箱に入れたい伯爵さまと、箱から出てみた箱入りの妻
テーブルの上には、焼きたてのお菓子に温かい紅茶。
それから今朝生けたばかりのお花たち。
「本日はお招きいただき嬉しいわ」
「いつも素敵なテーブルコーディネートですこと」
「この焼き菓子も、とてもおいしいわ」
今日のお茶会にお招きしたのは、ルーカス伯爵夫人のハンナさまに、バーンズ伯爵夫人のメアリーさま、それからクーパー伯爵夫人のターシャさま。
私たちは月に何度か集まって、こうしてお茶会を開いている。
みなさま年が近く境遇も似ている、私の大切な友人たち。
その日はいつものように他愛ない話をしていると、ふとメアリーさまが私に仰った。
「……それにしても、ジェーンさまは本当に羨ましいわ」
「まあ、何がですの?」
「だってご主人――グレイ伯爵さまから、とても大切にされてらっしゃるじゃない」
「えっ、そうお思いになって……?」
メアリーさまのお言葉に、ハンナさまやターシャさまも同意なさる。
「本当にジェーンさまは恵まれてらっしゃいますわ。政略結婚とはいえ、あんな素敵な方と結ばれたんですもの。見目も整ってらっしゃるし、お若いのにお仕事もお出来になるし……」
「それでいて、よそに愛人もお作りになられていないのでしょう? 私のところなんて、出張だと言ってもう一週間以上も帰ってきておりませんの。きっと新しい愛人のところに行っているのよ」
たしかに伯爵さまは素敵な方だし、お仕事も順調だとお聞きしている。でもその分とてもお忙しいようで、帰ってくるのはいつも遅い。
毎日の会話といえば、朝の挨拶とお休みの挨拶くらい。
「あら、私のところもきっと今ごろ愛人の家ですわ。あの人ったら、今朝はやけに優しかったもの。君は今日も綺麗だね……とか言って」
「男の方って、埋め合わせをすれば良いと思ってらっしゃるのよね」
……綺麗だなんて、そんな風に言っていただいた経験が私にはない。
「わかりますわ。私も夫が出張から帰ったら、埋め合わせに王立庭園まで連れていっていただく約束をしておりますの」
「まあ素敵、ちょうど薔薇が見頃でしょうしね。私も頼んでみようかしら」
……伯爵さまと一緒にお出かけしたことも、嫁いでから一度もない。
「ああ……ごめんなさいね、愚痴ばかり言ってしまって」
「はしたなかったですわね」
黙ってしまった私に、みなさま気を遣ってくださる。
「愛人がいようがちゃんと私のところへ帰ってきてくださるのだから、それで満足しなくてはいけませんわね」
「そうね、たまにくださる愛情で我慢しませんと」
旦那さまからの愛情をちゃんと感じてらっしゃるのなんて、なんだかとても羨ましい。
「……私は、ちゃんと伯爵さまから愛されているのかしら……――」
私の呟きを聞くと、お三方は顔を見合わせた。
そして扇子で口元を隠しながらも、おかしそうに笑い合う。
「いやだわ、ジェーンさまったら」
「あんなに愛されてらっしゃるのに!」
「そうでしょうか……でも私、伯爵さまとお出かけなんてしたことございませんし……――」
私がそう言うと、ターシャさまが優しく慰めてくださる。
「ジェーンさまはまだ嫁がれて日が浅いですし、グレイ伯爵さまはお忙しい方ですものね……でもジェーンさまがお頼みになったら、きっとどこへでも連れていってくださるはずですわ」
「そうでしょうか……」
ターシャさまのお言葉に頷きながら、メアリーさまとハンナさまも口々に仰る。
「ええ! だってグレイ伯爵さまは、ジェーンさまをとても大切になさっているんだから」
「さっそく王立庭園にお誘いしてはいかが?」
「それが良いわ! ジェーンさまからお誘いしたら、さぞお喜びになられることでしょう」
王立庭園へは行ってみたいけれど、もしもお断りされたらと思うと勇気が出ない。
女性のほうからお誘いするのも、少しはしたないような気がしてしまう。
考え込む私をよそに、メアリーさまが仰る。
「いいわねえ、ハンナさまもジェーンさまも。ご主人と一緒に庭園鑑賞なんて」
