7-5
間もなくがちゃりと扉の開く音がして、ミアがリビングに現れる。
「やあ、夜遅くにごめんね?」
「明日は休みだし、別にいいよ。それよりコーヒーはブラックだったよな?」
「うん。そのままが一番好きなんだよね」
ソファーに座ることを促し、その目の前にコーヒーを置く。
いただきますと一言告げた彼女は、マグカップに口をつけた。
「本当に美味しく淹れるよね、君は」
「元々コーヒーが好きなんだよ。だから毎日自分で淹れて、今では料理と同じくらい自信があるぞ」
「継続は力なりって言うもんね。ボクも自分で淹れられるようになってみようかな……」
ミアは嬉しそうにコーヒーに口をつける。
喜んでもらえるのは光栄だが、まさかコーヒー談義をするために来たわけじゃないだろう。
「それで、どうしたんだよ。遅くに男の部屋を訪ねるくらい大事な話でもあるのか?」
「ああ、うん……大事かどうかは分からないんだけどさ」
彼女は少し目を泳がせながら、マグカップをテーブルへと置き直す。
「最近、レイとカノンにおかしなところはないかい?」
「……どういう意味だ?」
「うーんと、少し難しいかな。何か普段とは違う態度とか、そういうものが見えたりしない?」
なるほど、こいつは悩んでいる二人の様子が気になって、こうして聞き込みに来たわけか。
「プライバシーを重視して詳しくは言わねぇけど、二人とも結構悩んでることがあるみたいだぜ。カノンに至っては、この前このくらいの時間に話がしたいって連絡してきたくらいだ」
「そうなんだ。りんたろーくんはモテモテだねぇ」
「どーも」
「むー、君の反応はからかい甲斐がないなぁ。もっと激しいリアクションを期待してんだけれど」
「そういうのをお求めなら、それこそカノンのところへ行け。そしてそのままあいつの悩みを聞いてこい」
「聞く必要はないさ。きっとボクやレイに劣等感を感じているとか、そういう話でしょ?」
思わず、コーヒーを飲もうとしていた手を止めてしまった。
これが彼女の言葉が合っていると証明するようなものだと気付いた時には、もう遅い。
「やっぱりね。……安心して。別に君が分かりやすかったとかそういうのじゃなくて、一年くらい前からそういう兆候が見えていただけの話だよ」
「ずっと気づいていたわけか」
「まあ、チームメイトのことだしね。レイも何となくは気づいているんじゃないかな」
「じゃあ、そんなカノンの悩みに対してどう思うんだ?」
「別に、どうも思わないよ。だって酷くくだらないんだもの」
ミアはどこまでもあっさりと、カノンの悩みをくだらないものと断言した。
思わず言葉を失う俺に対し、彼女は言葉を続ける。
「カノンはね、自分が思っているより才能に溢れた子なんだよ。ボクらについて行くのがやっとだなんて感じているかもしれないけれど、それはボクから見ても同じことさ。レイとカノンに置いて行かれないよう、足を引っ張らないよう、努力を欠かした日は一度もない。――――きっと、ボクらは例外なく同じ悩みを抱えているんだと思うよ」
「……なるほどな。そういう意味でのくだらないか」
カノンの悩みは、ある種杞憂ということになる。
本当に、いいグループだ。
メンバーがメンバーを見下しているような様子もなければ、傍から見ても格差ができているわけじゃない。
三人だからいい。三人じゃなければならない。そう言わせるほどのバランス。
それぞれの魅力と才能が、ミルフィーユのように重なり合う。故に"ミルフィーユスターズ"とはよく言ったものである。
「分からないのは、玲の方なんだ。確かにボクらでもライブ前に少しひりつくようなことはあるけれど、最近の彼女はいつも以上に気負っているというか……」
そっちの事情は聞いていないらしい。
この話に関して、玲は特に秘密にしているような様子はなかった。俺にはできないが、ミアなら近くで彼女を支えてくれるかもしれない――――。
「さっき少しだけ話を聞いた。次のライブに父親が来るんだとさ」
「ああ、なるほどね。レイのところはアイドル活動に反対しているからなぁ……プレッシャーに感じるのも仕方ないか」
