8-4
ライブが再開した。
カノンの煽りに反応した観客たちは、クールダウンを挟んだにも係わらず再びボルテージを最高潮まで持ち上げる。
俺も予習して知っていた。
衣装チェンジ明けのカノンの煽りは、ミルスタの曲の中でもっとも激しい曲が始まる合図。
背中にじわりと冷や汗が滲む。
極度の精神的疲労を感じている玲に、この曲が耐えられるのだろうか。
『いっくよー!』
『オオォォオオオオオッ!』
カノンの掛け声と共に、曲が始まった。
"スイーツロック"と呼ばれるこの曲は、もっとも激しい曲ということもあり中心人物が玲からカノンへと移る。
身体能力的にはほとんど差がない三人だが、動きによっては向き不向きがあった。
跳んで跳ねるような動きを一番得意とするのがカノンで、色気のあるセクシーな動きを得意とするのがミア。
レイはかなりオーソドックスなタイプで、何にでも対応している印象がある。故にほとんどの曲でセンターを任されているのだろう。
曲のサビに入ると同時に、会場はさらに盛り上がり始めた。
玲はまだついて行っている。
この調子なら、きっとこの曲は乗り切れるだろう。
彼女もプロだ。ペース配分を見直せば、今からでも最後まで駆け抜ける算段を付けられるかもしれない。
そもそも俺のような素人が心配すること自体がおこがましいことであるはずだ。
ただ――――どうしても嫌な予感が消えてくれない。
それでも、表情だけは暗くならないように取り繕う。
そして"スイーツロック"が終わり、ライブは次の曲へと移った。
『今度はボクの番だよ』
次の曲は、"アイスクリームデイ"。
立ち位置が変わり、今度はミアが中心に立つ。
夏にぴったりな爽やかな曲調の中に、ミアの独特な温度の低い声が上手く合っている。
カノンの曲の後にこれを持ってくることで、盛り上がり過ぎた観客たちのボルテージを少し下げ、会場の雰囲気を整えた。
踊りの方も激しい動きは少なく、玲にとっても救いの時間と言えるだろう。
しかし、俺は知っている。
この曲の後は、玲がメインとなる曲が来る。
ここまで来た彼女の次の壁は、間違いなくその場面。
そして――――ミアの曲が終わり、再び玲が中心に立つ時間がやってきた。
『……"金色の朝"』
彼女が次の曲名を口にしたことで、会場は再び歓声に包まれる。
玲を中心にした"金色の朝"という曲は、カノンの曲ともミアの曲とも違う、ダンスよりも歌をメインにした曲だ。
振付のようなものはほとんどなく、ステージの上でスタンドマイクに向けて歌う。動きが少ない故に、これで玲も少しは体力を回復することができるはずだ。
澄んだ美しい声が会場に響き渡り、観客たちは声の一つも出せずにただ聞き入る。
彼女の宝石のような金髪をイメージしたこの曲は、まさしく彼女にしか歌えない曲と言ってもいい。"レイ"を推すファンは、皆この曲が一番好きだと声を揃えて言う。古参ファンであれ、新参ファンであれ、それは変わらないらしい。
一番を歌い切った彼女は、間奏を経て二番を歌い始める。
順調に歌詞をなぞっていく声が、いよいよサビの前へと入った。
異変が起きたのは、その時である。
『――――っ』
玲の声が、止まった。
自分でも信じられないという顔をして、彼女は呆然と目の前のマイクを見つめている。
歌をサポートする役目だったミアとカノンが、横目で玲に視線を送った。その様子はどことなく焦っているようにも見える。
(っ! 歌詞を飛ばしたのか⁉)
歌詞がある部分で、彼女の口は動かない。
体に来ているかと思われた疲労が、まさかこんな形で表に出てくるとは――――。
サビに入る直前になっても、玲の口は動かない。