「あら、じゃあ今度ご一緒しませんこと?」
「まあターシャさまと? 素敵、嬉しいわ!」
楽しそうにお約束をされるメアリーさまとターシャさま。
「メアリーさまとターシャさまお二人で? それなら私もぜひご一緒したいわ」
「駄目よ、ハンナさまはご主人と行かれるのでしょう?」
「そうよ、ルーカス伯爵と楽しんでらっしゃって」
ターシャさまはハンナさまに仰ると、私の方を見てほほえんだ。
「もしグレイ伯爵さまがお忙しいようだったら、ジェーンさまも一緒しませんこと?」
「そうしましょうよ。お断りされても私たちと行けば良いのだから、お誘いしやすいのではなくって?」
まあ、なんてお優しいみなさま。
「そうですわね……――私、頑張ってお誘いしてみますわ」
「――おかえりなさいませ」
「ああ……ただいま」
その晩、伯爵さまはいつもよりお帰りが早かった。
私はみなさまからいただいた言葉を思い出しながら、勇気を出して伯爵さまにお声かけする。
「あのっ……――」
「なんだ、何かあったのか?」
「いえ、あの……もしよろしければ、今度王立庭園までご一緒しませんこと?」
伯爵さまはコートを脱ぎかけていた動きを止めて、驚いた顔で私を見る。
やっぱりはしたないと、驚かれたのだろうか。
「王立庭園……? 一緒に……?」
「はい……――今日のお茶会でお聞きしたのですけれど、ちょうど薔薇が見頃なのですって」
「薔薇――……君は薔薇が見たいのか?」
「え、ええまあ……――」
伯爵さまは少し考え込んでらっしゃったが、改めてコートを脱いで仰った。
「……すまないが、しばらく仕事が忙しいんだ」
ああやっぱり……きっと断られてしまうとは思っていたけれど、やっぱり悲しくなってしまう。
けれど伯爵さまとご一緒できなくても、メアリーさまとターシャさまとご一緒できるのだ。
「お忙しいのですね、残念ですわ……――あの、でしたらメアリーさまとターシャさまとご一緒してもよろしくて? 今日、お誘いしていただいたのです」
「ご夫人たちと王立庭園へ? ……いや、それも許可できない」
「えっ……」
まさかそちらも否定されてしまうとは思わず、私は固まってしまう。
でもそうだ――結婚してからというもの、私はほとんど外へ出たことがない。それどころか、舞踏会や晩餐会にだって。
伯爵さまがお認めになるのはお茶会ばかり。
やっぱり私は愛されていないのでは……不安になって、もう一度伯爵さまにお願いをしてみる。
「あの、少しだけですから……! ほんの少し薔薇を見たら、すぐに帰ってまいりますわ」
「……駄目だ。その少しの間に、君に悪い虫がついたらどうするんだ」
伯爵さまは不機嫌そうに仰った。
「悪い虫……?」
「そうだ。綺麗な花には、悪い虫がたくさん寄ってくるものだ」
「……? 薔薇にはそんなに虫がつくものなのですか? お部屋によく飾りますけれど、虫なんて見たことありませんわ」
「………………それは、部屋で大事に飾っているからだ。一度外に出したら、どうなるかわからないだろう」
薔薇にそんなに虫がつくなんて、知らなかった。
伯爵さまは、私が虫を連れて屋敷に入らないか心配なさっているのだろう。
「では……虫が寄ってこないように、香水をたきしめて参りますわ」
「……駄目だ。虫どころか、狼に食べられてしまうかもしれない」
「狼…….?! 王立庭園には、狼が出るんですの?」
本物の狼は見たことが無いけれど、物語にはたくさん出てくる。鋭い牙と爪があって、人をぱくりと食べてしまうらしい。
「そんな…….でしたらメアリーさまとターシャさまにお伝えしないとっ……ハンナさまにも……!」
慌てる私を見て、伯爵さまはどこか決まりの悪そうな顔をなさる。
「――――とにかく、王立庭園は駄目だ!」
そして話はこれで終わりとばかりに、すたすたと部屋を出ていってしまった。
一人残された私は、だんだんと悲しい気持ちが膨らんでいく。
やっぱり伯爵さまは、私のことが嫌いなのでは……?
