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第五章《サロン・ド・フルール》1 ―― クレア=ド=ラフィーユ

鏡に映る自分の姿を、剛は無言で見つめていた。

頬にかかる内巻きの髪、施された化粧。そのひとつひとつが、自分をもう“戻れない場所”へ連れていく。


「……これで、ひと通り整いましたね」


その声の主は、美容師の大沼梨沙だった。肩越しにふと目をやると、彼女は微笑を浮かべて立っていた。プロとしての冷静さと、“可愛いものを仕立て上げた”という静かな満足がその表情ににじんでいた。


案内役の女性職員が微笑みながら、立ち上がった剛にそっと声をかけた。

そして、鏡の横にある出口の扉を指し示す。


「次は――いよいよ、お着替えです」


その声は柔らかく、優しく響いた。

だがその口調の奥には、選択の余地など一切与えない“命令”の色がはっきりと潜んでいた。


素足のまま冷たい床を踏み出す。

ツルツルに剃り上げられた肌が空気を敏感に捉え、冷たさを倍加して剛の神経にまとわりつく。

ほんの少しの風さえも、今や羞恥の刺激へと変わる。


剛の脚は、命じられる前から動き出していた。思考と動作の間に隙間がない。まるで、誰かに操られているよう。


廊下を歩くごとに、身体全体がさらしものにされているような感覚。

視線を感じる――けれど、誰が見ているのかは分からない。

どこかに監視カメラがあるのか、あるいは壁そのものが目なのか。空間すべてが“こちら”を見ているような錯覚。

視線の正体が見えないことが、かえって想像をかき立て、不安と羞恥をかき立てた。


行き交う職員たちの視線が、淡いピンク色のワンピースの上を這うように注がれていく。


剛は思わずうつむいた。


(まるで……女の裸を見るような目で、俺を……)


頬をかすめる長い髪。

歩くたびに揺れ、やわらかく触れる感覚が、かえって剛の「男としての輪郭」をじわじわと侵食していく。

かつて拳で語っていた自分が、いまは髪や肌に支配されている。


やがて、目の前に現れたのは、まるでルーヴルの秘扉のような扉だった。淡いアイボリーの木枠に、金箔で描かれた繊細な花のレリーフが浮かぶ。


その扉の上部には、優美な筆致で記されたフランス語の文字があった。


──Salon de Fleurサロン・ド・フルール── 花のサロン。


その柔らかな藤色の光を帯びた文字が扉に浮かび、まるでここが“女の子になる場所”だとそっと剛に告げているようだった。


「ここが、あなたが“完全に女の子になる”場所です」


案内役の女性職員の声は穏やかだったが、それだけに恐ろしいほど現実感があった。


「中では、専門のスタッフがあなたをお世話します。安心して、任せてくださいね」



カチャ 扉を開いた瞬間、剛の鼻腔を満たしたのは、ふわりと甘く柔らかな香り。花と石鹸が溶け合ったような、女の子の部屋そのものの匂いだった。


まるで舞台のように整えられた異様な空間。

壁一面に取り付けられた大きな鏡。煌々と光を浴びせる女優用のライト。

その中央には、一脚の背もたれの低い化粧椅子。


まるで、“女にされる役”を演じるための、逃げ場のない舞台装置のようだった。


周囲の棚には、整然と並べられたコスメセット。

色とりどりの口紅、アイシャドウ、チーク、香水、可愛らしい小さなピンクの化粧ポーチ。

どれもが、かつての自分には無縁のものばかりで、見るだけで、胸が締めつけられるようだった。


さらに部屋の奥にはラックに吊るされた各種の制服、下着、スカート、ワンピース、ランジェリー、ウェディングドレスまで、すべてが“女の子になるための衣装”として、……まるで軍服のように、きっちりと整列し、何百も並んでいた。


この部屋はまるで、剛の身体が“女として扱われる時”を静かに待ち続けていたかのようだった。


この空間には、“男に戻る余地”が一切なかった。

鏡に映る“女の姿”は、違和感と羞恥を抱えたまま、それでも確かに“整えられていた”。

自分の意思など、最初から存在しないかのように――。


自分の意志で選ぶのではない――選ばされる。

その“選ばされた姿”で、毎朝鏡の前に立たされる。


そしてそれが、じわじわと“本当の自分”にすり替えられていく。

それが、この部屋の役割だった。


室内には、すでに3人の女性職員が待機していた。

清潔感あるエプロン姿で

ひとりは静かに微笑む年配の女性。

もうひとりはからかうような眼差しを向ける若い女性。

そしてもうひとりは、細部の乱れにも容赦なく目を光らせる、無言の威圧感を持つ女性だった。


その奥、部屋の最深部には――ひときわ目を引く存在がいた。


金髪をきちんとまとめ、モノトーンの洗練されたスーツに身を包んだ、フランス人女性――クレア=ド=ラフィーユ。

その白い肌と彫刻のような骨格、静かに光る眼差しには、抗いがたい威圧と美しさが同居していた。


「Bonsoir, ma chérie……ふふ、もう“女の子になる覚悟”はできたかしら?……あら、ごめんなさい、日本語のほうがいいわね」


「こんにちは、“剛”くん……ふふ、まだそんな名前で呼ばれているのね?」


「でも、もう“あなた自身”の意思なんて、要らないの。わたくしが――可愛い女の子として、完璧に仕立ててあげる。」


「これから毎朝、髪を整え、メイクをして、制服を着て――そして“一日を始める”の。 それが、これからのあなたの“存在のかたち”になるのよ。」


「安心して。私が責任を持って、世界で一番愛らしい姿に仕立ててあげるわ」


その声は、丁寧な日本語でありながらどこかリズムが異なり、言葉がそのまま命令のように響いた。


彼女の名は、クレア=ド=ラフィーユ。パリで数々のコレクションを成功させた世界的ファッションデザイナー。


(この子……背丈はややあるけれど、輪郭と密度のバランスがいいわ。構造美がある。ええ、服が生きる身体……そうね、素材としては申し分ない。これはとても仕立てがいがあるわ)


女を、一着のドレスのように仕立てること――それこそが、彼女の信じる“美”だった。

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