さすがに観客たちも異変に気付き始めたのか、顔を見合わせてざわめきだす。
玲の焦りが、俺にすら伝わってくるようだった。
先ほどかいた冷や汗なんて比じゃないくらいの汗が全身から噴き出し、息が苦しくなる。
だけど、俺の比じゃないレベルで玲はもっと苦しんでいるはずだ。
わずかな時間がまるで無限に感じられ、景色すらもゆっくりと動いているように見える。
そんな中、玲の視線が揺らいだ。
その視線はゆっくりと俺たちのいる特別席の方へと向けられる。
乙咲さんを見て、莉々亞さんを見て。
そして――――俺を見た。
「ッ! どこ見てんだッ! 乙咲玲!」
自分でも、どうしてこんなことができたのか分からない。
思わず身を乗り出し、彼女へ向けて叫んでいた。
特別席にいた彼女の両親を含めたほとんどの人が、俺のその行動に驚き、目を見開く。
こんな距離、しかも曲と観客のざわつく声がある中で、俺の声など届くわけがない。
だけど叫ばずにはいられなかった。
アイドルである彼女が見るべき相手は、俺でも、ましてや両親でもない。
どうか思い出してくれ。お前が楽しませなければならない相手のことを。
お前は今、何千人というファンの前に立っているということを。
どうか、どうか。
自分がどうしてアイドルになったのかを思い出してくれ。
お前は決して、両親を笑顔にするためだけにアイドルになったわけじゃないはずだ。
『……あ』
目が合い、玲の口から音が漏れた。
揺らいでいた眼は本来の真っ直ぐなものに戻り、スタンドマイクを握る手に力がこもる。
伝わるはずのない声なのに、何故か玲は理解してくれたように感じた。
視線はすでに前に向いており、彼女は大きく息を吸い込む。
『――――ありがとう』
その言葉は、きっと観客には意味の分からないものとして伝わっただろう。
ただ、俺には分かる。
届かないはずの俺の声が届いたように、彼女の言葉は理屈じゃなく俺へと届いた。
永遠にも思われた時間は終わりを告げ、来ないで欲しいとまで思っていたサビがやってくる。
止まっていた玲の口は、滞りなくその先を紡ぎ始めた。
苦しみから解放された彼女の声は、一気に会場全体に響き渡る。どこまでも飛んで行ってしまえそうな、今までで一番澄んだ声。一瞬前に起きたトラブルなどすべて忘れさせるような堂々とした歌声が、俺たちの鼓膜を心地よく揺らす。
"金色の朝"は、さっきも言った通り彼女の髪色をイメージして作られた曲。
金髪の女性と一人の男性の儚い恋愛模様が歌詞の中に込められており、一番は男の視点。そして今歌っている二番は、女の視点で描かれている。
"目覚めてから、あなたと一番最初に挨拶を交わす人は私がいい"
"毎日顔を合わせてご飯を食べて、一緒に笑って、一緒に泣くのは私がいい"
"あなたが本当に苦しい時、側にいられる人になりたい"
そんな歌詞が耳を打つ。
途端に俺の中で、玲と過ごした時間が溢れ出てきた。
確かこの曲の作詞は玲本人だったはず。
彼女は――――誰を思い描きながらこの歌詞を書いたんだろうか。
(……羨ましいねぇ)
俺は席に深く腰掛け、ため息を吐いた。
この気持ちは、誰にも伝えないでおこう。
見えない相手に嫉妬している、こんな格好の悪い感情は――――。
その後のライブは今までが嘘だったかのようにスムーズに進行し、やがて終わりを告げる最後の曲がやってくる。
歌い切り、踊り切った玲の顔は、これまで見たこともないようなとびっきりの笑顔だった。
デビュー当時から応援しているファンですら見たことがなかったその顔は、しばらくの間多くの人間をミルスタのさらなる沼へと引きずりこんだらしい。
その気持ちは、俺にもよく分かった。