19話 王都に入るならば
やっと王都に入ります。
翌朝、馬車で寝泊まりした商人のポルテーロさんが起き出してきた。
「おはようございます。リーフォンさんも早くエストレモさんに会いたいでしょう。クルゼナントに急ぎましょう」
「あ、ああ、はい。そうですね」
エストレモさんとは僕の古い知り合いと言うことになっているパン屋だ。
昨晩リレイアはポルテーロさん一向の意識と記憶を覗いた。
そして、王都に潜入するためのネタとして使えそうなものが、昔立ち寄ったことのあるパン屋の記憶だった。
リレイアは記憶の改竄を行い、僕がそのパン屋と知り合いであるという嘘の記憶をねじ込んだのだ。
ポルテーロさんにとって僕は、パストレモ老夫妻のパン屋に久しぶりに訪ねるのを楽しみにしている、と。
すなわちこの朝の挨拶はリレイアの仕込みがうまく行っている証拠なのだが、こうまでうまく行くと返って心配にはなる。
計画を聞いたのは昨夜。
ポルテーロさんとは別のテントの中である。
リレイアはその記憶の改竄の手筈を僕に説明した。
すでにクリスクロスは知っていたらしいので、知らなかったのは僕だけだったのだ。
まず、僕ケータ・リーフォンはクルゼナントに知り合いがいて今日訪ねていくことする。
ポルテーロさん一行の記憶は、僕が王都に『初めてきた』から『久しぶりにきた』に改竄する。
僕の訪ねていくのは、カール・エストレモ、ノーラ・エストレモという老夫婦が営む小さいパン屋だ。
この店は、ポルテーロさんが前回クルゼナントに滞在した時の記憶にあったもので、それを利用させてもらう。
だが、問題があった。
昨夜のテント内での話に戻る。
「クルゼナントに短期滞在するか、拠点としてある程度長い期間を過ごすか考えていたんですけれど」
「うん。最初はあちこち見てから本拠地を決めるって言ってたもんなあ」
そうなのだ。
リレイアはこのランゾルテという星全体を把握するつもりでいたのだ。
しかし、それはいくらなんでも舐めすぎだった。
どんなにたくさんナノマシンをばら撒いてもそのデータを収集するのに時間がかかるし、調べている最中に世の中はどんどん変わっていく。
とても定量的に星一つ分の情報などまとめられるはずがなかった。
「いえ、やろうと思えばこれくらいの規模の星ならできるつもりでいましたわ」
「そうなの?」
「イレギュラーなものがあったんですの」
「……わかった。魔法だな」
「ええ、ちょっと誤算でしたわ」
まあ、リレイアも知らない異世界相手では勝手が違うらしい。
「この首都クルゼナントで少なくとも半年、場合によっては数年は過ごした方が良いと思いますわ」
「そうだなあ、おいらもそう思うぜ」
リレイアの提案にクリスクロスも賛同する。
「なんでさ?」
「そりゃあ、このランゾルテは広すぎるし、ケータが慣れる時間を長く取れた方がいいからさ」
「うーん、僕の魔法習熟度によるって訳か。なるほどね」
クリスクロスの言うことは最もだ。
「でも、それだけではありませんわね」
「お前……余計な事を……」
「このランゾルテの各国、そしてそこに住まう人族、亜人族、魔物、魔獣などを考えるとすぐに動き回るのは危険と判断いたしますの」
「具体的には?」
「言うなよ! こいつにはまだ早い!」
「……わかりましたわ」
リレイアが言いかけるが、クリスクロスが止める。何があるのか。
いや、どうせ碌なことではないだろう。
「わかった。聞かないことにする」
「……いいんですの?」
「リレイアが話さない方が良いと言うならそうなのだろう。それより王都に入る算段を教えてくれ」
「はい!」
クルゼナントに入るには問題がいくつかある。
まず、クルゼナントでは初めて滞在するものには税がかかる。
額は大したことはないが、僕らには手持ちがない。
この国の通貨を持っていないのだ。
猛獣・魔物を倒したので解体した物資を売れば金は手に入るが、入都時の税は物納ができないそうだ。
では、その金額をポルテーロさんに借りるのはどうか?
