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第四章 美しき“更生”の儀 1 (前髪の切断線)

最初に案内されたのは、美容室のようでいて、どこか異様な部屋だった。


殺風景な施設の一角にぽつんと設けられた白いブース。

無機質なコンクリートの冷たい床と壁に囲まれながらも、そこに据えられた三面鏡と化粧台だけが、まるで異世界の入り口のように静かに威圧感を放っていた。

白い布が掛けられたまま、まだその全貌を見せてはいないが、それは、“男であること”を剥がされ、“女として作り替えられる”儀式の間だった。そこに踏み込んだ瞬間から、もう後戻りはできない。


(ここで……何をされる?)


逃げたい衝動を押し殺した瞬間、背後から、まるで獲物を確かめるかのような冷ややかな女性スタッフの指先が、剛の髪に触れた――その中心にいたのが、大沼梨沙だった。


「わぁ……本当に触った通りね。すごく綺麗な髪……」


優しい声が響いた。

美容師である梨沙は、他のスタッフとは違って、どこか無垢な瞳で剛の髪に見入っていた。

“この素材、どんなふうに仕上げていこう?”

その瞳に浮かぶのは、ただのプロフェッショナルな集中と、まるで作品を慈しむかのような温かさだった。


「素材がいいから、絶対可愛くなるよ」


梨沙の口調には、“責める”でも“いじる”でもない、純粋な期待が滲んでいた。

それが逆に、剛の中の警戒心を鈍く、けれどじわじわと削る。


“可愛い”――それは男として褒められる言葉ではなかった。


彼女の目に映っているのは、“男”としての剛ではなかった。


剛の髪は、ただ「女の子として可愛く作り変えるための素材」として見られている。


確かに、賛美の言葉が並べられている。

けれど、どうしてか心は冷えていく。

その言葉のどこにも、“自分”に触れる響きはなかった。

評価されているはずなのに、そこにあったのは――ただ、作り変えられる“素材”としての価値だけだった。


だからこそ、その無邪気な賞賛のひとつひとつが、魂の奥底を静かに削っていく。

まるで丁寧な手つきで、じわじわと“自我”だけを削り取られていくような感覚だった。


だが――梨沙の声には、一片の悪意もなかった。

それが、かえって剛には、いちばん残酷だった。


「ほんと、髪質最高だよ。柔らかくてツヤもある。女の子なら絶対モテモテだね」


「っていうか、もうほとんど女の子の髪みたい。嫉妬しちゃうわ~」


周囲のスタッフが笑いながら冗談めかして囁く中、梨沙だけは一切笑わず、真剣なまなざしで剛の髪を指先で撫でていた。


(俺は……おもちゃじゃない……)


そう思うのに、梨沙の手つきには抗えなかった。

丁寧に、柔らかく、まるで“新しい自分”を大切に創り上げる芸術家のようだった。


やがて梨沙は染料のボトルを手に取ると、ふっと微笑んだ。


「じゃあ、はじめましょう。大丈夫、すっごく綺麗にするからね」


その口調に脅しはなく、まるで「楽しんで一緒に可愛くなろうね」とでも言いたげだった。

それが一層、剛の“男としての輪郭”を、内側から静かに締め上げていく。


心の中で反発したいのに、言葉は喉に詰まり、力は抜けていく。

指先が頭皮をなぞるたび、ひんやりとした染料の液体がじわじわと染み込み、冷たく鈍い痛みが瞬間的に走った。

染料が頭皮の隅々まで染み渡るたび、剛の神経は過敏に反応し、思わず肩が震えた。


「エクステ、つけていくね。長さはまだ調整するから、安心して」


梨沙の声は終始穏やかで、剛を脅すような気配は微塵もなかった。

けれどその穏やかさの奥には、「完成」に向かって微塵の迷いもない、どこか機械的な手つきのような“確信”があった。


エクステの毛先が剛の首筋をかすめるたび、ひんやりとした異物感が皮膚を掻き乱した。一本一本のエクステが、剛の髪に編み込まれていく。

肩に落ちる違和感。首筋にかかる重さ。

梨沙はそれに気づいているようでいないようで、ただ黙々と、嬉しそうに編み込んでいく。


自然に見せようと意図された細やかな動きの一つひとつが、かえって「男であること」を奪われていく屈辱を、身体に突きつけた。


それはすべて、“男”という痕跡を隠し、完全に「女」という仮面を被せるための装置だった。


「この色、どうかな? ちょっと透明感のある栗色。ふんわり女の子っぽくてね……私、この色大好きなの」


そう言って、まるで自分が作るものに心底惚れているように、梨沙は染料を塗っていった。


髪の一本一本が、まるで“自分の意思”を離れて動き始めたように感じられた。


肌に触れるその柔らかさが、自分の一部であるはずなのに、どこか“自分の身体じゃない”ように思えてしまう。

生まれてからずっと抱えてきた“男の身体”の手触りが、少しずつ他人のものになっていく感覚――


そう思った瞬間、剛の胸に、言葉にならない息苦しさが込み上げた。


(俺は……俺じゃなくなっていく……)


