サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ
1
ずっと、お話を書くのが好きだった。
ずっと、映画が好きだった。
高校生の頃から、同じ映画部の友人、双葉ヒカリと一緒に映画撮影に勤しんでいた。
わたしが脚本を書き、ヒカリが監督を担当する。
ヒカリは人一倍活発な女の子で、撮影中はいつも皆を引っ張っていた。
彼女はよく、『絶対皆でプロになろう』とか、『皆となら傑作が撮れる』とか、そんな恥ずかしい台詞を恥ずかしげもなく言っていた。
……かくいうわたしも、内心では同じことを思っていたのだけれど。
完成した映画は『傑作』とは言い難かったが、妹やその友達はそれをとても気に入ってくれていたようで、わたしはとても嬉しかった。
わたしたち二人は大学進学後も映画を撮り続けた。
三回生になり、就職活動の時期が訪れるまでは。
大学三回生──就職活動の時期になり、映画の撮影は中断した。
「大丈夫。社会人になってからだって、映画撮影くらいできるよ。ちょっとずつ下積みしてさ、それでいつか、皆でプロ入りしようよ」
ヒカリはそんなことを言ってたが、実際そうはならなかった。社会に出てからのわたしたちの日々は容赦なく、すさまじい密度でのしかかってきた。
映画を撮る時間なんてとてもなかった。何度か集まるような機会はあったが、その度各々の顔色が悪くなっていくのが確認できて、あまり気分の良い会合ではなかった。
わたしとヒカリはとんだブラック企業に入社してしまい、互いにろくでもない日々を過ごしていたのだ。他のメンバーも、わたしたちほどではないにしろ、あまり楽しそうには見えなかった。
特に、ヒカリの顔色の悪さは格別だった。いつも元気でエネルギッシュで、わたしたちを引っ張っていってくれる彼女の姿は、もはやどこにもなかった。
ヒカリはよくわたしに電話をかけてきた。彼女の声は以前とは人が変わったように悲壮感を帯びていて、終始別人と会話してる気がしていた。
電話でヒカリがする話は徐々に上司や同期の悪口が主になっていって、いつしかその割合が十に達した。
わたしは段々、狂ったように同じことばかり話す彼女の相手をするのが面倒になってきた。
かかってきた電話を無視するようになると、彼女は留守電やチャットに呪詛のこもったメッセージを残すようになった。
それをわたしは……迷惑には感じなかった。
わたしは彼女を内心で嘲笑っていたのだ。
自分も相当酷い労働環境にいた自覚があった。毎日上司から怒鳴り散らされ、色んな人から蔑まれるなか、それでもわたしは、ヒカリのように泣くことも誰かに愚痴を言うこともなかった。だから自分は彼女よりは強いのだろうと思っていた。こんな程度で音をあげている彼女は情けないと、見下していた。
毎日ヒカリが残した呪いのメッセージを聞くことだけが唯一の楽しみでありストレス発散方法だった。
端的に言って、わたしの心は糞未満の汚物だったんだと思う。
そしてわたしたちの思考も、きっとどうかしてたのだろう。仕事が嫌なら辞めれば良かったのだ。
現状にいっぱいいっぱいで、視野が狭まっていた。
でもそれに気付いたときには全部手遅れで、ヒカリの命はこの世界のどこからも失われてしまっていた。
彼女が自殺する数日前に残したメッセージはこうだ。
『学生時代はたくさん映画撮ってたよね。この前久しぶりに映画借りてきてさ……まあ最後まで観る暇なかったんだけど……学生時代を思い出したんだ。やっぱりあの頃が一番楽しかったなぁ…………ねぇ、そういえばさあ、大学の頃撮ってたやつ、まだ途中だったよね? ……今度さ、続き撮ろうよ。他の皆も誘ってさぁ。また昔みたいに。……きっと楽しいよ。すごく。……無理かなぁ?』
今更なに言ってんだ、とわたしは思った。
『映画、撮りたいなぁ……こんなはずじゃなかったのになぁ……わたし、何なんだろ? …………何か、何者でもないような気がする……わたしには映画しかないのに…………みんな、わたしが映画を撮らないから認めてくれないのかな? 映画を撮れないわたしなんて……価値がないのかな?』
わたしはいつも通り、何も返事をしなかった。
どうせいつもの愚痴と同じだと思っていた。それが彼女の心の断末魔だとも知らずに。
糞ったれのゴミ屑野郎。
繰り返しになるが、わたしの心は糞未満の汚物なのだ。
2
ヒカリの葬式で彼女が死んだことを実感すると、悲しみよりも虚しさが先立った。
式の間じゅう、ヒカリの最後のメッセージについて考えていた。
式が終わるとわたしは、虚しさのなかに強引に希望を見いだしながら、思いきって学生時代の他の映画仲間に声をかけた。『大学時代に作りかけだったあの映画を、一緒に完成させないか』と。