それもダメだ。
何のツテもなく初滞在する場合に発行される滞在票は、期間が3日以内と短く働くことも許されていない。
かつてこの街に住んでいたか、またはこの街に滞在した経験がありかつ知り合いがいることが必要なのだ。
この条件が満たされれば、滞在期間は2週間に延長され、税の支払いも不要だ。
王都の中で特定の仕事を見つければ、定住権が与えられるので家やアパートを借りてその後は街の出入りも自由となる。
特定の仕事とは何か。
分かりやすいのは、冒険者か商人。これはギルドに所属したところでその条件を満たす。
傭兵はこの国では募集していない。武術で身を立てたいなら冒険者になるしかない。この国のお抱えとなりたいのなら、実績を積み王宮に近い仕事をこなして士官されるのを待つのである。
次に医者。これがよくわからない。この国の医者の弟子などはすんなり許可が降りる。推薦状をもらうのである。医学校は専門のものはなく、王都の大学の一部の学部で関連の講義をとることは可能だ。しかし、それだけでは医者として認められるわけではなので、結局はこれも人伝ての推薦状頼みになる。ただ、そういった推薦状を使わずに医者として市民権を得ているものもいる。それは他国の医学的に権威のある大学からきた場合で、これは王宮に申請すれば2、3日で市民権と医者としての営業許可が降りるそうだ。
もちろん、王宮に医者の腕を押し測れる者が常駐などしていないから、名医なのかどうかなどわかりようもない。2、3日で調べられるのは上部の背後関係に悪いものがないかだけである。
最後に聖職者であるがこれは国で定めた宗教が3種ほどあり、その教会にて一定以上の地位があれば永住権を保証する。逆に言うと一定以下には永住権はないはずなのであるが、教会で仕事をし続けている限り滞在が許されるため、実質制度上の永住権は不要になっている。
まあ、他にも職人や農夫といったものもあるにはあるのだが、それで永住権を得るにはとっかかりがなさすぎる。
「話はわかった。とりあえず2週間の滞在証をもらってその間に何か特定の仕事を探すんだね。んで、それは良いけど、どうしてその滞在証をもらうのに昔ポルテーロさんが気に入ってたパン屋を使うんだ?」
「この老夫妻エストレモが営むパン屋は数年前まで営業していたのですが、今は病気で店を閉めていますの。このパン屋の知り合いでこの街に来たことがある、と言うことにします。街の滞在記録もすでに書き換えてありますわ。ケータはこのクルゼナントの記録において公的にこの街に久しぶりに来たことになっています」
リレイアはいち早く王都クルゼナントにナノマシンを送り込み、滞在するための工作を進めていたらしい。
「そんな計画をいつから進めてたのさ」
「王都に入る算段については、ケータの魔法修行中から考えてましたわ」
「そんな前から……でも、パン屋を利用するつもりじゃなかったんだろ?」
「それはそうですわ」
パン屋の記憶は元々ポルテーロさんがクルゼナントに来た時のものだ。
「と言うことは、ポルテーロさんにあった時にパン屋を使うことにしたのかー」
「はい。もうその時には、ナノマシンを王都に飛ばしてましたし、クリスクロスにも作業をお願いしていましたの」
「あーあー、手際がよろしいことで。本当に僕だけ知らなかったんだ」
僕はちょっと拗ねた。
「まあ、いいや。でも潰れたパン屋なんだろ? 何でわざわざ?」
「それは好都合だからですよ。このパン屋はここ数年閉められていて外出もままならないこの老夫婦のことも含め、周りの人々のこの店に関する記憶が曖昧になっています。ごく近所の住人でも病気の老夫婦という認識しかありませんので、記憶の改竄対象とすべき人間を絞り込めます。それに最後に数日間でもまたパンが焼けるんですから、そのエストレモ夫妻も幸せでしょう」
そこで僕はリレイアに頼みごとをすることにした。
「えーと、リレイア。一つ頼みがあるんだけど……そのパン屋、僕らが滞在する間だけしかパンを焼けないんだよな」
「そうですね。この老夫婦は体調を崩してますから、その期間だけ強制的に働けるようにします」
「そこなんだけどさ……ずっと、パンを焼く生活を続けられるようにしてあげられないかな」
