本当は来てほしいんだけど」という気持ちが滲んでいることにも、尚弥は気づいていた。
椎名が去ったあと、尚弥はゆっくりと机を拭き、最後にスケッチブックをそっとリュックにしまった。誰にも見られないように、リュックの奥深くに押し込む。
廊下に出ると、ガラス窓の向こうでサッカー部が円陣を組んでいた。グラウンドの端には吹奏楽部。テナーサックスが軽く音を合わせている。教室にも、廊下にも、校舎全体に「居場所」が充満していた。
けれど、自分だけはそこに入れない。誰かと視線が合っても、すぐに逸らされる。話しかけられることもないが、孤立とも違う。尚弥の存在は、教室にとって「空気のようなもの」になっていた。
静かに靴を履き替え、昇降口を出る。外に出た瞬間、肌に当たる風がやけに冷たく感じた。秋の空気が、街を少しずつ冬へと変えていく。
家には帰りたくなかった。
両親は、口数の少ない父と、何かと指示を出したがる母。最近は顔を合わせる時間も減っている。父は単身赴任から戻ったばかりで、家の空気はぎこちない沈黙で満たされていた。
「今日は塾は?」
「そろそろ志望校も……」
毎日交わされる言葉は決まっていた。進路、勉強、内申。だが誰も、尚弥が何に苦しんでいるかを尋ねることはない。
彼はそっと、学校の裏門へと足を向けた。
この道を通るのは、決まって誰かから逃げたいときだった。舗装の甘い路面には、夏の名残のようにひび割れが走っている。自販機の明かりの下には、枯れかけた植え込み。野良猫が身を潜めるようにして、目を合わせずに去っていった。
イヤホンを耳に差し込む。けれど音楽は流さない。ただの“遮断”のための儀式だった。世界の音から、自分を切り離すための壁。
やがて、廃線跡へと続く坂道に差しかかる。両脇の木々が風に揺れ、ざわざわとした葉擦れの音が耳を打った。目を閉じると、それだけで胸が少しだけ軽くなる気がする。
その先にあるのが、「風間駅」。
正式には、十年前に廃止された「風間信号場」。駅としてはもう存在しない。けれど、地元の人は今でも「駅」と呼ぶ。尚弥にとっては、それが嬉しかった。なくなったものに、名前を残すという行為。それは、存在を証明しようとする最後の手段のように思えたから。
木製の小さな看板。苔むしたホーム。草に覆われたレール。すべてが変わらず、今日もそこにあった。
尚弥はホームに腰を下ろし、ゆっくりとリュックからスケッチブックを取り出す。目の前に広がる風景――それを誰にも見せるつもりはない。ただ、線を引くことで、自分の中にある何かが確かに「ある」と信じられる気がした。
「描くって、誰かに見せるためのもの?」
あの日、美術室で言われた言葉が、頭の中をよぎる。
「それって、ただ写すだけだよね?」
自分の絵には、意味がない。誰かを感動させることも、表現力に溢れているわけでもない。ただ、目に映ったものを線でなぞるだけ。
――でも、それじゃダメなの?
尚弥は鉛筆を握る手に、ほんの少しだけ力を込めた。風の音が、木々のざわめきに混じって頬をかすめていく。時間の感覚がゆっくりとほどけていく中で、線は静かに重ねられていく。
そのとき――。
「それ、ここ?」
女の子の声だった。
ふっと、風に混じるようにして現れた声。尚弥は驚いて顔を上げた。
ホームの端に、誰かがいた。
白いワンピースに、紺色のカーディガン。髪をひとつに結んだ女の子が、尚弥のスケッチブックをのぞき込んでいた。
「……え?」
思わず声が漏れる。どうしてこんな場所に、誰かが?
