2.自然の中にある不自然
「は?」
間の抜けた声だとは思わなかった。実際はそうであっても、そんなことを考える余裕もなかった。ただ自然と両手を見つめていた。いや、下を向いていた。
水面。揺らめく波。おそらくは海。
立ち上がった途端に重みを感じ、髪と服が水を含んでいるのだと気づく。
一瞬のうちに全身が濡れていた。
顔にぺったりと貼り付いた髪を指で除けながら辺りを見回す。
澄み渡る青空、燦然と輝く太陽、どこまでも広がる水平線。逆方向には砂浜。その先には森と思しき密集した木々。
そして――。
「うっぷ、何、何これ! 何⁉」
人がいた。見た感じ若い男だ。俺から少し離れた場所で、波を避けるようにして跳ねている。声の大きさから必死さが伝わってくる。
おーい、と手を振って声を掛けてみる。するとこちらに気づいたようで、手を振り返してきた。男はすぐに砂浜の方に片手を向ける。
「取り敢えず上がりませんかー⁉ 俺、泳げないんすよー!」
「あ、ああー、分かったー!」
足元に部屋のフローリングはない。腹と胸の間くらいにある水面の向こうに見えるのは砂。砂地。足の裏も、足指の股も、触れているところのすべてが、その感触を砂だと教えてくれている。
砂。そう砂だ。もう部屋はない。
熱帯魚のような小さな魚が数匹、足の側を泳いでいる。ジャージに興味があるのか、鱗をチラチラと煌めかせながらつついてくる。
魚も泳いでいる。だからもう部屋なんかない。ないが、一応確認の為に潜る。
やっぱりなかった。
視界は水中特有のぼやけで見通しが悪く、浮力や圧力を感じる。
当然といえば当然だが、呼吸もできそうにない。
多分、いや、ほぼ間違いなく駄目だろうなと思いつつも口を開けてみる。
案の定、勢いよく海水が流れ込んできた。
だよな! だと思った!
あっという間に口の中が海水で満たされ、鼻にまで入り込んでくる。
「ごばあっ! がはっ、しょっぱ!」
たまらず顔を上げ、噎せるように海水を吐き出す。口をついて出るほどの塩辛さに呻きつつ、ペッペッと何度も唾を飛ばす。
「大丈夫っすかー⁉」
男が若干近づいていた。
あれ?
男の顔に見覚えがあった。
「カタセ君、か?」
俺は小声で呟いた。自分に確認するように。
ああ、間違いない。同じマンスリーマンションに住む、隣人のカタセ君だ。ゴミ出しなどで顔を合わせることがあり、挨拶がてら世間話をしたこともあった。
カタセ君は既に砂浜に向かっている。だが、先ほどはこちらに向かっていた。俺が溺れたと勘違いして助けようと距離を詰めていたのだと思う。
泳げないと言いながら、そういうことをする。酔っ払いに絡まれている女性を、間に入って逃している姿を見たこともある。
あのときは、カタセ君が突き飛ばされて転んだところで声を掛けたんだった。
「ちょっと遅くないっすか」
「あんなことするくらいだから、強いのかと思うじゃない」
お互い苦笑しながらそんな会話をしたことを思い出す。
気のいい若者だよ、本当に。
カタセ君を追うように、そう遠くない砂浜に向かって大股で歩く。ザブザブと海水が掻き分けられていく。かなり重い。
海水もそうだが、ズボンが重い。薄手のジャージでもこんなに重くなるものなのか。などと思いながら無事砂浜に辿り着く。
膝に手を当て、すっかりと上がってしまった息を整える。
「あー、マジでビビったっすわー。ほんっと、訳分かんねー」
という言葉を皮切りに、カタセ君がここに来た経緯を話し始めた。
カタセ君はパソコンでオンラインゲームをしていて、一区切りついたのでトイレに行こうと立ち上がったら海にいたという。
うわぁ、俺より気の毒。
ところでトイレは小さい方だったのだろうか?
だとしたら海にいる間に済ませたのだろうか?
ふとそんなことが気になったが忘れることにした。訊いても誰も得をしない。
おそらく海水を飲んだのだろう。カタセ君が煩わしそうにペッペッと何度も唾を飛ばしている。気持ちが分かる。さっき俺もやった。
「水面は見なかったの?」
ここに来た経緯について話したくらいだから、もう俺に気づいているのだと思い、いつもの調子で話したのだが、何故か酷く怪訝な顔をされた。
「水面? いや、ちょっと分かんないです。まぁ、それはいいとして、あの、もしかしてカガミさんの息子さんっすか?」
「ん? いや何言ってんの? 俺はカガミだよ。君の部屋の隣に住んでる」
「は? いやいやいやいや、絶対違いますって! 確かに似てはいますけど、こんなに若くなかったっすもん! どう見ても俺と同い年くらいっすよ!」
「カタセ君は確か今年で二十二だっけ。大学卒業の歳だね」
「いや随分前に中退してますけど……。ん? 何だあれ?」
カタセ君が何かに気づいたような素振りを見せた。
片手で庇を作り、目を細めて海を見ている。
俺もカタセ君に倣って海を見る。海中に巨大な影があることに気づく。
多分、さっき俺がいたところと、カタセ君がいたところの中間くらいの位置。
さっきまでは、あんなものはなかったよな?
ただ単に、俺が距離を見誤っているだけかもしれないが。
例えばもっと後ろだったとか。
じゃあ、背後にあんなのがいたってこと?
「何かいるね」
「何ですかね?」
黒い影が徐々に肥大化していく。嫌な予感がして、注視したまま後退る。と、唐突に、盛大な水音と水飛沫。影とはまったく違うところから巨大なアンコウのような化け物が飛び出し、大口を開いて襲い掛かってきた。
え、何これ? 俺死ぬ?
「【障壁】!」
不意に背後で声がし、化け物は壁にぶち当たったようにして跳ね返る。
その横っ面を、完全に棒立ちになっていた俺たちを飛び越え、颯爽と現れた着流しの男が煙管でぶん殴った。
凄まじく軽快な破裂音を発して、化け物の顔面が弾けて半壊する。
海に向かって血肉の欠片が飛び散り、辺りに血生臭さが漂う。
男はしれっと赤く染まった海からこちらへと向き直る。その間に化け物の姿は影も形もなくなっていた。
獣耳? 尻尾?
狐のコスプレか?
いや、アンコウ吹っ飛んだよな⁉
「さて、説明は後でするから、暴れんといてな」
返り血の一つも浴びた様子のないその和風獣人コスプレ青年は、問答無用で俺とカタセ君を小脇に抱えて跳んだ。
視界が高くなり、海が遠ざかっていく。波打ち際に巫女服のような和装の女の子が二人歩いていく。その子たちにも獣耳と尻尾がある。
そんな光景を見ながら、俺とカタセ君は絶叫する。それから数秒で視界が低くなり、小さな砂の音と衝撃を感じた。
それが青年の着地によってもたらされたものだと覚るとほぼ同時に、俺たちはゴミを捨てるように、砂浜に放り落とされた。