僕は頬を掻いてリレイアの返事を待った。
「……仕方ありませんわね。ちょっと計画変更になりますけど……でも、ケータらしいですわ。後々辻褄合わせで大変に成りますから、ケータにも手伝ってもらいますわ」
「わかったよ。ありがとな」
「いえ、お礼を言われることなどしてませんわ。それより既に王都を調査した内容をお話ししますわ」
それから、リレイアはこの話はもうたくさんとばかりに話題を変えた。
照れていたのかも知れない。
ナノマシンを使って調べていた王都の話から。
まず、敵となりそうな有力な魔法使いや転生者について。
一番恐れていた問題となるような21世紀からの転生者は表立っては見つからなかったらしい。
ただし、王宮の内部、街や市民の住居、王宮など全てを片っ端から調べるつもりだったらしいが、流石王都といったところで上級魔法師はそれなりにいるとのこと。
魔法によってこちらが察知されてしまう危険性をどうしても排除しきれず、調査自体はある程度で断念した。
そこで、上層部に関わらず、しかも限定的に一部の市民の記憶だけを改竄することで街の中に潜り込むことができれば、その危険性も小さくなると考えた、と。
「それで、パン屋さんの話に戻ってくるのか」
「そうですわ。下町の、それも誰の記憶からも薄れかけている廃業したパン屋は都合が良かったんですの。でも今回、その店を選んだのはそれだけでなく……」
「それだけでなく?」
「ポステーロさんの記憶では、そのパン屋さんとても美味しいそうですよ!」
リレイアはニヤッと笑ってそう言った。
◇
話はケータが商人ポルテーロに出会った日の夕方に遡る。
王都クルゼナント。
比較的貧富の差が少ない都市ではあるが、それでも貴族街、平民の住む住宅地、スラム街と住んでいるところにより、暮らし向きには大きな隔たりがあるのは見ただけでわかる。
リレイアは、ポルテーロの記憶を辿り、目をつけたパン屋がすでに廃業していたことを知った。
パン屋として使っていた一階の作業場は荒れ放題になり、膝の痛みから二階の住居部分の寝室に篭りきりになり、近隣からおこぼれをもらうために外出するものもすでに限界になっていた。
こうなってしまうと貧しい老夫婦が、長らえることはない。
この界隈はあまり裕福なものが暮らすエリアではない。
誰もが苦しい生活を送っているのである。
リレイアは訪ねていくパン屋の復活をさせなければならないが、ケータを置いて自分だけクルゼナントに行く訳には行かなかった。
まずは、モニタ機能と自動増殖機能のあるボットを王都クルゼナントの廃業したパン屋に送り込み、薬剤を散布し、2階の老夫婦を眠らせた。
寝たきりになっている老夫婦の身体を回復させなければならない。
主人のカール・パストレモは腰がかなり悪い。
大きな病気はないようだが貧窮から栄養状態が良くない。
これを荒療治だが強引に治してしまう。
まず骨の組成に樹脂を注入して強化。
神経系にも手を入れる。
弱っている筋肉には短期的に人工筋肉を入れてしまった。
栄養については、とりあえず血管にナノマシンを入れ、血液内にの赤血球の賦活化を行う。ナノマシンが血液の流れに沿って各臓器に行き渡るとその都度、モニタリングと補修を行う。
これで明日いっぱいは働けるようになる。
結構無理矢理なので、後日体調の再メンテナンスが必要だ。
それで寿命もかなり伸びるはずだ。
次に、ノーラ・パストレモだが、肺癌が進行していた。
21世紀でいえば3期から4期に入るところで他臓器への転移も見られる。
カールには辛い顔をなるべく見せないようにしているが、時々咳き込んでいる。
この世界では薬はない。
魔法治癒についてはわからないが、この夫妻が魔法医師に掛かれるだけのお金を持っているとは思えない。
このままなら持ってあと数ヶ月……
リレイアは、彼女についても力技を使うことにした。
カールの場合は本当は投薬を使った部位もあったのだが、癌細胞が相手であるならこの方法が一番だ。
まず癌細胞の除去。
もちろん、今度もナノマシン頼りだ。
癌細胞を一細胞ずつ潰していくのだが、潰した後に未来技術の粋とも言える『人工細胞』で補填する。
