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王太子殿下に求婚されています〜裏切られた伯爵令嬢のハッピーエンド〜

作者: 蓮見菜乃


実はこの作品と少し繋がるものがある作品を今連載中ですので、よろしければそちらもご覧頂けると嬉しいです。


・心から愛しております旦那様、私と離婚を致しましょう

↑作品名になります


https://ncode.syosetu.com/n8383ha/





続編投稿しました!

よろしければこちらもどうぞ(2022.10.22)


・王太子殿下に求婚されています〜裏切られた伯爵令嬢のハッピーエンド〜続編


https://ncode.syosetu.com/n0658hx/





 


 私には、片思いをしている男性がいる。


 貴族であるにもかかわらず、休日にはシャツの袖をまくって子供たちと遊ぶとても優しい人で、友人のためなら自分の危険を顧みずに手を差し伸べる勇気のある人。


 領民をとても大切にする人で、将来のための勉学よりも自分の領地を練り歩くことが好き。なのに頭がものすごく良くて、幼い頃には家庭教師が舌を巻いたすごい人。


 日に透けると黄金色にも見える、少し癖のある茶髪。いつもキラキラと楽しそうな光を浮かべているエメラルドの瞳。


 日に焼けてしまったと気にしていたけれど、それでも女性顔負けのみずみずしい肌、彫りの深い顔立ち。


 幼い頃からそばで見てきた。ずっと、ずっと、十年間も。


 こんなにも目が離せなくて、こんなにもあなたの声を聞きたくて、こんなにも私のことを見て欲しい人なんて、あなた以外にいないの。


 けれど私の淡い初恋は終わりを告げた。始まりから十年目の、初夏の頃だった。



 ◇◇



 ガチャンと、カップを取り落とした音が響いた。

 取り落としたのは私だ。


 目の前に座っていた親友は、今しがた信じられないことを口にした親友は、その音に驚いて肩を跳ねさせた。


「だっ、大丈夫っ!?お茶かかってない!?」

「…ええ……」


 呆然としながらカップをソーサーに戻す。幸い中身は飲み干してあったため、被害はなかった。


 ゴクリ、と唾を飲み込む。

 親友が言ったことがまだ耳の中に残っている。それを反芻する勇気は私にはなかった。


 信じられない。信じられない。信じたくない。


「そう……じゃあ、話戻してもいい?」

「………」


 嫌。聞きたくない。何も。


 親友に対して嫌悪感が込み上げてくる。今すぐここから立ち去りたい。叶うなら昨日に戻りたい。そうしたら、彼女からの礼儀に則らない急なこのお茶会の誘いには、応じなかったのに。


「…ええ」


 そう言うしかない。そう言うしかないじゃない。


 ここで嫌だなんて言えるわけないじゃない。なのに、なのになんで分かりきったことを言うの。


「あのねー、レティが言ってたこと当たってたの」

「………っ」

「ルイスに、昨日告白されちゃったわ」


 十年来の親友、シエラは、楽しそうな表情をしてそう言った。


 楽しそう。楽しそうなのだ。いつもニコニコ笑ってる彼女と同じ姿。

 どうしてそんなにいつも通りなのだろう。告白されたんでしょう?彼に。どうしていつも通りなの。


 カップの縁を楽しそうにクルクルと辿るその様子を見ながら、私はふつふつと自分の中に怒りにも似た感情が湧いてくるのを感じた。


「……良かったじゃない。だから言ったでしょ!絶対ルイスはシエラに気があるって」


 笑顔を貼り付けてそう言うと、シエラは小首を傾げた。


「ねー。その時は絶対そんなわけないって思ってたんだけど。

昨日家に訪ねてきて、こう言ったの。シエラのことが好きだ。恋人になって欲しいし、俺は婚約まで考えてるって」


 テーブルの下でドレスを握りしめた。


 会話を続けなくてはならない。シエラに不審に思われないように。この報告に喜ぶのではなく動揺していることに悟られては行けない。親友の恋が叶ったのなら喜ばなくては。喜ばないと。そうしないと、親友じゃなくなる。親友は、親友は……。


「そうなの…。シエラとルイスが恋人になる日が来るなんてね。まぁ、わたくしは前々から怪しんでいたけれど」

「ええそうなの!?」

「だって、ルイスが毎日毎日手紙を送り付けてくるって、自慢してたじゃない」

「えええ、そんなことしてないよー」


 してたわよ。


 約束もなく毎日のように家に押しかけてきて、ルイスから送られてきた手紙を持って、私に自慢してたわ。見てみて、また送られてきたのって。

 それでルイスはシエラに気があるのよって言うと、そんなわけないじゃん、そんな事言わないでよー。レティはそういうことばっかりねって言うのよね。


 私がどんな気持ちで、ルイスがシエラに気があるだなんて言っていたと思う?そんなこと、私が一番、考えたくないことなのよ。


「それで?もちろんいい返事をしたのでしょう?」


 僅かな期待を込めてそういった。


 シエラはルイスのことが好きだと肯定したことは無い。好きなのかと聞いても、そんなわけないの一点張り。だったら、その言葉が本当なら、シエラは断ったはずだ。


 シエラが、嘘をついていないのだったら。


「うん、まぁ…」


 否定、しない……。


 表情が凍りついた。もう笑顔を保つことは出来なくなっていた。

 顔を俯かせて誤魔化す。


 うんまぁ?うんまぁって何。OKしたの?なんで?

 好きじゃないって言ってたじゃない。嘘をついていたの?


「やっぱりね。シエラもルイスのこと好きだったんじゃない」

「いや、…別にそんなことは無かったんだけど」


 え……?


「なんか、ルイスが好きだって、婚約まで考えてるとまで言ってくれて。……そんなこと言われたら、私だって気になっちゃうじゃない?」

「…はっ」


 笑いしか出てこなかった。胸がざわざわとして、泣きたいと叫び始めていた。


 シエラは私の様子に気づかずお菓子に手を伸ばしている。私はアレルギーがあるからここのお店のお菓子しか食べられないんだ、と言ったから、私が注文して取り寄せたマカロン。


 シエラは男性から見れば魅力的な女の子だったと思う。


 食べ物に色々アレルギーがあって、小さい頃から体が弱くて、よく発作を起こすか弱い女の子。


 守らなければならないという庇護欲を掻き立てる儚い女の子。


 辛いことがあっても人前では泣かず、苦しんでいる子がいるなら直ぐに手を貸す。表舞台へも積極的に立つし、笑顔が可愛くて話もうまい。甘え上手で寂しがり屋。


 でも、私から見れば、魅力的でも何でもなかった。

 体が弱いことを理由にして私たちを振り回していたあの姿は、はっきり言って迷惑以外の何者でもなかった。

 発作を起こすのは本当だ。よく息がしにくくなって、涙を浮かべながらよろよろ歩いていたりする。


 だからいつもいつも心配してたわ。


 心配していたから、ちょっと具合が悪いと言った日には休めと言うのに、外に出て案の定発作を起こすのは自分じゃない。お母様に怒られたくないと泣いて、私が無理に誘ったことにしてくれといつも頼み込んできたわね。ええもちろん引き受けたわよ。私たちは親友だったから。


 おかげで私はあなたのご両親に酷く嫌われているわ。知っているでしょう?私が酷い言葉を吐かれているの。


 私は愛娘にまとわりつく目障りな女。

 それに比べてシエラはなんて素晴らしい子なのだろう。娘がもったいない。と。


 困っている子がいたらすぐに手をさしのべる。泣いている子がいたら泣き止むまで付き添う。


 困っている子がいるのを見つけるのはいつも私だわ。

 シエラは周りをよく見ないから、そういう子には自分で気づけないのよ。


 それで私が話を聞いていると横から押しのけて来たと思うと、私を貶し始めるのよね。


 レティは子供と接するのは下手なんだから余計なことしないで、とか。そんなにいい子ぶらなくてもレティはいい子だってもう知ってるわよ、とか。


 私が落し物を拾えば、何故か私が届けてくる、と言ってものすごい力で私の手から奪って持っていくし、私に道案内を聞いてくる人がいればシエラが横から答える。


 私の気のせいだと思っていたわ。全部私が悪いように考えてしまっているだけだと。わたしの思いすぎだと。


 怒るような事でもないし、もやもやしてしまう自分が幼いだけだと。けれど何故かしら。あなたと会話している時、ちくちくと私に刺さってくる言葉。少しずつ少しずつ嫌な気持ちが積み重なっていく。


 でも私は気にしないようにしていた。


 だってシエラは親友なのだから。

 シエラはとってもいい子よ。

 だからシエラの周りにはいつも人がいる。男女関係なくたくさんの人が集まるの。


 私が嫉妬に煽られて悪い面を大袈裟に誇張してしまっているだけ。私の気のせい。私が悪い。


 そう思っていたのに。思おうとしていたのに。


「だって将来のことまで考えてくれているの、ルイスは。それってものすごく真剣ってことでしょ?そんな人を簡単に振るのってよくないと思うし。あっ、もちろんそれだけじゃなくて、私自身もそこまで真剣に思ってくれる人を初めて見たから、なんかいいなって思ったんだけど」


 ……つまり、前々から好きだった訳じゃなくて、告白されたから好きになった。別に恋愛感情を抱いているわけじゃないけど、ルイスだしまぁいっかって、そういうことよね?


 …ねぇ、シエラ。 

 私、あなたに言ったことあるわよね?


 私は、ルイスのことが好きだって。

 ルイスに何年も片思いをしているって。好きで好きでたまらなくて、あの人の妻になることを夢見てしまうこともあるくらいに愛してるって。


 そしてあなたは、応援すると。


 なのに、その会話全て無かったことにして、ルイスと付き合うと言うのね。


 ルイスがあなたを選んだと言うならそれでいいわ。私は選んでもらえなかった、ただそれだけ。だから失恋したことはもういい。だけどシエラ。あなたの行動が理解できない。


 あなたが一言でも、レティーが恋していた人なのに、悪いと思っているとか、分かっているけどルイスと付き合いたいとか。一言でいいの。


 あなたの中で、私の恋を無かったことにしないで。


「レティどう思う?」

「…」


 何を言っているの、この子は。


「……ルイスのこと好き?」

「うんもちろん」


 私ほどではないでしょう。嘘つき。


 私は、十年間もルイスに片思いをしていたのに、あなたはそんな思いを抱かずとも、彼に選んでもらえたのね。そして、特別に思っている訳でもないのに、それを受け入れたのね。


 私の方がルイスを愛しているわ。私が、私の方が……。



「ルイスもシエラが好き?」

「そう言ってくれたよ」

「……私になんて言って欲しいの?」

「……え?」


 レティどう思う?って、何。


 何を言って欲しいのよ。何に対しての感想を聞いているのよ。それ私に聞く必要あるかしら?意味が分からない。なんでそんなことが言えるの。どうしてルイスが好きだという親友に向かってそんなことが言えるの。


 あぁ。あなたはそんなこと覚えていないのね。私が舞い上がって話していた片思いの話なんて、あなたにとってはつまらないことだったのね。


「……なに、レティ、なんか怒ってる?」


 怒ってる?


「いいえ?おめでたい日だから、シエラが一番欲しい言葉をあげようと思って」


 怒ってるじゃすまないわよ。ありえない。信じられない。


「ええ……。それはレティが考えてよ」


 なんでよ。なんでルイスはシエラを選んだの?


 無言でいる私を見て、シエラはため息を吐いてから苦笑いを浮かべた。仕方ないなぁレティは、とでも言うように。


「そういう言い方って、良くないんじゃないかしら?なんか、本当は祝福できない、みたいに聞こえるし」


 ガシャンと、カップとソーサーがぶつかり合い、金属音を立てた。ポットからはお茶が僅かにこぼれ、スプーンは衝撃を吸収し切ることが出来ずに、机の端から落ちていく。


 シエラは突然テーブルに叩きつけられた私の手を見て呆然としていた。そんなことをした私に驚いているようだった。今まで黙って自分の望み通りに動いてくれていた親友だものね。私が自分に逆らうわけないって思ってるのよね。


 シエラ・フォン・バイオレット。

 バイオレット男爵家の一人娘。


 どうして私は、シエラを親友だなんて思っていたのかしら。


「……レティ?」


「……ごめんなさいシエラ」


 私は額に手をやった。


「実は昨日からあの日で…。実は朝から具合が悪かったの」


「あ、月の…」


 大嘘だ。体調は今日の朝まではものすごく良かった。


 シエラに嘘をつくのは初めてだった。人に嘘をつくことは良くないことだと思っていたから。今でもそう思うわ。それは当たり前のことよ。でも、


 シエラならいいでしょう?だって、


 私に、数え切れないほどの嘘をつき続けていたのだから。


「えぇそうなの。ごめんなさい。さっきからイライラしてシエラに八つ当たりをしたりしてしまって……」


「あぁ。それでだったのね。気にしないで。自分が具合の悪い時に人の話なんか聞きたく無くなるわ」


 具合悪くなくても今日の話は聞きたく無くなるわよ。


「今日はゆっくり休んで。ごめんね、急に押しかけてきて」


 分かっているなら来ないでよ。自分が礼儀を欠いていると分かってるのに何でわざわざしてるのよ。


「話はまた今度聞いてね」

「…」


 まだ言うの?聞きたくないわよもう。


 泣きそうになるのを隠しながらシエラの手に支えられてベッドへ向かう。


「レティに聞いて貰うのが一番落ち着くのよ。早く良くなってね。レティ」


 私をベッドに寝かせて微笑みながらそういうシエラの顔を眺めた。


 これなのよね。シエラは。


 シエラは私のことをとても大事にしてくれるの。本物の親友のように。


 いつも優しい言葉をくれる。いつも私のことを認めてくれる。私のことを大事に思っていると……。


 だから私は、シエラを信じ続けていたんだわ。シエラがどれだけ信じられない行動をしようと、私を傷つけようと、シエラは私を大事にしてくれるから、シエラの本意じゃない、シエラだってやろうと思ってやってる訳じゃない。って、そう思っていたのよ。


 だけど。


 全部、まやかしだったのよね。


 シエラが部屋から出ていくのを音で聞いて、私は顔を両手で覆った。涙がこめかみを伝い、耳の方へ落ち、髪の毛を濡らす。


 ルイスが綺麗だと言ってくれた琥珀色の瞳から涙がこぼれ落ち、シエラが羨ましいと言った黄色味を帯びた新緑の髪を濡らす。


 私の泣き声は一晩中、静まり返った部屋に響いていた。


 ◇◇


 レティーシア・ラペル・ミルグリッド。ミルグリッド伯爵家の長女。


 十年前からコンバット男爵家の次男、ルイス・コンバットに片思いをしていたが、その恋が叶うことはなく、ルイス・コンバットが選んだ女性は、


 レティーシアの十年来の親友、シエラ・フォン・バイオレットだった。


「お嬢様。朝食をお持ちしました」


 コンコン、と扉が叩かれる音と共に気遣うような声が響いた。この声はアリエルだ。アリエルは私の専属メイド。幼い頃からずっと私のそばにいてくれている姉のような存在のメイドだ。


 数日間ろくに何も食べずに部屋にこもりきり。お見舞いに来てくれたお父様やお母様、お兄様までも追い返す始末であった私を心配したのだろう。わざわざ部屋まで持ってきてくれた。重たい体を無理やり起こし、入って、と声を返す。


 扉が開かれて、眉尻を下げたアリエルが朝食の載ったトレーを持ちながら部屋に入ってくる。


「今日はお嬢様のお好きなサラダサンドウィッチですよ」


「ありがとう」


 枕元のテーブルではなく離れた場所へ置くのは、ベッドから抜け出せというメッセージなのだろう。大人しくベッドから下りると、ほっと息をつく音が聞こえた。


「さぁ!カーテンを開けましょう!暗い部屋は気分を悪くさせますからね」


 シャッとカーテンが開けられ、日差しが差し込んでくる。久しぶりの朝日に目を細めながら席に着く。


 サンドウィッチを口にほおばっていると、アリエルが目の前に仁王立ちをした。

 

「くまが酷いですね。後で蒸しタオルをしましょう。御髪もまぁ、きちんとブラッシングをしないからツヤがなくなっていますよ。少しおやつれになりましたから食べられるようならもっと持ってこさせますよ。」


 頷くとアリエルはドアの外に立つ護衛に声をかけた。


 お母さんのようだが、これでも今年二十二の結婚適齢期だ。今は恋人一人も居ないらしいが、そのうち結婚してしまうと思う。


 アリエルは面倒見が良くて優しくて、裁縫も料理も出来る、独身男性にとってみればこれ以上ない女性だと思うから。しかも美人で魅力的な山あり谷あり体型と来た。


「……アリエル」

「はい?」

「髪をとかしたら簡単に結ってくれるかしら。今日は街へ出かけるわ」


 そう言うとアリエルはものすごくびっくりした顔をして、それから慌てて櫛を持ってきて硬直したかと思えば、恐る恐る聞いてきた。


「……もう、大丈夫なのですか?」

「ええ。立ち直るには長すぎる時間だったかもしれないくらいね?」


 さっぱりした顔でそう言うと、アリエルはぎこちなく頷いて、私の髪に櫛を通した。


 しばらくお互い無言でサンドウィッチを食べ、櫛をかけていたけれど、不意にアリエルの鼻をすする音が聞こえてきた。


「お嬢様…。もう、やめてくださいましね」

「…えぇ。ごめんなさい」

「っいえ、…いいのです、こうして元気になって下さっただけで。そうだわ、お昼は奥様と一緒に食べるのはどうですか?」


 いいわね、と返事をすると、涙声ではい、と頷かれる。


 胸が痛む。何も言わずに部屋に引きこもれば誰だって心配するだろう。まして過保護なアリエルだ。相当な心配をかけてしまった。


 ごめんなさい、ともう一度言うと、声は出なかったようだが、首を振る衣擦れの音が聞こえた。


 やがて運ばれてきたスープやパンを食べていると、重かったからだが嘘のように軽くなってきた。


 私がどれだけ部屋にこもっていたのかはっきりと分からないが、何度も泣きながら眠る夜を繰り返すうちに、私に心境の変化があった。


 言葉ではうまく言い表せないけれど、心がほんの少し上を向いた感じがする。


 シエラがルイスとの出来事を話し始めるようになった五年前ほどから、ずっと地面に押しつぶされたような息苦しさを感じていたのに、今は嘘のように無くなってしまったのだ。


 とにかく気持ちが前よりは晴れている今の私がするべきことは決まっている。


「街へお出かけになられて、どこへ行かれるんですか?」

「ブティックへ。ドレスやアクセサリーを新調したいの」

「ブティック……ですか」


 私はあまりそういったことにお金を使わない主義だったから、アリエルは少し驚いたような顔をした。


 今の私が持っている服たちは全て、ルイスの趣味に合わせたものだから。


 私に似合う服、私が好む服じゃなくて、彼が好きだと言った服をいつも身にまとっていた。だけど、こうなった今それはなんの価値もない。


「今日はたくさん買うわよ」


 最後のスープを飲みきってそう言うと、アリエルの弾むような返事が帰ってきた。



 ◇◇



「賑やかね」

「はい。今日は例の日ですから。市場にも噂が流れてしまったんですね」

「例の日?」


 聞き返すと、知らないんですか?と返される。引きこもりの影響で情報が入ってこなかったのか、それとも覚えていないのか。どちらにしても分からないので首を傾げる。


「隣国から皇太子様の留学ですよ」

「あぁ……!今日だったのね」


 忘れているだけだった。


 我が国と隣国レラントとの間には、交換留学というしきたりがある。両国の次期王はそれぞれの国を出て、一年間隣国に在住することが定められている。それにより国同士の関係を知らしめることや、皇太子の隣国への知識を深めることなどの目的がある。


 レラントは、この国の長い歴史の中では割と最近になって交流を始めた国である。同時に貴重な産出品を持つ国である為、我が国はレラントとの関係を他国に知らしめたい気持ちもあってこのしきたりを作ったのだろう。


 稀に留学中のレラントの王太子に見初められ、レラント王太子妃になれることがあるので、国中の女性達はめかしこんでいることが多いし、それと同じで国の商店も皇太子様と共に訪れる使節団の目に商品が留まれば交易品になれることがあるため、気合いが入る。


 知られていないだけでレラントの使節団はかなり気難しいから、そんなに簡単なことではないと思うけれど。


「…まぁ、私には関係のない事ね」


 行きましょ、と言って行きつけのブティックに向かう。


「…ドレスの色が目に痛いですね。色めきたちすぎでしょう」

「そんな事言わないの」


 確かに色とりどりのドレスが混じりすぎてまるで貴族のパーティーのようだった。


 進行方向の違う人々を避けながら歩いていると、賑やかな声の中から微かに泣き声のようなものが聞こえてきた。


 思わず立ち止まる。それに気づいたアリエルも辺りを見渡し、ある方向を指さした。


「お嬢様、あの子……」


 アリエルはベンチに座り泣きじゃくっている男の子を指さしていた。


 辺りには保護者らしき人物も見当たらないし、なによりその男の子の格好が気になった。


 この国と服とは少し作りが異なっていたのだ。この国の男児の服といえばワイシャツにサロペットズボンが主流だが、その子はワイシャツというよりポロシャツのような生地に近く、サロペットズボンではなく赤みを帯びた色の着いた半ズボンだった。


 髪の色は標準的な茶髪だが、やけに綺麗に整えられている。


 今日が交換留学の日であるなら、


「……あの子もしかして、レラントの」


 アリエルがそう呟いた。


 そう考えるのが妥当だった。


「……大変」


 レラントの使者の子供であるなら、真っ先に追い剥ぎや誘拐に狙われてしまうだろう。隣国の使節団の子供に対してそんな行為が行われれば国同士の争いになりかねない。


 直ぐに駆け寄ろうとしたが、足が止まった。


「お嬢様?」


 人助けをすると必ずシエラが私を籠の中に押し込んでくる。私はいつもそれに逆らえず、シエラに従っていた。そしてそれは思っていたよりも、私を縛り付けていたのかもしれない。


 思い出したくない思い出がフラッシュバックしたことにより震えが出てきていたが、気合いで拳を握り込む。


 …大丈夫、ここにシエラはいない。



 "…っぼく!"

