12-5
終始照れた様子の玲が部屋に戻ってから、俺はソファーの上でしばらくスマホをいじっていた。
『話がある』
そんなメッセージを、ミアに送り付ける。
それから十分後、部屋のインターホンが鳴らされ、俺は玄関へと赴いた。
「……よぉ」
「突然どうしたんだい? こんな夜に女の子を部屋に招くなんてさ」
扉の向こうにいたのは、玲とはまた違う顔の整い方をした女だった。
宇川美亜。またの名を、ミルフィーユスターズのミア。
彼女は肩の辺りで外跳ねしている自分の黒髪を指でいじりながら、どことなく愉快な様子で俺を見つめてくる。
「とりあえず中に入れ。お前には色々聞かなきゃいけないことがあるんだよ……」
「あんまりいやらしい質問はやめてね?」
「髪の毛一本一本の毛先にマヨネーズつけて舐め回してやろうか」
「変わった嫌がらせだね、それ」
ミアを引き連れ、リビングへと戻る。
そのままソファーに座らせ、前もって用意しておいたブラックのコーヒーを目の前のテーブルに置いた。
「あれ、怒られるとばかり思っていたんだけど、意外ともてなされてる?」
「まあ、怒ってるわけじゃねぇからな。コーヒーすら出せないほど心は狭くねぇよ」
「ふーん……なら遠慮せずにいただこうかな」
俺はコーヒーを飲む彼女の横に座り、話を切り出す前に一つ息を吐いた。
「ふぅ……で、お前さ」
「うん」
「玲に変なこと吹き込んだだろ」
「うーん……ま、気づかれちゃうよね」
ミアは開き直ったように笑みを浮かべる。
俺はそんな彼女を前にして、呆れたようにまたため息を吐いた。
「いやね? 玲が凛太郎の水着を見たいって言いだすものだから、ちょっとしたアドバイスを送ったんだよ。一緒にお風呂に入ればいいって」
「……やっぱりか。そのせいで散々な目にあったよ」
「ふーん? 散々ねぇ。でも年頃の男の子としては嬉しいイベントだったんじゃないかな?」
「まあ、そこは否定しない」
「おや、意外にもここは素直」
あの状況に喜ぶのは、一般的な男としては正常なことだと思う。故に誤魔化したりはしない。
「ちなみに買い物デートも楽しめたかな? 間接キスするためのテクニックも教えたんだけど」
「あれもお前の入れ知恵かよ⁉」
「残念ながら玲はそういう恋愛テクニックをほとんど知らないからね。教え甲斐があって面白かったよ。……なんて言いながら、ボクも実際に試したことはなかったんだけどね」
「魔王みたいな女だな、お前……」
「誉め言葉として受け取っておくよ」
ミアは俺の前でけらけらと笑った。
そんな楽しげな彼女を見て、俺の中の毒気がスッと抜けていく。
こいつもこいつで憎めないんだよな……本当に。
「結局のところ、全体的に君は楽しめたのかい?」
「んー……そうだな。楽しかったよ」
「じゃあそんなデートを演出したボクに、ちょっとした報酬があってもいいんじゃないかな?」
「あ? 何でお前に――――」
俺の言葉を遮るようにして、ミアは背中に隠していたと思われる何かを突然目の前に突き付けてくる。
それは一冊のノートと、英語の問題集だった。
「英語の宿題、教えてくれないかな?」
「……自分でやれよ」
「そう言わずにさ。りんたろーくんって成績いいんだろう? 解き方とか、そういうものを教えて欲しいんだよ」
英語か。
確かに不得意ではないが、教えられるほど力を入れているかと言われればそれはノーだ。
ただ俺自身がこの場で困るような話ではないし、一旦問題集を見せてもらってから受けるかどうか決めさせてもらおう。
「じゃあちょっと問題集を貸してくれ」
「分かったよ」
彼女から英語の問題集を受け取り、パラパラと中身に目を通す。
別の学校に通っているが故に、当然俺の知っている問題集とは少し違う形式で問題が並んでいた。しかしその問題自体は決して難しくはない。
基本の構文さえ覚えてしまえば、俺でも何とかなるだろう。
「これなら教えられないこともないな。しばらくは付き合ってやれると思う」
「ありがとう、助かるよ。今年度になってから結構授業に出られない日もあってさ、分からない部分がいくつかあったんだよね」
芸能活動と学生業を両立させるのは、かなり難しいことなのだろう。
そんな努力をしている人間を手伝うことが、悪いことであるはずがない。
「じゃあこのページからお願いしてもいい?」