「ばかじゃないの? 今さら。わたしだって暇じゃないのよ」
何人かに声をかけても同じような返答ばかりで、相手にもされなかった。心には虚しさだけが残った。わたしは胸に空いた空洞に追いたてられるように帰宅すると、いくつかの変装用の衣装と機材を用意し、さらには撮影場所もどうにか確保して、その日のうちに映画作りを一人で再開した。
一人で何役も演じ、ほぼ定点のカメラアングルで酷い出来の自主制作映画は完成した。
撮影が終わるとわたしは完成品を振り返ることなく、別の作品の脚本を書き始めた。かつての創作への楽しさはどこかに消えてしまったようだった。
わたしの中には呪いのように、ヒカリからの最後のメッセージが木霊していて、それに突き動かされていた。
ヒカリは何者かになりたくて、何者にもなれずに死んだ。わたしはそんな死に方したくなかった。
社会で否定され続ける日々の中、きっとわたしだって心の底ではずっと思っていた。誰かに認められたい──どうせなら、自分がやりたいことで。
わたしは親友の死で、自分が面白い映画を作りたかったことを思い出した。作る楽しさと好きな気持ちは忘れてしまっていたが、それでも良かった。
何としても、何者かになってやる。
わたしは仕事を辞めてから、次々に、自分の書いた脚本を色々なコンペに応募した。
その結果、わたしはどうにか脚本家になり、映像作品を作る人間の一員になっていた。
嬉しさは薄かった。デビューなんてただの通過点にすぎないと知っていた。
実際、その後も道は険しかった。評価は上がらず、ネットなどで自分の作品を調べてみても批判の嵐──
数をこなすことでどうにか飯にありつけているような現状だ。
仕事として脚本を定着させていくうちに、わたしは映画制作を楽しそうに行う妹を恨めしく思うようになった。
──わたしにとっては仕事なのに。
──子どもの遊びじゃないのよ?
わたしは妹と顔を会わせる度、彼女の創作に対する姿勢を非難し、バカにし、蔑むようになった。
創作とは違い、そちらは結構楽しかった。
3
──書けない。
脚本家になって数年が経過した。
このところ酷いスランプだった。
何を書いても叩かれる気しかしない。
書けない自分が嫌で仕方ない。
書けない自分に価値なんてない。
一日中自宅のパソコンの前に座っていても、ほとんど進まずに、締め切りだけが近付いてくる。
しかもこんなときに限って、妹たちの楽しそうに映画を撮る様子が脳裏に浮かんでくるのだ。
腹のなかでどす黒いものが滴っていき……それが許容範囲を越えると、わたしは無意識に立ち上がっていた。
それは、もう何年も前から続いていたことのように思う。
腹の底に溜まったどす黒いものは、世にも恐ろしい衝動を形作っていた。それがもたらす結果は、未来予知のように明確に頭のなかに浮かんでいる。
わたしは自分自身に怯えつつも、衝動に突き動かされる。
疲労とストレスの前に、人間の理性はあまりに脆弱だった。
雨降りしきる夜闇の中、レインコートを着込んだわたしは自前のバイクに跨がり、実家へと向かう──三十分ほどで到着した。
今日は確か、両親が共に不在なはず。そう思って玄関に入ると、見知らぬ靴が二足並んでいることから、来客があるのが察せられて、少し意表を突かれた。
すぐにピンときた。きっと現映画部の連中だろう。忌々しい。
全員が祖父のシアタールームで寝ていることを確認すると、わたしは妹の部屋に向かった。
彼女のノートパソコンを起動する。パスワードは自分の誕生日──相変わらず迂闊だ。
案の定、撮影中の映画のデータが入っていた。
再生する──楽しそうな連中の姿が映っている。
わたしはノートPCを両手で高々と掲げ、全力で床へと振り下ろした。
嫌な感触が手に走り、PCはただのひしゃげた板になった。
脳を刺激的な痺れが突き抜け、身体が蠱惑的に震えた。
わたしの手は勝手に動く。PCに続いて、撮影に使用されたとおぼしきカメラも床に叩きつける。不吉なほどの轟音が拡散する。
最後に、バックアップがされている危険性があるので、付近のUSBメモリも一通り、ひしゃげたノートPCで叩いて破壊した。
──やはり、わたしの心は糞以下の汚物だったのだ。
一連の作業を終えたわたしは胸に心地の良いカタルシスと罪悪感の混じりを感じながら、妹の部屋を後にした。
機材と共に、自身の中の大切なものまで破壊したらしいわたしの身体は、異常なほど軽やかだった。
その空虚さを快楽と錯覚した愚かなるわたしが、自分の失ったものの仔細に気付くのは、まだもう少し先の話だ。
そしてそれに気付いた時、この下らない命は終わることになる。
サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ……。