 "うぇぇぇぇん……〜〜ぁぁああん!"

 "ぼくどうしたの?お母さんとはぐれてしまったのかしら"


 男の子は大泣きしながらも辛うじて頷いてくれる。とつぜん自分の前に現れた女性に対しあまり警戒心は持っていないようだ。


 私の格好がシンプルなドレスだったことも関係しているのだろう。とりあえず警戒されなかったことと、自分のレラント語が通じたことに息をつき、男の子の前に膝を突く。


 "お母さんとはどこではぐれたの?いつぐらいに離れてしまったのかしら"

 "ここで待っててって言われたのに、ぼくっ、ぜんぜっ、お母様、こな、からっ"

 "……自分でここまで歩いて来ちゃったのね"


 涙交じりの肯定が返される。


 私はアリエルからハンカチを受け取り、それを差し出す。アリエルに近くにいる騎士に声をかけるように言う。


 こわばりそうになる顔を必死に笑顔に保つ。焦りを顔に浮かべてはいけない。あくまで普通の男の子に接しているようにしなくては。


 立ち上がって男の子の目の前に立ち、その姿を隠す。


 今、この子は自分の母親のことをお母様、と呼んだ。それもごく普通のことのように。もちろん平民が母親のことをそんなふうに呼ぶわけが無い。


 その呼び方や身なり、街に慣れていない様子からして、間違いなくこの子はレラントの使者の一人だ。


 "大丈夫よ。直ぐに見つけてあげるわ。どこから歩いてきてしまったのか分かる?何か目立つものはなかったかしら"


 子供は自分より目線が高い人のことを本能的に恐怖の対象にするらしい。この状況で泣き叫ばれる訳にも行かないので、中腰になり小さな頭を軽く撫でながら聞くと涙が収まってきたようで、嗚咽を繰り返しながらも小さく口を開いた。


 "あっ、赤い、ブーツが、あった"

 "……ブーツ。もしかして、看板の模様のことかしら?"


 頷いている。


 ここら辺で赤いブーツが描かれている看板と言えば、ここから徒歩三十分程にある服飾店だ。


 代々続く古くからの店で、人気も高い。伝統を残しつつ最新の流行をいち早く採り入れていくことで人気を保っている。この国の最先端を先導するのはその店であると言っても過言ではない。


 つまりは帝国切っての高級店である。貴族はもちろん、王族にさえ服を捧げている。


「ブティックプリムローズ」


 この名前を知らない者は居ないだろう。こんな高級店に立ち寄るということは、この子がレラントからの使者の一人であることを裏付けている。


 にしてもプリムローズはここからかなり遠い。子供の足では三十分ではすまないだろう。かなりの距離を一人で歩いて来た、しかも異国の地を。この行動力はレラントならではのものなのか、この子の好奇心なのか?


 男の子を一通り観察したところで、その子の右手がずっと自らの右膝あたりを押さえていることに気づく。


 "もしかして、怪我をしているの?"


 "うん…。さっき転んだの"


 ちょっといい?と了承を得て手をどかすと、ズボンは破れ血が滲んでいた。


 そこまで大きい怪我ではないけど、この子が痛みを我慢するには厳しい傷だろう。


 "よく今まで我慢してたわ、強いのね。手当をしましょうか"


 また泣きそうになっていたので宥めつつ、男の子の手を引き近くの水道に連れていく。


 アリエルが簡易救急セットを持たせてくれていてよかった。淑女たるもの、という口癖が頭の中に蘇る。アリエルは騎士を見つけられただろうか。


 レラントの使者が来ている日だから、いつもよりは警備が強くなっているはず。それならそろそろ戻ってきてもいい頃だけど。


 傷口を洗い消毒をして、大きめのガーゼを貼り付け、一通り応急処置を終えたところでアリエルが駆けてくるのが見えた。


 後ろには胸に三ツ星のエンブレムを付けた騎士を連れている。


 この国の騎士の位はエンブレムの星の数で決まる。五つが最高で、騎士団長や王族の専属騎士だ。三つということはそれなりの実力は持っているだろう。安心してこの子を任せられる。


 もしかしてアリエルはそれも踏まえた上で騎士を探していたのだろうか。仕事の早いアリエルがここまで時間がかかったのも納得が行く。下手な騎士に任せて攫われでもしたら笑えないので、正しい判断だ。


「お嬢様!遅くなりましたぁ!」


「大丈夫よ。騎士様、お疲れ様です」


 男の子の手を引きつつ駆け寄ってきた騎士に頭を下げる。


 アリエルが連れてきた騎士は口髭を生やした中年にさしかかるころぐらいの好青年、いや、好親爺??という感じのいかにも善人そうな方で、私を見た途端顔色を変えた。


「や!あなた様は……!」


 どうやら私がミルグリッド伯爵家のレティーシアだと気づいたようだ。


「今日はお忍びと言いますか、あまり目立つことは無いようにしたいので、私のことはご内密に」

「はっ!もちろんでございます」


 体格もいい。難なくこの子を担げるだろう。早速私の後ろに隠れていた男の子の顔を見せる。私のスカートをぎゅっと握っているのは可愛いが、もうすぐお別れだと思うとほんの少し寂しい気もする。


「騎士様耳を貸してくださいませんか?」

「は……!?」

「お早く」


 伯爵令嬢の突然の行動に恐れおののいていたようだが、私の顔の真剣さに気づき、サッと近寄ってくれる。


 品の良いコロンが鼻についた。娘を溺愛するタイプの父親だろうか。今どきここまで身だしなみを気にする騎士は居ないだろうに。


 コロンの香りはカモミールかしら、と思いつつ耳を寄せる。


「この子は恐らくレラントからの子ですわ」

「なに……レラントですと」



 みるみるうちに騎士の顔色が悪くなっていく。


 レラントからの子、これだけの言葉で私が危惧していること、起こりうる最悪の事態を想定できることは長年の経験値からだろうか。若い騎士ではこうはいかないだろう。アリエルが連れてきてくれた騎士がこの方で本当に良かった。


「どうやらプリムローズからここまで歩いてきてしまったようで」

「…これは機密情報なのですが」


 今現在プリムローズに、レラントの王太子様がお越しになられています。


 私の耳でぎりぎり聞き取れるかどうかという声量で囁かれた。


 確かにこんなことは道行く人々にうっかり聞かれでもしたらたまったもんじゃない。いや、そんな言葉では表すことの出来ない、大混乱になるだろう。


 私は男の子と同じ目線までしゃがみこみ、その小さな両手を握って、こう言った。


 "あのね、ぼくが元いた場所に、まだぼくが一緒にいたであろう人達がいるんですって。もしかしたらそこに僕のお母さんもいるかもしれない。だから、この騎士様と一緒に、そこまで行くのはどうかしら?"


 お母さんがいる、という言葉でぱあっと男の子の表情が晴れるが、何故かすぐにしゅんとしたような顔に戻る。どうかしたのだろうか、と思い、目を見つめてしばらく待っていると、言ってもいいのだろうか、というふうにおずおずと口を開いた。


 "お姉さんは来ないの?"

 "……"


 ひとりぼっちの街中で、声をかけてくれた女の人というのは、子供にとっては思っているよりも大きな存在になるのかもしれない。


 お姉さんも来て欲しい、お姉さんと一緒にいたい。


 そんな目線を向けられるのは初めての事だった。なぜなら、その目を向けられるのはいつも、シエラだったから。


 "…………ごめんなさい。あなたと一緒に行きたいのだけれど、私はこれから用事があって"


 とても嬉しいけれど、レラントの王太子と顔を合わせる訳には行かない。


 私はこの国の伯爵令嬢だ。シンプルな格好をしているとはいえ、相手がもし重要家門の顔を一通り覚えていたとしたら。バレてしまう可能性は十分にある。


 相手もこちらもお忍びで来ている以上、挨拶を交わすような目立つことはしたくないし、かと言って素通りも出来ない関係だ。


 いろいろと面倒があるから、どうしてもこの子と一緒に行くことは出来ない。


 "この方が連れていってくれるわ。ほら、優しそうな方でしょう?筋肉もしっかりしているから、きっと抱っこは心地いいわよ。あなたの足では遠かった道のりも、騎士様に乗っていたらあっという間だわ"


 恐らくレラント語は理解出来て居ないようだが、私の仕草で分かったのか、騎士が屈んで男の子の目を覗き込んだ。


「一度抱っこしてみましょうか?気に入ると思いますよー、孫のお墨付きです」


 孫……。


 四十代程に見えたけれど、もう孫がいるのね。いったい何歳の頃に子供を作ったのかしら。


 男の子は騎士の穏やかさに惹かれるものがあったのか、遠慮がちにこくんと頷く。


 あまり人見知りしない子のようだ。酷い子だと泣き叫んでいるところだろう。騎士はかなりの大柄な体型だ。


「はい、いらっしゃい」


 騎士が両手を広げて男の子に向けると、男の子は慣れた仕草で騎士の両腕に掴まった。抱っこされ慣れているのかもしれない。


 騎士はいとも簡単に抱き上げ、両手で体をつつみ安定させる。鎧が邪魔だろうかとも思ったけれど、男の子の様子からするに、問題はないようだ。


 安定感が心地よかったのか、すぐに笑顔になると、私の方を上機嫌で振り返った。


 "お姉さん!ありがとう!!"

 "ええ。きっと会えるわ。大丈夫よ。国外旅行、楽しんでね"


 騎士が頭を下げて歩き出す。


 余程その腕が気に入ったのか、笑い声が聞こえきた。何度かこちらに向けるように振られる小さな手が見えたので、その度に振り返す。


 鎧と広い騎士の肩幅のせいで顔は出せないらしいが、何度も何度も振られるその星型の手に振り返しているうちに、笑みがこぼれてくるのがわかった。


「可愛いわねぇ……」

「お嬢様は将来いいお母様になりますわ」


 アリエルに言われて思わず声を出しながら笑う。遠い話だ。ついこの間失恋して相手もいないのに。


「さ!遅くなってしまいましたが、ブティックへ向かいましょうか」


 アリエルに言われ、まだ笑いながら後を追う。


 こんなことに気づく日が来るだなんて、思ってもみなかった。今まで自分で気づけていなかったんだわ。


 私は、思っていたよりも子供が好きで、そして、シエラがいない方が自分らしく居られるってことに。



 ◇◇



 "あぁどうしましょう。こんなに広い街で、一人にさせてはいけなかったんだわ……!"


 泣き崩れるモスグリーンの髪を持つ女性に一人の男が近寄る。


 光を放たんばかりの輝かしい白金髪に、碧とも翠ともとれない翠緑の瞳を持った、高貴な男だ。


 その色彩や、自国ではありえないほどの肌の白さ、滑らかさに通りがかった女性達がほうとため息をつく。


 服装こそ普段と比べれば質素なものだが、それにしてもその姿や仕草から溢れ出る気品を止めることは出来ていなかった。


 もとより侍従を大勢連れて帝国きってのブティックに訪れている時点で、隠す気はさらさらないのだろう。自分が今、この国で最も注目を集める人物だということを。


 "きっと大丈夫だ。すぐに見つかる。いま騎士達を向かわせたから"


 その神秘的な容姿に似合った、不純物を全て取り除いたように透き通っていながらも、男性らしい低さを持っており、なおかつ甘さを含む声色だった。その甘さは今現在肩を抱いている女性を落ち着かせるものなのだろうか。


 女性は誰もが羨むような状況のなか、綺麗に結われた髪を振りほどかんばかりの勢いで首を振った。


 すがりつくように男を見上げたその目に、恐怖や不安、焦りの他に、自責の思いが混じっていることを認め、男は眉尻を下げる。


 "……まだ見つからないのか?"

 "はい。ベンチの周辺を探していますが……"

 "ベンガル…!!私が、私があんなところに一人置いていかなければ…!"


 女性の泣き声を聞きつけ視線を送る人々にはこの会話の内容は聞き取れていないだろう。


 自分たちは、この国から「必ず手中に入れたい」という思惑がはっきりと分かるほどの待遇を受ける立場ではあるが、それでも自分たちのいるここは長い歴史を持つ大国である。他にも貿易において重要な交友国などいくらでもあるだろう。


 この国へ来て初日に皇帝に奏上した限りでは、まだ公爵家などの最重要家門か、よっぽどの勉強熱心でないと我々の言語は学んでいなそうだ。


 つまりここで何を言っても伝わることがないため、それが唯一の救いと言うべきか。


 レラントの子供がいなくなった、これが広まってしまえばあっという間に女性の子供は標的になる。


 いなくなった子供の母親であり、皇太子の補佐官でもある彼女は普段の冷静沈着さをかなぐり捨て、我が子を心配するあまりパニックになっている。


 お忍びで来ている以上目立つような行動は避けなければならない身の上に置かれている男は、騎士の報告を待つしか無かった。


 一時間。


 これが十にも満たない子供がいなくなって今までに経った時間だった。


 もしかしたらもう、レラントの弱みを握ろうと躍起になっているこの国の者の手中に落ちてしまったのかもしれない。最悪の予感が頭をよぎった時、声が響いた。


 "お母様!"


 誰もがばっと顔を上げた。


 母国語ではない発音が行き交うこの地では、自分たちの耳慣れた言語はよく届いた。


 大柄な騎士に抱き抱えられた、一時間前に姿をくらました時と同じ姿をした男児が、女性に向かって手を振っていた。


 "ベンガル!!"


 女性はすぐさま我が子に駆け寄ろうとするが、先程までの強烈な怯えにより足がすくんでしまっており、上手く立つことが出来ない。


 そうこうしている間に、ベンガルと呼ばれた男児を抱き抱えた騎士が早足で、立ち上がろうと四苦八苦している女性に駆け寄り、ベンガルは母親に抱きついた。


 "お母様!"

 "ベッ、ベンガル!どこに行ってたのよ!"


 泣きじゃくりながら抱き合う親子を見ていた男は、不意にベンガルを連れてきた騎士を見上げた。


 男にはこの国から複数の護衛騎士を派遣されていた。そのため今回は彼らに捜索を命じていたはずだが、この国の正騎士たちにまで要請した覚えはない。


 男はこの騎士が自分を護衛していた騎士ではないことを瞬時に悟り、この街中で迷子の男児を見つけ、それがレラントの子だと気づき、ここまで連れてくるだけの洞察力があることを怪しんでいるのだ。


 そんなことに気づけるくらいの能力を持っていながら星三どまりか?と。


 男の視線に気づいた騎士は、拝礼して場を立ち去ろうとしたが、立ち上がった男に止められる。


「礼を言う。君がこの子を見つけてくれたのか?」


 自分に声をかけてくることは想定外だったようで、僅かに体を跳ねさせてから振り返る騎士を男は興味深そうに眺めた。声をかけられたことに驚いた、だけではなさそうな、何かを秘密にしている者のような顔色をしていたからだ。


 騎士はゆっくりと跪いてから、頭を垂れ、口を開いた。


「はい……、街を見回っておりましたところ、泣いている男児を見かけまして、声をかけましたところ、どうやらはぐれてしまったと……」

「君はレラント語を話せるのか?」

「あっ……いえ、あの、声をかけた時に言葉が通じずに困っていたところに、ある女性がいらして、その方が通訳をしてくださったのです」

 "……嘘が下手だな"


 騎士はやはりレラント語を扱える訳では無いようで、呟いた言葉に何の反応もしなかった。聞こえる声で言ったはずだが。


 男はしばらく考え込み、その過程で何気なく親子を見下ろし何かを見つけ、顔に微笑を浮かべた。否、傍から見れば微笑に見えるだけで、本人としてはほくそ笑む、に近い。


 男が見つけたのは、涙が収まってきて、笑顔で母親に事の経緯を話しているベンガルが握りしめているハンカチだった。


 色鮮やかな花々とそれに絡みつく蔦が刺繍されたそれは、遠目から見ても上質なものだと分かる素材だった。太陽の光に反射し、艶々と光を放っている。


 それにベンガルの膝には、丁寧に貼られたガーゼがあった。恐らく傷を治療したのだろうが、庶民にとって治療薬やガーゼは貴重なものだ。そこらで泣いている少年に与えるほどの心の広い者はそう居ないだろう。


 極めつけはベンガルが喜々と話している内容だ。


 "あのね!すっごく優しいお姉さんがね、大丈夫?って話しかけてきてくれて、膝を手当してくれて、この騎士様連れてきてくれてね、国外旅行楽しんでねって言ってくれてね、あとねあとね、"


 大分興奮気味に話しているが、大体の経緯は把握した。ベンガルを見つけたのは騎士ではなくある女性で、その女性は恐らく裕福な家庭の娘か貴族の令嬢。


 そしてベンガルがレラントの子だと見抜き、レラント語を話し、国外旅行を楽しんで、と声をかけられるほどの知識の持ち主。


「…その女性の名を教えてはくれないだろうか」

「いえ……名を名乗ることなく去っていかれましたので…」

「どんな身なりをした方だったかな?是非お礼を申し上げに行きたい」

「……至って平凡な、どこにでもあるような服でしたので、あまり記憶には残っておりません。申し訳ございません」


 騎士精神が高いようだ。恐らくこの騎士は何を言ってもその女性の事を吐くことはないだろうと悟った男は、胸ポケットからあるものを取り出し、騎士に渡した。


「これは……」


 急に手渡された宝石がはめ込まれたネックレスを手に困惑している騎士に、男は更に金貨を何枚か渡す。


「そのネックレスは、いつかまた君がその女性に出会うことがあったら渡しておいてくれ。金貨は君へ。本当に感謝している」


 騎士の顔はみるみるうちに真っ青になった。正直者だ。考えていることがすぐに分かる。


 ネックレスを渡す機会は滅多に訪れない高貴な女性のため、自分はネックレスを渡すことが出来ないことを悟っているのではないか。そしてそうなった場合、ネックレスは自分の物になってしまう。更に金貨、男が渡した金貨の枚数は、質素な家であれば数軒買えてしまう量だった。


