8-1 その視線は
――――結局、玲のためにできることは何一つ思い浮かばなかった。
いつも通り飯を作って、一緒にくつろぎながらテレビを見て。
俺ができることは何も変わらないのに、彼女の雰囲気はどんどん張り詰めていく。
それはミアもカノンも同じだった。
近くに立つだけで肌がひりついた気がするくらい、三人はライブに向かって気持ちを作り始めている。
(まるで試合前のボクサーみたいだ……)
俺の部屋で俺の淹れたコーヒーを飲みながら、玲はテレビの画面をギラついた目でじっと見つめていた。
映っているのは、おそらく今日撮ったであろうスタジオリハーサルの映像。俺に見せてくれた時のものとは違い、衣装交換の時間などもちゃんと作っている。
ライブの日は、明後日。七夕となる七月七日。
彼女たちは明日リハーサルのために会場入りし、近くのホテルで前日の夜を過ごす。
ライブ前に会えるのは、この時間が最後かもしれない。
「凛太郎、この映像の中で変なところってあった?」
「俺に聞くなよ……別に、前の時と同じですげぇなって思った」
「……そう」
玲は手元に手帳を開いている。
映像を見て改善すべきポイントを書き出すために持っているんだろうけど、いまだにペンは一度も動いていない。
これは玲が怠けているわけではなく、純粋に改善ポイントが見つからないから止まっているのだ。
それだけパフォーマンスは完成されている。これ以上工夫のしようがないくらいに。
ただ――――。
「強いて言うなら……顔、かな」
「顔?」
「ああ。この前俺の目の前で見せてくれた時より、表情が硬い気がする」
必死というか、何というか。
今までのテレビ番組やライブ映像と比べても、ほんの少し違和感があるといった程度。むしろ俺の気のせいと言われた方が納得できるくらいの、確証のない差。
「多分、凛太郎の指摘は正しい」
「……そうか。まあ、仕方ねぇと思うぞ」
「うん……」
父親が見に来るというプレッシャー。それが想像以上に玲の中で膨らんでいるに違いない。
こればかりは気の持ちようだ。周りがどうこう言える話でもない。
「やれることは、全部やったのか?」
「……うん」
「そっか」
俺のような一般人から言えることは、もう何もない。
あとはプロである彼女が、どこまで本番に集中できるか。
「凛太郎……ちゃんと見ててくれる?」
「お前が用意してくれた特別席があるからな。ちゃんと見させてもらうよ」
俺がそう告げれば、玲は立ち上がって目の前に立つ。
「ありがとう。あなたが見ていてくれるなら……私はきっと最後まで前を向いていられるから」
玲はふにゃりと笑い、うちのリビングを後にした。
俺はソファーに腰かけたまま、テレビの電源を消す。
「……へったくそな笑顔見せやがって」
アイドルらしくない、強がりだと分かる笑顔だった。
玲のメンタルは正常じゃない。
体に染みついた動きというのはそう簡単に消えるものではないし、本番でどれだけ緊張しようと彼女の体は自然と動くだろう。
ただ、それだけでトップアイドルが務まるだろうか。
やはり――――妙な胸騒ぎがする。
(俺がソワソワしてどうすんだよ……)
いつの間にか揺すっていた足を無理やり止め、ポケットからスマホを取り出す。
時間は少し遅いが、あいつならまだ起きていてくれるかもしれない。
ラインを開き、俺はたった一人の親友へと通話をかけた。
『――――もしもし? どうしたの、こんな時間に』
「悪いな。ちょっとお前の声が聴きたくなった」
『ふぇ⁉ な、何……本当にどうしちゃったの?』
スマホの向こうから、慌てた様子の稲葉雪緒の声がする。
不思議な気分だ。毎日学校で聞いている雪緒の声も、機械を通すだけで何だか新鮮に感じる。
『……何かあった?』
「どうしてそう思う?」
『凛太郎が電話してくるってことは、面と向かって話しにくいことがあるんじゃないかなーって。悩みとかがあるなら、可能な限り相談に乗るけど』
「お前は俺のことに関しては何でもお見通しだな。惚れ惚れするよ」
『そ、そう? えへへ』
