8-5
間もなくして、一つのアンコールを挟んだ後にライブは終了した。
結局観客のほとんどの人間は玲の些細なミスなど気にした様子もなく(演出か何かと思っている可能性もあるが)、皆満足そうな顔で会場から出ていく。
俺はそんな様子を、少々放心した状態で眺めていた。
ある種の現実逃避。どれだけ観客が満足していたとしても、彼女がミスをしてしまったことには変わらない。
それが玲の父親の目にどう映ったか、できれば考えたくないが故の現実逃避だった。
――――ただ、いつまでもそうしているわけにもいかないわけで。
「……乙咲さん、玲のライブはどうでしたか?」
すでに帰宅の準備を始めていた乙咲さんに、そう問いかける。
彼は手を止め、俺を一瞥した。
「自分の娘が数千人の人間を喜ばせたんだ。素直に誇らしいと思ったよ」
「だったら――――」
「だが、私でも分かるようなあからさまな失敗があった。プレッシャーに負けて取り乱すようならば、何か取り返しのつかない失敗をする前に辞めて欲しいと思う」
駄目、だったか。
親ではない俺には、乙咲さんの気持ちの半分も理解できない。
だからこそ、この人の意見を面と向かって否定するなんてことはできやしなかった。
それでも、言いたいことがないわけではない。
「……乙咲さん、さっきの生活費を負担してくれるっていう話ですけど」
「ん、ああ……君からも玲を説得してくれるなら、十分な生活費を支払おう」
「ありがたいお話です。でも、お断りします」
ぴくりと、彼の眉毛が動く。
こんな旨い話を断るだなんて、相手からすれば思ってすらいなかったのかもしれない。
「俺は別に、金がもらえるから玲と一緒にいるわけじゃないです」
まあ、最初はそうだったけど。ここは黙っておこう。
「玲さんは、俺が物心ついてたかどうかも分からないくらいの時期に抱いていたような途方もない夢を、自分の力で叶えられる人間なんです。それを一番近くで支えられる……そんな恵まれた立場を自分から手放すことなんてできません」
「ならば……君はあの子の人生が何らかの失敗で崩れてしまった時、その責任が取れるのかね?」
「取れないです。っていうか、取らないです。俺が責任を取るなんて話は、今まで自分の力で戦ってきた彼女に対して失礼ですよ」
「む……」
俺はあくまで支えるだけの存在。アイドルとして戦い続けようとしているのは、すべて玲の意志だ。
彼女の方も、俺に責任を押し付けたいだなんて思っていないだろう。乙咲玲ほどプライドを持って生きている人間を、俺は見たことがないのだから。
「……でも、もしあいつが転落するようなことがあれば――――その時は、俺も一緒に落ちていくくらいの覚悟はありますよ」
苦笑いを浮かべながら、俺はそう告げる。
正直途中でそうなった時のことを想像してちょっと後悔したが、ここまで言っておいて今更引き下がれない。
共倒れは本当に嫌だが……嫌だが、もういい。男に二言はない。
「君に共倒れされても私たちは困るだけなのだが……」
「あ、あはは、ですよねー」
「ただ、恥も外聞も捨ててあの子に向けて声を上げてくれたことに関しては、素直に感謝させてもらおう」
ありがとう――――。
そう言いながら、乙咲さんは俺に向かって頭を下げた。
その隣で、莉々亞さんも同じように頭を下げてくる。
「本当にありがとうね、志藤君。あなたのおかげであの子も持ち直したように見えたわぁ。……ずっと、あなたが支えてくれていたのね。そうでなければあんな風に声が届いたりはしないはずだもの」
「そう、ですかね……」
「私は玲の母親だから、それくらいは分かるの。……あの子にはあなたが必要なのかもしれないわね」
「それは買い被りすぎですよ。俺はただの高校生の子供ですから……」
そうだ、俺はただの高校生でしかない。
玲の側にいること自体がおこがましいような、大した価値もないクソガキだ。
そんな俺にできることなんて、本当に少ない。
そう—――――こんなことくらいしかできないのだ。
「……どういうつもりだね?」
「俺の……誠意です」
俺は乙咲さんに向けて、深く深く頭を下げていた。
ここまで人に頭を下げるのは、人生の中で初めての経験である。
「どうか、玲にアイドルを続けさせてやってくれませんか」
「……何が君をそこまでさせる? まさか、君はあの子に惚れているのか?」