「い、頂けません!」

「?ネックレスは君ではなく女性へだ。それに金貨はほんの気持ちだ。もし君が使い切れないようなら、どこかへ寄付してくれても構わない」

「…そ、その……」


 騎士はどうにかして受け取らない方法を考えたようだが、これ以上言葉を重ねれば自分に秘密にしてくれと頼んだ女性の事をバラしてしまうことに繋がると分かったのか、口を閉ざし、拝礼した。


「あ、有難くちょうだい致します……」

「あぁ。そうしてくれ」


 男は騎士に背を向け、まだ地面に座り込んでいる補佐官とその息子に手を貸した。


 騎士が去っていく足音を聞きながら男はベンガルを抱き抱えた。


 "さぁ、一度皇宮へ帰るか"

 "ですが、まだ買い物が……"


 それよりも君たちの体の方が心配だ、という主人に補佐官は申し訳なさそうに目を伏せる。


 "申し訳ありません……息子を連れてきたばっかりに"

 "いや、君がいてくれないと困るのは俺の方だ。それに、この子を君と長い間引き離すことは出来ないしね。ベンガルは優秀だし、いてくれた方が助かることもあるだろう"


 ベンガルは抱かれ慣れた男の腕に完全に身を任せ、泣き疲れたのかうとうととしている。母親はそれを見ながら苦笑する。


 "私共にこんなに良くしてくださって……、殿下に恋人様ができる日は来るのでしょうか"

 "そうだな……一度会ってみたい人はいるな"


 今まで女性に全く興味を示してこなかった主人のその言葉に補佐官は目を丸くし、手を口に当てる。


 どちらの方ですか?という彼女の問に男が答えることは無かったが、楽しそうに笑みを浮かべ続けていた。



 ◇◇



「ふぁぁぁ、買ったわねぇ……」

「そうですねぇ」


 自分で買いに行くと言ったくせに疲れ切っている私と、そんな私に着いてきてくれてドレスを終始薦めてきたアリエルのこの余裕さはなんの違いだろう。


 アリエルは私が今までとは違った傾向のドレスや装飾品ばかりを選ぶことがとても嬉しかったようで、いつものドレス選びとは気合いが違っていた。どのように違っているかと言えば、三時間、種類の違うドレスを延々と薦めてきたと言えばいいだろうか。


 そんなアリエルの努力の甲斐あってか、私のドレスのカテゴリーはかなり潤った。


 三十着ほど頼んだドレスたちは後日配送されてくるためこの場にはないが、髪飾りや装飾品、靴たちは山ほど馬車に積み上げられているため、いま伯爵家の使用人たちは大忙しだろう。


 私はそんな中力仕事ができる男手をよんで、クローゼットを開け、これ、これ、これもと、次々とドレス達を指さしていった。


「今指したもの全て、売りに出して欲しいの」

「はい?」

「売れたお金は孤児院に寄付してきて。それじゃあ頼んだわ」


 心底驚いた様子の使用人たちに、事情を知っているアリエルはキビキビと指示を出す。


 しばらくして運び出されていくドレスを、私は机に頬杖をついた状態で眺めていた。


 ピンクの濃淡でデザインされた、大ぶりのリボンがついたドレス、情熱的な赤い色の、露出が大きいドレス、社交界では考えられない程に裾の短いドレス。


 全て私には似合わない。全て、ルイスが好みだと言ったドレスたちだった。


 あんなドレスを買う度に、アリエルは複雑な顔をしていた。アリエルは分かっていたのだわ。


 私があんなドレス、好きではないことを。


 そうよ。私はあんなドレス好きではない。もっと淡い色のドレスが好き。あんなに胸を強調するようなものは嫌い。淡い黄色や緑、水色をしていて、首までレースで隠してしまうようなドレスが好き。


 髪飾りだって、キラキラした宝石よりも花を付ける方が好き。ネックレスも大ぶりより小ぶりなものがいい。手袋はしない方が楽でいられるし、靴は真っ赤なハイヒールなんて恥ずかしくて履けたもんじゃない。


 だけど、ルイスが好きだと言ったから。お姫様のような全身ピンクの、裾が大きく広がるドレスが好きだという時期があったと思えば、思春期らしく胸を強調する服をきた女性に見とれていた時期もあった。



 私はその度にルイスの趣味に合わせていた。


 だけど、私はそのために、自分の好みをねじ曲げて、似合うわけのない服ばかりを身にまとっていた。


 今日、ドレスを選ぶ時、久しぶりに自分がいいと思った服ばかりを買った。ルイスの好みを考えなくてもいい、そんな買い物をしたのは十年ぶりだった。

 凄く楽しかった。凄く楽だった。


「……お嬢様」


 アリエルが私を見ながら顔をしかめているのを見つけ、ようやく自分が涙を流していることに気づいた。


 ぽたぽたと涙がこぼれ落ちていくのに、胸は全然苦しくなかった。失恋したとシエラに突きつけられたあの日とは全く違う感情だった。


 なんの涙なのか自分でもよく分からない。分かりたくない。


 苦しくないこの胸が、何を教えているのかを悟りたくない。


「お嬢様」


 アリエルが抱きしめてくれる。何故かアリエルまでも泣いていた。


 その柔らかい腕に手をかけながら、私は目を瞑った。


「……恋なんて、しなきゃよかったわ……」


 恋がこんなに苦しいものだったなんて、知らなかった。恋が私の中から消え去った途端に、こんなにも私は自由でいられるようになるだなんて、思ってもみなかった。恋がない方が私は輝けるんだって、知りたくなかった。


 けれど私は、知ってしまった。


「お嬢様のは恋じゃありません!!」


 急にアリエルが大声を出した。それで荷物を運んでいた使用人たちがようやく私とアリエルが泣いていることに気づき、あたふたしている。


「お嬢様知っていますか?恋をすると女性はきれいになるんです。確かにお嬢様はお美しかったです。一年中、お美しくなかった時などありませんでした。でも、でも、お嬢様じゃありませんでした……」

「……アリエル」

「辛い思いをするだけの思いが恋な訳ありません。幸せになれない思いが恋な訳ありません……!」


 胸をつかれた。


 私はこの十年間、息を詰めて生きてきたようだった。いつもルイスを気にして生きて、いつもシエラに傷つけられて生きて、自分らしく居られた時間なんて、凄く少なかった。


 だけど、その時間の中に、ルイスに胸を高鳴らせる時間があって、シエラと笑いあう時間があって、その僅かな幸せだけを認めて、自分が不幸せである時間から、目を背けていただけだった。


「……どうしてこうなってしまったのかしらね」


 アリエルの背中に手を回した時、メイドが駆け込んできた。


「お嬢様……!あの、バイオレット男爵家のご令嬢が……お嬢様にお会いしたいと。その……」


 コンバット男爵家の方と一緒においでです。


 そのメイドの声が、酷く遠く聞こえた。


 ルイスと一緒……?どうして、二人が一緒に家へ来るの……。


 困惑が体を駆け巡り、頭を麻痺させる。二人は恋人同士なのだから、二人と私は友達同士なのだから、世間の目から見れば何の不思議もないことなんだろうけれど、私たちの関係にとっては、おかしなことだった。


 ……あぁ、ちがう。


 私が、一方的にそう思っているだけなんだ。


 立ち上がった私をアリエルが心配そうに見上げる。


「……。帰って頂いて」


「え……」


「できるだけ早く。応接室へも入れなくていいから」


 今まで追い返すことなどなかったからか、メイドは少し戸惑っていたが、すぐに部屋を出ていった。そしてしばらくして帰ってきて、お帰りになられました、と言う。


 私はその間、ずっと立ち尽くしていた。


 どうしてこうなってしまったんだろう。


 そればかりがぐるぐると頭の中を回る。


 ルイスとシエラは何も悪くない。私と二人は友達だった。シエラは親友だった。だけど私が、そこに恋愛感情を持ち込んでしまったから。


 私が、この関係を壊した。


「……私の、せいだわ」

「……!違います!!」

「いいえ。私のせいだわ。私が……」

「お嬢様!」


 足元をふらつかせた私をアリエルが支えてくれる。一度よろ着いた足で体を支えることが出来ずに後ろへ倒れる。アリエルの腕に全体重をかけてしまい、私が倒れた拍子にアリエルまで尻もちを着いたのが分かった。


「ごめ、ごめんなさい、アリエル……」


 目の前が見えない。白く白濁していく。


 アリエルの声が微かに耳に入ってきたが、はぁはぁ、と、自分の荒い息遣いしかだんだん聞こえなくなっていく。


 過呼吸だわ。深呼吸しなきゃ。


 そう分かっているのに、体が言うことを聞かない。


 全部忘れたかった。


 微かに残るルイスへの甘い感情も、シエラへの憎しみも、二人への罪悪感も、自分への、後悔の念も。


 意識を保てない中、その願いだけが体に伝わり、整えられた爪が肌にくい込み、血を流した。



 ◇◇




「本当に行かれるのですか?」


 アリエルの心配そうな声ではっとした。いつの間にか手にはネックレスが握られている。


「……ええ…………、さすがに皇家主催のパーティーを欠席する訳には行かないし」


 私が過呼吸で倒れた日から一ヶ月が経とうとしている。


 あの日から私はちょくちょく体を崩すようになり、寝たきりの日が続く日もあった。


 お医者様からはストレスだと診断され、ストレスの根源となるものを除去するように言われたが、週に二、三度のペースで伯爵邸を訪れてくるシエラの様子を逐一報告されてはできることも無い。


 そういう訳で、シエラが家を尋ねてきた場合には私へ報告が上がることなく追い返される仕組みになってしまった。


 もっとも、応接室へは入れて最低限の待遇は施し、会えない理由を説明はしているようだが、シエラがそれを聞き入れる訳もなく。


 かと言ってドクターストップがかかり、アリエルの過保護視線が一日中つきまとう中で会う訳にもいかず、会いたい訳もなく、手紙だけ出すことにしている。シエラから返ってくることはないけれど。


 そのため、この一ヶ月間、私の元へは二人の情報は全くと言っていいほど入ってきてはいない。


 気にならないと言ったら嘘になるが、こっちの方がよっぽど気が楽だった。


「……それ、つけて行かれるんですか?」

「…あぁ…どうしようかしら 」


 私が握りしめていたネックレスは、お見舞い品の中の一つだった。

 療養中、体が楽な日がなかったわけはもちろんなく、かと言ってアリエルの過保護のおかげで外に出ることは叶わず、暇を持て余した私は、あの日のレラントの男の子の安否が心配になり、あの時の騎士を探し出して伯爵邸へ来てもらったことがあったのだ。


 その時、騎士から手渡されたのがこのネックレスだった。


 聞けば、無事男の子を母親の元へ返すことが出来たが、その母親と一緒にいた男に目をつけられ、男の子を助けた女性に渡すよう言われたそうだ。


 ただの礼だと思えばなんの問題もないが、今回のパーティーは皇室主催だ。もちろんレラントの皇太子も姿を見せることだろう。そんなパーティーにこんなネックレスをつけていく訳にはいかない。


 首を振ってアリエルに渡す。


「別のネックレスを」

「はい」


 かくして出来上がった姿を鏡で確認する。


 アリエルの技術のおかげで体調を崩していたにもかかわらず、水に濡れたかのような艶を維持し続ける新緑の髪は、ひとつのお下げに結われていて、右肩のほうに流されている。前髪を横に流しているのも、後れ毛があるのも初めてで、少し違和感があり触ろうとしてアリエルに怒られた。


 私の好きな黄色と黄緑を地にしたドレスは、そこまで裾が広がっておらず、柔らかな質感を光沢のある生地が醸し出していた。腰周りを締め付け体のラインを見せているのにそこまで形がはっきりして見えないのは肩周りのレースのおかげだろうか。過呼吸で倒れたあの日に肩や腕に自分でつけてしまった爪の跡は思ったより深かったらしく、まだ完全に消えてはいない。そのため隠す必要があったのだ。


 手袋があまり好きではないことを言ったらレースを提案してくれたブティックの奥様に感謝しかない。


 体調が万全ではないため、ヒールはあまり高く無いものにした。かと言って今の社交界の流行りは高いヒールなので、低くても地味に見えないよう、靴周りの装飾が多い。


 歩きづらいが、そんなことは言ってられないし、宝石ではなく花にしてくれただけありがたい。


 足首に飾られた花と、髪に編み込まれた花の色が似ていることはポイントらしい。


 すべて私の好きな色合いだった。


 ドレスの色はもちろん、白い花や空色の靴。はっきりとしたピンクよりも淡いこういう色が好き。


 初めて自分の好きな色で着飾った私は、別人だと思うほどに、自分でも綺麗だと思った。


「色って大事なのね……」


 鏡の中の自分に、そしてこの姿を作り上げたアリエルに惚れ惚れとしていると、扉がノックされた。


「レティ、入ってもいいかしら?」


 品のある響きを持つ声が響いた。アリエルがすぐさまに扉のそばに駆け寄る。


「もちろんです、お母様」


 すぐに扉が開かれ、お母様が部屋に入ってきた。いつ見ても見とれてしまうほどの美貌には、疲れがみてとれた。


 それに気づき急いでソファに座るように勧める。


「大丈夫よ。徹夜気味なだけだから……」


 そうは言ってるけれど顔色は良くない。


 今、この家の主であるお父様と、それに次ぐお兄様はいわゆる出張をしている最中である。代々貿易に関する事業を展開しているミルグリッド伯爵家では、近々お兄様に主の座が継承されることになっている。


 お父様は貿易相手への次期主の顔合わせ、そしてお兄様への仕事の引き継ぎも兼ねて、お二人でこの屋敷を空けているのだ。それにより仕事は伯爵夫人であるお母様に一任されることになった。初めは二人で支え合い、執事の手も借りながら進めていたが、私がルイスやシエラとの一件で引きこもってしまったことにより、仕事の負担や気苦労まですべてお母様一身に背負わせることになってしまったのだ。


 少しお痩せになってしまったお母様を見ると胸が張り裂けそうになり、気遣わずにはいられない。


 今回の皇室主催パーティーも、私と、そしてもちろん伯爵代理であるお母様に招待状が来たが、疲れ切っているお母様をパーティーに行かせるわけには行かず、自分から進んで名乗り出たということである。


 私がもっと、もっとしっかりしていれば……。


「レティ、無理して行かなくてもいいのよ。あなたがまた、あんなに傷つくところを見たくはないわ」


 温かい手が頬を包む。その手を上から押さえ、頬を擦り寄せた。


「私は大丈夫です。もう吹っ切れましたわ。……でも、私がもっとしっかりしていれば、お母様がこんな大変な思いをすることは無かったのに、と思うと……」

「そんなことはどうでもいいといつも言ってるでしょう。」


 困ったように眉尻を下げながら微笑むお母様の顔を見ていると、体の力が抜け、私も自然に微笑んでいた。


「……気をつけてね。辛くなったらすぐに戻ってきていいのよ」

「本当に大丈夫です。」


 皇室主催のパーティーは規模が大きい。そんな中で前もって落ち合う場所を決めていない限りルイスとシエラに出会ってしまう確率は低いし、もしそうなってしまったとしても、他の貴族の方に声をかけるなりすれば簡単にやり過ごせるはずだ。


「お母様を寝室にお連れして、ミルクを」

「かしこまりました」

「行ってらっしゃい」

「行ってまいります」


 キスを頬に受け立ち上がる。お母様を見送ったあと、涙が滲んでいないかどうかを鏡で確認していたが、アリエルにそんな余裕はなかったようだ。


「お嬢様!もう行きますよ!」

「え、ええ……」

「お早く!」


 アリエルが今日やけに張り切っているのはなぜだろう。と思いながらも早足で馬車に乗り込む。


 馬車で移動中も、アリエルは櫛を持参してきており、それで私の髪をたまに直したり、レースの折り目を整えたりリップを塗り直させたりと、いつも以上に手を加えてきた。


「一体どうしたって言うのアリエル」


 皇宮につき、降り際に振り返ってそう言うと、あー!というアリエルのわざとらしい声が耳をつんざいた。


「お嬢様ネックレスが取れかかっております!今すぐつけ直しますー」


 問答無用でネックレスをいじり始める。シャラシャラとネックレスがつけ直される音が首元でなる中、アリエルがこう呟いた。


「頑張ってくださいね、お嬢様」


 語尾に音符がつきそうな明るい口調だった。


 何か企んでいるのではとも思ったけれど、話している暇はなく、歩き始める。パーティーはもう始まっている。伯爵令嬢が遅れすぎる訳にはいかないのだ。


 アリエルは貴族ではないため、もちろんパーティーへ出席することは出来ない。後ろ髪をひかれつつも、パーティー会場へと向かった。


「レティーシア・ラペル・ミルグリッドです」


 会場の扉の前に立つ門番に名前を告げる。一ヶ月社交界から姿を消した伯爵家の令嬢というだけあって、驚きの目で見られた。


 シーズン中に引きこもりになったらそうなるわよね、と思いながら会場へ足を踏み入れた。


 途端に視線が集中する。


 一ヶ月ぶりの登場だから、ということもあるだろうが、私の装いのほうが大きな理由だろう。


 普段の私は捨てたドレスたち、もっと言えば、似合っていないドレス、を身につけていたため、かなり大きな変化のはずだ。


「あれ……ほんとにミルグリッド伯爵令嬢?」

「驚いたわ……、何かあったのかしら」


 やつれてしまった顔は、アリエルが化粧で誤魔化してくれていたが、顔色はどうにもならなかったのだろう。人々の目には病気で弱った者のように見えているのかもしれない。


 とにかく、パーティーへ出席した限りは、皇帝陛下と皇后陛下へ挨拶をしなければならないため、真っ直ぐ前をみて歩き始めた。


 ご令嬢達との交流はその後にしよう。


 と思っていると、見慣れた茶髪が目に飛び込んできた。


 何回も何回も視線を送っていた彼の癖毛。堅苦しい服装が嫌いな彼らしく少し着崩してしまっている。些細な仕草だけでも彼を見つけてしまえるくらいに見つめ続けた人がそこにいた。


「……!」


 目が合いそうになってぱっと目をそらす。


 ここで会話はしたくない。

 もしルイスが私の思いに勘づいていとしたら。もしそうなら顔なんて合わせられたものじゃない。彼が私をどう思っているのかが怖い。


「レティ」


 鼓動が大きくはねた。


 当たり前だ。ルイスがこのパーティーにいるのは。なにをぼうっとしていたのかしら。はち合わせてしまう可能性を全く考えていなかった……。


「レティ久しぶりだな。体は平気か?」


 私の目の前にたったルイスは、私が恋していた時とは何かが違った。


 淡い茶髪も、エメラルドの瞳も、スラッとしてそれでいてしっかり筋肉が着いている様子が服の上からもわかることも、変わってはいないのに、ルイスはどこか、幸せそうだった。


 幸せそう……、シエラと、恋人同士になれたから。


 右手で左の二の腕を掴んだ。


「ええ……。大分体調は回復していたの。ごめんなさい、心配かけて」

「……そうか、良かった」


 目じりが細められて、私が大好きだった笑顔が目の前で綻ぶ。


 大好きだった。その姿を見るだけでドキドキして、いてもたっても居られなくなるくらい。体が宙に浮いてしまいそうになるの。信じられないくらいにあなたが好きだった。


 だったの。


「……ルイス」

「ん?」

「私、皇帝陛下に挨拶してくるわ」

「えっ……」


 するっとルイスの横を通りすぎる。ルイスは驚いたようだった。友達だったあの時は、もっと話していたでしょうからね。楽しげに、笑顔で。


 けれど私は変わった。あなたも変わった。昔に戻ることは出来ないし、戻りたいとも思わない。


 私はもう、


「レティ!!」


 びくっと肩を揺らした。聞きなれた女の子らしい透き通った声。


「シエラ!」


 今度はルイスの声だ。


「レティ!レティ待ってよ!!」


 会場中へ響いてしまうんじゃないかと思うくらいの大声だった。

 呼び止めるくらいならそんな大声を出さなくてもいいのに。貴族令嬢がそんな振る舞いはよした方がいいと、あれほど言ってきたのに。


 振り向いた時、シエラはルイスの隣に息を切らして並んでたっていた。

 久しぶりに見るシエラの姿に、冷や汗をかく思いだった。


 黄味が強い金髪に、アメジストの瞳。ルイスが好みだと言っていたお姫様のようなひらひらとしたピンクのドレスが良く似合う、可愛らしいシエラ。


 私を映すその瞳は、涙に濡れていた。


「どうして……どうして私のことを避けるの?」


 避ける……?