ましてや、同じ年頃の女の子が――。
その子は、にこりと笑った。
「綺麗で優しい絵だね」
その言葉が、尚弥の中にすっと染み込んでいくのを感じた。
驚きと警戒と、そして……少しだけ、嬉しさ。
「……ありがとう」
声が少し掠れていたのは、長く誰とも話していなかったせいかもしれない。
女の子は尚弥の隣にしゃがみ込むと、スケッチブックを覗き込んだ。
白い指がページの端に触れる寸前、尚弥はそっと手で隠した。
「ごめん、まだ……途中だから」
「そっか。ごめんね。でも、すごく優しい絵だった」
澪の言葉には、評価とか、見下しとか、そういう匂いがなかった。
ただ、見たままの印象を、素直に口にしただけのような。
「こんな場所で絵を描いてる人、はじめて見たかも」
「……ここ、よく来るんだ。人がいないから」
「わたしも、たまに来るよ。静かで、落ち着くよね。今の季節、空の色もいいし」
尚弥は少しだけ視線を上げた。
ホームの向こうに見える空は、確かに夕方の柔らかなオレンジに染まり始めていた。
「風間駅ってさ……名前が、いいよね。風の間って書くんだよ」
「……そうなの?」
少女は視線をスケッチブックに落としたまま、ぽつりと続ける。
「うん。ここ、昔お父さんとよく来てたの。名前が綺麗だったから、覚えてて気になって調べて……。廃線になってるって知ったとき、なんだか切なくて……それから、たまに来てるんだ」
尚弥が何も言わないままでいると、彼女はふと顔を上げ、首をかしげて笑った。
「変な人、って思った?」
尚弥はすぐに首を横に振った。
「ううん。……」
言いかけて、言葉が詰まった。けれど、その沈黙を埋めるように、彼女がそっと言った。
「寂しいけど、優しい場所……そんなふうに思ってるの、私だけじゃなかったんだなって」
風がそっと吹き、彼女の髪が揺れる。
その姿を見つめながら、尚弥は胸の奥に小さなあたたかさが灯るのを感じた。
“似ている”なんて、簡単には言いたくなかった。でも、この言葉はそんな表面的なものじゃなかった。
誰かと同じものを、同じ温度で感じ取れた――そんな気がしたのは、生まれてはじめてだった。
「絵、描くの好きなんだね」
「……うん」
「誰かに見せたりは?」
「……してない。上手いわけじゃないし、ただ……描いてないと、落ち着かなくて」
「それ、わかるかも。あたしも音楽、聴いてないと落ち着かないから」
「音楽、やってるの?」
「うん。バイオリン。下手だけどね」
女の子はそう言って、照れくさそうに笑った。
けれどその表情は、どこか誇らしげでもあった。
尚弥は無意識のうちに、スケッチブックを少しだけ開いて、さっきまで描いていた絵の一部を彼女に見せた。
草に覆われたレールと、さびたホーム。空には薄く雲がかかっている。
「ここって、もう使われてないのに、誰も壊そうとしないんだよね。なんか、それが……いいなって」
女の子はじっとその絵を見ていた。
やがて、ぽつりと言った。
「残ってるって、大事だよね。どこにも行けなくても、ちゃんとここにあるってだけで、なんか、救われる」
尚弥は頷いた。
たぶん、自分がこの駅に惹かれる理由も、同じだった。
しばらくふたりは無言のまま、夕暮れの空を見上げていた。
風が吹き抜け、枯葉が一枚、足元をかすめていった。
「ねえ、名前……聞いてもいい?」
唐突な問いかけだった。
「……雨宮。雨宮尚弥」
「尚弥くん、か……私は澪。日向澪」
それは、この駅で出会った、名もないふたりが交わした、小さな約束のようなものだった。
日が沈むころ、澪は「また来るね」と言い残して帰っていった。
尚弥は、彼女の背中が角を曲がって見えなくなるまで、スケッチブックを開いたまま、ずっと立ち尽くしていた。
それは、この駅で出会った、名もないふたりが交わした、小さな約束のようなものだった。
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翌朝、尚弥は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。夢でも見ていたような気がするが、その内容はまったく思い出せない。ただ、胸の奥が妙にざわついていた。
寝癖のついたまま洗面台に向かい、冷たい水で顔を洗う。鏡に映る自分の顔を見て、ふと思い出す。