その感覚を、梨沙は「素敵に仕上げていく」という言葉で包み込む。

その優しさが、何よりも残酷だった。


———-


「じゃあ、ちょっと下向いてくれる? そうそう、もっと首すじ見せて。……うん、すごく素直だね、えらいえらい♪」


梨沙の声は明るく優しい。まるで子どもを褒めるような柔らかなトーンだった。

髪をすく指先も、ふわっとした風のようで、決して乱暴ではない。

けれどその優しさが、剛の中の何かをじわじわと崩していく。


「……ね、知ってた? うなじってすごく大事なの。後ろ姿だけで、“女の子”って思わせる力があるんだよ」


そう言いながら、梨沙はごく自然な手つきで、剛のうなじに触れた。

撫でるように、確かめるように、産毛の感触を指先で感じとっている。

剛の肩が、わずかに震えた。


「うーん、ちょっと産毛が残ってるね。……でも大丈夫、綺麗にしちゃうからね?」


その声に悪意はない。

あるのはただ、ひたむきな“仕上げ”への情熱だけ。

彼女にとって、剛のうなじもまた、“可愛さを引き出す部位”でしかない。


「動かないでね~。すぐ終わるから」


梨沙は軽く笑いながら、カミソリを手に取り、ためらいもなく肌へと滑らせていった。

冗談めかしたその口調と、ひやりとした金属の感触。

男としての痕跡が一筋ずつ、皮膚の上から消されていくような錯覚。


「うん、ラインすごく綺麗だよ。……このうなじ、絶対に映えるなあ。うしろで髪まとめたら、すっごく可愛くなるよ」


褒められているはずなのに、剛の胸には冷たいものが流れ落ちていた。

梨沙の言葉が、まるで“完成品”の品質を確認するようで。

自分の意思ではなく、“彼女の思い描く女の子像”へと寄せられていく現実を突きつけていた。


やがて、ハサミを持つ梨沙の指先が、顔の前へ伸びてくる。


「さて……最後は前髪ね。ぱっつんにしよっか。やっぱり、女の子らしさはここで決まるの♪」


「ちょっと目にかかるくらいにしようかな……うん、絶対かわいい」


ぱつん、と小気味よい音が響いた。

その音が、剛の中で別のもの――プライド、男としての輪郭、自己認識――そういったすべてを断ち切っていく。


(やめてくれ……俺の“顔”を、俺の“形”を、壊さないでくれ……)


そんな心の叫びをよそに、梨沙は夢中だった。

まるで一枚の絵に筆を加える画家のように、満足げに次の一線を切り落としていく。


ぱつん、ぱつん。


(……この音が、俺の輪郭を変えていく)


切りそろえられた前髪が、目元にふわりとかかる。

視界が淡く曇っていき、自分の世界が別のものに染められていくのがわかった。


「うん、できた♪ ……あ、でも鏡はまだね。最初に見るときの驚きって、大事だから♪」


梨沙は屈託なく笑っていた。

その笑顔には、純粋な達成感しか宿っていなかった。


“自分が作り上げた可愛い女の子”を、早く見せたい――

そんな無垢な歓びだけが、そこにあった。


“自分が手がけたものは、絶対に可愛い”と、心から信じている。


その信念に触れるたび、剛は心のどこかで反発することさえ許されなくなっていく。


(この人は……俺を壊してるんじゃない。ただ、可愛くしてるだけだ……)


だからこそ、逃げられない。戦う理由すら見つけられない。

その“だけ”が――剛には、何より苦しかった。


切りそろえられた前髪が、ふわりと目元を覆う。視界がじわじわと霞んでいく。それはまるで“男としての眼差し”を封じられるかのようだった。


髪が触れるたび、皮膚の奥で何かが揺さぶられ、髪の感触が、もう“自分のもの”ではないと告げてくる感じがした。


(こんな……こんな感覚、知らなかったのに……)


目の奥で、じんわりと熱が滲んでいた。けれど、それが涙かどうかも、もうわからなかった。


——後ろ姿、うなじ、前髪。


梨沙の手は、男の痕跡を一つずつ静かに剥がしていった。


剛はただ、自分を失っていった。


鏡の前に立っているのに、鏡を見ることを許されない。


(もし、そこに映る“何か”に、わずかでも頷いてしまったら――何かが、音もなく崩れてしまう気がした)


それは、自分という輪郭を保つための、ぎりぎりの猶予だった。


喉の奥に残った微かな熱は、まるで水底に沈んでいく光のように、音もなく消えていった。


その先に何があるのか――誰も、まだ教えてはくれなかった。

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