 たしかに私はシエラにはあまり会わないようにしていた。


 だけどそれは、ストレスの原因になって、体調が崩れてしまうからだし、理由もなく追い返したのはシエラがなんの約束もなく、ルイスと二人で押しかけて来た時だけ。


 私はシエラに対して罪悪感を持っているから、何度か手紙を出したし、会えないことの理由もそこに綴ったはず。


 なのにどうしてそんなことを言っているの。

 泣くようなことをしたかしら、しかも、こんな場所で。


「酷いわレティ!私……私あなたの事を心配して、毎日毎日あなたの家へ足を運んだけれど、あなたは私を追い返すし、手紙だって送っているのに、返ってくるのは家へ来ないでの一点張り」


 体が冷えていく感覚に襲われた。シエラがなにを言っているのか分からない。


 私がそんなことはない。たしかに頻繁には来ていたけれど、決して毎日ではないし、来た時でもこちらが不利になるような状況にしないために、応接室へは通して、執事に対応するように言った。応接室へも通さずに追い返したのは本当にあの一回きりよ。


 手紙?手紙を出していたのは私の方。でもあなたからは返ってこなかった。てっきりあなたは手紙じゃなくて直接話がしたいんだ、と思っていたけれど……。


「どうして……?私あなたに何かした!?」

「シエラもうよせ。病み上がりなんだろう」


 ルイスがシエラの肩を抱いた。その仕草に息が詰まった。シエラの行動への困惑もあるが、私の頭は認め始めていた。シエラは、私を陥れようとしているということに。


「……ごめんなさいルイス」

「いいんだ。シエラのせいじゃない」


 周りからの視線が痛かった。

 この場にいる誰もが、私が悪者だと、信じて疑っていなかった。


 シエラはどうしてこんなことをするのシエラはこんなことをする子だったの?ルイスと恋人同士になって、幸せを掴んだはずでしょ?どうしてわざわざこんなことをここでしているの?


 ぐるぐると頭の中を駆け巡る疑問たちに頭が割れそうに痛かった。シエラはまだ泣きながらルイスの胸に体を預けていた。ルイスはそんなシエラの肩を抱きながら、複雑そうな目で私を見ている。複雑といっても、子供を叱りつけるような、そんな怒りを感じ取れる。ルイスでさえもシエラを信じているんだ。シエラの嘘に気づけていない。


 そんなの当たり前だ。二人は、恋人同士なのだから。


 分かっていてもその事実に耐えられる気がしなかった。あんなに、十年間も一緒にいたのに。色んな姿を見てきたはずなのに、ルイスは、シエラの嘘に気づけない。ルイスが気づけない嘘に、周りが気づけるわけがなかった。私を信じてくれる人がいるわけがなかった。


 だって昔から、シエラの方が、友達は多かったもの……。友達が…。


「……」


 そこで初めて、シエラの首に金色のネックレスがかかっていることに気づいた。


 金色?ということはもちろん金属。

 おかしい、シエラは、金属アレルギーだったはずだ。


 シエラが金属アレルギーだと知ったのは、十五になった時にシエラと二人で招かれたお茶会。


 帰り際、参加してくれた方へのプレゼントだと言って、主催した令嬢の兄が参加者達に金属製の装飾品を配っていた。私は銀色のネックレスを頂いたけれど、シエラは突然自分は金属アレルギーなんだと言い出し、受け取れない、と言った。


 私はその時まで、シエラが金属アレルギーだとは知らなかった。だから驚き、そう言ってしまった。その時のシエラの顔は忘れられない。表情を一変させ、私を睨みつけたあの顔。邪魔しないでよ!とも言いたげなその表情に、私は凍りついたように動けなかった。


 結局シエラは、装飾品の代わりに、その家に咲いていた花を欲しがった。主催したお家の令嬢とその兄はシエラの心の美しさに大変感動して、その後もシエラと()()でお茶会を何回かしていたっけ。


 そして今日、シエラは金属製のネックレスをつけている。金属アレルギーだったはずなのに。もう昔のことだ。シエラが金属アレルギーであることを覚えている人はいないだろう。大事なのは、シエラは奥ゆかしく、心の美しい人、ということだけなのだから。だから誰も気づかない。私以外は。


 シエラはずっと昔から、私を陥れることで友人を作っていたんだわ。


 それに気づいた瞬間、シエラとルイスに対して抱いていた罪悪感が粉々に砕け散った。


 私は、私たち三人の中に恋愛感情を持ち込んでしまったから、私のせいだと思っていた。ルイスに恋した私が間違っていた。だけど、そんなことは無かった。


 全部、シエラのせいだったんだわ。


 私を騙してルイスを騙して、みんなを騙して、全てが、自分の思いどおりに行くようにしていた。


「……レティなんとか言ってよ。私、もう耐えられないわ。……今まで見て見ぬふりをしてきた。あなたのために。だけど……っ!……わたし、知っているの。あなたが、子供をわざと泣かせて、あたかも自分がその子を救ったように見せていること……」


 どよめきが起こる。信じられない、といった囁きが私にまで聞こえてきた。ルイスもそれは初耳だったようで、驚きの目で私を見てくる。


 落ち着こうとして深く呼吸をするが、上手く吸い込めずに思わず胸に手を当てる。それを見ていたルイスの顔が険しくなったが、その誤解を正す暇はなかった。


「だから私、そんなことをあなたがしないようにその子との間に割り込んだり、あなたを別の場所へ行かせたり、色々していたけれど……」


 それはしていたわね。そんな理由ではなかったんでしょうけど。


 大方そんな行動がバレてしまったんだろう。つまりはそういうことだ。


 ルイスとの関係を恋人、にできた以上シエラの目的は達成出来たはずだが、それでもなお私にこんなことをしてくる理由。


 どこかから、シエラの行動が偽善であることがバレてしまったから。


 たしかにあんなことを繰り返していれば、誰かの目には疑問に映るだろう。それがいよいよ広まってしまい、焦ったシエラは私を使うことで罪を擦り付けようとした。


「レティは、それでもまだ繰り返していたのね……。一ヶ月前位だったかしら。あなたが、茶色い髪色をした男の子をどこかから引っ張って来て、その子を押し倒しているところ、私見ていたの………」


 どよめきが更に大きくなる。なのに、シエラの声だけは鮮明に入ってきていた。


 一ヶ月、茶髪にけが、それは、あの時のレラントの……。


 あの時シエラがあの場にいた事に、驚きを隠せない。そしてその驚きは、周りからしてみれば悪事がバレてしまった者の仕草のように見えたことだろう。


「直ぐに助けに行こうとしたけど、あなたは騎士様にその子を引き渡した……だから、もうその子が酷い目にあうことは無いと思って……。あなたの狙いは、その騎士様の好感度をあげるためだったのかしら。そのネックレス、その騎士様から頂いたのでしょう……?」


 シエラの指先は、真っ直ぐに私の胸元を指さしていた。そんなことはない。今日は確かに、別のネックレスをつけたはず。そう思って見てれば、着いていたのは、騎士様を通してレラントの男性から貰ったものだった。


「……どうして」


 ハッとしてそれを隠す。


 アリエルだ。アリエルが今日あんなにはしゃいでいたのはこれだったのだ。


 多分アリエルは、あの騎士と私がいい感じになっているのだと勘違いをして、このネックレスをつけていくことで仲が発展するのではないかと、そう思っていたのだ。


 アリエルの気遣いが仇になるなんて……!


「……やっぱり…………そうなのね」


 シエラの声が聞こえる。ネックレスを握りしめた。


 これがレラントの方から頂いたものだと言うのは簡単だ。そう言ってしまえば恐らくこの会場のどこかにいるであろうあの騎士か、これをくれたレラントの方から説明してもらうことができるだろう。そうしたら私の疑いは晴れ、シエラの嘘を暴くことが出来る。


 だけどそんなことをしたら、私とレラントに関係があると思われてしまうかもしれない。それは、この国に来ているレラントの王太子様にとってはあまり良くないことのはずだ。


 隣国に来て早々、子供が行方不明になり、その国の令嬢に見つけてもらい、更にレラントの使者の一人がその令嬢にネックレスを送った。送ってくださった方と私との間に恋愛事情でも囁かれれば、その方にとってもあまり嬉しいことではないだろう。


 何より今この国で一番注目されている方々のことをこの場で言うのは得策ではない。


「……」


「……レティ」


 黙り込んだ私に、ルイスが信じられない、というような表情を向け、シエラを守るかのように抱き込んだ。


 まるで私が、シエラを攻撃するかと思っているようね。私が悪者。シエラはヒロイン。ルイスはヒロインを悪者から守るヒーロー。


 すべて、シエラが作り上げた。


「……親友だと思っていたのに」


 シエラのその声に、胸の前で重なった手の甲に、爪がくい込む程に手をにぎりしめる。


 それは私の台詞よ。


 どうしてこんなことができるの。ルイスだって、一緒に笑いあった時間は確かにあったのに、少しも私のことを信じようとはしないのね。


 どうして周りの人々はシエラなんかを信じるの。どうして誰も私のことを分かってくれないの。どうして、


 私ばかりがこんな目にあうの。


 泣きたくない。私は何も間違ったことはしていない。なのにみんなは私を信じてくれない。その事実に涙が出そうになる。悔しくて仕方がない。泣きたくないのに、絶対に、負けたくはないのに。


 "あっ!こら!!"


 視界が滲み始めた時、突然レラント語が響き渡り、それとほぼ同じタイミングで私の足に何かが飛びついてきた。衝撃で倒れそうになるのを何とか踏ん張り体を支える。


 驚いて見下ろすと、見覚えのある茶色い髪が見えた。


 "お姉さん、久しぶり!"


 私を見上げるその顔を見て目を見開く。


「……あなた…………」


 あの日、私が騎士に送り届けてもらった、レラントの男の子だった。たしかにこの子はレラントの子だ。ここにいても何らおかしくはないけれど、それはこの子の位が高かった場合だ。あの日、あのベンチにいたこの子の格好からは位が高いとは思えなかった。


 その子が話す言語でレラントの子だと分かった貴族たちがまた違ったざわめきを起こす。


 私が信じられない思いでその子を見下ろしていると、私の目の前に誰かが立ったのが見えた。


 顔を上げると、シャンデリアの光と重なり、眩しくて目を細めたくなるほどの眩い白金髪を持った男性が、私の前に立ち、僅かに微笑んでいるのが見えた。


 その肌の白さから直ぐにレラントの男性だとわかったが、その美形の次に目に入った服装を見て息を呑む。


 その肩に着いている紋章は、この国でも、レラントでも付けられる者は一人しかいない。


 レラント王国の王太子。ラウル・フォルツィカーセ・レラント、ただ一人。


 "レッ、レラント王太子殿下にご挨拶申し上げ"

「結構です。堅苦しい挨拶は必要ありません」


 頭を下げかけた途端にいわれ、おずおずと顔を上げると、王太子様は私に向かって手を差し伸べていた。これは、手の甲への口付けを挨拶とする合図。


 親しい者や、アピールをしたい相手に使う物のため、レラントの王太子様が軽々しく使っていいものでは無い。


 周りの女性たちの間から悲鳴が漏れる。


 断れるはずもなく、迷いながらも戸惑いがちに手を伸ばす。


 そっと手を重ねると、形の良い唇が手の甲に触れた。それだけで顔が真っ赤になったのが分かる。


 事態を理解出来ずに、ただ困惑と恥ずかしさでわなわなと震えていると、王太子様は私の胸元を見た。正確には、私の胸元にかかっているネックレスを、だ。


「私が贈ったネックレス、つけてくださったのですね」

「え……?」


 きゃぁぁっ、という悲鳴が響き渡った。あっという間にそれは伝染していき、誰もがこの王太子様の行動に注目している。


 私が贈ったネックレス?


 でも、これを下さったのは……。


 騎士の言葉を思い返してあ、ときづく。そういえば騎士は、レラントの男性、と言った。あの日、レラントの王太子様たちもお忍びで来ていたはずだ。その服装だけで判断したのなら、王太子様だと気づかなくてもおかしくはない。


 いや、気づいてくれないとこちらが困る!と今更なことを頭の片隅で考えつつ、王太子様の手から右手を抜き取った。


 恥ずかしさからの行動だったが、ふっと王太子様から笑いを贈られ赤面する。


 これからどうしていいのか分からなくなり俯くと、足元にいた男の子と目が合った。


「あ……」

 "……ねぇお姉さん、あの人……凄い睨んでるよ"


 あの人、と言ってその子が指さしたのは、私の背後にいたシエラだった。


 驚いて振り返ると、シエラがぱっと表情を取り繕ったのが見えた。


 これまでの事で、シエラにとって私は、簡単に切り捨てられる存在だと分かっていたが、はっきりとした憎悪を見るのは初めてで、体が強ばる。


 その時、なにかが腰に当たったと思ったら、その何かが前まで回ってきた。


 ぎょっとしてそれを見ると、王太子様の腕だった。


「大丈夫です。あなたは何も悪くない。堂々としていてください」


 そう囁かれた。


 一瞬何を言われたのかが分からず王太子様を見上げる。


 私は何も悪くない。そう言ってくれた人は王太子様が初めてだった。


 いつも自分に言い聞かせていた。私は悪くない。悪くない。だけど、それを言ってくれる人がいないから、どんどん不安になってきて、不安のままでいるのが嫌で、結局何か自分の悪いことを見つけてしまう。


 アリエルには私の弱い所を見せられなくて、弱音を吐くことが出来なくて、いつもいつも、私のことを本当の意味でわかってくれる人はこれまでにいなかった。


 今日までは。


「バイオレット男爵令嬢。初めまして。レラント王国王太子、ラウル・フォルツィカーセ・レラントと申します」

「……初めまして。シエラ・フォン・バイオレットと申します。ラウル王太子殿下、お噂はかねがね」


「あなたに名を呼ぶことを許可した覚えはありません」


 先程までとは違う、冷酷な声色に驚いて顔を上げると、思ったよりも王太子様のお顔が近くにあって、硬直した。


 真っ白な肌に影を作るのもまた、白色を含む淡い金髪。湖色をした透き通るような瞳が、自分を見上げる私に気づき、視線を送る。


 近すぎる距離で見つめ合うことになり、言葉を失ってぱちぱちと瞬きを繰り返していると、ふっと微笑まれた。


「あなたは名前で読んでいいのですよ。ラウルと、そう呼んでください」

「え……」


 味わったことの無いきらびやかな空間に飛び立つように、目の前がちかちかと光った。それほどまでに王太子様の美貌が眩しく、耐えられなくなった私は顔を背けた。


「どういうことですか…?」


 そんな様子を見ていたシエラが手を口元に当て、あくまでも純粋な女の子、を演じながら私たちに声をかけてきた。


 その手が震えているところを見ると、さすがに王太子様の登場に平静は保てていないようだ。


「……レティ、レラント王太子殿下と交流があったのね」

「…………」


 普段通りを装おうとしているのが丸わかりだった。いや、周りの人達にとっては分からないことなのかもしれない。


「あなたがその日見た、ミルグリッド令嬢が怪我をさせていたという男児はこの子のことですか?」

「いいえ……茶髪なのは同じですけれど、その子とは違うと思います」


 シエラが平気で嘘をついた。目を丸くして首を傾げて、平然と話している。


 手を握りこみ、唇を噛む。


 今すぐにあなたの悪事を暴いてやりたい。全てここでばらして……、いや。


 そんなことしたって、誰が信じてくれるのだろう。


「……この子の膝を見てください。怪我をしていますね」

「まぁ本当!大丈夫?」

「茶髪に傷、ふたつ一致しましたね」

「……」


 王太子様の話に力が抜ける。なにを言おうとしているのだろうか。まさかこの場で、シエラを制裁しようとしているのか。


 レラント王太子殿下が、こんなに大きなパーティーで、そんな目立つことをすることが利益なわけが無い。むしろこの国の王に悪いイメージを持たせてしまうことも危惧しなければならないことだろう。


「一ヶ月前、この子は街で行方が分からなくなりました。私たちはこの子の行方を追う事が出来ず、困り果てていましたが、この子の方から戻ってきた時、ある騎士に抱かれていました。その騎士はどういう訳か、私が捜索を頼んだ騎士ではなかったのですが、まぁそれは置いておいて、その膝はどこかで転んでしまったようで、大きめのガーゼが貼り付けてあり、質の良いハンカチを涙を拭くために貰ったと手に握りしめていました」

「……」


 シエラの顔が強ばっていくのと同時に、人々のざわめきが静まり、痛いほどの静寂が会場を包んだ。


 私は、あの日私がしたことがそこまで彼に伝わっていることに驚きつつ、もしかしたら、シエラが、ここで裁きを受けるのではないかと思い、僅かな高揚に酔っていた。


「そしてこの子は、傷を手当し、ハンカチを渡したのは、新緑の髪に琥珀色の瞳を持つ、美しい女性だったと教えてくれました」

「…………っ」


 シエラの顔が悔しそうに歪む。シエラの仮面が、剥がれ落ちた瞬間だった。


 会場にざわめきが蘇る。人々の声が爆発音のように響き渡った。


 新緑の髪に琥珀色の瞳、つまり王太子様は、この子を助けたのはこの女性だと、はっきり言ってくださったのだ。わざと傷つけ善人を装ったのでは無い、シエラの言葉が偽りであると、断言してくださった。


 この状況で、この言葉が偽りだと進言できるものがいるだろうか。そんな度胸の持ち主はこの国には王族しか居ないだろう。


「それを聞いた私は、その女性に頼まれこの子を連れてきた騎士に、ネックレスを渡しました。その女性に会うことがあったら、これを渡して欲しい、と」

「〜〜〜〜〜〜っっ!!!」


 シエラの顔が怒りで真っ赤に染まった。


 ルイスが事実に驚き、後退りをするのが見える。これではっきりとしただろう。シエラの思惑が。


 と思ったのもつかの間、シエラはフーッと息を吐き、何故か笑みを浮かべ私たちを睨みつけた。


「……そんなに私を陥れたいのですか?」

「……なんですって?」


 私が反応してしまったことにより、シエラは一層笑みを深くしたかと思えば、次の瞬間涙を浮かべ、両手で顔を覆った。


「だって……きっとお二人は前々から恋人同士だったのでしょう?」


 なにを言い出すのかと思えば……。


 頭が痛くなるようだった。そんなことをこの場で言うだなんて……。


 王太子様にとってはもちろん、私にとっても害にしかならない発言だし、下手をすれば自分に跳ね返ってくるようなことだ。


「この一ヶ月間、私を家に入れてくれなかったのはそういうことだったのね?それで、レラント王太子殿下はレティを庇って……」

「私が偽りを言ったと言っているのですか?」

「……!」


 王太子様の発言を偽りだと言うこと、それは、高貴なる方々の逆鱗に触れることを意味する。


 シエラは言ってはならないことを口にした。ただ悪事がバレただけなら一生社交界へ姿を表せない程度だっただろうに、不敬罪ともなれば死刑も考えられてしまうのだ。


 ごくりと唾を飲んだ時、ルイスの体がびくっと跳ねた。跳ねたと言っても大袈裟なものではなく、言葉にするなら我に返った、とでもいうような。


 ……シエラがたった今犯した不敬罪に驚いたって、ことなのかしら。


 無理やりルイスから視線を引き剥がす。


「い、いえ、そんなことは……!!」

「お可哀想にミルグリッド伯爵令嬢……」


 急に腰に回っていた腕に力を入れられ、上を見上げさせられたかと思うと、目の前にその美貌が迫り顎に指を置かれた。


 今さっきまでシエラを糾弾していたはずなのにいきなり話の矛先が私を向いたことに目を剥く。


 驚いて息を止めていると、王太子様は可愛くて仕方がないというように笑ったあと、急に寂しげとも悲しげとも取れる表情を作った。


「!?」

「こんなにやつれてしまわれて……、それは誰でもこうなりますよね。ある人に信じられないくらいに傷つけられて寝込んでしまっているのに、そのある人が毎日毎日約束もせずに押しかけてきたら……お辛かったですね」