人工細胞は周りの細胞から正常細胞と癌細胞を一つずつ選び出し、自らをコピー先として変異する。
この時点で人工細胞の中には正常と癌の二つの細胞核がある。
その後、コピー元の癌細胞を潰しさらに、コピー元を祖先にもつ周りの癌細胞を検索してちょっかいを出す。
具体的には核に操作を加え、癌細胞から正常細胞に書き換えてしまうのだ。
これは癌の原因である細胞のコピーミスにおける突然変異の逆で、わざと異質な人工細胞を置き、良質な細胞のコピーに変異させる。いわば『癌細胞にとっての癌』を作って駆逐してしまうのだ。
癌細胞が細胞分裂した際に、正常細胞を作ってしまうのだからビックリである。
人の細胞は、部位や個人差により構成物質に差があるが、人工細胞はその全てを内包している。その中で良質な細胞のコピーを作ると余ったものを特殊な膜に包んでポイッと捨ててしまう。それを回収するのはナノマシンの仕事で、必要なら加工し、そのままでよければ血管内に流して排泄できるようにしてしまう。
もう一つ、ノーラの状態が良くなかったのが、脳に関する部分である。
簡単に言うとボケが始まっており、記憶に関しても曖昧な部分が増えてきている。
これについては、細胞の賦活化だけでは済まないため記憶の復旧をすることにした。
コモン世界の未来の医学では失われた記憶をある程度復旧できる。
その周囲の細胞から失われたものを仮定して結果を算出。
そのままでよければ採用し、失われた細胞の復旧をしない方がいい場合は適合する細胞状態に変更する。
リレイアが行ったのはまずパン屋を営むための脳細胞の復旧で、これにはパンの製造方法やパン屋としての接客とその接客の記憶が主である。
そして、カールとの日々の記憶についてもここ数日のものについて補完しておいた。
パストレモ夫妻の体調の復旧が終わっても、まだリレイアにはやることが残っている。
パン工房の修復だ。
こちらは、ナノマシンではパワーがなさ過ぎなので、ボットを使おうとしたらクリスクロスに止められた。
「何やってんだよ! そんなもの王都で使ってバレたら大変だろ」
「誰も閉店したパン屋なんて覗きませんわ。それに私たちがいるところから王都までまだ30kmありますの。ここから王都のパン屋の内装をいじることなんかできませんもの」
考え込むクリスクロス。
「仕方ねぇなあ……そのボットとか言うヤツ、どれくらい必要なんだ? 王都に送るのに時間はかかるのか?」
「はい。王都までボットの移動に3分かかりますが、必要な数は40台ぐらいですわね」
「じゃあ、ここに出してくれよ」
そこで、リレイアはボットを40台出すと、それにクリスクロスが魔法をかけた。
「隠蔽と遮音の魔法を掛けたから。これを送ってくれ」
「りょーーかい」
やれやれ、というふうにリレイアはボットを王都に送り出す。
3分で王都まで到達し、5分後にはパン屋内で配置が済んだのを確認すると、リレイアはボットを使って作業を始めた。
パン工房の掃除、パン焼き窯の手入れ、仕込みの作業台のガタの修復をボットに指示した。
作業台の上の金物類には錆びたものもあったが、リレイアにとっては何程のものでもない。
サビは分子単位で直されてしまう。
酸化したものの酸素元素のみを取り払い、残った金属は整然と並べ替えてしまう。
あまりにも新品のようになってしまったので、少しデコボコをわざと残したくらいだ。
刷毛は古い毛を全て抜いてしまい、新しい素材で植え替えた。
しなやかさを残しつつ、表面を強化してあるのでこのパン屋では二度と刷毛を買い替えることはないだろう。
その全てが終わると、今度は材料だ。
小麦、ライ麦、イースト菌、牛乳、卵、塩、砂糖、菓子パン用の果物、蜂蜜、その他諸々。
パン窯用の薪に、着火用の紙切れまで。
その中には、元々この国で入手は可能であっても従来はパン屋では使っていない材料もあった。
店のポップと値段のための紙とペンを亜空間から取り出して作業台の上に綺麗に並べた。
「そんなもんまで用意してんのかよ……」
「そりゃ、そうですわ。これがなかったら明日この店でパンを買えないじゃありませんか」
