第四章 美しき“更生”の儀 2(紅の刻印)
布が掛けられた鏡の前に、剛はただ硬直したまま座らされていた。
整えられた髪型はまだ見せられていない。自分がどんな姿に仕立てられたのか――その答えは、まだ白い布の向こうにある。しかし、肩にかかる髪はもう確かに「女」のものだった。しっとりとした質感が首筋を撫で、視界の隅にかかる前髪が鬱陶しくも、どこか異様に自分の皮膚に馴染んでいた。
(これは……俺の髪じゃない……)
手を伸ばせば触れることはできる。だが、その指先がこの異物に触れることを怖れた。もしも違和感なく触れてしまったら、自分の「男」という存在が、ふっと崩れてしまう気がしたから。
「──お待たせぇ♡ さ、いよいよお顔の仕上げ、入っちゃいましょっか♪ 剛ちゃん?」
その声は、甘さと艶をたっぷり含んでいた。
見るからに“華やか”なその姿は、施設の中でも異彩を放っていた。
長い爪にきらりと光るリング、艶のある髪は計算された巻き髪、瞳はアイラインとまつげの奥で微笑を湛えている。
城ヶ崎梨亜──元・芸能界のメイクアップアーティスト。
口調は艶やかで、どこか“深しおねー系”。視線と声に、男と女の境界が溶けていた。
だが、その派手な出で立ちにも関わらず、歩き方も手の動きも、すべてが磨かれたプロの所作だった。
「いや〜〜……ほんっと、あたしの勘、当たったわ。こういう“素材感ごと生まれ変わるタイプ”、たまんないのよね〜♡ 年に一回あるかないかの逸材よ、マジで。ほら、プロが本気出すわよ〜?」
ぱしっと手を打ちながら、梨亜はいたずらっぽくウィンクした。
「うんうん、そんなガチガチに緊張しないで? もうさ、あたしに全部預けちゃいなって。いい? あんたを“女の顔”にしてあげる。最高のギャップ仕立てよ、うちの得意分野なの♡」
周りにいるスタッフの明るく軽やかな声が、まるでアイドルのメイクアップを楽しむかのように響いた。だが剛の耳には、それは死刑宣告の鐘の音のように重く響いた。
「あらまぁ……お肌、意外とキレイじゃないの〜。ちょっと血色感足して、ナチュふわ仕上げでいこっか。あたしの黄金比ってやつ、見せてあげる♡」
「ん〜、まつ毛もイケてるわね? ……ちょいと目、閉じてくれるぅ?」
梨亜の声は軽く、まるで友人同士で化粧を楽しんでいるようなノリだったが、その手元の動きは驚くほど繊細でプロフェッショナルだった。
指示通りに剛は目を閉じた。瞬間、まぶたの裏に映ったのは、リングの上で激しく打ち合った自分自身の姿だった。
あの汗と血の匂い、激痛、拳の打撃音——それらが今は遠い記憶のように感じられる。
代わりに頬にブラシが優しく触れた。
粉がふわりと頬に舞い落ち、眉が細く繊細に描かれる。
アイラインが瞳を縁取り、その瞳は不思議なほど大きく、濡れたように輝いていた。
(どうして……こんなことを……)
「あーこれこれ、はい正解♡ この色、ぴったりハマる〜。チーク軽く入れるだけで、あら不思議、女っぽさ爆上がり♡」
「女っぽさ」——その言葉が何度も剛の心に刺さった。歯を食いしばりながら、その奥で何かが音もなく崩れていくのを感じた。
「さてさて、お口よ♡ リップはどうするぅ? 初心者っぽくいく? ……でもね、今日はちょっとツヤ足しましょ。ぷるっとした“愛されリップ”、ね♡」
梨亜はそう言いながら、迷いなく淡いローズピンクの口紅を手に取った。ほんのりと艶めくその色合いは、どこか少女のようなあどけなさを纏いながらも、確かに“女”の輪郭を形づくっていく力を持っていた。
剛は初めて見る“女の武器”の前に目をそらしたくなったが、梨亜が顎をそっと支えて、否応なく視線を向けさせた。
「ダメダメ〜♡ 逃げちゃダメ。ここ、大事なんだからぁ。口元って、その人の“キャラ”が出るの。艶をのせたら最後、世界はあんたを“女”としてしか見なくなるんだから」
優しいのに無慈悲な声に、剛は喉が詰まった。
(こんな匂い……俺には似合わない)
それでも声にはできず、顎は押さえられたまま、冷たく柔らかな口紅の先端が唇に触れた。
(……うそだろ)
冷たく、なめらかな感触が唇をなぞった瞬間——唇に一筆描かれるだけで、剛は自分の「顔」が塗り替えられていくのを肌で感じた。まるで薄い膜が皮膚の上だけでなく、存在そのものを覆い隠すようだった。
「はいはい、お利口さん♡ 鏡はまだナイショだけど……うん、仕上がりエグいわよ? 想像以上。可愛くなっちゃった♡」
その言葉に、心の奥底で何かが凍りついた。
“可愛い”──つまり、男らしさはもうここにはないという、静かな断罪だった。
口紅が塗り終わると、梨亜は唇の輪郭を爪の先でそっとなぞりながら言った。
「ふふ、あとで自分で塗る練習ね。これは“女の基本”よ? 忘れちゃダメよ〜。その唇、あんたの武器になるんだから」
からかうような声に、剛の喉が締めつけられた。
(自分で……?こんなものを、自分の手で?)
