18-4
「お待たせ」
玲が戻ってきた頃には、俺はキッチンに立っていた。
何食わぬ顔で彼女を迎え入れ、余裕を持って淹れておいたコーヒーを置いてやる。
一言お礼を言った彼女はマグカップに口をつけ、ふぅっと息を吐いた。
「マネージャーに、次のライブが決まったって言われた」
「お、そうなのか」
「うん。次はハロウィンライブだって。それが終わったら年末に向けてツアーがあるかもって」
「ツアーって言うと、あの全国を回るやつか?」
「そう」
そうなると、当分の間玲たちは帰ってこないことになる。
「ツアーが始まったら、学校って休むのか?」
「多分そうなる。私たちもツアーってなると初めてだから、具体的にどうなるかは分からないけれど」
勝手なイメージにはなるが、ツアーとなると最低でも二週間くらいは自由に動けないんじゃないだろうか?
出席日数が心配になるところだが、これまで極力休んでこなかった玲の努力のおかげで、おそらく欠席に関しても問題のない範囲に留まるはず。
こういう時のために辛い思いをしていたのだとしたら、心の底から尊敬せざるを得ない。
「夢に一歩近づいたってところか」
「……うん。多分、もうすぐそこ」
玲はどこか期待の面持ちで、拳を握った。
彼女の夢、日本武道館でのライブ。
国民的アイドルになった彼女らにとって、それは決して遠い目標ではない。
だからと言って簡単な目標でもない。
――――もし、その夢が叶ったとして。
玲はその先どうするのだろう。
「? どうしたの?」
「……いや、何でもない」
俺は彼女の言葉に首を振って、時計を確認する。
気づかぬうちに、もうずいぶんと遅い時間だ。
「そろそろ部屋に戻れよ。明日早いんだろ?」
「うっ……そうだった。明日は六時に起こしてもらえる?」
「分かってるよ。とっくに予定に入れてるからな」
「いつもありがとう。もう凛太郎がいないとすごく不安。できればツアーにも連れて行きたい」
「それはさすがに無理だ。俺は学校を休みたくねぇ」
「……分かってる。無理は言わない」
一瞬抵抗しようとしたな、こいつ。
明日からしばらく、また玲は家を空ける。
何でもミルフィーユスターズのメンバーそれぞれのシングル曲を製作中らしく、玲が一番初めにそれに取り掛かるらしい。
MV撮影などもあるようで、また一段と忙しくなるようだ。
「九月になったら、もう少し落ち着くはずなんだけど……」
「んじゃそれまでの辛抱ってことだな。俺にできることがあれば、できる範囲で手伝うからさ」
「うん、ありがとう。――――あと、何でも言うこと聞いてもらえる権利も、まだ忘れてないから」
――――チッ。
「忘れちまえばいいのに」
「大丈夫、この権利は一番大事な時に使う」
「……お手柔らかにな」
ビーチバレーで負けた際に負った罰ゲーム。
ミアからの願い事は聞いたが、まだ玲とカノンからは願いを告げられていない。
それがありがたくもありながら、不安でもあった。
「じゃあ凛太郎、おやすみ」
「ああ……おやすみ」
最後にとんだ牽制球を投げつけながら、玲は俺の部屋を後にした。
一人残された部屋の中で、俺は一度ため息を吐く。
明日から、玲はいない。
そうなるとまた多少なりとも寂しくなるのだが、それ以上に考えなければならないことがある。
「明日から一週間か……」
ビーチバレーの時にしてしまった、副産物的な約束。
ミアに対して一週間夕食を作るという約束が、明日から始まる。
何故明日からかと言えば、玲と入れ違いにミアが帰ってくるようになるからだ。
否が応でも、明日俺は彼女に会わなければならない。
おのずと告白の答えを返さなければならなくなるのだが――――。
「……はぁ」
とりあえず、今日は寝ることにしよう。
もう答えは決まっているのだから。
◇◆◇
多少なりとも憂鬱な気持ちを抱えたまま迎えることになった、翌日。