夕暮れの風間駅、静かに佇んでいた少女——澪。あの子の表情は、どこか風景の一部みたいだった。静かで、でも何かを待っているようで。
名前を聞いた瞬間の、ほんの一瞬の沈黙。それも妙に印象に残っている。
「……変な子だったな」
誰に向けるでもない独り言が、朝の静寂に吸い込まれていく。
登校の道は、いつもより少しだけ軽かった。電車の揺れ、車窓に映る街並み、雑踏。どれも日常の風景なのに、昨日までと何かが違うような気がしていた。
学校に着くと、クラスメイトたちの笑い声が廊下に響いている。尚弥はそれを横目に、自席に腰を下ろした。窓際の席。いつも通りの景色。だけど今日は、外の空ばかりが気になった。
「尚弥、昨日来てなかったよな、部活」
隣の席の男子が話しかけてくる。
「ああ、まあ」
曖昧に返事をして、ノートを広げる。会話を終わらせるための仕草は、もう癖になっていた。
正直、美術部にいても浮いている気がする。誰かに嫌われてるわけじゃない。ただ、誰とも深く話せていないだけ。
部誌のテーマに興味を持てず、提出期限を過ぎたまま放置しているスケッチブック。去年の文化祭で描いた風景画は、廊下の端にひっそり飾られて終わった。先生の評価も悪くなかったが、誰の記憶にも残らなかった。
——「伝わらなかったな」
あのとき思った気持ちは、今もずっと胸の底に沈んでいる。
授業中、ふとした拍子に思い出す。
昨日の、あの子の声。話し方。駅に吹いていた風。
風間駅のあの空気は、妙に鮮明だ。時間の流れ方が、他のどこよりも遅くて、静かだった。
「君は……絵、描いてたの?」
たしか、そんなふうに言われた気がする。彼女は俺のスケッチブックをちらっと見ただけだったのに。
見られるのが恥ずかしいと思う一方で、どこかうれしかった。
あの一言で、描くことを忘れていた自分が少しだけ息を吹き返したような気がした。
昼休み。教室にいても居心地が悪くて、尚弥はいつものように校舎裏に向かう。体育館の脇、誰も通らない細道の先に、小さなベンチがある。
そこに腰を下ろして、パンの袋を開ける。咀嚼しながらカバンを開き、ためらいながらもスケッチブックを取り出した。
白紙のページをめくると、昨日のページが現れる。
風間駅のベンチ。構図は中途半端で、背景の草の線も曖昧。鉛筆の跡が擦れて少し滲んでいた。
描き直したい——そんな衝動が指先をくすぐる。けれど、すぐに心のどこかでブレーキがかかった。
(どうせ、誰にも見せるわけじゃない)
そう思ってしまった瞬間、鉛筆を握る手が緩んだ。
だけど、それでも。昨日の澪の視線が、まだどこかに残っている気がする。
自分の描いたものを見て、何かを感じてくれた。そんなふうに思えたのは、初めてだったかもしれない。
(……また会えるかな)
パンを食べ終える頃、カバンのポケットに入れたままになっていた鉛筆を、尚弥はそっと指で転がした。
それはほんの小さな、でも確かに前とは違う感情だった。
その日も、授業は淡々と終わった。
教室の空気は午後になるほど重たく感じて、ノートに書き込む手元ばかりを見つめていた尚弥は、チャイムの音とともに自席を離れた。部活には行かなかった。理由なんて、特になかった。ただ、なんとなく、またあの場所に行きたいと思っただけだった。
改札を抜け、人気のない道を抜けていく。夕方の空気が、肌にやさしくまとわりついてくる。時折吹く風が、駅へ向かう足を押すように背中を撫でていった。
風間駅。
昨日と同じ。誰もいない、古びたホーム。駅名の看板には少し錆が浮いていて、ベンチの背もたれに付いたヒビが増えたような気もする。
「……いない……よな」
独り言みたいに呟いて、尚弥はベンチに腰を下ろした。
昨日の澪との会話が頭の中で反芻される。あのときはなぜか、言葉が途切れなかった。いつもは人と話すと変な間ができてしまうのに。
――不思議な子だった。
なにか隠してるような雰囲気と、なのに妙に自然体な態度。
名前を言うまでの間。それに、スケッチを見たときの目の色。
風が、さっと頬を撫でた。そのときだった。
「……また会ったね」
聞き覚えのある声。尚弥が顔を上げると、昨日と同じ制服を着た澪が立っていた。肩までの黒髪が揺れて、駅の空気と混ざる。いつ来たのか、気配にまったく気づかなかった。
「……君のほうが先だったんだね」
「うん。少しだけ早く来てた。」