明くる日、伯爵さまは朝早くにお出かけになった。
朝のご挨拶はできたけれど、昨日のやりとりの気まずさがなんだか残ってしまっている。
「はあ……」
「あら奥さま、ため息なんて。ご主人さまが心配なさりますわ」
部屋の掃除に来たメイド長は何も知らずに、そんなことを言ってくる。
伯爵さまは私のことなんて、きっとどうでも構わないのに。
「新しいお花、こちらに生けておきますわね。そうそう……お聞きになられましたか? 花屋が言っていたのですけれど、今年は王立庭園の薔薇がたいそう見事なんだそうですよ」
「え、ええ……でも、王立庭園には人食い狼がでるのでしょう?」
私がそう言うと、メイド長はぽかんとして笑い出した。
「人食い狼? まさか! あそこは森から離れているし、のどかでそんなものは出ませんよ。近頃は薔薇を愛でているご婦人たち目当てに、王侯貴族がたくさん訪れているそうで――……」
メイド長はなにやら話しているけれど、それらは私の耳を通り過ぎていく。
狼なんて出ない? ということは、伯爵さまは私に嘘をついたの? そうまでして行かせてくれないなんて、そんなに私が嫌いなの……――。
メイド長が部屋から出ていくと、私はとある決心をした。
少しだけ、実家に下がらせていただこう。
伯爵さまは、よほど私のことが嫌なのだ。
「お前はだいぶ箱入り娘に育ててしまったから、伯爵に何か粗相がないか心配だ――」
お父さまの言葉を思い出す。
もしかしたら、私が嫌われるようなことを何かしでかしてしまったのかもしれない。
勝手なことをしてと怒られるだろうけれど、お父さまやお母さまに相談したい。
私はメイドたちに見つからないように、こっそりと屋敷を後にした。見つかってしまったら、きっと引き止められてしまう。
この屋敷から私の実家まではそう遠くはないはずだから、一人でだって馬で帰れるはず――そうだわ、途中で少しだけ王立庭園に寄っていこう。
人食い狼がいないのなら、一人でだって大丈夫。
――――と、思ったのだけれど。
地図に書いてあった方向はこちらで間違いないはずなのに、私はすっかり迷ってしまった。
従者もなく一人で外へ出るのは初めてで、迷子になったのも初めてのこと。こんな時、どうしたら良いのかわからない。
昼前に出たというのに、もう日が傾いている。
けれどそうして馬の手綱を引きながら迷っている私に、通りすがりの男性が声をかけてくださった。
「――失礼、お一人ですか? 従者も連れずに、こんなところでどうなさったのですか」
「あの、私……王立庭園に行きたいのですが、道に迷ってしまったのです」
「ああ王立庭園ですか、でしたらご案内いたしますよ。ちょうど僕も行くところでしたから」
男性は優しくそう言いながら、簡単に自己紹介してくださった。
聞き覚えのないお名前だったけれど、子爵さまということは伯爵さまのお知り合いかもしれない。私はとっさに適当な偽名と肩書きを名乗り、他愛のない話をしながら庭園へと向かった。
「さあ、こちらですよ」
「本当に助かりしたわ、どうもありがとう。では私はここで……――」
もうあまり時間もないことだから、薔薇だけ見て早く実家へ向かおう。
馬をつなぎ、庭園の門をくぐる。
「――まあまあ、そう仰らずに。あなたのようなお美しいご婦人が一人歩きなんて。従者を連れていないということは、何かわけがあるのですか? よろしければ僕がお供いたしますよ」
お別れをしようとしたけれど、子爵さまはいつの間にか近づいてきて、私の手を取る。
「えっ……いいえ、結構ですわ。ほんの少し見たら、すぐに帰りますもの」
手をほどこうにも、子爵さまはなかなか離してくださらない。
こんな時はどうしたら……――。
「――――ジェーン!」
悩んでいると、どこからか私を呼ぶ声が聞こえてきた。聞き覚えのある、懐かしい声……。
「……伯爵さま?」
馬のいななきとともに現れたのは、いつにも増してお疲れ顔の伯爵さま。
御髪もお召し物も、どこか乱れている。
「ジェーン……ここにいたのか……――」
伯爵さまは馬上から私たちのほうを見て、子爵さまに目を止める。
その目線は今まで以上に鋭くて、とても怒ってらっしゃるようだった。勝手なことをしてしまったのだから、当然なのだけれど。
子爵さまは伯爵さまを見ると、慌てて私の手を離す。
「まさかグレイ伯爵さま……?! ということは、この方はもしかして…….――し、失礼いたしました!」
子爵さまはそのまま、あっという間に私たちのそばから去っていった。
伯爵さまは馬上から降りると、低い声で私に問う。
「彼は――?」
「あの……私が道に迷っていたところを、助けてくださったのです。それに女一人では危ないからと、一緒に庭園を周ってくださると……」
伯爵さまを見て慌てて去っていくなんて、伯爵さまと仲のよろしくない方だったのだろうか。
伯爵さまは戸惑う私を見ながら、深いため息をついた。
「それで……君はなぜ一人で勝手に屋敷を出て、こんなところに?」