俺は自分の家の掃除、それと洗濯。それに続いて玲の部屋の掃除も終え、自分の家のソファーの上で脱力していた。
掃除なんてそんなに頻繁にやるものでもないと思っていた時期もあるが、清潔感が保たれるというのは意外と気分が上がるもので。
俺自身、本当に何気なく時間を潰す感覚で掃除していることが多い。
「……そろそろか」
ボソッとつぶやいた俺は、何気なくスマホを見る。
するとすでにミアからの連絡が通知に表示されていた。
俺は自分用の調理器具を一通りまとめた物を持ち、部屋を出る。
廊下を歩いて十秒。
俺の部屋から一番離れている部屋の扉の前に、俺は立った。
インターホンを押して、数巡。
『――――どうぞ』
スピーカー越しにミアの声がして、俺は扉を開けた。
「お、お邪魔します……」
何か、同学年の女の部屋に上がると思ったら急に緊張してきたな。
玲の部屋だって女の部屋には変わりないのだが――――その、あまりにも掃除などで入り浸っているせいか、もう緊張感のようなものは一切なくなってしまった。
それがいいことなのか悪いことなのか……まあ、どっちでもいいか。
「やあ、よく来てくれたね」
「……約束だからな」
ミアを前にして、俺は頬を掻く。
コテージで見たような部屋着に身を包んだ彼女は、やはりどこか新鮮で。
部屋着なのに野暮ったい雰囲気が一切ないのは、もはや素材の良さとしか言いようがなかった。
「あれ、この部屋着は前にも見せてたと思うけど、今更ときめいちゃったかい?」
「馬鹿言え。そんな異性の普段と違う姿一つで心を乱すほど軟な精神は持ってないぞ」
「ふーん。にしてはソワソワしているように見えるけどね」
うるせぇやい。
「ま、いいや。とりあえず話そうか。――――返事、聞かせてくれるんでしょ?」
「……ああ」
ミアに連れられるまま、俺は部屋の中に足を踏み入れる。
部屋の内装は、イメージカラーの青色が多く入ったどことなく涼しげな雰囲気の物で揃っていた。
このレイアウト自体はかなり好みかもしれない。
「ほら、座ってよ」
促され、ソファーに腰掛ける。
彼女は冷蔵庫からペットボトルの水を一本取り出すと、俺に手渡してきた。
「さんきゅ」
「ごめんね。君のようにコーヒーを淹れてあげたいところなんだけど、生憎そういう物は揃えてなくて」
「気にしないでくれ。人のもてなし方に口を出すような面倒くせぇ男じゃねぇから」
コーヒーメーカーなんて、俺が欲しいから買っただけだし。
「……さて、と」
俺はもらった水を一口飲み、顔を上げる。
無駄に時間をかけるのは避けたい。それだけ言いづらくなっていくことが目に見えているからだ。
「先に、結論から言う」
「……うん」
俺は一拍間を置き、その言葉を口にする。
「俺は、お前とは付き合えない」
この言葉を聞いても、彼女の表情は変わらない。
まるでそう言われることが分かっていたかのような態度だ。
「まあ、そうだよね。一応理由って聞けるかな?」
「……俺が恋人になりたいと思う相手は、一生愛し続けられると確信した相手だけだ。だから、こんなガキの年齢で勢い任せに決めたくない」
この前も、ミアには似たようなことを言った気がする。
それに――――俺とそういう関係になるということは、必然的に俺の代わりにずっと働いてもらうことになる。
悪い言い方になってしまったが、それが俺の目指す道なのだから仕方ない。
そんな責任を負わせてしまう相手だと考えたら、なおさら慎重に探していかなければならないと思う。
もう、捨てられるのはごめんだ。
「……大丈夫かい?」
「っ、ああ。大丈夫だ」
表情が暗くなったせいで、いらない心配をさせてしまった。
今は俺のことを考えさせる時間じゃない。
ちゃんと理由を伝えなければ――――。
「――――それに。お前はただ俺が好きなわけじゃないだろ?」
ミアの表情が、ここでようやく変わった。