尚弥は小さく笑って、隣をぽんと空けた。澪は一瞬だけ目を細めて、静かに腰を下ろす。
二人の間に、風が通り抜ける。夕日が線路を照らして、長く影が伸びていった。
「昨日の……スケッチ、描きかけだったよね」
「……うん。あれ、君に見られてたの、ちょっと恥ずかしかった」
「でも、ちゃんと目を奪われたよ。線が、少し寂しそうで、でも……落ち着いてて」
尚弥は思わず目を見開く。誰かに絵の感想をもらったのなんて、ほとんど初めてだった。しかも、そんなふうに言われるなんて思いもしなかった。
「描くの、好きなんだね」
「……好きっていうか、気づいたら、描いてるって感じ」
「そっか。そういうの、いいと思うよ。理由なんか、あとでついてくるから」
澪の声は穏やかだった。だけど、どこか遠くを見て話しているようでもあった。尚弥はふと訊きたくなる。
「君は……なんで、ここに来るの? こんな廃駅、普通の人なら足踏み入れないよ」
「ん……そうだね。でもね、ここ、音が少ないでしょ」
「音?」
「うん。電車の音も、人の声も、アナウンスもない。そういう場所のほうが、自分の心の声が聞こえる気がするんだ」
そう言った澪は、口元に少しだけ笑みを浮かべた。
「それに、ね。ここ、誰もいないのに、ちゃんと風が吹くの」
「……風?」
「うん。何も言わないけど、ちゃんとそこにいて、通り過ぎてくれるの。……そういうの、好き」
風がまた吹いた。ふたりの髪がふわりと舞う。
尚弥は、何かを言いたくて言葉を探した。でも、出てきたのは別の質問だった。
「日記、書いてるんだよね?」
「うん。見てたの?」
「ちょっとだけ。昨日、駅で……開いてたから」
「そっか」
澪は否定もしなければ、内容を話すこともなかった。ただ、ぽつりと呟くように言う。
「書いておかないと、残らないから」
「……記憶?」
「ううん、そういう意味じゃなくて。気持ちとか、風景とか……“そのとき”の私が何を感じてたのか。そういうのって、すぐに消えてっちゃうから」
尚弥は、その言葉にどこか引っかかりを覚えた。
でも、それが何なのかは、まだわからなかった。
日が落ち始め、空に茜色が差してきた。澪がそっと立ち上がる。
「そろそろ帰るね」
「……また、ここに来る?」
尚弥が訊くと、澪はふっと笑った。
「気が向いたら、かな」
「じゃあ……俺も、気が向いたら来る」
「ふふ、それってずるい答えじゃない?」
笑いながら歩き出す澪の背中を、尚弥は見送った。次に会える保証なんてない。でも、きっとまた来るだろうと、そんな予感だけは確かに胸にあった。
風が吹いていた。
言葉にはならない何かが、そっとふたりの間をすり抜けていった。
それから何度か、尚弥は風間駅に通った。放課後、部活もさぼって、誰に知らせるでもなく。
いつも澪がいるとは限らなかった。むしろ、いない日の方が多かった。
でも、不思議と気にならなかった。風の音がして、ベンチに座って、スケッチブックを開く。それだけで、十分だった。
……そして、ふとしたとき、彼女はまた現れるのだった。まるで風の一部みたいに。
「また来てたんだね」
「うん。まあ、気が向いたから」
「ふふ。言った通りじゃん」
ある日は、そんな軽い挨拶から始まり、
また別の日は、言葉も交わさず、並んで夕焼けを見るだけだった。
その日、澪は珍しく制服ではなかった。白いワンピースに、薄いカーディガン。手には小さな手提げ袋。
「それ、買い物?」
尚弥が聞くと、澪は少し首を傾げた。
「ううん。お守り、返しに行った帰り」
「……神社か何か?」
「そう。お願いが、叶ったから」
「何をお願いしてたの?」と訊きかけて、尚弥は言葉を飲んだ。
澪は笑っていた。でもその目元に、うっすらと翳が差しているのがわかったからだ。答えたくないのか、それとも――。
「……ヒミツだよ」
彼女は少しふざけた口調で言って、ベンチのひじ掛けに体を預けた。
沈黙が降りる。駅の奥の柵を越えて、風がまた吹いた。
尚弥は少し考えた末に、スケッチブックを鞄から取り出した。
中には、あのホームの風景、澪の横顔、どれも未完成のまま並んでいる。
澪はそのページを覗き込むと、小さく息をのんだ。
「……描いてくれたの?」
「勝手にだけど。気づいたら、描いてた」
「……変なの」
澪はそう言って目を細めた。
でもその瞳には、何かをじっと確かめるような光があった。
