8-6
『先帰ってるぞ。あと、親父さんから伝言。問題が起きなければ、またしばらくアイドルを続けていいってさ』
そんなラインが彼から届いたのは、ライブが終わってから二十分後のことだった。
私は何度もそれを読み返し、頬を綻ばせる。
きっと凛太郎が何とかしてくれたのだろう。
私は自分が中心に立たなければならない曲でミスをした。そんな決定的な失敗を、お父さんが見逃してくれるはずがない。
「ちょっとレイ⁉ らしくないミスした癖にニヤニヤしてんじゃないわよ!」
「ん……? あ、カノンいたんだ」
目の前には、衣装を脱いでラフな格好になったカノンが立っていた。
表情を見るに、ずいぶんと怒っているらしい。
「いたんだじゃないわよ! あんた! どれだけステージの上で心配したか分かってる⁉」
「それは本当にごめん。ちょっと取り乱した」
「……まあ、謝るならいいけど。次からは気をつけなさいよ!」
カノンはそう言い残し、化粧を落とすためにメイクさんたちと共に去っていく。
分かっている。もう二度と同じ失敗はしない。
ライブの途中、私はとにかく味わったことのない息苦しさを感じていた。デビュー当時から人前で歌ったり踊ったりすることには抵抗がなかったのに、今日ばかりはまるで自分の体ですらないかのような違和感があった。
私は想像以上にプレッシャーに弱かったということらしい。
だけど、もう――――。
「……りんたろーくんから何を言われたんだい?」
「え?」
突然頭の中で思い描いていた彼の名前を口に出され、呆けた声が漏れる。
そんな様子を、目の前に立つミアは愉快そうに笑っていた。
「レイがあからさまに特別席の方を見るものだから、思わず一緒に見てしまったんだよ。そしたら彼が何かを叫ぼうとしてたじゃないか。その途端に君はいつも通りに戻ったし、もしかしたら彼が何か吹き込んだんじゃないかと思ってね」
「……正直、何て言われたのかは分からなかった」
「そうなのかい? まあ距離的に声が届かないのは明らかだったけど……」
「でも、多分凛太郎はこういう風に伝えたかったんだと思う」
どこを見ているんだ、前を見ろ。
凛太郎という名の支えに縋ろうとした私を、彼は突き放した。
それも当然の話。
私はアイドルで、会場にはそんな私たちを見に来てくれているファンがいる。私は、そんな人々に全力で応えなければならない。
お父さんのことも、お母さんのことも、もちろん大事。
だけど私は、二人のことを笑顔にしたくてアイドルになったわけじゃない。
もっと多くの――――それこそ、自分を求めてくれるすべての人を笑顔にしたかったんだ。
原点を思い出した私は、もうきっと間違えないと思う。
「……レイは本当に彼のことが好きなんだね」
「好き……うん、好きだよ。八年も前から」
スマホを握る手に力がこもる。
小学三年生の時、お父さんに連れられて行った大人たちのパーティーで、私は凛太郎と出会っていた。
当時甘い物が食べられなかった私に、その美味しさを教えてくれたのが彼である。
そして、誰かと一緒に食事をすることの喜びを教えてくれたのも、志藤凛太郎という男の子だ。
「凛太郎は、私を笑顔にしてくれた。だから私も、彼みたいに色んな人を笑顔にしたいって思えた。凛太郎は、私をこのアイドルっていう道に導いてくれた人なの」
「はいはい、もう何度も聞いたよ」
「むう、もっと話させて欲しい」
「勘弁してよ。他人の惚気話に一々相槌が打てるほど、ボクは寛容じゃないよ?」
ミアからそう言われてしまえば、私は素直に引き下がる。
本当はもっと凛太郎とのことを話したい。
できれば彼本人と話したいところだけど、それは私のことを思い出してくれるまで我慢する。
母親によって暗くなってしまった凛太郎の過去を、わざわざほじくり返すようなことはしたくない。
いつか自然と思い出してくれた時、私は改めてお礼を言うのだ。