「そういうわけではありません。……この前、彼女は俺に新しい夢を語ってくれました」
日本武道館でのライブ。
今のミルスタの勢いがあれば、きっとその夢は遠くないうちに叶うだろう。
「ミルフィーユスターズはもっと上に行ける……ここで辞めさせるのはもったいないと思いませんか?」
「……君の誠意は分かった。だが、私にはそんな理想は抱けない。話は戻るが、この先であの子たちが取り返しのつかない失敗をしたらどうする。何かしらの危険に巻き込まれたら? そうなる前に止めてやるのが、親の役割ではないのか?」
乙咲さんの言っていることは、間違っていない。
玲の家は言うまでもなく裕福だ。彼女がどれだけ大金を稼いでいようが、両親はさらに高い額を稼いでいる。
俺から見れば玲は夢を叶えた華々しい成功者だが、彼女の両親から見ればリスクばかりが目立ってしまうのだろう。
しかしすべては、"かもしれない"という可能性の範疇の話だ。
「あなた方には確かに玲を守る義務がある。けど、それはあいつから夢を奪っていい理由にはなりません。あいつが失敗してしまうのが怖いなら、そうならないように支えればいいだけの話じゃないんですか?」
「む……」
「俺は支え抜くつもりです。あいつが前だけを向き続けられるように、今日みたいに転びそうになる前に、すぐ側で支えます」
玲の行く末は、どちらに転ぶか分からない。
それでも片寄らせることくらいならできるはずだ。
「お願いします……! どうか、あいつの夢を終わらせないでください」
俺は再び深く頭を下げた。
それらしい言葉を並べて説得を目指したが、結局はすべて他人の戯言。家庭の事情に口を挟むなと言われればそれで終わりの、薄っぺらい言いくるめだ。
この姿勢ももはや悪足掻き。これで駄目なら、俺はあっさりと諦めるつもりだ。
「――――頭を上げたまえ、志藤君」
「しかし……」
「私の負けだよ」
乙咲さんは、どこか諦めたような様子でため息を吐く。
「娘の夢を終わらせるなと言われて、突っぱねられるわけがない。少なくとも、近いうちに玲を芸能界から引退させるような真似はしないと約束しよう」
「本当ですか⁉」
「ただし、未来のことは分からない。この先玲の身に避けられない危険が迫っていると判断すれば、その時は父親として無理矢理にでも辞めさせる。……それまでの間であれば、好きにするといい」
「っ! ありがとう、ございます!」
頭を上げろと言われたのに、俺はさらに頭を下げてしまった。
俺の声が、目の前の人間に届いたのだ。
やればできるじゃん、俺。
「私たちは帰るとするよ。本当は玲と食事にでも行きたかったのだが、これからまた本社に戻らなくてはならなくてね。今話したことは君の方からあの子に告げてくれると助かる」
「分かりました」
ほっと胸を撫で下ろす。
とりあえずは一件落着と言ったところか。
いつの間にかびっしょりと汗で濡れていた額を拭い、息を吐く。
「それにしても、君のプレゼンはずいぶんと胸に響くものがあった。さすがは志藤グループのご子息だな」
その時、全身の汗がスーッと引く感覚がした。
「何故……それを?」
「この前学校ですれ違った後に思い出してね。君は忘れているかもしれないが、私は数年前に君と会ったことがある。覚えていないかい? 大企業ばかりが集まった交流パーティーで、その時志藤さんが連れていた子供が君だろう?」
企業の交流パーティー……。
ずきりと頭が痛み、思わず顔を伏せる。
脳裏に過ぎったのは、夢で見たあの光景。
親父に連れられた小学生の頃の俺、目の前にはスーツの男性と、小さな女の子。
あれは――――あの女の子は――――。
「志藤君、大丈夫? 何だか顔色が悪い気がするわ」
「だ、大丈夫です……ちょっと緊張していたので、その反動かもしれません」
動悸は激しいものの、頭の痛みはすぐに治まってきた。
今の痛みは一体何だったのだろう。
俺は自分の体の異変に、ただただ困惑することしかできなかった。
「……あ、お時間を取らせてしまってすみません。俺もそろそろ帰ります」
「ああ……その、こんなことを大の大人が頼むのは間違っているかもしれないが――――」
――玲を、よろしく頼む。
不器用にそう告げた彼に、いくつものプロジェクトを束ねる長としての貫禄はない。
今ここにいる男は、一人の父親。
思春期の娘との付き合い方に悩む、ただの父親だった。