「……」


 言葉もなく艶やかに毒を含んだ言葉をはく唇を見つめる。


「ミルグリッド伯爵令嬢は本当にお優しいです。そんな人相手にもわざわざ応接室まで通して、使用人に対応をさせて……。そこまでしてあげたというのに、追い返されたと嘘を吐かれては…………」


 シエラのことを揶揄しているのだと気づき始めた貴族たちがシエラのことを嘲笑い始めた。シエラは今どんな顔をしているのだろう。悔しさを全面に出しているのか、それとも、もう通り越して泣きそうになっているのか。


「そんな愚か者に罵声を浴びせることもされず、この国と我が国のことばかりを考えてくださるその教養の深さと、街中で子供を助ける優しさ、それでいてあなたを陥れるこの場にたち続ける強さ」


 つい先程まで私の方を批判していた貴族たちに向けた毒だった。気づいたものは気づいただろう。僅かにざわめきが収まった。


「そして今まさに、私を魅了し続けるその美しさ……」


 話が変な方向へ飛んできていることにようやく気づいた私は、目を見開いて王太子様の目を見つめる。シエラに向けていた、殺意にも近いような目とは違う、何故か甘さを含んだその目に吸い込まれそう。


 そう思った私は、目をそらそうとしたが、顎に添えられた指が、それを許さなかった。


「実を言うと、ベンガルを助けてくださった経緯を聞いただけで、ずっと気になっていたんですが」


 耳元でそっと囁かれ、その吐息が耳をかすることでパニックになりすぎて、ベンガルって言うのねあの子……などと今全く関係ないことを考えながら、腰に回っていた腕が抜けたことにさらに驚く。


 解放された、と思ったがそんな訳もなく、今度は左手をそっと捕まれ、そのまま王太子様は私の目の前に跪いた。


 仰天したのは私だけではなく、周りの人々もだった。この日一番の悲鳴が轟き、会場を包み込む。


 けれどそれは、王太子様が口を開いた瞬間すっと収まった。


「ミルグリッド伯爵令嬢、どうやら私はあなたに惚れてしまったようです。私と婚約しては頂けませんか」

「……………」


 真っ赤になりすぎてきっとおかしな顔をしているだろう。目の前がちかちかと光り、足が震えた。


 伸ばしきれない右手の指先を口に当て、今しがた自分に贈られた言葉を反芻してしまう。


 私に惚れた……?レラント王太子殿下が?


 今声を出してしまえば滑稽な発音をするに違いない。


「…………」


 あわあわと口を動かすばかりで一向に返事をしない私を見ていてもどかしくなったのか、王太子様はちゅっと私の手の甲に唇を落とした。


「〜〜っ!」

 "……私と婚約してはくれませんか"

 


 婚約の申し出で既に倒れてしまいそうなのに、レラント語で王太子様がご自分の本音を言った時、おかしくなってしまいそうだった。


 まだ見慣れないその美貌が、私を見つめて紅潮していた。彼の真っ白な頬を染め上げるその色と、私を見つめる視線の甘さで、王太子様が本気であることは十分に伝わっている。


 そして私も、心臓がありえないくらいに強くうちつけ、目がうるみ始めていた。


 レラント王太子殿下がこんなに公の場で求婚してくださった以上、両国の関係を保つためには私は了承するしかないだろう。政治的な面で考えてしまえばそんな結論が出るのは当たり前の事だった。


 だけど、そんなことを考えずとも、きっと答えは決まっているだろうと思う。


 どうして決まってしまうのか、今の私には分からない。今はっきりとしているのは、王太子殿下と同じくらい、私も幸せそうな表情をしているだろうということだけだ。


 王太子様の熱い視線しか感じられない世界に飛ばされてしまったかのように、半ば酔ったように、私は喉をふるわせた。


「……はい」

 

 私の返事と共に、わっと歓声が辺りを包んだ。いや、悲鳴もあった。王太子様の妻の座を狙っていた他の女性たちや、シエラの。


 王太子様がゆっくりと立ち上がった。


 後ろを振り返ってはならない。シエラにこれ以上情けをかける必要は無い。なぜなら、私はもう、この方へ可と返事をしたのだから。


「ありがとう」


 そう言った王太子様の顔を直視することが出来ずに目を逸らす。とにかく頬が熱くて、気を抜いたら変なことを口走ってしまいそうで、胸がドキドキしすぎて、気が気じゃなかった。


「詳しいことはまた後日話しましょう」

「……え」


 その言葉に瞬間的に疑問を感じた私は、ぱっと王太子様の顔を見上げる。


 そこには先程までの紅潮や、幸せそうな笑顔はどこにもなく、まるで仕事相手と話すような、社交的な笑みが貼り付けられていた。


 それを認めた途端、驚くほど簡単に体の熱はひいていく。喉が乾き、体が強ばる。


 腰に回された腕に力がこもり、無理やり歩かされる。大丈夫ですか、という声が聞こえるけど、もう頭には入ってこない。


 気づいてしまった。王太子様は私のことが好きで求婚したのではない。


 憐れだったから、手を貸しただけなのだ。



 ◇◇



 連れてこられた部屋に置いてあった茶色い革製のソファに身を沈ませ、呆然と宙を眺めていた私に、紅茶が入ったカップが差し出された。


 咄嗟に受け取り礼を言う。


 "あ、ありがとうございます……"

「レラント語でなくとも構いません。この国の言語で話しましょう」


 そこで初めて王太子様にお茶を出させたことに気づき、型通りの謝罪をする。お茶を差し出したのが王太子様のお付きの方であったとしても、王太子様からのお茶であることになるため、これを言わない訳にはいかないが、王太子様は首を振った。


「堅苦しさは無くしましょう。私たちは婚約者同士になったのですから」


 婚約者。その言葉で動揺して手が震え、カップの縁から紅茶が数滴、ドレスにしみを作った。


 それに気づいた隣に立っていた女性が拭いてくれる。


「申し訳ありません!お気になさらず。乾きますし、私は」

「いいのです。これくらいさせてくださいませ」


 膝の上に乗っていた手を掴まれる。女性にしてはペンだこがあるようだった。女性には学問を学ぶ必要はないとされているため、その顔をまじまじと見てしまう。すると、その微笑みにある人とどこか似たものを感じるものがあった。


「……もしかして」


 私が気づいたと同時に、その女性は目を細め、そして


「ベンガルの母、ロティーネと申します。息子を助けて下さり、本当にありがとうございました」


 つむじが見えてしまうほどに深く頭を下げた。


 慌てて頭をあげて貰えるように言うが、重ねて礼を言われどうしようも出来なくなる。


「いえそんな……!たまたま見かけただけですから……」


 そんな私の様子を眺めていた王太子様が口を開いた。


「ロティーネは、私の優秀な補佐官なのです。レラントにベンガル一人残す訳にもいかず、無理を言ってついてこさせました。もしあの子に何かあれば、私はロティーネに殺されていたでしょうし、私も自分を許さなかったでしょう」

「……」


 口の中に苦いものが入ったようだ。


 ロティーネ様の、王太子様の補佐官という高い地位に就きながら、自分よりも身分が低いはずの私にここまで頭を下げる心の清らかさ、王太子様のロティーネ様とベンガルに対する誠実な責任感。そういったものにこの国では出会ったことの無い新しいものを感じ、そして感動する一方で、王太子様とロティーネ様達の間に深いものを感じ取り、複雑な思いになっている自分がいた。


 王太子様は私に好意を抱いてはいない。


 あのパーティーの場で、私を庇ってくださった理由、それは、ロティーネ様と、ベンガルのためなのではないだろうか。


 私がただ、自分の大切な人とその息子を助けた女、だったから憐れに思い、そして、気まぐれで助けてやろうと。私とシエラの間の因縁が思ったよりも深くて、仕方なく求婚する羽目になってしまっただけだとか。


 当たり前の事だった。


 私と王太子様は今日が初対面。王太子様が私に惚れている訳もなく、私を捨て身で庇ってくださるわけがなかった。


 全てはロティーネ様を愛しているからではないのか。


 私の考えは自然とそこに行き着いた。


「……申し訳、ありません…………」


 王太子様は私を愛している訳では無いのに、私のせいで、求婚する羽目になってしまったんだわ。愛する人が他にいるのに、私に…………。


 "どうして謝っているの?"


 ぴょんと、なにか軽いものが膝の上に乗ったかと思うと、肩にガシッと手がかかった。


 割と体重をかけられソファの背もたれに体重が傾く。


 "ベンガル!"

 "あ、泣きそうだよ。お姉さん。お母様、ラウル様、何を言ったの?"

 "あ、あの、ベンガル…様"


 突然の登場に目を剥き、とりあえず暗い表情はお二人のせいではないと言っておこうと思うが、この子のことをなんて呼べばいいか分からない。


 ロティーネ様のお子様なのだから、位は私より高い…………?のかしら。


 様?なんで??と言われたため、敬称はつけないことにした。


 "あなたのお母様と、王太子殿下のせいではないのです、ごめんなさい、私が悪いのです"


 目を伏せて言うと、服が擦れる音がして、ベンガルがふりかえったのだろうか、膝の上にある体重が、僅かに右へ傾いた。


 それに耐えきれずに私諸共傾いたところで、大きな手で肩を抱かれる。


 "ベンガル降りなさい。お前の体重はレティーシア様には重いのだから"


 王太子様のお声だった。レティーシア、そう呼ばれ、びくっと肩を弾ませると、それを掴んでいる王太子様には当然伝わるわけで、顔を覗きこまれた。


「……嫌、でしたか?すいません、一刻も早く距離を縮めたくて…………」


 距離を縮める?何故それをそんなに急ぐのですか。


 王太子様が私に好意を抱いていらっしゃらないことが判明した以上、なにかに利用されるのは間違いなかった。そうでなければおかしい。こんなことをしても、王太子様には何の利益もないのだから。 


 助けていただいたからには、恩を返さない訳にはいかない。もちろん、返すつもりだ。だけど、それがなんであるのか予想がつかない。


 今の王太子様の言葉、一刻も早く距離を縮める。そうしなければならないような事に協力させられるのだろうか。それは一体なんなのか。


「レティーシア様にも、ラウルと呼んで欲しいのですが」

「………いえ、あの」


 すっかり臆病風に吹かれた私は、王太子様から完全に顔を背け、自分の体重で沈むソファの皺を見つめていた。


 何か言わなくちゃ。ラウル様、ラウル様とお呼びしなければ。


 そればかりが思考を占領し、もはや自分が今何をしているのかが分からないほどにパニックに陥っていた。


 精神の混乱、ストレス。それが私のここ最近の体調不良の原因だった。治ったと言っても、数日前の事だった。私も病み上がりに近い。


 そんな状態で、この緊張に耐えられる訳もなく、目の前がぐわんぐわんと揺れ始める。


 まずい、どうしよう。まずこれを治めないと。こんなところで倒れてご迷惑をおかけする訳には。


 今度はそれに乗っ取られる。


 深呼吸?こんなに間近に王太子様がおられるのに、そんなことをしてはバレてしまう。顔をあげて、違う景色を見ればいい?そんなことをしたら、王太子様と目が合ってしまう。


 ああ、そうだ。ラウル様とお呼びしなくちゃ。


 早く、早く。


「…レティーシア様?」


 早く 早く 早く 早く 早く


 "…お姉さん、今日はもうお家に帰った方がいい"


 朦朧とし始めたところで耳元でベンガルの声が響いた。


 帰る、帰る?それは、私がこんな状態になってしまったから、邪魔だと、そういうこと?


 "……分かった"


 今度は王太子様の声だ。


 嗚呼、どうしよう。私、王太子殿下に無礼を働いてしまったのだわ。


 王太子様の命令にも従えず、王太子様とその補佐官様にまで気を使わせて。そんなことをしてしまった。私の家門が取り潰しになってしまうほどの重罪にとられるかもしれない。


 一気に体の芯まで冷え上がり、いいえ、と息も絶え絶えに首を振る。


「大丈夫です、申し訳、ありませっ」

 "レティーシア様!大変……誰か!!レティーシア様の侍女を呼んできて!"

 "はい!"


 ロティーネ様の叫び声と共にベンガルが膝から降り、足の重石がなくなった私は王太子様の手に完全に体を預けてしまう。


 はぁはぁ、という荒い息を治めたいのに、言うことを聞いてくれない。


「ごめ、なさ……、申し訳……あり」

 "レティーシア、レティーシア大丈夫だから。そんなに謝らなくていい。何があなたを苦しめているんだ"

「お嬢様!!!」


 バタバタと誰かがかけてくる音が聞こえ、そして朦朧とする中でもはっきりと聞き取れる、聞きなれた声に部屋中に響き渡るような大声で叫ばれる。


 うっすらと目を開けると、アリエルが王太子様を押しのけ私の膝元に跪いていた。


 そんなことをしてはいけない。それを注意できるだけの意識はもうなかった。


 早くお嬢様を屋敷まで運んで!


 そんなアリエルの声が聞こえている中、私はどうやっても抗えない程に意識が薄らいでいき、そして、完全に目の前が真っ暗になった。



 ◇◇



 レティーシアがいなくなった部屋に、重苦しい空気が流れた。その発信源は、自分な訳だが。


 数々の女性達を虜にしてきたであろう、レラント王国の中でも王族しか持つことが出来ない艶のある白金髪を無造作にかきあげる。


 今しがた侍女に連れられ部屋を出ていった彼女の事が気がかりでならない。確かに彼女を傷つけようとしていたあのパーティー会場から、自分は救い出したはずだ。なのにどうして、今この状況になっているのか。


 急に名を呼んだからか。思えば彼女の体調が悪くなり始めたのはそこだ。だが、彼女はもっと前、この部屋に入る前から顔色が真っ青だったようにも、今なら思える。


「……、っ、はぁ」


 苛立ちを隠せずに机に体重を預ける。


 彼女がなにかに恐怖を抱いてこの部屋にいた事、なぜ気づけなかったのか、それは偏に、彼女がそれを隠し通そうとしたからだ。


 レティーシアはその能力が高すぎる。もちろん社交界という場においては最も重要なことであり、それがこの自分の目まで欺ける程の完成度であれば賞賛に値する。


 ここが社交界であれば。


 自分が気づかなければならなかった。彼女をあんなふうにさせてしまう前に。完全に油断していた。あのパーティー会場から連れ出せた時点で、レティーシアを救い出せたと勘違いしていた。


 レティーシアの美しさに酔っていたことは認めよう。彼女の可愛らしさに平常心を保てていなかったことも認める。だがそんなことは、言い訳にはならない。


 "ベンガル、どういうことなのだろうか"


 顔を覆った指の隙間からロティーネの足元に座り込んでいるベンガルを見遣る。


 その顔は真剣そのもので、ベンガルの年頃では考えられない程の集中力を感じさせる。


 "…………。お姉さんは、僕たちのことを見ていなかった。お姉さんが見ていたのは"


 国だよ。


 静かな声だった。だがそれは、確実に的を射ていた。


 "ラウル様はお姉さんのことが本当に好きみたいだけど、お姉さんは違った。ラウル様のことを慕って求婚を受けたわけじゃない。で、ラウル様はお姉さんに慕われたい一心で、きっと自分のいつもを出そうとしてた。周りから好感を抱いてもらえる姿をね。それをお姉さんは見破ってしまった。これは本心からの笑顔じゃない、ってね"


 それを黙って聞いているには、恥ずかしく、そして悔しく情けないものだった。


 ベンガルは子供ながらにして他人の心を読むことが得意だった。学問ができるとか、秀才だとか、そういう意味ではない天才だったのだ。


 確実にロティーネの優秀さを引いているベンガルには、いつも頭が上がらない。


 ベンガルは今回も、なぜ彼女がああなったのか見抜いているはずだ。


 "そしてそれは、お姉さんに誤解を与えた。それでお姉さんは、ラウル様の行動の意味を違う方向で捉えて、自分を責めたんだ。そのせいで持病か何かが誘発されて、それによって訪れると思った国同士の諍いの予感が更にお姉さんを苦しめ、悪化に追い込んだ"


 大きく息を吐き、感情の昂りを鎮めようと試みる。


 "俺のせいだな"

 "そうだね"


 こういう時子供は容赦がない。それによって罪の意識が重くのしかかってきてくれるのだからありがたいのだが。


 レティーシアが自分に好意を寄せてくれているだなんて思っていない。それには早すぎる事だった。


 自分自身、こんなにも呆気なく恋に落ちたことに驚いている最中だ。自分よりも認識が遅かったレティーシアが、都合よく好意を抱いてくれると妄想するほど俺は楽観的ではない。


 それでも、彼女が見ていたのが俺ではなく国という、彼女が責任を取るには大きすぎるものだったことに気づけなかったことは、俺を打ちのめすには十分だった。


 "……レティーシアは、どうして俺の求婚を受けてくれたのだろうか"

 "そんなの考えれば分かるんじゃないですか"


 いつの間にかロティーネまで冷たくなっていた。ロティーネも分かっているのだろう。女同士、共感するところは山ほどあるはずだ。


 "…あの場では、俺の求婚を受けるしか無かったから"

 "あら、正解です。おめでとうございます"


 落ち込むしかない。


 ロティーネがここまで言う時というのは、俺に徹底的に非がある時だ。それがまたさらに事実を突きつけてくる。


 あの場で言うべきではなかったか?彼女は、自分が断ったら両国の関係が悪化するのではと考えたはずだ。俺は、レティーシアが断ることが出来ない状況を作り出してしまった。


 でも、それでも伝えたいと思うほどに、あの時のレティーシアは、美しかった。


 もちろんレティーシアを助けたいという気持ちもあった。だがそれよりも俺は、伝えたくて仕方がなかった。君は美しい、気高い女性であることを。そしてそんな君に、俺は一目惚れをしてしまったということを。


 レティーシアはあの場では一人だった。彼女を陥れようとしたシエラという女は隣に男を立たせて、レティーシアを嘲笑う人々は数え切れないほどの集団で。


 そんな中でも、レティーシアは伯爵令嬢としての誇りと責任を捨てなかった。彼女だけだった。最後まで、自分の感情を表さなかったのは。


 どれほど孤独で辛かったのだろう、悔しかったのだろう。俺が語るにはおこがましい。


 自分の感情よりも国の安寧を優先し、どれだけ悔しくても言い返すことはなかった。


 そんな姿を見ていられなくなったのはこちらの方だった。彼女が守ろうとしたものを、俺は壊してしまった。彼女の心を、守りたい一心で。


 "本当に愛してしまわれたのですね、殿下。殿下に恋人ができることを心配していた一か月前が嘘のようですわ"


 ロティーネの声が心無しか先程よりも柔らかかった。笑ったつもりはなかったが、どうやら苦笑気味だったらしい。部屋の空気がほんの少し和む。


 "……四日後、レティーシアの体調次第だが、ミルグリッド伯爵家へ行こうと思う"