「尚弥くんって、変わってるよね」
「俺が?」
「うん。普通なら、知らない人がこんなとこにいて、ノートに何か書いてても、気にしないと思う。でも、君は気にするし、寄ってくるし、話す」
尚弥は少し言葉に詰まった。
確かにそうかもしれない。だが、どこかで「この子には話しかけなきゃいけない」と思わせる何かがあった。
「……君のほうが、変わってるよ」
「ふふ。たしかに。おあいこだね」
笑いあう。穏やかで、奇妙に馴染む沈黙が続いた。
しばらくして、澪がふと鞄から取り出したのは、あの小さな手帳だった。例の日記。
彼女はそれをぱらぱらと捲ると、何かを書き加え始める。尚弥はつい覗き込みそうになるのを我慢した。
でも、目の端に見えた行の中に、ひとつだけ、引っかかる言葉があった。
「残せるとしたら、どんな風景がいいだろう」
……“残せるとしたら”。
なぜそんな言い方をするのだろう。
まるで、今を去っていく人のような。
……それとも、なにかがもう手遅れなのだろうか。
「澪」
尚弥は思わず名前を呼んでいた。彼女は顔を上げる。
「何か……隠してること、ある?」
しばしの沈黙。風の音だけが、線路を渡っていく。
「――もし、あったら?」
「たぶん、俺は黙って待つ」
「……どうして?」
「話したくなったときに、話してほしいから」
それを聞いた澪は、ほんの一瞬だけ目を潤ませたように見えた。
でも、すぐに小さな笑みが戻ってきた。
「……やっぱり、変わってる」
「そうかもな」
それきり、澪は何も言わなかった。
でも、その日の風は、少しだけ冷たかった。
まるで、見えないなにかを運んでくるように。
美術部の活動室に、ポスター用紙が何枚も広げられていた。
「尚弥、あんたもこっち来て!」「こっちの色、もうちょっと暗くしたほうがよくない?」
賑やかな声が飛び交うなか、尚弥は筆を握って黙々と影を塗っていた。
文化祭が近づいていた。美術部では展示用の壁画制作と、学園マップの装飾担当が回ってきていて、どちらも人手が足りていない。
同級生も後輩も手伝ってくれてはいるが、なんとなく尚弥の存在は、場に溶け込めないままだった。
「尚弥くん、背景の色、そっちに合わせてもいいかな?」
後輩の女子が遠慮がちに声をかけてくる。
「あ、うん。いいと思うよ。ここ、ちょっとグラデ入れてもらえると助かる」
「うん、やってみるね」
彼女は笑って戻っていった。
尚弥はその背中を見送りながら、苦笑する。
――ちゃんと返せた。なんで、澪のときだけ、あんなに自然に話せるんだろう。
自分でもよくわからない。あの風間駅にいると、誰かと繋がることが、少しだけ怖くなくなる気がした。
活動が終わった帰り道、夕暮れの坂道を自転車で下っていく。
文化祭前で慌ただしくなると、きっと風間駅にも行けなくなる。
そう思うと、無性にあの静けさが恋しくなって、尚弥は方向を変えた。
――今日は、いるだろうか。
夕日に染まるホームには誰もいなかった。
少し期待していた自分に、尚弥は苦笑する。
それでも、ベンチに腰を下ろしてスケッチブックを開いた。
ページをめくると、昨日の澪の横顔があった。
優しい輪郭、どこか不安げな瞳。
筆を止めると、そのとき、背後から声がした。
「尚弥くんって、ほんとにここ、好きだよね」
振り向くと、そこに澪が立っていた。
制服姿のまま、鞄を肩にかけ、風に髪をなびかせていた。
「……よくわかったね」
「うん。尚弥くんって、絵を描くときの顔、わかりやすいから」
「え、俺、そんなに変な顔してる?」
「変じゃないよ。なんか、迷子の子みたいな顔。……でも、迷ってるのに落ち着いてる。ふしぎ」
迷子なのに、落ち着いている――
どこか彼女自身のことのような言葉だった。
「文化祭、近いんでしょ?」
澪がベンチに座りながら訊いた。
「ああ。一応、美術部だから」
「展示、見に行ってもいい?」
「もちろん」
尚弥は、少し照れたように笑った。
「でも、俺の絵、そんな大したもんじゃないけど」
「でも、好きなものを描いてる顔は、きっと一番その人のことを教えてくれる」
澪はまっすぐ言った。尚弥は何も言い返せなかった。
「ねえ、尚弥くん」
「ん?」
「文化祭が終わっても……ここに来てくれる?」
風が吹いた。
夕陽が、廃駅の奥の金属をゆっくりと染めていた。
「……来るよ」