確かに計画では、明日ケータ達は王都についてこの店でパンを買うことになっている。
「けど、用意してある材料。あんまり上等なもんじゃねーな」
「仕方ありませんの。貧しい小さなパン屋が上等な小麦を使っていたらおかしいですもの。それと……」
「それと?」
「申し訳ありませんが、後2時間したらとりあえず起きて明日の仕込みを始めてもらわないと行けませんの」
「このジジイとババア、もう働かすのかよ」
「それもしょうがありませんの。明日まで時間がありません。それにこれだけ体調も店も治したんですからキリキリ働いてもらいませんと」
「やはり、鬼だな、お前」
「……」
言い返せないリレイア。
ちょーーと今回は老夫婦に頑張らさせすぎかも、とは思っているようだ。
4時間後。
体調の復調具合を確認するとリレイアはホッと胸を撫で下ろした。
56世紀の技術に自信はあったが、何せ突貫工事ならぬ突貫治療。
うまく行ったのは、リレイアの力量でもあるがケータの治療経験が生きていた。
リレイアは、当初2週間の滞在期間の間だけ働ける体にするつもりだったが、ケータの頼みで老夫婦の健康問題を全て解決するよう変更していた。
「あのお人好しのためですから仕方ないですわね」
そう言って、作業を続けていくリレイア。
パン屋の老夫婦を起こす前に、遠くから久しぶりに昔馴染みが来るという嘘の記憶を送り込んだ。
同時にパン屋をすでに廃業したという記憶も改竄し、起きるとすぐにパン作りを始める日常の記憶を埋め込んだ。
サービスとして、この世界では使われていない地球の名店の菓子パンレシピとノウハウを添えて。
このレシピの中で、この国では従来使っていなかった材料を使うのである。
老夫妻は階段を降りるのも久しぶりであることすら気づかず、パン作りのために工房に入った。
「明日だよねぇ。あのケータ坊ちゃんが訪ねてくるのは」
パン屋の爺さんカール・パストレモはケータが昔からの親戚だと思い込んでいて少しも疑っていない。
どこか懐かしんでいるような穏やかな顔で嬉しそうにしている。
「はい? あ、あぁ、リーフォンのところのケータ坊ちゃんですね。また、うちのパンをご馳走しなければね」
婆さんノーラ・パストレモもケータが昔からの知り合いだと思い込んでいて少しも疑っていない。
今日仕込みのパンも、実は小麦を捏ねるのは2年ぶりであることに気づいていない。
「そうだねー。……おお、こうしてはいられない。パンの仕込みを終わらせるよ、爺さんや」
老夫婦は2年ぶりに釜に火を入れた。
腕は鈍っていないようだ。
リレイアの記憶操作は完璧だった。
老夫婦の健康状態のメンテナンスも完璧だった。
いや、それ以上か。
そのおかげでパンを仕込む手際は2年前よりも少しばかり鮮やかになっていたのは、リレイアの思いやりだっただろうか?
これならとても美味いパンが焼けるだろう。
実は材料の小麦も決して高級ではないが、いつもの仕入れの品よりは少しばかり良いものだ。
唯一、チグハグだったのは、翌朝パン屋を再開したときに、近所の人から
「2年もパン屋を閉めていたのに、また焼けるようになったのかい? 良かったねー」
と言われた時に
「何言ってるんだい。うちは毎日パン屋を開けているじゃないか」
と答えたところだった。
リレイアの記憶操作の結果、このようなチグハグな会話になったのだが、近所の人たちはその発言を久々にやる気になった勢いであると勘違いしていた。
誰もその食い違いを気にすることはなかったのである。
エストレモ・パン店は午前中のパンを売り切った。
昼までが勝負のこの店では、午後用の仕込みはさほど多くない。
早々に仕込みを終えると一旦店を閉め、クルゼナントの正門に向かった。
ケータ・リーフォンは、商人ポルテーロ達と王都クルゼナントに到着した。
門番はケータの過去の滞在記録を確認し、この街の住人であるパン屋の老夫婦が知り合いが迎えにきたことで何の警戒もしなかった。
遠くから王都の知り合いに尋ねてきた青年としてケータ・リーフォンに2週間の滞在証を発行した。
ケータ・リーフォンは老夫婦とポルテーロ達と連れ立って店に戻った。
老夫婦は午後に販売するパンをすぐに焼き始めた。
焼き上がりを待つポルテーロとケータたち。