 かしこまりました、とロティーネが頭を垂れる。


 四日後、自分の求婚を受けたレティーシアはどういう反応をするのだろうか。もう二度と誤解を与える訳には行かない。彼女を苦しませたくない。


 だが、自分の抱えるこの気持ちだけは伝えたい。彼女に分かって欲しい。俺が一瞬で惚れてしまうほどに、君は美しいと。


 なんとも複雑で絡まった感情を抱きながら、婚約の許可を得るために王のもとへと足を運んだ。



 ◇◇



「……さま、お嬢様、…お嬢様っ!?」

「へっ?あ、何かあった?アリエル」


 慌てて平常を取り繕うが、アリエルの目をごまかせるわけもなく、アリエルは腰に手を当て、しかめっ面で笑顔を貼り付けた私を出迎えた。


「何かあったじゃありません!体調が悪いのでしたら、直ぐにベッドへ戻ってもらいますからね!」

「わ、わかったわ」


 体の不具合を悟られないために背筋をピンと張る。不具合と言っても、昨日ベッドから抜け出したばかりのため、体がいつもより重いと言うだけだが。少しでも背中が曲がっていればアリエルの怒号が飛ぶため、いつも以上に注意を払った。


 そこまでして私が庭へ出たいと言った理由。


 三日前のことを思い出してしまった私は、ほんの少し赤みを帯び始めた頬に気づき、右手の甲で擦った。化粧をしていないためアリエルが怒ることはなかったが、摩擦で傷つきますよ!と言わんばかりの視線が送られる。


 動揺を隠そうとしている私はそれに気づいていないわけだけど。


 あの日、王太子様が私に求婚してくださった日から三日が経った。

 …私が無礼にも王太子様の御前で倒れた日からも三日が経った。


   お母様に事の経緯を話した時はお母様があまりにも青い顔をするから体に負担はないかと心配になったものだ。


 幸いにも家門への罪状が届くことはなく一安心な訳だが、私の心が穏やかになることは無かった。


「…………」


 何度でも思い出せる。あの日、私のもとに跪いた皇太子様。私を見つめる目、私に愛の言葉を捧げる唇。ロティーネ様とベンガルを優しく見守るあの瞳も。


 結局あれから音沙汰はない。やはりそういうことなのだろう。


 本気ではない。王太子様は。


 私がこの結論に至るのは早かった。意識を取り戻して一日も経たないうちに、あの求婚への返事をなかったことにする方法を考え始めたのだから。


 私があんなに公の場で言ってしまった以上、私から王太子様へ、もしくは王太子様から私へ断りを入れるということは難しいだろう。


 王太子様の面目丸つぶれと言うやつだ。とは言っても王太子様に求婚をなかったことにしてくださいだなんて恐れ多すぎて失礼すぎて無礼すぎて言えたもんじゃない。


 だとしたら方法はひとつ。


 私が何かしらの欠点を抱えているがために、レラント王国へ嫁ぐことは出来ない、と言うこと。


 私の場合、体が弱いために王太子妃になる事は出来ないと、そう言えばいい。


 求婚相手が何かしらの問題を抱えていれば、それは求婚した側の責任にはならないから、王太子様にはなんの被害もないだろう。


 あるのは私だけ。レラントの王太子様から求婚され、受けておきながらそれを断った令嬢。そんなレッテルが貼られる。王太子妃という座を体の欠陥という理由で蹴ったからには、今後結婚することは難しくなるだろう。


 それでもいいと、私は思っている。


 私は王太子様に恩がある。あのパーティーで庇って頂かなければ、生涯独身で暮らすよりももっと酷い人生が待っていたことだろう。


 貴族令嬢にとって、結婚とは例えようもない程に重要な事だ。結婚できないのなら生きている意味などない。そう言われてしまうほどに。


 だけど、たとえ後ろ指をさされようと、私は王太子様との婚約を避けることにした。


 王太子様に、本意ではない求婚をさせてしまった罪悪感。それもあるだろう、だけど、


 それよりも私は、王太子様とロティーネ様の邪魔はしたくない。


 いや、もし嫁いでしまって、王太子様に愛されることの無い事実に気づき、愛を育むお二人を見ることに耐える自信が無いのだ。


 一生独り身になってしまったとしたら伯爵となったお兄様を隣で支えようか、いや、妹がいつまでも家に居座っているだなんて嫌かもしれない。お父様やお母様と共に退いて、二人と一緒に暮らそうか。


「アリエル、レラント王太子殿下に手紙を」

「……はい。ここでお書きになられますか?」


 ええ、と頷いた私がアリエルではなく遠くを見ていたからなのか、それとも声が悲しみに溢れていたからになのか、アリエルは悟ったらしく、無言で頭を下げ、そしてミルグリッド伯爵家の家紋が印璽られた便箋とペンを持ってきた。


 風が涼しくなり始める季節だ。頬を撫でる、草の匂いを感じさせる風を感じながら、私は静かにペンを走らせる。


 一言も発さず、物音ひとつ立てずに手紙を綴る主人に合わせ、アリエルも私が手紙を書いている間、微動だにしなかった。


 その静けさの中、真っ白な紙に滲んでいくインクの色がやけに濃く見えて、その文字がやけに鮮明に見えて。


 心のざわめきを抑えられなかった。



 ◇◇



 辛いだけの恋なんて私には必要ない。自分の進む道をねじ曲げさせる恋なんて、邪魔にしかならない。そんなものをする意味はないし、する必要は無い。



 "殿下!!ミルグリッド伯爵令嬢から手紙が!"


 だって恋がない方が私は輝ける。自由でいられる。


 "早くこっちへ"


 ルイスへの思いが無くなった瞬間。私は水中から抜け出したように呼吸が楽になった。そして、後悔するのだ。私が今まで彼に捧げてきた時間と、自由と、気持ちの大きさを。


 後悔はもうしたくない。あんな思いをするのはもう十分だ。


 "……殿下、手紙にはなんと……"


 私はまだ王太子様を愛してはいない。まだ大丈夫。今なら引き返せる。


 "……直ぐに伯爵家へ行くぞ"

 "今すぐにですか!?"

 "早く!"


 大丈夫、今なら。


 まだ間に合う。



 ◇◇



「お嬢様、そろそろ中へ入りましょう」


 アリエルの声がかかったが、振り向くことなく私は返答をした。


「まだここにいたいの。あなたは入っていて」

「お体がまだ万全ではないのです。風も冷たくなってきておりますし、お体が冷えてしまいますよ」

「いいの。先に私の部屋へ行って、毛布とミルクを用意しておいてちょうだい」


 なおも言葉を重ねようとしたアリエルにいいから、と再度念を押すと、ちらちらと私を気にしながらカップを載せたトレーをかかえて扉の中へ入っていった。


 夕焼けの時刻はとっくに過ぎ、赤紫色だった空は、闇に近くなってきていた。木々がざわめき葉が揺れながら落ちていくのが見える。


 手紙を書き終わってから動くことのなかった椅子からようやく腰を上げ右足を踏み出すと、思ったよりも血が回っておらず、くらっと立ちくらみを起こした。


「…………」


 額に手を置いてやり過ごし、だいぶ視界が回復したところで歩き出す。


 地面を踏みしめる音と、風が木の葉を揺らす音。どこかで瓶でも倒したかのような微かな金属音。人間の声などどこにもない。寂しいと言えば寂しいし、虚しいと言えば虚しい。


 なぜ?


 ゆっくり空に手を伸ばす。


 なぜ私はこんな感情になっているの?


 王太子様に断りの手紙を送ったから?生涯独身である可能性が高いから?それとも、シエラとルイス、二人の友人を一気に無くしたから?社交界の人々に一瞬でも嫌悪の視線を向けられたから?


 誰かどうにかして欲しい。だなんて、気でも乗っているのだろうか。


 誰も来てはくれない。誰も助けてはくれない。誰も分かってはくれない。そんなこと、もうずっと前から分かっているのに。


「……変ね、私。……変だわ」


 自分でも自分の感情が分からないだなんて。



「…帰りましょう」


 ドレスの裾を翻した。


 お父様とお母様に謝らなくては。そうだ、アリエルにも。引く手数多であろうアリエルを一生を独り身で過ごす私についてこさせるわけにはいかない。どこかいい所へ紹介状を書こう。


 それから、


「ミルグリッド伯爵令嬢」


 静かな闇夜に透き通った声が響いた。女性にしては低く、男性にしては透き通りすぎているその声に、聞き覚えがある。ほんの一瞬、一夜の事だ。そんなに言葉を交わした訳でもない。耳元で聞いた訳でもないその声の持ち主をすぐに理解することが出来たのは、その声の美しさからなのか、それとも、記憶にこびりついてしまうほどに、私が彼にある思いを抱いていたからなのか。


 草を踏む軽やかな音が聞こえる。私が振り返る音だ。夜の空に浮かぶ月を背景に、月光を浴びてさらに神々しく輝く絹のような柔らかさの白金髪を持つ男性が、左隣にある一本の木に左腕をつき、微かに乱れた呼吸をしながら立っていた。


 前に見た時はもう少し緑を帯びていた。何かといえば彼の瞳だ。パーティーで見た時の彼の瞳の色はエメラルドに近かった。なのに今は、青みが強く、あの日とはまた違った雰囲気を醸し出していた。


「……どうやってここへ」


 始めに出てきた言葉はそれだった。もっと言う言葉はあるだろうに、と思ってももう遅い。


 王太子様は表情を変えることなく私を見つめ続けていた。何を考えているのかが読み取れずに、右手で左腕を掴む。


 ここはミルグリッド伯爵家の敷地内のはずだ。門は表門と裏門の一つしかなく、騎士が警護をしている。彼がここまで入ってくる頃には私に連絡が来ているはず。


 なのに、私は王太子様がここへ来ることを知らなかった。ということは、王太子様は門を通ってはいない。


 柵を乗り越えたというの?あの金属製の柵を?二メートルは優にある。あの高さを飛び越えるだなんて、しかも切っ先は鋭く尖っている。一歩間違えれば串刺しだ。


 それに気づいて僅かに視線をあげた時、王太子様が一歩、こちらに踏み出した。


「……なぜ、あんな手紙を送ってきたのですか?」

「…………」


 手紙。それは間違いなく、数刻前に私が送ったものだろう。求婚を断る旨を書いた、あれだ。


 王太子様が何を考えてそう言っているのかが分からず、黙り込むしかない。


 それが苛立たしかったのだろうか。さらに一歩、また一歩と近づいてくる。


「あの時、貴女は受けてくれたではありませんか。私の求婚を」

「…………」


 謝って、説明するべきだ。私は体調が思わしくない。私ではない、他の女性にするべきなのだと。そう、ロティーネ様に。


 でも、喉がまるで枯れてしまったかのように声が出ない。前にもこんな状況になってしまった。こういう時は決まって、そのうち息が出来なくなっていくのだ。それだけは避けなければ。


「…あの日、貴女が倒れた後、私はロティーネやベンガルから貴女に対する私の言動の軽率さを思い知らされました」

「……え?」


  突然謝罪をされ眉を顰める。何を言っているのだろう。王太子様にはなにも非はないし、あったとしても謝る必要なんて無いのだ。彼は王太子殿下なのだから。


「貴女をあそこまで追い込んだのは私だと、貴女の信念を突き崩し、貴女に誤解をさせ、苦しい思いをさせたのは私だと、気づくのが遅すぎました。申し訳ありませんでした」


 王太子様が頭を下げている様子を、言葉もなく見つめる。その状況が飲み込めない。彼はそんなことを言うためにわざわざ危険をおかしてここまで来たのか?

 そんなことをする意味が私にある?いいえ、あるわけが無い。


 もう十歩歩けば手が触れるという距離までになった私と王太子様の距離が、今になって何故か遠く感じられた。先程まで、王太子様が近づいてくる度に体が強ばって仕方がなかったのに。


「…王太子様が謝られる必要はありません。全て私のせいなのです」


「そうですか。では責任をとってください」


 声のトーンが幾分か落ち、私はびくっと肩を揺らした。まさか王太子様がそんなことを言い出されるとは思っていなかったのだ。


 あげられた顔は真剣そのもので、それが今の私には怒りの表情にも見え、肩を震わせる。


 咄嗟に後ろを振り返り、誰かいないか確認してしまう。


 誰もいない。当たり前だ。私が追いやった。


「……なぜ」


 前を向き直った時には、王太子様の顔がすぐそこにあった。近すぎるその距離に息を呑む。


 王太子様のお顔やお声が美しいとか、そんなことを考えられるような余裕はもうない。


 その余裕のなさを私を見つめる視線にも感じて、王太子様も何かに焦っていることに気がつく。


 どこか必死ささえも読み取れる雰囲気がそれを証明していた。


「なぜ、あんな手紙を送ったのですか」


 それは最初の問い掛けと同じだった。私が振り向いて、王太子様を視界に入れた時と同じ。


 王太子様がここへ来た理由は謝罪ではない。これを聞くためなのだと知り、目を逸らす。


 今なら声が出そうだった。だが今度は、本当に言っていいのかを躊躇する。これは王太子様の機嫌を損ねることになるだろうか。ロティーネ様を愛している彼にとっては私は一番邪魔な存在。そんな婚約相手が婚約を拒否しているのだ。しかも自分には被害がない方法で。私の考えが正しければ、王太子様はお怒りになるどころか喜ばれるはずだ。


 私の考えが、合っていれば。


「……王太子様からして頂いた求婚への返事を、なかったことにするためでございます」


「なぜ」


 その声色で、王太子様が怒っていることに確信を得た。その一言が、文にもならないその一言が、王太子様の今の心境を物語っていた。


「…私……、私、申し訳ないのです。王太子様に、私などに求婚させてしまったことが」

「……はい?」

「王太子様はっ」


 もう全て言ってしまおう。そして怒られるなりなんなりして、不敬罪に当たったのならもうそれでいい。家族にだけ被害が及ばぬように頼みこもう。この命をかけて。


 そう自暴自棄になった私は、半ば叫ぶように言葉を連ねた。


「あの場ではそうすることが最適だったから、それだけの理由で王太子様の妃にならせて頂くなど、そんなことはしてはいけないと思ったのです。何より、王太子様が他に愛する女性がいらっしゃるというのに、私のせいでこうなってしまったことに私は……っ耐えられないのです!」

「ミルグリ……」

「私には出来ません!王太子様の妃となって、愛されることなく、愛することなく、王太子様がロティーネ様と仲睦まじく暮らす姿を眺めるだなんて、私には、私には到底できるわけが無いのです!」


 錯乱状態になり、身体中の酸素を一気に言葉として吐き出した私は、案の定後ろへよろめいた。


 そんな私を、呆然と見つめていた王太子様は咄嗟に抱きとめてくださる。だけど、その腕に甘えることは出来ない。直ぐに抜け出して距離をとる。


「申し訳ありません……伯爵令嬢であるからには、それぐらいのことやってのけねばならないのに、私には出来ないのです。…自分の心に、嘘をつき続ける自信がありません…」


 両手で顔を覆う。今の今までくい込み続けていた右手の爪が無くなった左腕から血が流れでる。それが肘を伝いドレスの袖を濡らすのを感じながら、同じように頬を涙が伝っていた。


 いつの間にか風はやみ、代わりに私のすすり泣く音が静かな庭に響いた。


 こんなに取り乱すつもりはなかった。なのに、溢れて止めることが出来ずに、結局王太子様に無礼を……


「……ミルグリッド伯爵令嬢」


 体が揺れると同時に足が後ろへ下がる。


 王太子様が近づいてきているのを空気で感じ、体を縮こませる。罵倒される覚悟も、手をあげられる覚悟も出来ていた。


 しかし訪れたのは痛みではなかった。


 ゆっくり顔を覆う両手を外され、涙に溢れた顔を間近で直視される。


 恥ずかしくてどうにかなってしまいそうだ。こんな顔を見られるなんて。


 目や鼻、頬は真っ赤になっていることだろう。その上を次々と溢れ出る涙が濡らし、変な風に顔が歪んでいるはずだ。顔を隠そうとしても手が掴まれていては何もすることが出来ない。


「ミルグリッド伯爵令嬢……私は、貴女を」


 ぎゅっと目を瞑る。もう何を言われてもいい。私はそれだけの事をした。


「私は貴女を、心の底から愛しています」


「え……?」


 一瞬、自分が何を言われたのか分からずにただ目をぱちぱちと動かす。それによって目に溜まっていた涙がこぼれ落ち、それを見た王太子様はいたましげに顔をしかめ、そして懐からハンカチを取りだし私の目元に当てた。


 突然の行動に目を閉じる。ハンカチは目から頬、頬から顎へと伝った。


 その手触りや染み付いた香りに記憶があり、目を開けると、その真っ白なハンカチには見慣れた刺繍が施されていた。


「……それは…」


 一か月前、私がベンガルに初めて出会った日に渡したあのハンカチだった。


 てっきりもう捨てられたと思っていた私はそれが今ここにあり私の涙を拭っていることに思考を奪われる。


「覚えていますか?貴女がベンガルにくださったものです」


 もちろん覚えている。遠慮がちに頷くと、王太子様は微笑んだ。その微笑みからは先程までの不機嫌さは何も感じられず、なぜ彼の機嫌が回復したのかが分からなかった。


「ベンガルはあまり私以外に懐くことはありませんでした。あの子は人の心を悟ることが得意なので。ですがあの日、ベンガルは嬉しそうにこのハンカチを握りながら言ったのです。凄く優しくて綺麗なお姉さんに会った、と」


 ベンガルがあの日王太子様にそんなことを言っていたことを知り、僅かに赤面する。ベンガルが人の心を悟ることができるだなんて驚きだけれど、今はそれどころでは無い。


「それを聞いた私は、貴女に興味を持ちました。それで、手元にあったネックレスを贈ったのです。それから一ヶ月の間、私はミルグリッド伯爵令嬢のことを調べ尽くしました」

「え?」


 その反応がつい素で出てしまい、ばっと口を押さえる。謝ろうとすると、それよりも先に王太子様が笑った。


「まぁそうなりますよね、部下の子から聞いただけで興味を持って、どこの家門のどんな女性なのかを調べあげるだなんて」


 そこまで調べあげていたことに驚きを隠せない。


 ということは、王太子様はあのパーティーの前から私のことを知っておられたということ?そうとは知らずに私は……


「そして、あのパーティーを迎えたのです。ベンガルに教えてもらい、貴女がどんな方なのかを初めてこの目で見たのです。そして、その美しさに目を奪われました」

「…………」


 口が半開きになってしまっているがそれを正す暇もなく距離を詰められる。


 王太子様の顔が、あの時と同じように赤く染まっていた。私の頬も、染まっているのだろうか。強く打ち付ける鼓動のせいで何も聞こえなくなっていた。


 この感覚は三日ぶりだ。あの時と違うこと、それは私を支配している感情だけ。


「私は貴女に声をかけようとしたのですが、シエラというあの女性が、先に貴女に声をかけてしまった」


 声に熱が宿り始める。木々が風に揺られ擦れる音が聞こえる。梟の鳴き声、あとは……


 私の心臓の音。


「正直私も分からないことだらけなのです。ですがこれだけはあなたにわかっていて欲しい。私は、あなたの強さや美しさに心底惚れています。偽りではありません。叶うならば国へ連れ帰って王妃にして、私の傍において一生大事にしたい。……こんなに我を忘れるほどに私を狂わせたのはあなたが初めてです。レティーシア」


 いつの間にかハンカチを当てていたはずの手は私の頬を包み込み、胸が密着してしまいそうなほど私たちの距離は短かった。


 月の光を背景に愛を告げる王太子様のその姿に目が回りそうだった。美しい、格好いい、そんな言葉では足りない。なんと言えばいいのかわからない。その愛を向けられている相手が私だと言うものだから余計に混乱してしまう。


「あなたを傍で守りたい」


 まるで胸に溜まった想いを吐露するかのように王太子様は言った。その声の響きが彼の言葉が偽りではないことを表していた。


 守る。

 その一言が脳裏にこびりつく。


 そのたった一言を、私にかけてくれた人は今まで誰一人としていなかったのだ。お父様やお母様はルイスに固執していた私には無関心。ルイスとシエラは見せかけの友情で繋がっていただけ。


