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第二章 契約の檻

記者会見の場には、鉛のように重たい空気が充満していた。壇上に立つ倫理委員会の代表が、会場を見渡し、静かに口を開いた。


「一条剛選手は、試合後の暴力行為により、現在、神谷颯斗選手側より民事訴訟が検討されています」


無数のシャッター音が空気を裂く。剛の表情は硬く、拳は膝の上で震えていた。


(颯斗……お前……)


法廷で争う相手が、リングで拳を交えた男であるという現実が、剛の胸を締めつけていた。


「ただし、本件については、被害者側――すなわち神谷颯斗選手側から“条件付きでの訴訟取り下げ”の意向が示されています」


会場がどよめいた。


「その条件とは、選手本人が指定された“再教育プログラム”を受講・修了すること。これを履行すれば、ライセンスの再取得、およびリング復帰の道も検討可能とする――との通達が、関係機関より正式に提出されています」


一瞬、会場がざわめいた。剛の胸にも、わずかに光が差し込む。


(戻れるのか……リングに……)


その希望を噛みしめるように、剛は目を閉じた。


後方に座る真田修造は、腕を組んだままじっと剛を見つめていた。


「……こんなかたちで、道が開かれるとはな……」


控室に戻った剛を、修造は沈黙のまま見つめていた。やがて、低く搾り出すように言った。


「お前があのプログラムに行けば、身体も心も……変えられてしまうかもしれん。男としての輪郭が、壊される可能性もある」


その言葉には、教え子を失うかもしれないという恐れと、再びリングで戦わせたいという願いとが、入り混じっていた。


「……あの再教育が、どんなものか。俺も噂だけは聞いてる。男を“従順に変える”装置だ……ってな」


剛は拳を握りしめたまま、目を閉じていたが、ゆっくりと顔を上げた。


「……行きます。リングに戻るためなら、どんなことでも……受け入れます」


修造の表情が歪んだ。その拳がわずかに震えていた。


「なら……お前が“お前”でいる限り、俺は信じる」


倫理委員会の職員が再び現れ、分厚い封筒と一枚の契約書を手に現れた。


「こちらが契約書になります。正式な移送は来週以降ですが、本日署名いただければ、初期適応プログラムに入ります。期間は原則一年。以上です」


「……初期適応?」


「詳しくは後日ご説明しますが、まずは体調と心理の安定を図るため、こちらの薬を今日から服用いただきます。暴力性の抑制と情動調整が目的です」


「なお、本プログラムの本体は“内面からの再構成”を主軸としております。暴力性の根源を心理・社会的に再定義するため、対象者には一年間にわたり“女性としての生活”を義務付ける内容となっております」


剛の眉がわずかに動いた。


「女性としての……生活?」


「服装、言葉遣い、身体的変容を含む適応訓練、日常行動・生活空間のすべてを、女性基準に合わせて再編していただきます。“演技”ではなく“内面からの順応”が目的です。抵抗的態度や拒絶は、プログラム違反と見なされます」


言葉のひとつひとつが、剛の胸にじわりと沈殿していく。拳を握りたい衝動が、ネジで締めつけられるように抑えられていった。


白いプラスチックのボトルが、無造作にテーブルの上へ置かれた。無地のラベル、英数字の羅列。中でピンクの錠剤が静かに音を立てて揺れた。


「……これ、何ですか」


そう尋ねた剛の声には、微かに震えがあった。


目の前に座るスーツ姿の女性職員は、涼しい顔で言った。


「精神を落ち着かせるためのお薬です。施設に移送されるまでの間、毎回食後に必ず飲んでください」


「……副作用とかは……」


「ありません。あなたの状態には、これが必要です」


それだけだった。

説明はなく、同意も求められなかった。


彼は、わずかに躊躇いながらも、そのピンク色の錠剤をひとつ口に含んだ。


わずかに甘い後味。

喉を通る感触だけが妙にくっきりと記憶に残った


だが、その契約書に添えられていたのは、それだけではなかった。


別紙――《違約事項》と記された文書には、明確にこう記されていた。


「本契約が、被処遇者本人の重大な過失、または本人の明確な意志によって履行不可能と判断された場合、

再教育プログラムは即時中断され、当該者は無期限に施設内に拘束されるものとする。

また、これに伴う一切の損害責任は、保証人に連帯して請求される。違約金は五千万を上限とし、民事責任に基づき請求されるものとする。」


つまり――契約破棄は、許されない。


途中で投げ出せば、外の世界には二度と戻れない。

そして、自分の保証人として名前が記された人物――真田修造が、人生を賭けてその責任を背負わされる。


書類の下部に印刷された保証人欄に、はっきりと力強い筆跡で「真田 修造」と書かれていた。


剛はそれを見た瞬間、喉の奥が締めつけられるように苦しくなった。

あの老人は、何も言わず、何のためらいもなくその欄に署名していた。


(逃げれば、会長が終わる……俺が、自分を守れば、あの人がすべてを失う)


罪悪感が、心を焼いた。

それでも――

剛は迷わず、ペンを取った。


そしてゆっくりと、震える手で名前を書いた。


《一条 剛》


名前のインクが、紙にゆっくりと染み込んでいく。

その瞬間、彼の「男」としての時間は、音もなく切り離された。


その様子を、取材席の最奥から神谷颯斗が静かに見ていた。


(ハッ……女になっちまえよ、バーカ!)


(これで終わりだよ、“野獣”。その拳、もう二度と握れねぇ)


わずかに口元を歪めて、肩をすくめる。スポットライトの当たらない薄闇の中で、神谷は小さく笑った。


その様子を、誰にも気づかれぬまま覗き見ていた女がいた。


控室の奥、わずかに開いたドアの隙間に立つひとりの影――水無瀬真希。


その目は細く、唇の端にはゆるやかな笑みが浮かんでいた。だが、それは慈しみでも憐れみでもない。“変化”を嗜む者だけが見せる、冷ややかで甘美な笑みだった。


(ふふっ……契約、おめでとう)


彼女はそっと足を組み直し、唇に指を添えて、官能的に笑った。


(精神を落ち着かせるためのお薬?あら、それ……ただの女性ホルモンじゃない)


真希だけが知っている。あの白いボトルの中に詰められているのは、テストステロンの働きを鈍らせる抗アンドロゲンと、エストロゲン――女の身体へと、内側から緩やかに変えていく薬。


(……それを、自分から飲み始めるのね?日本チャンピオンになり損ねた、あの野獣が)


服を脱がされるわけでも、命令されたわけでもない。

彼は自分の意思で、「その道」を選び、自ら最初の“鍵”を喉に流し込むのだ。


(なんて……美しい)


真希の身体の奥が、ぬるく疼いた。

獲物が檻に入る瞬間。その獣の眼差しが、まだ戦いを諦めていないからこそ──よりそそられる。


(あと一年。ほんの一年、女として生きれば……あなたはもう、“あなた”ではなくなる)


唇に、淫らな喜びが滲む。


(この私が、あんたを仕上げてあげる。甘く、柔らかく、反射神経の代わりに羞恥心を植え込んで……)


真希は、鏡の中の剛を見つめながら笑っていた。


(さあ、“ひなこ”――最初の一歩、おめでとう)

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