ミアはそこで言葉を止め、少しだけぬるくなったコーヒーを一口、二口と飲み込む。そしてどこかホッとした様子で息を吐いた。
「ありがとう、りんたろーくん。おかげで悩んでいたことが少し改善されたよ」
「どういたしまして。お前もずいぶんと仲間想いなんだな」
「それはそうだよ。ボクらは三人で一つ。誰かが欠けたらミルフィーユスターズは消えてなくなる――――ってくらいの心意気でやっているからね」
言葉の端を冗談めかして明るく言い放ったが、ミアのこの言葉は本心であるように感じた。
一番ミルフィーユスターズのことを考えているのは、彼女なのかもしれない。
「ねぇ、りんたろーくんはどうしてボクらに対して尽くしてくれるの?」
「は?」
「だって普通こんな風に親身になって人の悩みなんて聞かないよ。長年連れ添ったような友達ならともかく、ボクらは精々二ヵ月ない程度の付き合いでしょう? 話を聞かされるだけ迷惑なんじゃないかなって」
「……迷惑とか、そういうのはねぇけど」
自分の中にある考えをまとめるため、俺もコーヒーを一口含む。
ようやくまとまったタイミングでマグカップを置き、再び口を開いた。
「俺、小さい頃に人を笑顔にする何かになりたかったんだよ」
「何か?」
「誰かを助けて笑顔にするヒーローとか、医者とか……それこそ笑わせるって意味でお笑い芸人とか。とにかくたくさんの人の笑顔が見たいっていう、こっ恥ずかしい夢があった」
挫折したのは、それこそ母親が家から出て行った時。
俺が酷く現実的なことを考えるようになったのは、まさしくあの日がきっかけだ。
「でも小学校を卒業する前に、それは無理だと理解した。俺には多くの人を笑顔にする力なんてなかった。精々、目の前にいる一人くらいならどうにかなるかもしれないっていう程度の、弱い人間だったんだよ」
「……」
「だからステージに立って観客を沸かしているお前たちに、ちょっとばかし憧れてるんだ。昔の夢を見ているって言い換えることもできるかな。とにかく、俺にできないことをやっているお前たちを尊敬してんだよ」
だから助けになりたい。
そう思った。
「もちろん玲との契約があること前提だけどな。あれがなかったらお前らのことはよく知らないままだったし、きっとここまで尊敬の念は抱かなかっただろうよ」
「ふふっ、最初はファンじゃなかったしね」
「はっ、そうだったな」
玲に連れられてファンタジスタ芸能のスタジオを訪れたのが、つい昨日のことに思える。
ミアとカノンとの関係は、あの日から始まったんだ。
「俺が支えることで玲の――――ミルフィーユスターズの役に立てるなら、昔の俺が少しは浮かばれるかもしれない。そう思ったんだよ」
「……なるほどね。よく分かったよ」
ミアは残ったコーヒーを飲み干し、立ち上がる。
「コーヒーが冷めるまで長居して申し訳なかったね。ボクはそろそろ帰るよ」
「そっか。少しは悩みが改善したようでよかったよ」
梅雨だからか、悩む人間が増えているような印象を受ける。
本当なら玲の悩みを一番に助けてやりたいのだが、そう人生は上手くはいかないようだ。
「あ、そうだ。最後に言っておきたいんだけど」
「ん……?」
「君も十分誰かを笑顔にしているよ。レイやカノン……それこそ、このボクをね」
彼女は悪戯な笑顔を浮かべて、俺に背を向ける。
「じゃあね、りんたろーくん」
「っ……! ミア! その……ありがとな」
「ふふっ、どういたしまして」
おやすみ――――。
そう言い残し、ミアは俺の部屋を後にする。
一人残された俺は、脱力して天井を見上げた。
心が報われたような、救われたような、そんな感覚に包まれる。しかし唯一引っかかること、それは玲のことだった。
「手伝えることは、何もない……か」
分かっている。家族のことにまで首を突っ込めるような関係じゃないことくらい。部外者が何かを訴えようとしたところで、相手側からすれば聞く義理がないのだから。
だとしても、だとしてもだ。
本当にそれでいいのだろうかと、ただ漠然とした思いが俺の中に渦巻き始める。
何かまだ、できることがあるような気がするんだ。