 じんわりと熱くなっていく胸を押さえる。動揺から目を逸らし、何を言えばいいのか分からなくなってしまう。見つめられているのがわかる。逃げ出したくなるほどの熱さを持った視線が体に絡みついているようだった。


「わ、わたくし……」


 声が震える。唇が勝手に動き、心に浮かんだ感情をそのまま口に出した。


「あなたに守られたいです……」

「……それは、私の想いを受け止めてくれるということでよろしいのですか?」


 王太子様の手に誘導され顔を上げる。瞬きをすれば視界は晴れ、私だけを見つめてくれる王太子様のお顔。


 この感情は何なのだろう。昔ルイスに持っていた思いに似てもいるけど、それよりもずっと重い。

 ずっとそばにいて欲しい。今この瞬間のようにずっと私だけを見ていて欲しい。失いたくない。


「……受け止めるだけだなんて出来ません。私も…同じ思いを返したい」

「レティーシア」

「あなたが何よりも大切です、ラウル様」


 言葉を切った途端に、落ち着いていたはずの涙がまた溢れはじめる。この涙がどうして零れるのか自分でも分からない。


 私を抱きしめてくれるラウル様の胸の中の温かさに安堵したのか、ラウル様に愛されていることへの幸せか、それとも、また恋をしてしまったということへの恐怖か……。


 今の私には分からないけれど、ラウル様は分かっているのだろう。


 泣き続ける私を強く抱きしめ、その首筋に顔を埋めて、大丈夫、俺がそばにいると、囁き続けていた。



 ◇◇



「まぁそれで!!その後は!?」

「え?その後って?」


 興奮気味に乗り出してくるアリエルは、目をキラキラさせながらもうっと机をばしばし叩いた。その弾みに紅茶がこぼれそうになり、私は慌ててソーサーごと持ち上げた。


「そりゃあ口付けしたのかどうかですよ」

「くっ」

「月明かりの下、二人だけの世界。愛を確かめあった二人……。その次にすることと言えば口付けしかないでしょう」

「しっしてないわ!する訳ないじゃない。私たちはまだそんな関係じゃないし……」

「はっ!?」


 今度は口を開けて信じられないという目で凝視してくるアリエルになんだが気まずくなり目を逸らした。膝の上で組んだ指を弄りながら言い訳をするようにポソポソ話す。


「だって、ラウル様と私は婚約者でもなければ恋人でもないのだし」


 再びアリエルの衝撃の悲鳴が耳をつんざいた。


「恋人じゃない!?求婚されたのですよね?それをお受けになられたんですよね?これのどこが恋人じゃないんです?」

「……まだ、そこまで行ってないというか……。そこに至るにはお互いまだ、なんというか……」

「はっきり言って下さいませ」


 アリエルがそう言うから言葉にすることにするが、これは勝手な自分自身の感じ方でしか無かった。もしかしたらラウル様はそういう風には思っていないかもしれないし、私が悩みすぎているだけかもしれないけれど、それでも私は今の関係は恋人と言うには少し違う気がする。実際、求婚を受けたあの日から三日、ラウル様がミルグリッド伯爵家を訪れることはなかった。


 まだ三日、されど三日だ。あれはもしかして夢だったんじゃないかと、私を不安にさせるには十分な時間だった。ラウル様だって心変わりしているかもしれない。


 これは私の勝手な感じ方云云かんぬんからラウル様の心変わりまで話したところでアリエルに呆れられて催促された。


「ラウル様は、その……ロティーネ様というとても信頼なさってる補佐官様がいらっしゃるのだけれど、私は前まで二人が恋愛関係だと思っていたの。それでそれをラウル様に言ったのだけれど、説明……というか、実際どういう関係なのかを教えて下さらなくて」

「ロティーネ様とはあの時の緑色の髪をした方ですか?確か子供を連れていた」

「そうよ」

「お子様がいらっしゃるじゃないですか」

「でもお父様はいなかったのよ、もしかしたらもうこの世にはいらっしゃらなくて、ラウル様はそんな二人を支えるうちにロティーネ様に惹かれていき禁断の……」

「泣きそうになりながらとんでもない不祥事を妄想しないでくださいませ」


 うっと口を噤むとアリエルははぁ、とため息をついた。


「そんなお相手がいらしたらそもそもお嬢様に求婚などされませんわ」

「でも、気になってしまうのよ……。それに、私、まだラウル様に言葉を返せていなくて」

「言葉?」


 ラウル様は私を愛していると言ってくださった。心から愛している、守りたいと。でも私はそれに対し、あなたが何よりも大切です、としか伝えていないのだ。あの時私はどうしてその言葉を選んだのか。


 それはきっと、愛を口に出すのが怖かったのだ。私はまだ、ルイスとシエラのことを引きずっている。


 ラウル様が本気で私に求婚してくださっていることにはとっくのとうに気づいている。けれど私はまた恋をするのが怖い。しかもルイスに抱いていた思いよりも何百倍も重く感じるこの感情を彼に伝えてしまったら、きっと私はもう、戻れなくなる。


 私はラウル様に惹かれている。これは事実だし、そばにいたいと、いてほしいとも強く願っている。きっと彼は受け止めてくれるのだと思う。ラウル様は私を愛してくださっている。


 今は。


 人の気持ちなんて変わってしまう。加えて彼は王太子様。次期レラントの国王なのだ。私が王妃になったとして、その責務を全うできるのだろうか。王妃になるための教育など受けたことは無い。


 色々な不安が積み重なって、彼とロティーネ様との間を疑ってしまい、彼も自分も信じられなくなっていた。臆病風に吹かれていると言うやつだ。



「……苦しいわ」

「……」


 アリエルもどうしたらいいか分からないと言った風に辺りを見回し、私はそれを横目にソーサーを戻した。


 沈黙が立ち込めていたがそれも束の間、いきなり扉が勢いよく開かれ、私たちは目を剥いて走り込んできたメイドを見た。


「お、お嬢様、レラント王太子殿下がいらっしゃいました……!」

「え!?」


 驚きのあまりがたんと音を立てて立ち上がる。家に来るという連絡は受けていない。そんな礼儀も何もないことを彼がするとは思えないが、確かに玄関ホールの方がザワザワと騒がしい。


 アリエルが咄嗟に私の髪を整え始めた。見上げる侍女精神である。


「いつお着きに?」

「たった今です!あ、あと、その……、バイオレット男爵と夫人が、いらしてます…………」


 途端に私は硬直し、アリエルもぼとっと櫛を落とした。メイドは言いにくそうにしながらもかなり焦った様子で言葉を続ける。


「バイオレット男爵夫妻はもう既にホールにおこしになってますが、レラント王太子殿下は今門をくぐったというところで、このままだと、は、鉢合わせになってしまいます……!」


 成程急いでいたのはそういうことらしい。ラウル様はシエラを公の場で断罪している。シエラの父母がラウル様に好感を抱くことなどないのではないだろうか。もちろんラウル様とていい気はしないはずだ。


 とにかく落ち着いて考えなくともまずいと分かるこの状況をどうにかしなければならない。ラウル様がホールへ着くまでに。


「お母様は今どちらに?」

「先程ちょうど馬車に乗られたところです」


 夫妻と鉢合わせなかった?と聞くとはい!と頷く。


 お母様は気分転換のために友人のお茶会に招かれていた。ほっと息を吐く。もしこんな状況に身を置かれたらそれこそ体調が悪化してしまう原因になるだろう。


「ふ、夫妻は応接室へお通しして。ラウル様がいらしたら何事もなかったかのように。私がラウル様を応対するから、夫妻は、えっと……」

「私が。お嬢様がお帰りになるまでの対応ということにしておきます」


 動揺で震えながらもかろうじてアリエルに頷き、メイドが出ていきしばらく経ってから外に出る。


 夫妻は応接室へ移動しているはずだ。とりあえずはこれで最悪の事態は免れたと言うところか。と思った瞬間、耳を塞ぎたくなるような金切り声が響いた。


「いいからレティーシアを連れてきなさいよ、あの女を!何度言えば分かるの!うちの娘の友人に会いに来て何が悪いのよ!」


 その姿を見なくても分かる。シエラの家へ遊びに行った時、何度も私にかけられた声。もっともその時は私に媚を売る、猫なで声だったけれど。


 ホールに繋がる階段の手すりの隙間から私のドレスの裾でも見えたのだろうか。一瞬声がやみ、そしてコツコツとヒールの音が近づいてきた。


「お久しぶりですわね。レティーシア様」


 すぐ下で聞こえたその言葉に反応しない訳にも行かない。私は震える手を握り込み、意を決して踊り場に姿を現した。


「ええ。お久しぶりです、バイオレット男爵様、そして夫人。立ち話でもなんですから、応接室へどうぞ。紅茶を用意しております」

「いいえ、結構ですわ。そんなことより……!」


 誘導に失敗した。直に見る男爵夫人の顔色は真っ青で、切羽詰まった様子だった。隣にいる男爵は何かイライラとしたように足を踏み鳴らし、私を睨みつけている。二人とも顔に笑みを貼り付けているが、明らかに作り笑い。


「シ、シエラのことでまいりました……!娘が大変な無礼を働いたようで」


 予想に反すること言われ、私は面食らった。


 てっきりシエラを陥れたとでも言って攻撃してくるかと思ったけれど、そういう訳では無いらしい。


 それ以外となると、娘の不祥事を庇ってもらいたくて来た、というところかしら……。


「行き過ぎた行動でしたわ。私や夫がきちんと言ったら分かってくれました。レティーシア様もご存知の通り賢い子ですから」


 両親に言われなければ分からない女はそもそも賢くないのよ。いや、シエラは分かってはいない。自分が犯したことがどれだけ重い罪なのか。どれだけ私を傷つけたのか。どれだけ家門の名を汚すことだったのか。


 どちらにせよ、娘の不祥事を認めることも無く謝罪することもなく、私に媚を売ってくるこの二人が仕切る家なんて潰れるのも時間の問題だったでしょう。


「レティーシア様、よく家へ遊びにいらっしゃいましたよね?娘と楽しそうに遊んでお話しして、もう十年以上経つではありませんか!それだけ仲を深めた親友ですもの。シエラのいい所も悪いところも全て受け入れてくれていたはずです」


 薄笑いを浮かべ、脂汗を流しながらそんな言葉をつらつらと並べる夫人の顔を見て、私は顔を歪めた。


 二人はそんな私の表情の変化に気づくことはなく、にこやかにうんうん、と頷いている。


 気持ち悪い……。私のことを全てよく分かっているとでも言うような仕草。自分たちと私は信頼し合っていて、認め合っている関係だと、自ら言っているのだ。そうしながらも、私をこのまま言いくるめられると信じて疑っていない。今までと同じように。


「……それで、結論はなんなのでしょう」

「…ですから!親友にこんな酷い仕打ちはなさりませんよね?あんな公の場で断罪をしてこのまま社交界から追放だなんて。誰だって過ちを犯すことはあります!レティーシア様もよく分かっておられますよね?」

「……まるで私が過ちを犯したことがあるとでも」

「え?あぁ、例えば娘への装飾品を奪おうとしたり、娘の功績を横取りしたりですが、うちのシエラは笑って許していましたよ。正直私共は憤っていたのですが、シエラが笑いながらそんなことはどうでもいい。きっとレティにも理由があったというものですから、関係を続けることを許して今に至ります」


 はっと笑いが込み上げてきた。目の前にいるこの二人が何を言っているのかよく分からない。明らかに私を見下している言動、そうすることを無礼だともなんとも思っていない態度。自分の娘が全て正しいとそう思っている。


 この二人はどうやってももう無理だ。これ以上話していたくない。何を言ってももう無駄。こんな人達が改心することなんてない。


「ですからレティーシア様も今回は見逃していただけませんか。これくらいなら多めに見てやってもいいと思いますがねぇ。シエラも反省していますし。レティーシア様が今回のことは誤解だったのだと仰ってくだされば全てが丸く収まります!」


 階段の手すりを握りしめ、唇を噛んだ。


 激しい怒りが目をつつみ、なんなら涙まで出てきた。どうして私はこんな人達の家とこれまで友好関係を築いてきたのだろう。この十年、何もかもが無駄だった。


 どうして私はこんな人達に時間を費やしてきたの。シエラの暴挙に振り回され続けて、利用されていただけ。


 なんて愚かだったの私は。なんでもっと早く我に返らなかったの。こんな人達、見捨ててしまえばよかったのに。


「……お言葉ですが、弁明する相手をお間違いではありませんか?」

「……はい?」


 二人の作り笑いに罅が入る。


「お二人はまだ娘さんの罪を理解なさっておられないようです。シエラが今回問われている罪は、私に対する数々の不当な行動ではなく、レラント王太子殿下に対する不敬罪です。それを私に許すようにと言われましても……」


 困ったような笑みを浮かべてみせると、男爵がダンダンと子供のように床を踏み鳴らしながら私に指先を向けた。


「だからっあんたと王太子殿下は婚約者同士だろうから、王太子殿下に進言することも可能なんだろうが。わざとらしい!娘を陥れる気か!だからあれだけ言ったんだ。あんたは信用出来ないと。結局コンバット男爵家の子息に愛される娘を見て嫉妬に駆られてこんなことを起こしているんだろう!あんたはずっと子息に懸想していたからな!」


 ピクッと動いた私の眉を見て核心を突いたとでも思ったのか、気持ちの悪い笑みが顔に浮かぶ。隣にいる夫人が何やら男爵に耳打ちをする。それを聞いた男爵はにやりと笑みを深くし、嬉々として手を広げた。


「ではこうしましょう!レティーシア様。もしあなたが王太子殿下に娘の無実を進言してくれないのであれば、私共は代わりにあなたとコンバット男爵子息のことを言ってしまいましょう」


 顔を俯けた私を見て、このまま言いくるめられるとでも思ったのか、さらに言動はヒートアップしていく。アリエルが今にでも殴りかかりそうな顔をしているが、ほかの使用人たちに押さえつけられている。自分たちに飛び火が来るのが怖いのだろう。


 男爵が喚き散らすのを片耳で聴きながらはぁ、とため息をついた。なんでこの人達はこんなにも偉ぶっているのだろう。真剣に考えればわかることじゃないのか、と。


 ()()()は男爵とその夫人。()()()は伯爵令嬢。


 身分の差が明らかなのにも関わらず、私がここまで見下されているこの状況に嫌気が差した。何もかもが面倒くさい。


 大嫌いよ、みんな大嫌い。ルイスもシエラもあなた達も、今までの自分も。私の味方はアリエルだけだった。今までは。もうアリエルを私に縛り付けることは出来ない。私はこれから一人になってしまうんだわ。


 それでも構わない。そうしたら全てを捨ててしまおう。もう全てがどうでもいい。私にはもう、何も残っていないのだから……。


 目を閉じたその時


「おや、先客がいましたか」


 二人の向こう、扉の方で声が響いた。ばっと顔をあげると、どこが懐かしくさえも感じられる美しい白金髪の髪を持つ男性が立っている。


「レティーシア、遅くなってすみません」

「…………ラウル様…」


 胸がきゅうと締め付けられ、駆け寄りたい衝動に駆られたが、直ぐに現実に引き戻される。


「これはこれは、レラント王太子殿下!お会いできて光栄です」

「まぁ、貴方様が……!私のこと覚えていらっしゃるでしょうか。一度あのパーティーでご挨拶させていただきました。その後あんな騒ぎが起きてしまい面目ございませんが……」


 餌に食らいつく魚のように二人はラウル様の元へ駆け寄り、嬉々とした顔で話しかけ始めた。


 私は一瞬焦ったけれど、ラウル様のお顔を見て踏みとどまった。ラウル様は笑みを浮かべたまま二人の挨拶を受け、そして


「どんな神経でこの場へ来ているのですか?あなた方は」

「……は?」


 唖然としている私にウインクを投げたあと、そばにいた召使からある書類を受け取り、それを無造作に男爵に投げ渡した。


 書類の内容は分からないが、男爵の反応を見る限り只事では無いのだろう。男爵は目を通すや否や顔を青白くさせ、狼狽え始める。


「どっ、どういうことですか!これは一体…!」

「どうもこうも、お取り潰しと言うことですね。僭越ながら先程皇帝陛下へ奏上したところ快く承諾してくださいました。近日中に屋敷を離れた方がよろしいかと」


 言い切ったラウル様は、わなわなと震える男爵夫妻ににっこり笑いかけたあと、急に表情を失い、王太子らしからぬ姿勢でこう言い放った。


 "まともな人間生活が送れると思うな、愚かな娘と共にせいぜい落ちぶれろ"


 恐らくレラント語が理解できない夫妻は言葉の意味は分からなかったようだが、ラウル様の身に纏うどす黒いオーラに命の危険を感じたのか、立たない足を無理やり動かし、逃げていった。


 夫妻が逃げ帰ったのを確認したラウル様は、まだ開いた口が塞がらない私の元へ歩み寄り、微笑みながら腕を広げる。


 その笑顔を見た瞬間、私は全身の力が抜け、よろよろとその腕の中に収まった。


「大丈夫ですか?遅くなって申し訳ありません」


 ぶんぶんと首を振り、温かい胸に顔を埋める。


「ありがとうございます、ラウル様…………」


 はい、と言いながら大きな手が私の頭を撫でてくれる。それだけで安心しきってしまい涙が溢れた。さっきあれほど絶望に満ちていたのに、すっかり消えてなくなった。


 この腕の中にいられるなら充分。もうこれだけでいい。私はこれだけで幸せ。


「今日はレティーシアにプレゼントがあって来たのですが、来て良かったです。あなたを守ることが出来たので」

「……来てくださって、本当にありがとうございます」


 発した声があまりにも涙声で、私は恥ずかしくなって腕の中から抜け出す。そうして見上げたラウル様のお顔は、何が決意したような表情をしていた。


「プレゼントというのは、これなのですが……」


 そう言ってラウル様は胸ポケットから小さな箱を取り出した。私はその大きさの箱に見覚えがあり、どくんと心臓が飛び跳ねたのを感じた。


 あれは……まさか、


「…受け取って貰えるでしょうか」


 小さな蓋が開き、ダイヤモンドの宝石とともに彫刻の彫られた、美しい指輪が姿を現した。


 息を呑んで思わず両手を口に当てる。


「気が早いかもしれませんが、どうしてもレティーシア様に、愛の証と言いますか、私からの贈り物を何か持っていて欲しくて」


 手を貸して頂けますか、と言われ左手を取られる。ゆっくりと薬指にリングが通され、冷たい銀の感触がこれは夢では無いのだと私に実感させた。


 言葉を失いそれを見つめていると、ラウル様はそこに唇を落とした。


「ラ、ラウル様……!」

「レティーシア、心から愛しています。実を言うとあなたが私の王妃になってくれる日が待ち遠しくて仕方がないんです。独占欲の塊で申し訳ありません」


 と言って笑う彼の笑顔があまりにも眩しくて、不安に揺れていた心があっという間に収まった。それと同時にまた涙がこぼれ、それを見たラウル様が慌てた様子で私を抱き寄せた。


「レティーシア、どうしましたか」

「愛していますラウル様」


 え、と固まる彼をよそに私は溜まっていたものを吐き出すかのように言葉を重ねた。


「本当は初めっからです。あなたは何度も私にそう言ってくれたのに、私は臆病だから何も返せていなくてごめんなさい。いつかあなたを失うことばかりを考えて、今私に向き合ってくれているあなたの心を蔑ろにするばかりで……」


 私がラウル様の立場だったら不安で仕方がないと思う。求婚した相手にいくら好きだ愛していると言っても、相手は愛しているとは返してくれなくて、ずっと過去に囚われたままうろうろしてる。いくら待っても自分の元へは来てくれないだなんて。


「好きです、愛しています。もうラウル様なしでは生きられません」


 きっと酷い泣き顔を晒しながら私はラウル様の手をぎゅうっと握った。その温かさに酔いながらも、続く沈黙に徐々に恥ずかしさが出てきた。


 ラウル様は頬を僅かに赤らめ、惚けたように口を半開きにして私の目を見つめている。目は丸く開き、微動だにしない。


 それがあまりにも長く続くものだから、私は羞恥心に耐えられなくなり、ここから抜け出そうと身をよじらせた。するとその動きを察知したラウル様がはっと我に返り、逃がすものかと腕の力を強める。


