80.カナン大平原を越えよう(7)
ヤス君はしばらく袖で涙を拭い続けたが「すいません、ちょっと外します」と涙声で言って部屋から出て行った。デネブさんが慌てて追い掛けようとしたが、俺が止めた。そっとしておきたかった。誰にもヤス君の邪魔はさせたくなかった。
俺とヤス君では、心への負担が違う。俺の場合は、コーキを救う為にできたことは何一つなかった。気休め程度でもそれができたのは、コーキ自身ではなく、その家族に向けてだけ。そして明確に死を知らされることもなかった。いなくなったコーキを、おそらく生きてはいないと諦める時間も十分にあった。
だがヤス君の場合は、山に行くというサーヤを止めることができた。そんなことは未来予知でもできない限りは無理だが、それでも、あのとき止めていれば、という思いは出てくる。
それに俺とは違い成人していた。だから直接携わることができてしまった。周囲を頼ったが無碍にされ、自分だけが借金を負い、民間捜索隊に動いてもらった挙げ句に、返ってきたのは死に疑いを差し挟めもしない、破れて血濡れた遺品だけという結末に、ヤス君はどれだけ苛まれただろう。
そしてまだその記憶は新しい。感情とも切り離されてはいないだろう。
俺のは、もう随分と遠い。コーキがいなくなった直後の寂しさは既に風化し、また違う寂しさに書き換えられているように思う。
今となっては比べようもないが、おそらく当時感じていたものよりも心の波は酷く弱い。それに混ざりものが多くなりすぎて、もはやコーキ自身に対しての思いより、そこに付随した様々な情動の残滓で濁りきっている。
そして、それらもまた時の流れという優しくも残酷な力によって、既に記憶からは離れてしまった。
当時の感情などどこにもない。思い出したところで、生まれてくるのは新しい感情で、それは形を変えた記憶とは上手く結びつかない儚いものでしかない。
今の俺は、澱みきった記憶の海底の、細分化された思いの砂を、どうにかすくい上げるだけで精一杯。無理やり胸に淡い感傷をもたらしているだけなのだ。
ヤス君とは、悲しみの深さが違う。憎しみの強さも。そして喜びの大きさも。今頃、ヤス君の胸には感情が津波のように押し寄せているに違いない。身を浸せるほどの位置にある、鮮明な記憶。その純度を、俺は少し羨ましく思った。
「サーヤ・シンドゥーか。ヤスヒトの友人も、生きてたんだな」
「そうみたいだね。俺たち全員、知り合いがこっちに来てたことになるね」
「ユーゴのときもそうだったけど、素直に喜んでいいのか分からなくて困るよ。生きてたのに会えないなんてさ、そんなの結局、同じじゃないか」
フィルが不貞腐れたような顔で言う。神を呪っているのかもしれない。
「でも生きた証は残るよね。俺の場合は、エドワードさん。あの人がコーキの子孫だし、他にも七人はいる。それにクリス王国もだ。俺たちが暮らすこの環境も、ユオ族だってそうだよ。皆、コーキが生きた証だ。あいつが何を望んで予言を遺したかは分からないけど、それもきっと何かに繋がると思うんだ」
「あのー」
アープがこちらを窺うように小さく挙手する。
「英雄様たちはー、こちらに何をされに来られたのでしょうかー?」
「あ! そうだよユーゴ! 風の属性を授けてもらいに来たんでしょ!」
「それでしたらー、こちらにー」
アープが部屋の隅に置いてある、呪符の貼られた木箱を開ける。中から祠が現れる。光の祠、闇の祠と同じ形状。全属性、形は同じのようだと覚る。
「何で木箱に?」
「封印してあるんですー」
その理由はさておき、俺は祠に近づき魔力を流す。
すると耳の奥で笑い混じりの楽しげな子供の声が響いた。
「汝、その身の土を消し、風と共に歩むか」
「はい」
祠の扉が開き、緑色の光球が現れ、すぐに扉が閉じた。
「はー、いつ見ても無駄がないですー」
「そう言われてみれば確かに。無意味に長い演出があるより良いよね」
「ほほー、英雄様も無駄がお嫌いですかー。話が分かりますねー」
君の動きは無駄が多いけどね。と言いそうになるのをぐっと堪えて別の質問をしようとしたのだが、俺が訊こうと思っていたことをサクちゃんが先に訊いた。
「話の腰を折って悪いが、何故、祠を持ち運んでいるんだ?」
「他の祠と違ってー、風の精霊様の祠はー、土地に根づかないのですー。外に置いといたらー、誰でも盗めちゃいますしー、放っといてもー、別のところに移動しちゃうんでー、どこにいったか分からなくなるんですー。それでは困っちゃうのでー、アチシたちがー、こうして管理と守護する役目を担っているのですー」
「そりゃまた自由奔放な祠だね。だから封印してるのか」
「祠も色々あるんだね。それでユーゴ、どうするの? 目的は達成したけど?」
俺は腕組みする。どうしたものか。
「んー、確かにもうここにいる理由はないけど、予言について教えられてるからね。その血の憎悪とかいうものについて詳しく聞いておいた方が良いかなと思う。予言の通りだとしたら、既にその影響が及んでいるってことなんでしょう?」
アープの表情が曇った。そして答えを拒否するかのように口を噤んでやや俯き、だんまりを決め込んでしまった。あまりの変化に驚き、俺たちが顔を見合わせて小首を傾げていると、デネブさんが頭を下げて口を開いた。
「申し訳ありません。俺たちは、英雄様が来られるまで、それが予言にある血の憎悪だとは思いたくなかったものですから。族長の非礼、お許しください」
「いや、言いたくないなら無理に訊くつもりもないですし」
「いえ、訊かれずともこちらから話すつもりでおりました。血の憎悪について話すにあたって、まずはワブ族についてを知ってもらわねばなりません」
デネブさんは険しい表情で、ワブ族について話し始めた。