「ああ、じゃあここの訳は――――」
こうして、唐突な夜の勉強会が始まった。
ミアの通っている学校は別に偏差値が低いというわけではないため、特に教えずともすらすらと問題を解いていく。
時たま躓く部分に関しては、授業で学べなかった部分らしく丁寧に教えた。それでもすぐに呑み込んでくれるため、俺の苦労自体はほとんどない。
「……なあ」
「何?」
「どうしてそんなに熱心に取り組んでいるんだ?」
「学生が勉学に励むのは当然じゃないかな」
そりゃそうだ。
しかし、今聞きたいのはそういうことではなく――――。
「言いたいことは分かるよ。アイドルとしてこれだけ売れているのに、何で勉強しているのかって話でしょう?」
「まあ、端的に言えばな」
アイドルとしてここまでの人気を確保できたのなら、もはや学校に居続ける意味もないのでは? と俺は思う。
しかし彼女らは三人は、それでも学校に通い続けていた。それも熱心に。
「ボクとしては、やっぱり高校くらいは出ておきたいって気持ちが強いからかな。小さなきっかけでも、ボクらの築き上げてきたことって簡単に壊れてしまうかもしれないだろう? 保険って言うのが一番しっくり来るかな」
「……ごもっともだな」
「これは三人の共通認識だと思うよ。……で、ここからはボクの個人的な話ね」
遠いものを見るような目を浮かべた彼女は、どことなく落ち着いた声で言葉を続ける。
「別にね、ボクは全部の教科を頑張っているわけじゃないんだ。何としても学びたいのは、英語だけなんだよ」
「英語だけ?」
「うん。英語を喋れるようになりたいんだ。将来海外で生活できるように」
その言葉は俺にとっては衝撃的で、言葉を失わせるには十分だった。
「まだ具体的な将来設計はないんだけど、海外で活動できる人間になりたいって思ってる。女優でも、歌手でも、それ以外でもいいから」
「そいつは……でかい夢だな」
「そうだね。お母さんの影響かな……いつの間にか、ずっとそんな風な夢を持ってた」
ミアの母親は、確か有名な女優だと聞いている。
まったくテレビを見ないわけじゃない俺が名前を知らないということは、もしかしたら海外で活動している人なのかもしれない。それなら影響を受けたという話にも納得がいく。
「ねぇねぇ、りんたろーくんは専業主夫を目指しているんだろう?」
「ん? まあな」
「じゃあさ、ボクについて来ない?」
彼女と目を合わせ、ぴたりと時間が止まる。
やがてミアの言っていることを呑み込めた俺は、冗談だと思ってそれを笑い飛ばした。
「はっ、お前が五、六年後に俺の嫁になるようなことがあれば、どこにだってついて行ってやるよ。一人の愛する女に尽くすのが、俺の思う専業主夫の道だからな」
「へぇ、じゃあ意外とハードルは低そうだね」
「そいつはお前次第だ。俺は自分を変えるつもりはないし、わざわざ合わせにいくつもりもないからな」
自分を曲げてでも一緒にいたいと思える相手がいたとすれば、それは俺が生涯の全てをかけて共にいたいと思う相手だ。そう簡単にそんな相手に出会えるわけがない。むしろ簡単に出会えてたまるかとすら思う。
その場の感情だけで何かを決めてしまわぬよう、俺は日々を冷静に過ごすのだ。
――――まあ、もう冷静さは欠きまくっているけども。
自覚はあるよ。
「ふふっ、君らしい。……誰一人として知り合いのいない土地で、二人きりで生きるっていうのも悪くないかもね」
「……何かあったのか?」
口調とは裏腹に憂いを含んだ表情に対して、思わずそんな突っ込んだ質問を投げかける。
しかし、ミアはただ首を横に振った。
「別に、何もないよ。本当に」
「……そうか」
しばらくの間、シャーペンの動く音だけが響いていた。
"別に、何もない"。
その発言は、前例のある俺にはこう聞こえていた。
"お前にできることは、何もない"――――と。
俺はお人好しなんかじゃない。
面倒くさいことには関わりたくないし、関わったところで華麗に物事を解決できるような超人でもない。
だから、今日はこれ以上突っ込むようなことはしなかった。
いつか、俺が本当に頼り甲斐がある人物だと認めてもらえるような日がくれば、話してもらえるだろうか――――。
Mat様よりレビューをいただきました。大変励みになります。ありがとうございます。