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第一章 転落の鐘が鳴る夜

「勝者、赤コーナー……神谷颯斗ッ!」


場内に響いたリングアナウンサーの声が、静かな波紋となって広がっていった。歓声は上がる――だが、どこか抑えられた、くぐもった熱。判定に対する戸惑いや苛立ちが混ざっていた。


青コーナーに立っていた一条剛は、濡れた髪を振り乱しながら、汗と血に濡れたロープに凭れかかる。額に垂れる、長めの前髪の隙間から鋭い眼光が光る。


160cmの小柄な身体に無駄のない筋肉を宿し、鋭く切れ込んだ顔立ち――濡れた前髪の隙間から覗く眼差しには、野生の残光が宿っていた。

“野獣ザ・ビースト”――それが、リングで呼ばれていた異名だった。


リング外では、儚げな美貌と中性的な整った輪郭で女性ファンから“プリンス”などと呼ばれることもあった。

一部のスポーツ誌では、“美しすぎるボクサー”とまで呼ばれたこともある。リングに上がれば、その華奢な体と美貌が時に話題となり、記事の見出しを飾ることもあった。


だが今、その美しさは怒りと汗に濡れて、すっかり陰を落としていた。


(……負け、かよ)


手応えはあった。神谷の華麗なフットワークに翻弄された前半。だが、要所でボディを抉り、クリンチで削り、最終ラウンドには渾身の右をクリーンヒットさせた。――倒れていなかったのは、あいつの運か、自分の力が足りなかったのか。


「……納得いかねぇ」


低く、濁った声が喉から漏れた。リングの上では冷静だった思考が、いまや熱を帯びて脳を焼いていく。何かが壊れそうだった。


 


◆ 


控室の裏通路。


スタッフが行き交う中、神谷颯斗が近づいてくる。試合後の儀礼として、無言で手を差し出してきた。

剛より一回りは大きく、骨太な体躯。剃り込んだような短髪に日焼けした肌、顎の無精髭が“いかにも”格闘家然とした風格を醸していた。

顔にはあざが残っているものの、その整った顔立ちは崩れていない。まるで、勝ちを当然と受け止めているような、無表情な眼。


剛はその手を一瞥し、眉をひそめた。


「……本気で、自分が勝ったと思ってんのかよ」


ピリ、と空気が緊張する。すぐそばにいたスタッフたちが足を止めた。


神谷は、表情ひとつ変えずに返す。


「ルールに従って戦ったまでだ。リングの上で言えばよかったな。終わってから吠えるのは、ダサいぞ」


「おまえのパンチ、軽かったな。――牙の抜けた“元・野獣”ってやつか?

師匠も同じだな。“昔はチャンプ”って肩書きに縋るだけの亡霊――お似合いだよ、おまえら。」


その瞬間、何かが剛の中でブチッと切れた。


「てめぇッ……!」


長髪を振り乱し、神谷の胸倉を掴む。押し返されながらも、体が先に動いた。――拳が宙を切り、かすかに神谷の頬をとらえた。


その瞬間。


「やめろッ! 剛!!」


真田修造の怒声が通路に響き渡る。だがすでに、騒動は始まっていた。


スマートフォンのレンズが、全てを見ていた。格闘家同士の確執というには、あまりに生々しい“暴力”。そしてそれは、リングの外――観客の感情が及ばぬ“世界”で、瞬く間に炎上を始める。


 


◆ 


SNS――深夜。


【一条剛、試合後に暴行!】

【判定不服で醜態――スポーツマンシップはどこへ?】

【“野獣”の末路】


瞬く間に、剛の名前は”負のアイコン”となって拡散された。切り取られた動画、恣意的な見出し、怒りと嘲笑。闘いの誇りも、勝者への敬意も、もう誰も語ろうとはしなかった。


 