「ああ、これこれ、ここのバケットがうまいんだよなあ」
ポルテーロさんは嬉しそうだ。
ケータも一つ棚から取ってみた。
「これはうまそうですね。僕も同じものをいただきます」
パンを購入して、店を出る時僕は言った。
「おじいちゃん、おばあちゃん、昔と同じ美味しいパンをありがとう」
すると、その老夫婦からケータ・リーフォンの記憶は全て消えた。
ポルテーロさんの記憶から僕がこのエストレモのパン屋と知り合いであるという記憶が全て消えたのだ。
リレイアがそう仕組んだ通り。
その瞬間、ケータ・リーフォンは『パンを買って帰るただの客』になった。
「毎度あり。またうちのパンをよろしくね」
ケータは背中でその言葉を聞きながらパン屋を後にした。
ええ、こんな美味しいパンなら、またよせてもらいますよ。
ケータは心の中でそう言った。
それからポルテーロさんと別れ、宿を取った。
食事は宿でおかずだけ注文し、エストレモのパン屋で買ったバケットで食べた。
その日の宿は個室が取れたが一人部屋だったのでちょっと狭い。
リレイアとクリスクロスは、相変わらず姿を見せていない。
脳波による会話をしているので話を聞かれる心配はないのだが、不用意に僕が喋ってしまうことを考えて、この個室自体にクリスクロスが遮音の魔法をかけていた。
リレイアの56世紀の技術を使わなかったのは、もし高位の魔法で未来技術の遮音が気づかれた場合、こちらが尋常でない技術を持っていることがバレてしまうからである。
クリスクロスが使う遮音の魔法は一般的な魔法であり、一人旅の魔法使いが個室で使うのはよくあることなので、使っているのがバレても問題ないからである。
そこで、ケータはずっと我慢していたのだが、号泣し始めた。念話でリレイアに話しかける。
――ありがとうな、リレイア。あの老夫婦がパン作りを続けられるようにしてくれて。
――ほんのついでですの。美味しいパンを食べればケータの健康にも良いと思っただけですわ。
ケータは知っている。
リレイアはケータの頼みがあったから、あのパン屋を助けてくれたんだと。
――あの老夫婦は明日もパンを焼くかなあ。明後日もその次の日も。
――まあ、焼くんじゃないですか。折角、体調も戻して差し上げましたので、無理しないで頂きたいですが。
リレイアは憎まれ口をきいた。
――ありがとな。
ケータの礼の言葉には何も返さなかった。
――ああ、僕は昔、学校でも職場でも苦しんでいる人を誰も助けられなかったからな……嬉しいよ。
そう。
ケータはまだ来栖川慶太であった21世紀の自分が誰も困っている人を助けられなかったことを悔いていた。
学生時代も会社でも。
今回も自分がやった訳じゃなくリレイアが助けてくれたからできたのだが、ケータは気にしていない。
誰が助けてもいいのだ。自分がやったんじゃなくても。
来栖川慶太であった時も、この世界に来てケータ・リーフォンになった今もそれは変わらない。
――お前ら、お人好しだな。しかし、なんであの商人からケータとパン屋が知り合いだっていう嘘の記憶だけ抜いたんだ? 会ったこと全てを消した方が安全じゃないのか?
クリスクロスが不思議そうにそう聞いた。
実はケータもそう思っていた。
――商人の記憶はまずいんですよ。多岐に渡りますし本人の記憶を細かく辿って書き換えても取引先は別です。しかも会った時から3人連れでしたからね。物事の組み合わせというのは、思わぬことから辻褄が合わなくなることもあるので、ケータとパン屋とのつながりのみを消しました。それは限定的で他と繋がりがない記憶ですから。それに、商人とのつながりはこの街にいる限り、どこで役に立つかわかりませんから。
――なるほどね。とりあえず、良かったよ。明日からどうするか決めないと。この街にしばらくいるつもりなんだから。
王都に潜入を果たしたケータ達。
だが、のんびりしてはいられない。
この街に定住するために動き出さなければならないのだ。
期間は二週間以内。
一計を案じて王都クリスクロスに入りました。
ケータは冒険者としてやっていきます。
次回は、『20話 後始末に奔走すれば』 6/14投稿予定です。