男の「えへへ」なんて気持ち悪いだけだと思っていたが、こと雪緒に関しては不快じゃない。
それもまた不思議に思いつつ――――。
「悩んではいるけど、正直大したことじゃないんだ。そもそも俺の問題じゃないっていうかさ」
『そうなの?』
「ああ。友達……? うん、友達。友達が悩んででさ、何とか助けになりたいんだけど、なぁんにもその方法が思いつかねぇんだよ」
『まず君がその相手を友達って呼んでいることにびっくりだよ。君の中じゃほとんどの人が知り合いかクラスメイトじゃないか』
確かに俺は他人のことをあんまり友達とは定義しないけども。
「まあそこはいいじゃねぇか。ちょっと放って置けない相手なんだよ」
『ふーん……それで、どんな悩みなの?』
「えっと……そいつはとにかく有名になろうとしていて、そのための努力も重ねて結構名の知れた人間になった」
『うんうん』
「けどそいつの親父さんはそのことをあんまり良く思ってなくて、できれば控えてほしいと思っている」
『有名になると危険も伴うからね。気持ちは分かるよ』
「で、今度父親の前で有名になるために培ったすべての芸を見せようとしているんだけど、そのことが普段以上のプレッシャーになって本番が上手く行かないかもしれない」
『なるほど……と言うことは、凛太郎はその人に父親の前で本来の実力を発揮してほしいんだね?』
「そういうことだ。でもその方法が思いつかない」
雪緒は俺の知る中では一番の聞き上手と言っていい男だ。俺の言いたいことを一回聞いただけでほぼ完璧に理解してくれるし、解釈違いも起こさない。
そして詳しくは話せないという俺の事情も汲み取ってくれる。
こういうところが、相談相手として非常に頼もしい。
『うーん、でもそれは本人がどうにかするしかないんじゃないかな』
「……正論だな。けど俺の欲しい答えじゃない」
『分かっているよ。君も同じ結論なんだろう? 凛太郎は、第三者としてできることが知りたいんだ』
その通り。だけどそれが思いつかない。
『……申し訳ないけど、僕も答えは出せそうにない。ただ、一つだけ言えることがある』
「聞かせてくれるか?」
『うん。それは――――君だけは不安な顔をしないことだよ』
不安な、顔?
『理論めいたことは存在しないけど、不安は伝染すると思うんだ。実際にその人の芸が上手く行かなかった時、君が近くにいるならきっと縋りたくなる。その時に君すらも不安な顔をしていれば、完全に心が折れてしまうよ』
「……なるほどな」
例えば、高校野球の試合で監督が不安そうな顔をしていれば、教え子たちはきっと何を信じていいか分からなくなるだろう。
それまでどれだけの努力を重ねていたとしても、その努力の方向性を示した監督という標識が間違っているかもしれないのなら、重ねてきた土台すべてが信じられなくなってしまうんじゃないだろうか。
そんな状態で、果たして満足に戦えるか――――実際にスポーツに打ち込んだことがない俺には分からない。
この考えは間違っているかもしれないし、そもそも俺は玲の監督ではない。
それでも一つだけ確かなことは、俺が不安そうにしていて良いことなど一つもないということだ。
「ありがとうな、雪緒。助かったわ」
『何かの参考になったのならよかったよ。君から相談を受けるのも何だか新鮮で楽しかったしね』
「俺が弱音を吐く奴なんてお前くらいしか思い当たらねぇよ。本当に助かった」
『――――そっか。そうなんだね』
「ん? どうした?」
『ううん、何でもないよ。凛太郎の心配するその人、上手くいくといいね』
「ああ、そうだな」
『それじゃあおやすみ、凛太郎』
「おう、おやすみ」
耳からスマホを離し、通話を切る。
最後の方になって突然声色が明るくなった雪緒だったが、とりあえずは迷惑にならなかったようで安心した。
不安な顔をしない。
簡単なことかもしれないが、とても大事なことであるような気がする。
俺の方を見る余裕がなかったとしても、俺だけは玲を信じて見つめ続けよう。
"お前は大丈夫"という意味を込めて――――。