「レティーシア」

「は、はい」


 これ以上ないくらい真剣な顔で私を見つめ、その真剣さに息を呑んでいると、ラウル様が放ったのは、


「も、もう一度言ってください」

「え?」

「嬉しすぎて信じられません。脳にこびりつかせて今後何十年先もリピートできるように、もう一度言ってください」

「え、え、」

「殿下、姫君がお困りでいらっしゃいますよ」


 あまりの変わり身に困惑していると横から第三者の横槍が入り、私はばっと身を離した。


「あ、ロ、ロティーネ様……!」

「ロティーネ……、今出てこなくてもいいだろう。今どれだけ大事な場面だったと思っている」


 額に手を当てはぁ、とため息をつくラウル様に、ロティーネ様はにっこり微笑んだ。


「申し訳ありません、姫君が返答に困っておられましたし、このまま進めば口付けに発展しそうだなぁ、と思いましたので。お互いの心を通じ合わせた恋人がすることと言えばそれでしょうしねぇ」


 口付け、という単語に私は顔が真っ赤になったのが分かった。あの先にはそんなことが待ち構えていたのか!と、後ずさりする。


「レ、レティーシア、いくら俺でも皆さんの前でそんなことは……」

「み、皆さん、って!――〜あ、あなた達まさかずっと見ていたの!?」


 はっとして周りを見回すと使用人たちがみんな柱の影などに身を隠しながらこちらを眺めていた。中にはむふふ、と少し気味の悪い笑いを浮かべながら顔を覗かせている者もおり、私はつま先から頭のてっぺんまで真っ赤になった。


「気づいていたのなら言ってくださいませ!」

「いや、ここで止めたらせっかくのチャンスが……っていや、なんでもありません」

「……殿下、姫君の可愛らしすぎる泣き顔に理性が揺らぎ、あわよくばこの蠱惑的な唇を奪ってしまえるかくらいは」

「ロティーネ!余計なことは言わなくていい!」

「殿下……」

「レティーシア!さすがにそんなことは思ってないですし、いや、ちょっとは思っ……いやいや!どうせ将来しまくることだなんてことは考えても…………あ」

「「「「あ」」」」


 ロティーネ様、そして周りにいる使用人たちの声が重なり、ホールに響いた。


 その余韻が残る中、私は恥ずかしさから両手で顔を隠し、静かに体を震わせた。



「………………ばか……」


「ばっ……………………」


 レティーシアのその呟きの可愛さに王太子殿下が萌えまくり、しばらく再起不能になったことは言うまでもない。



 ◇◇



「もうあと一週間なのですね……」


 アリエルが私の髪にブラシを通しながらぼんやりと呟く。


 あと一週間というのは、私がレラントへ渡る日までのカウントダウンの事だ。私は正式にラウル様の婚約者となり、婚約式はあちらで執り行うことになった。


 ラウル様の留学期間も終わりに差し掛かっていると言うことなので、ラウル様が国へ帰ると同時に私もついて行くということになる。その頃にはお父様とお兄様も帰ってくるため、お母様を一人残していく心配もない。


 ラウル様と心を通じ合わせて三ヶ月経つかどうかというところで、急な話ではあるが、アリエルが付いてきてくれることになったので不安はない。


 アリエルも結婚適齢期だし、私のために生まれ育った地を離れさせる訳には行かないと言ったのだけれど、アリエルは

「結婚相手はレラントで見つけます。お嬢様に尽くしすぎてきたせいで友人の一人も居ないのですから、責任もって生涯養ってくださいませ!」

 と言われては言い返しようがない。


 左手の薬指にきらりと光る指輪を撫でて、私はため息をついた。


「何が気がかりでいらっしゃますか?」

「…ルイスは、……どうなっているのかしら」


 バイオレット男爵家はその後お取り潰しになり、男爵夫妻は既に貴族身分を剥奪され平民に落ちている。シエラは私を陥れようとしたことや、ラウル様に無礼を働いたとして罪に問われ、現在は牢獄にいるそうだ。


 近々裁判も行われるようだけれど、シエラは反省の色を見せていないらしいし、恐らく逃れることは出来ないだろう。


 私はもうシエラに希望は抱いていない。親友だなんて思っていないし、もう二度と顔を合わせたくはない。


 けれど


「コンバット家の令息ですか?お嬢様を裏切りあんな女に肩入れしたのですから同罪です!あんなやつ、気にかけることなんて……」

「…………」


 分かってる。


 ルイスは私を信じてはくれなかった。私じゃなくてシエラを庇った。私の言葉は聞こうとしなかったなのに、シエラの言うことは全部鵜呑みにして、私に背を向けた。


 でも、それでも、昔から見てきたあのルイスの姿までもが嘘だったとは思えない。


 あれほど情に溢れ、誰とでも手を取り合って、みんなを魅了していたあなたはどこへ行ったの。


 私でさえもシエラの行動に不信感は抱いてきた。見て見ぬふりをしていただけで、どこかおかしいと、分かっていた。私に分かることがルイスに分からないはずはない。


 ルイスは気づいていなかったのだろうか。シエラの本性に。


 気づかないことなどあるのだろうか。あの人が。


「恋は盲目、と言いますからねぇ……」


 盲目……。


「…………そうね」


 私の出立の日は晴天になるだろうと予想が出ていたが、今日はあいにくの雨模様だった。私は降り注ぐ雨粒を眺めながら、この雨がルイスを濡らしていなければいいだなんて、馬鹿なことを祈った。



 ◇◇



「シエラ・フォン・バイオレット。面会人が来ています」


 監視官の声にシエラはゆっくりと首を回し、その目に面会人を映した途端弾けるような笑顔を浮かべ、その者に駆け寄った。


「ルイス!来てくれたのね!」


 苦々しい顔でそれを眺めていたルイスは監視官に退出するように言い、貴族令嬢の面影も残っていないシエラの風貌を一瞥し、目を逸らした。


 シエラの閉じ込められている牢の檻とルイスまでの距離は数歩。詰められる距離を詰めず、ルイスはシエラに触れられない間隔を保っていた。


「ルイス、どうしたの早くこっちへ来て。ずっと離れていたからあなたが恋しいわ。早く私をここから出して、また一緒に……」

「ここには俺たちしかいない。もうこんな芝居を続ける必要は無いだろう」

「…………」


 一瞬にしてシエラの表情はこそげ落ち、あーあ、と脱力感を顕に檻につかみかかった。


「やっぱりね。ルイス知ってたんでしょう。私がレティを陥れようとしていたこと」

「…………」


 沈黙は答えだ。シエラは笑いと怒りが混じった笑みを浮かべ、がしゃん!と檻に体当たりをした。


 今までのシエラ・フォン・バイオレットの面影はどこにもない。罪を犯した犯罪者そのものの様子に、ルイスは顔を青ざめつつもシエラを睨みつけた。


「ずっとあなたが邪魔だったわ…。あの子はね、私よりも注目を集めるの。私よりも美しくて、私よりも心が綺麗で、誰からも好かれるの。そんなのおかしいとは思わない?私は王族か公子と結婚して栄誉を手に入れたかった、ただそれだけだったのに、あの子はそんな私の道を遮るから、消してしまおうと思っていた、ただそれだけよ」


 シエラの言うあの子とは、説明するまでもない。彼女の十年来の親友、であったはずの美しい伯爵令嬢だ。


「順調だった……。それがある日から突然上手くいかなくなったの。そうね、あれはあなたが私に初めての告白をしてきてからだったわ。ねぇ、始めからそのつもりだったんでしょう。私に近づいて、私がレティを追い詰めることの邪魔をするために私に告白してきたんでしょう!!」

「…………そうだな」


 未だルイスがシエラに視線を戻すことは無い。それが気に障ったらしいシエラは檻の向こうに目一杯腕を伸ばした。だがそれはルイスが体を避けるまでもなく空ぶった。


「私は男爵家の次男であるあなたなんかに興味はなかったけれど、婚約者が見つかるまでの穴埋めならいいかと思ってOKしたわ……。だって、あの子はあなたにずっと恋していたんですもの!!」


 あはははと高笑いが響く。ルイスの拳が握りしめられ、初めて見せたその感情の変化にシエラは面白そうに食いついた。


「そしたら……何もかもが上手くいかなくなった。始めはなぜだか分からなかったわ。私の計画は完璧だったはずなのに。いつまでも誤魔化せるとでも思っていたのかしら。私は気づいたのよ。あなたが大事に持っているその懐中時計!……レティから貰ったものよね?そんなに大事に持っていたから直ぐにわかったわよ」


 ルイスの着るジャケットの胸ポケットにいつも入っている金色の懐中時計。それは、ルイスへの誕生日プレゼントとしてレティが贈ったものだったのである。


「だから私はあなたに薬を盛ったわ。ねぇ、ある日から突然私に恋心に近いものを抱くようにならなかった?あなたをこちら側に引き込むために、媚薬に近しいものを盛ってみたの。そしたらあなた面白いくらいにレティに敵意を抱くようになって、私はあのパーティーの日、決行したのよ。あなたは動揺したでしょうねぇ……。ちょうどあの日が薬が切れる頃だったわ。我に返ったときには愛しいレティーシアは断罪されている。なんとしてでもレティをたすけなくちゃ!あらでも残念……、あなたはたかが男爵家の令息、それも次男!力が無さすぎてできることは何も無い……。だからせめてこの場を穏便に済ませよう。そうだシエラを宥めて連れていこう」


 ルイスが目を瞑り、不快そうに息を吐いた。


「あなたにできることは何も無かった!もう少しだったのに、もう少しだったのに!……王太子殿下がレティの味方をするだなんて考えても見なかったわ。…………ルイスも可哀想…。ここまでして守りたかった(ひと)を、横から現れた王子に横取りされたんだもの。レティはそんなあなたの努力に気づくことはなく、王子様と心を通わせ愛し合って」


 シエラが酷く楽しそうに喉を鳴らす。ルイスの視線がシエラを捉え、シエラは満足そうに唇の端を釣り上げた。


 長い牢獄生活で精神が多少なりとも傷ついているのだろう。到底人間のものとは思えない不気味な笑みだった。


「ねぇ今どんな気分?自分は思いを押しころして犠牲になりながら彼女を守り続けていたのに、当のあの子はなんにも知らずにレラントヘ渡って幸せに暮らすのよ。私と、あなたを、恨み続けながらね!」


 再び甲高い笑い声が響き、シエラはずるずるとその場に崩れ落ちた。ルイスは唇を噛みながらそれを睨みつけ、一歩、近づいた。


「……でも、ひとつ疑問が残っているの。なぜあなたは私の偽の恋人になる方法をとったのかしら?そんなことせずに、私がレティを陥れている証拠を掴んで皇帝にでも何でも進言する、あなたならそれが出来たはずよねぇ。まさかとは思うけど、レティと親友だった私を信じたかった、とか?それとも私が実はこんな人だって知ったら、レティが悲しむと思ったから?それでも見てるだけは出来なくて、レティが私の本性に気づかないように私に近づいた、とか?」


 沈黙が答えを語っていた。シエラはあは、と楽しそうに笑う。


「あははっ!馬鹿じゃないの?この方法をとらなければあなたは愛しいレティと生涯幸せに暮らせたかもしれないのにね!自分のために自分の好みのドレスを身につけてきてくれる可愛いレティ。いつも綺麗に微笑みながら色んな人を助ける心の優しいレティ。心の底から欲しかったでしょうねぇ、でもそれが、仇となった…………」


 シエラが顔を俯けて黙り込む。そこへルイスがしゃがみ込んだ。


「……それで?なんの用でここまで来たのかしら。本当の理由はなに?」

「バイオレット男爵夫妻は平民落ちした。お前も一ヶ月後にはそうなる。ただしお前には王族への不敬まで上乗せされているからな。舌抜きの刑まで付いてくるぞ」


 女の顔が硬直したのを見届け、ルイスは唇を釣り上げた。


「彼女は今日、レラントヘ渡り、レラント王太子の王太子妃となるんだ。舌を抜かれ話すことの出来なくなった平民と、レラント王太子妃。格差がすごいなぁ、どうしてこうなったんだろうな?」

「〜〜〜…………ぅっ」


 慟哭?いや、怒りの雄叫びにも近い叫び声が響き渡る。それを聞き付けた監視官が戻り、シエラに薬を飲ませる。ルイスはそれを見届けないうちに立ち上がり、牢獄から抜け出した。


 憎らしいほどに晴れ渡った青空の下、どこかから賑やかな歓声が聞こえ、次いで船出を合図する笛が鳴らされていた。


 それを男が聞いたのは孤児院が建てられているそばの崖の上。目の前には森が広がるばかりだが、幸せそうに微笑む彼女の顔が目を閉じれば浮かぶのだろうか。


 彼女が身寄りのない子供たちのために建てた修道院の前で涙を流す男が一人。その右手には、金色の懐中時計が握られていた。


 笛の音がとっくに止み、歓声すらも聞こえなくなったところで、男は懐中時計を空に掲げ、それを額につけた。



「守ってやれなくて、すまなかった………。



 愛してる…………」



 ◇◇



 (――…………る、)


「え?」


 何かが聞こえたような気がして振り向いたけれど、もう見送ってくれた人々の姿は遠くかなたにあり、声が届くはずもなかった。


 気のせいか、と思い向き直ると、ラウル様の顔が思ったよりも間近にあり、背を反らした。


「わっ」

「どうかした?」

「いっいえ、あの、それよりもっ」

「んー?」


 ラウル様がおでこをすりすりと擦り付けて来るものだから、軽く悲鳴をあげた。


「ちっ、近いです!皆さんいらっしゃるのに!」

「いいよ。みんな見てない」

「見てます〜〜!」


 どうにかして抜け出そうと試みても離してもらえる訳もなく、私は諦めて船の手すりにもたれかかった。くすくす笑うラウル様を恨みがましく軽く睨み、ぷいっと顔を背けた。


 "あ!嫌われたー!"

「嫌われてないさ、だろう?レティ」

「…………」


 ベンガルがいるということは近くにロティーネ様も来ているのだろう。


 ロティーネ様と言えば、ラウル様とロティーネ様が恋愛関係だなんて盛大な勘違いであることが判明した。よくよく聞いてみれば、ベンガルのお父さんはたまたま出張でレラントに居ないだけで、ちゃんとご存命だそう。


 ラウル様にとってロティーネ様は良き補佐官に過ぎず、ロティーネ様にとってラウル様は良き主に過ぎないのだと説明された。


 ラウル様の私への思いを疑っていた訳では無いから、半ば勘づいていたことではあったけれど、改めて笑われながら説明を受けては、あれはさすがに顔から火を吹く思いだった。


「レティ怒った?」

「いいえ?ちっとも」


 あの恥ずかしさを思い出して怒りどころではない私は赤くなった頬を隠すためにそっぽを向き直した。


「…………怒ってるよね」

 "怒ってるね……"

「どうにかしてご機嫌を取らなければいけませんよ、殿下」

「……どうしよう、今何も持ってない」

「物ではなく言葉や行動です」"ほらベンガル、お母様と一緒にあちらを向きましょう"

 "えー?どうして?"

 "ほらはやく"


 何をひそひそみんなで話しているのだろうと僅かに首を傾けた瞬間、ぐいっと体を引き寄せられた。


「きゃっ」


 無理やり振り向かせられ、ばっちりラウル様と目が合った。その顔がとても楽しそうに笑っているものだから私は困惑し、瞬きを繰り返した。


「まぁ……なぜそんなに楽しそうなんですか?」


 ラウル様のおでこが私のおでこにくっつき、背中に回った腕は私をきつく抱きしめる。


「んー?ロティーネとベンガルがいい感じの場面を作ってくれたから」

「何を言っ……んっ」


 ラウル様があまりにも楽しそうに微笑んでいるものだからつられて笑いそうになった時、後頭部に回った手に力がこもる。


 抗う暇もなくラウル様の顔が今までにないくらいに近づき、そして、唇が重なった。


 その柔らかさに目を剥き、一瞬恥ずかしさが湧き起こったけれど、動揺した私を落ち着けるかのように、ラウル様が角度を変えて再度口付けた途端にそれは甘さに変わり、指先が痺れ、唇が溶けてしまうような感覚に襲われた。


「…………んっ、う」


 初めての甘さに耐えきれずに体の力が抜け、ラウル様にもたれかかる。


 もはや人が見ているだとか、すぐ側にロティーネ様とベンガルがいるだなんてことはどうでも良くなっていた。


 ラウル様の温かさと、与えられる幸せに酔いしれ、離れた唇を名残惜しげに見つめた。その視線に気づいたラウル様が言葉に表せないほどの美しいほほ笑みを浮かべて、私の唇をなぞってこう言った。


「……可愛い俺のレティ。もう一回してもいい?」


「はい……」


「ん」


 ぼんやりと霞がかかる頭ではもう何も考えられなくなり、ただ口付けを受ける。


 それは徐々に深いものに変わり…。


 変わりかけたところで私は我に返った。


「こ、これ以上はここではダメですー!」


 両手でばってんを作りラウル様の唇をガードする。


「ここでは?じゃあ続きは夜していい?」

「えっ……」


 絶句した私をよそに後ろを向いていたはずのベンガルが駆け寄ってきた。


 "夜?何かするの?じゃあ僕も行く!"

 "ダメですよベンガル。ここは気を利かせるのが男です"


 ロティーネ様のフォローに真っ赤になりながら口をあわあわと動かしていると、ラウル様の唇がまたも頬に降りた。


「ラウル様っ!」

「ごめん、レティがあまりにも可愛いから」

「〜〜〜っ!」


 怒る余裕もなく、私は項垂れた。口付けくらいでこれだなんて、私はこれから一体どうなってしまうのだろうか。


「レティ……」

「……」


 これも全部ラウル様が悪いんだわ。私を甘やかしすぎるから……。この船だって、本当はレラントの使者全員が乗るものを、二人きりになる時間を増やしたいからなんて言って最小限の人数にしているのだ。


 本来三隻のところを四隻に増やしての帰国となっている。レラント王太子の溺愛がどーのこーのと噂になっていることだろう。


「レティと共にレラントヘ帰れるだなんて夢のようだ。ありがとう。愛してる。一生涯ずっと、君だけを愛すよ」


 でも私の不安や心配、怒りまでもこうして吹き飛ばしてしまうんだから敵わない。


 私は軽くため息をつき、そして滲み出てくる笑いを浮かべながらラウル様に抱きついた。


 私はこれから先ずっとこの人と生きていくし、生きていきたい。


「……私もです。ラウル様」


 ありがとうは私の台詞(セリフ)。あなたが私を救ってくれたし、私をこんなにも幸せにしてくれる。


「……愛しています。生涯、ラウル様だけを」


 三度目の口付けが落とされる。その甘さに酔いながら、私は目の中に入る青空に祈る。









 どうかこの景色を見ているあなたとまた、笑い合える日が来ますように。









「……そろそろラウルって呼んで欲しいんだけどなぁ」


「それは、ちょっとまだ……早いというか……恥ずかしくて無理です」





























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― 新着の感想 ―
お話はとても面白かったです。 ルイスが切ないですが、そのやり方はレティを一番傷付けるのだとどうして思わなかったのかちょっと疑問です。 あと、王太子と皇太子がごちゃ混ぜになっているのが気になりました。 …
[一言] なかなかに切なくて辛いお話でした。 ルイスはあんなにアドバンテージがあったのにも関わらず何で気持ちを伝えてレティの事を直接守ってあげなかったのか!と残念でなりません。シエラの企みを知っていた…
[良い点] とっても面白かったです! ある時期までは主人公が、長い間「親友」であったシエラを切り捨てられない心理も少し理解出来る気もしました。つるんでいた相手に対する「情」とでもいいますか…。きっと…
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