『あの時私を笑顔にしてくれて、ありがとう』――――と。
「でもまさか、あのレイが一人の男の子と接点を持ちたいがためだけに演技までするとは思わなかったよ。空腹で行き倒れるなんてシチュエーションがよく通じたね?」
「あれは別に演技で倒れたわけじゃない。本当にお腹が空いて動けなかった」
「それはそれで心配なんだけどね……?」
凛太郎と再会したあの日――――正確には高校に入学した段階で再会は果たしていたんだけど、会話はなかったからカウントしないことにする。
本来あの日は、マネージャーに家まで送ってもらう予定だった。
家に帰ればお手伝いさんが料理を作ってくれる。あのまま帰っていれば、私は何の問題もなく次の日も登校できた。
だけど、見つけてしまった。駅のロータリーを歩く、彼の姿を。
とっさにマネージャーに車を止めるように言って、いつもは降りないはずの場所で私は降りた。
彼に見栄を張ったと言ったのは、この場においては嘘になる。
本当は、『奇遇だね』って気さくに話しかけたかった。倒れかけたのは、自分が思っている以上に空腹だったから。
食事に誘うまでもなく彼の手料理をご馳走になれたのは幸運だったけれど、いまだにあの時のことは思い出すと恥ずかしくなる。
でも、あの時勇気を出して本当によかった。踏み込むだけのきっかけを、こうして得ることができたのだから。
「ミア、私決めた」
「……一応、何を決めたか聞いておこうか」
「凛太郎に"恋"をしてもらえるように、これからもっと頑張る」
「へぇ……寝息が聞こえなかったと思ったら、やっぱりあの時起きてたんだね」
「……ごめん」
「別にいいよ。聞かれて困る話もしていなかったし」
引っ越しパーティーをしたあの日、私はミアと凛太郎の会話をベッドの上で聞いていた。
その時、彼ははっきり言ったのだ。
ひと月程度の付き合いしかない相手に、恋などできないと。
「——だから、もっと長く一緒にいて、もっと意識してもらえるように頑張る。何をすればいいかは……正直分からないけど」
恋愛経験の一つもない私には、とてつもなく高いハードル。
だけど、それをどうしても越えたい。
志藤凛太郎という男の子を思い描きながら書き上げた、"金色の朝"の歌詞を現実にするために――――。
「そっか……じゃあ、ボクも頑張らないとね」
「え?」
自分のことに夢中になっていたせいか、ミアの言葉がすっと頭に入ってこなかった。
「盗み聞きしていた意地悪なレイは知っているだろう? ボクがりんたろーくんにアプローチしたってことも」
「で、でも……あれは冗談だって」
「冗談だったことが冗談だったかもしれないじゃないか。それに、誰かが欲しがっているものって何だか欲しくなっちゃうんだよねぇ……」
ミアは私の目を覗き込みながら、ぺろりと舌で唇を湿らせた。
今まで一緒に活動してきた中で、感じたことのない寒気が背中に駆け抜ける。
ミアと競争するようなことがあれば、私は――――。
「――――なーんて、安心してよ。本当に冗談だから」
「……心臓に悪い」
「でもレイ、安心してちゃ駄目だよ? この先ボクだって本気で彼に惚れることがあるかもしれないし、それはカノンだって例外じゃないさ。それにボクら以外にも身近な女の子って案外いたりするんだよ?」
頭の片隅に、学級委員の二階堂梓さんの顔が思い浮かぶ。
そう言えば……水族館で鉢合わせした時に、凛太郎に積極的に話しかけていた気がする。
ミアの言っていることは、思いのほか笑えない話みたいだ。
「ひとまず、今はレイのことを応援してあげるよ。いつか本当にボクがりんたろーくんのことを欲しくなるまで、ね」
そう言って妖艶な笑みを浮かべる彼女のその言葉だけは、どうしても冗談には聞こえなかった。
凛太郎に恋した私の物語は、もしかしたら想像以上に前途多難なのかもしれない――――。