それは、自然に出た言葉だった。
「澪が来るなら、俺も来る」
「……よかった」
澪は静かに笑った。でもその笑顔の奥に、また、何か言いたげなものが見えた気がした。
その後、ふたりは多くを話さず、ただ並んで座っていた。
空が紫に変わる頃、澪がそっと立ち上がる。
「じゃあ、またね。……覚えててね、ちゃんと」
その言葉に、尚弥は思わず顔を上げた。
「なにを?」
「今日、ここで一緒に見た空。……それだけでいいの」
それだけ言い残して、澪は小さく手を振り、駅の出口へと歩き出した。
尚弥は、その背中をずっと見ていた。
まるで――今すぐ走って追いかけないと、消えてしまいそうな気がして。
翌朝。灰色の雲が空を覆い、雨粒が静かに校舎の窓を濡らしていた。
文化祭まで残り数日。美術部の作業は追い込みに入り、尚弥は放課後のほとんどを部室で過ごしていた。
だが、心の奥ではずっと、昨日の風間駅と澪の言葉が尾を引いていた。
「覚えててね、ちゃんと」
「今日、ここで一緒に見た空。……それだけでいいの」
どうして彼女は、あんな言葉を選んだのだろう。
まるで、誰かに何かを託すみたいに。
放課後、尚弥は傘も持たずに外へ出た。
人の流れとは逆に、駅とは思えないほど静かな場所――風間駅へ向かって歩いた。
廃駅になって久しい風間駅は、雨に濡れながらも、どこか凛としていた。
錆びたホーム、剥がれかけた時刻表、もはや役目を終えたベンチ。
けれど尚弥にとっては、昨日澪と過ごした“確かな時間”が残る場所だった。
ホームに座り、スケッチブックを開く。
昨日の空、澪の横顔。すべてが記憶の中でやわらかく滲んでいく。
――ガタン、と古びた駅舎の床が軋む音がした。
振り返ると、そこに澪が立っていた。
「……来てたんだ」
「うん。……なんとなく、また来たくなって」
尚弥は少し照れたように答えた。
「ほんとはね、今日は来ないつもりだったの」
「うん」
「でも……尚弥くんが来る気がしたの。だから……来てよかった」
それは、昨日と同じようで、昨日とは違う表情だった。
まるでひとつ、重たい決意を下ろしたあとのような。
澪は、尚弥の隣に腰を下ろす。
ふたりの間を、雨上がりの風が通り過ぎていった。
「ねえ、澪」
尚弥はスケッチブックを閉じながら訊いた。
「最初に会った日。なんで、この駅にいたの?」
しばらく黙ったあと、彼女はぽつりと答えた。
「……逃げたかったんだと思う。どこか遠くに行きたかった。でも……もう電車、来ないのにね」
「……そっか。じゃあ、どうしてここだったの?」
「昔、家族で来たことがあるの。この駅……まだ電車が通ってた頃に」
「……」
「そのとき見た景色が、ずっと心に残ってて……。わたし、何かに迷うたびに、ここに戻ってきたくなるんだ」
“戻る”という言葉に、尚弥の胸がふとざわついた。
「じゃあ、俺がここにいたのは……」
「偶然だと思う?」
「……どうなんだろ」
「わたしは、偶然じゃないと思いたい」
澪は、目を伏せたまま言った。
「だって、ひとりでここに来るつもりだったのに……誰かがいてくれて、救われたから」
尚弥は、少しだけ顔を横に向けた。
“誰かを救える”なんて、これまでの自分には無縁だと思っていた。
でも今、澪がそう言ってくれた。
それだけで、なにかが少しだけ変わる気がした。
「……俺も、昨日ここにいたの、偶然じゃない気がしてる」
「うん」
「なんか……誰かと話したかったのかもしれない。自分でも気づいてなかったけど」
ふたりはしばらく沈黙したまま、駅のまわりを吹き抜ける風の音だけが耳に残った。
「尚弥くんの絵」
「うん」
「風の音がするみたいに見える。悲しいのに、やさしい音」
尚弥は、ふと空を仰いだ。
雲の向こうに、うっすらと夕日が覗いていた。
「澪」
「なに?」
「また来てもいい?」
「もちろん。……わたしも、来るよ」
それだけ言って、彼女は立ち上がる。
雨上がりのホームを、スニーカーの音が遠ざかっていく。
その背中を見送りながら、尚弥は思った。
――“誰にも興味なんてない”。
それは、本当は自分自身への嘘だったのかもしれない。
澪という少女が、今、心のなかに風のように吹き込んでいた。
まだ理由はわからない。でも、たしかに彼女を「知りたい」と思っている自分がいる。
そのことだけは、きっと、もう嘘じゃなかった。