◆ 


ジムのロッカー室。


剛は、濡れたタオルを顔に被せたまま、無言でベンチに座っていた。肩からはジャージが滑り落ち、額に垂れた髪が頬に貼りつく。呼吸が浅く、まだどこか試合の最中のような錯覚に囚われていた。


「……剛」


静かに扉を開けて入ってきたのは、真田修造だった。


「……ネットの騒ぎ、見たか」


「はい……クソみてぇな記事、腐るほど」


「明日、倫理委員会が会見を開く」


「……処分されるってことですか」


「まだ決まっちゃいねぇ。ただ――」


真田は、ポケットから煙草を取り出しかけ、無言でしまった。


「……お前が誠意ある態度を見せれば、“猶予処置”にするって話が、ある関係者から来てる」


「関係者?」


剛が顔を上げる。真田は、しばし口を噤んでから、わずかに首を振る。


「表に出てこねぇ連中だ。連盟の裏――いや、もっと上かもしれん。試合の判定も……何か、妙だった」


剛の脳裏に、判定の直後に交わされた視線が蘇る。リングサイドの関係者席。――不自然に静かだったスーツ姿の男たち。


(……なんだ、あれは)


「明日、会見だ。お前は“反省してる”ことにして、誓約書にサインすれば……少なくともライセンス剥奪は免れるかもしれねぇ」


「誓約書?」


「詳細はまだ分からん。けど、あいつらの動き……早すぎる。まるで、最初からこうなるって知ってたみてぇだ」


真田はふと息を吐き、剛の目をまっすぐに見た。


「……剛、おまえは俺の誇りだ。ここまでの道のり、全部見てきた。だから……こんな形で終わらせたくねぇんだ」


かすれた声だった。だがその言葉は、拳で育ててきた“息子”への情そのものだった。



視線を逸らすように、真田はロッカーの一角に目をやる。そこには、古びた木箱が置かれていた。中には、色褪せた一通の手紙。今も、あの日のまま――捨てられた赤ん坊と一緒にジムの前に置かれていたものだった。


『この子は、あなたに託します。どうか、この子を強く育ててください。どうかよろしくお願い致します。』


震える文字でそう書かれていた。差出人の名前も、詳細も何もなかった。ただ、その手紙と一緒に、まだへその緒のついた赤子が、カゴに寝かされていた。


“ボクシングジムの前なら、きっと強くしてくれる”――そんな安易な願いが込められていたのだろうか?。皮肉にも、赤子が握っていたのは、リングテープをちぎったような赤い紐だった。


「おまえの親が誰か、俺には分からねぇ。だがな……」

真田は拳を握り、わずかにうつむいた。


「俺にとっては、ずっとおまえが“息子”だったんだ。口にしたことはなかったが……ずっと、そう思ってた」


その声音には、懐かしさと哀れみ、そして悔しさが混ざっていた。拳では守れなかったものがある。けれど、拳でしか守れない誇りもあった。


真田の声がかすかに震えた。

だが経験と勘が告げるのは、これはただの試合ではない、もっと深い、底知れぬ闇の中の“戦い”だということだけだった。



「……俺、行きます。明日の会見……行きます、会長」


言葉に詰まりながらも、剛は静かに立ち上がった。


肩を落とし、ゆっくりと拳を握る。――拳でしか生きてこなかった自分にとって、それ以外の道を歩くことが、どれだけ恐ろしいことか。


それでも、真田の目があった。


父親のような眼差しが、言葉よりも深く剛の心を打った。


「……オレ、ちゃんと謝ります。……会長が、俺を強く育ててくれたから」


それだけを絞り出し、しばらくの沈黙のあと、剛はゆっくりと立ち上がった。


ロッカーに映る自分を一人見つめ直す。


濡れた髪、鋭い眼差し、そして震える拳。

かつて“野獣”と呼ばれた証すべてが――

今、誰かの意思よって静かに、だが確実に剥がされていこうとしていた。


彼はまだ知らなかった。


明日の会見が――


“野獣”と呼ばれた男の最期を告げる、最後のゴングになることを。


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