「……本当に、勝手なことをして申し訳ありません……――私、伯爵さまの気分を害すようなことを、嫌われるようなことを何かしてしまったのではないかと……ですのであの、一度実家に下がらせていただき、両親に相談しようかと思っていたのです。でもその前に少しだけ、庭園の薔薇を見てみたくて……――」
泣いては駄目だと思うのに、瞳が潤んでしまう。
ご迷惑ばかりかけて、伯爵さまも呆れられているに違いない。
「……私が君を、嫌っている……?」
「――……一緒にお出かけをしてくれたこともございませんし、そもそも一緒に時間を過ごしてくださることだって、ほとんどございませんわ。それに私、お聞きしたんです。この庭園に人食い狼なんてでないって」
頬を流れる涙とともに、今までこらえていたものが溢れ出てしまう。
「嘘をついてまで外へ出るのを許してくださらないなんて、やっぱり伯爵さまは私のことをっ……――」
はしたないと思うのに、涙も言葉を留められない。
まるで当たり散らす子供のようにってしまって、申し訳なくて伯爵さまのほうを見ることができない。
「…………――――すまなかった」
「えっ……?」
謝らなくてはならないのは私のほうなのに、なぜか伯爵さまが謝罪の言葉を口にする。
「君は、色々と誤解している」
「……誤解?」
「そうだ。だが誤解をさせてしまって、そんな風に思わせてしまって、すまなかった」
伯爵さまはもう一度謝りながら、そっと私を抱きしめた。
「私は……君を嫌ってなんかいない。仕事が忙しく、君と話す時間を取れなかったのは申し訳なかった。どうにか出張を避けたくて、このところ詰め込みすぎていた。長期の出張になってしまったら、君と毎日会うことができなくなってしまうから……それが嫌で……――」
「えっ……」
「…………それから王立庭園へ行くなと言ったのは、さっきのような輩と君を会わせたくなかったんだ。狼のように狡猾に君に手を出す輩が、外にはたくさんいるから……だからできるだけ私の目の届くところに、君を置いておきたかったんだ」
初めて聞く伯爵さまのお言葉に、私はとても驚いた。そんな風に思っていてくださったなんて。
「……私は自分の嫉妬心にかられて、君の気持ちをないがしろにしてしまっていたようだ……本当にすまない。仕事はもう少しで区切りがつきそうなんだ、だから区切りがついたらその――……一緒にどこかへ出かけようか」
「そんな……――よろしいんですの?」
「その代わり約束してくれ、もう一人でどこかへは行かないと。心配で仕事どころではなくなってしまう」
「……ご心配をおかけして、本当にごめんなさい。もうこんなこといたしません、お約束しますわ」
伯爵さまは私を嫌って嘘をついたのではなく、私のことを大切に思ってくださっていたからこそ、あんな風に仰ったのだ。
伯爵さまは抱きとめていた私の身体を離すと、そっと何かを差し出した。
それは深い紅の美しい、見事な薔薇の花束だった。
馬上でもずっと握りしめていたのだろうか、ところどころ萎れてリボンも崩れているけれど、それでもとても美しい。
「まあ、綺麗……――!」
「すまない、無意識にずっと握っていたようで……君がいなくなったと聞き慌てて探し回っていたものだから……こんなにぼろぼろになってしまった」
「いいえ、とても綺麗ですわ。この花束、私に……?」
「薔薇を見たいと、君が言っていたから……」
私はその薔薇の花束を受け取ると、思い切って伯爵さまをもう一度お誘いしてみる。
「私、薔薇が見たかったわけではなくて……伯爵さまとご一緒にお出かけしたかっただけなのです。ですからその……よろしければ少しだけ、庭園を見てから帰りませんこと?」
夕日に照らされ、伯爵さまのお顔はとても赤く見える。まるで、この薔薇の花束のように。
「そうだな……今日はもう仕事に戻るのはやめよう。少し見てから帰ろうか」
「――……嬉しい! こんな綺麗な花束をいただけて、ご一緒にお出かけもできるなんて……今日はとても幸せな日ですわ」
先ほどいただいた薔薇の花を愛でながら、自然と口元が緩んでしまう。
「……薔薇なんかよりも、君のほうがよっぽど綺麗だ」
「まあ……! そんな風に褒めていただいたのも、初めてですわ。本当に、今日はなんて素敵な日なのかしら」
「……――いつも、言っているつもりだったんだけどな」
「え?」
「…….いや、何でもない。これからはもう少し、はっきり気持ちを伝えることにするよ…….――君さえ良ければ……――今日の夜、部屋へ行っても?」
「ええ、もちろんですわ! 今晩はゆっくりお話しできますの? 私、伯爵さまとお話ししたかったことがたくさんありますの。あっ……――大変! 香水をたきしめてくるのを忘れてしまいました……どうしましょう、虫がたくさん寄ってきたら……――」
慌てる私を見て、なぜか伯爵さまは苦笑いをした。けれどもその苦笑いはやがて微笑みに変わり、そのまま優しく私をエスコートしてくださった。
私なんて、愛されているのだろう。