想像するだけで指先が震えた。あの柔らかい棒を握り、自分の唇に艶を与えるなんて。鏡の前で何度も練習しなければならないなんて。
そんな理不尽に怒りがわくはずだったが、それより先にやってきたのは、どうしようもない屈辱感と無力感だった。
(誰ももう……俺を男とは見ていない)
それは唇に塗られた薄い膜よりも重く、深く、心の奥底を覆い尽くした。
「つけま、いくわよ〜ん。びっくりしないでね? でもココ超えたら、もう“戻れない顔”になるから♡」
梨亜の手は慣れた動きで、まつげの根元に接着剤を塗り、長くふさふさしたつけまつげをそっと乗せた。
「パチパチってしてごらん? ……ね、ほら見て? あたし嘘ついたことある? 生まれたときから女の子みたいになってるでしょ?」
「目元って、本当に女の印象を変えるから。ここを超えたら、もう戻れないってくらいにね」
軽いはずなのに、その異物感はまぶたに激しい違和感をもたらし、目を開ける度に鋭く意識を刺激した。
「あーもぅ、やばいわ……目元キマると、ほんと仕上がるのよ。ここ超えたらマジで戻れないから、覚悟してね♡」
鏡を見なくてもわかる。彼女が確実にここに生まれつつある。
つけまつげが装着され、梨亜が一歩引いた瞬間、剛の周囲からかすかな声が漏れ始めた。
それは明確なセリフではなく、控えめなささやきだった。けれど、剛の耳にははっきり届いた。
「……可愛い。これ、マジで惚れる人いるでしょ」
「うわ……鏡まだ見てないんだよね? ぜったい、びっくりするよ……」
「うん……反則級……」
どこからともなく、くすくすと笑う声。
あからさまな悪意はなかった。むしろ、素直な称賛の色が混じっている。
だが、その“肯定”が剛には残酷だった。
なぜならそれは、「男としての剛」ではなく、「女の子としての仕上がり」への純粋な評価だったからだ。
(俺の……何を見て、笑ってるんだ……)
耳にこびりついた言葉と笑い声が、剛の背筋を冷たく這った。
剛の中にあった最後の防壁が、静かに、蕩けるように崩れていく。
逃げたいのに、逃げられない。
見せられるその瞬間が、なぜか身体の奥で震えていた。
鏡の前にいながら、自分をまだ知らされていない。
だが、この沈黙の時間さえ、ねっとりと甘く感じてしまう自分がいた。
——見たくない。
でも、どこかで「見てしまいたい」と願っている。
そこに映る“彼女”を、知らなければいけない気がした。
肩にかかる髪。
唇の艶。
頬の紅。
どれも“女”のものなのに、ひどく馴染んでいる。
この椅子を立てば逃げられるはずなのに、脚はまるで誰かに絡め取られているように動かなかった。
もう、戻れない。
見せられるためじゃない。
“見せる”ために、ここに座らされた。
——そう気づいたとき、
羞恥と共に、奇妙な高揚感が喉元を這い上がってきた。
まるで、鏡の中の“その子”に出会うことを、どこかで心が待っていたかのように。