7-2
やがて玄関を開けてやってきたカノンをソファーに座らせ、その前に淹れたてのコーヒーを置く。
「ありがと……マジで気が利くわね、あんた。好みバッチリじゃない」
「俺は専業主夫を目指してんだ。これくらいできなきゃ話にならねぇよ」
「いや、普通はここまでしないんじゃない……?」
俺も自分のために淹れたコーヒーに口をつけながら、彼女の隣に腰掛ける。
改めて見てみると、ずいぶんと無防備な格好をしているな……。
ピンク色の少しサイズの大きなTシャツに、短パンの裾からシミ一つない太ももが露出している。いつも結んでいる髪は下ろしており、いつも以上に女性らしい。
「なぁに? さすがに二人っきりだったら見惚れちゃった?」
「まあな。何だかいつもより大人しいし、カノンじゃないみたいだ」
「……あたしにだって、そういう時くらいあるわよ」
カノンは少し照れた様子を隠すように、マグカップに口をつけた。
「次のライブにね、ちょっとプレッシャーを感じてるの」
「は……?」
「今更って今思ったでしょ? そうよ。今更なの」
彼女は俺と視線を合わさない。
冗談ではないからこそ、面と向かって話しづらいのだろう。
「言ってなかったけど、あたしの家って不動産屋ってだけで至って普通なのよ。玲のところはお金持ちだし、ミアの家だって実は母親が有名な女優だったりするし。あたしとは生まれも育ちも全然違うわ」
「そうだったのか……」
「二人とも、意味が分からないくらいのハイスペックでしょ。残念ながら、たまにあたしはついていけなくなることがあるのよねぇ」
何でもなさそうに語りつつ、口の端々から悔しさが滲んでいる。
同じ立場にはいない俺ですら、カノンのその気持ちは理解できてしまった。あいつら――――特に身近にいてはっきりと感じ取れたのは玲の方だが、彼女は間違いなく化物だ。
メンタルの出来から体の造りまで、まるで普通の人間とは思えない。
「だとしても、俺から見ればお前も相当ハイスペックだけどな」
「そりゃそうよ。完璧美少女だもの」
「自信があるのかないのかどっちなんだよ……」
「あるけど、ないの。二人の足を引っ張りたくなくて必死に努力して、何とか食らいついてる。だけどたまに……疲れちゃうのよ」
「……そっか」
何故俺の下に来たのか、今ようやく分かった。
こんな話、本人たちに話せるわけがない。
今までは誰にも言わず、一人で抱え込んでいたのだろう。
「ねぇ、寄りかかってもいい?」
「駄目だ」
「男ならそこは一言『いいぞ』って言うところでしょ⁉」
「俺が肩を貸すのは将来の妻だけだ。お前も俺の嫁にはなりたくねぇだろ」
「それはどうかしら? ……と言いたいところだけど、あたしよりも女子力高い男と付き合うのは嫌ね」
ベランダで話していた時と同じように、彼女はけらけら笑う。
「あんたの隣って、妙に落ち着くわよね。アイドルってことを忘れられるっていうか」
「本来なら忘れちゃ駄目なんじゃないのか?」
「いいのよ。たまには。――――ねぇ、だから……五分でいいから貸してよ」
「……高くつくぞ」
俺は黙ってソファーに背中を預ける。
そしてカノンは、そんな俺の肩に頭を乗せた。
彼女の体重は引っ越しパーティーの際にソファーからベッドに運んだ時と変わらず、ずいぶんと軽い。
「あんたの肩はずいぶんと硬いわね……」
「悪いな。今度はクッションでも挟んでおくよ」
「それじゃ肩借りる意味ないじゃない。これでいいのよ。この硬さで」
この部屋には、静かな時間が流れていた。
会話はない。カノンが求めているものはそういうものじゃない。
専業主夫たる者、相手の求めているものを汲み取って与えるべし。
そうしていれば、約束の時間は思っていたよりも早く訪れた。
「――――五分って意外と短いのね」
カノンの頭が離れていく。
少しだけ凝ってしまった肩を回し、俺は彼女の顔を見た。
「さっきよりは幾分かマシな顔になったな」
「そう? ま、確かに気分はよくなったわ」
体を伸ばしながら、カノンはソファーから立ち上がる。
俺の部屋に来た時の独特な暗さはどこかへ消え、いつも通りの彼女がそこにいいた。
「ねぇ、またこうして肩貸してくれる?」
「次からは金を取るぞ」
「ケチ過ぎない?」
「冗談だ。五分だけならいつでもいいぞ。俺が許せるギリギリの範囲だ」
「あんたの定義もよく分からないわねぇ……じゃ、また疲れちゃったら来るわ。今日はその……ありがと」
そう告げて、カノンは玄関へ向かっていく。
俺は何となくその背中に声をかけていた。
「カノン……頑張れ」
「……あんたも不器用な奴ね。言われなくても、限界までやってやるわ」
彼女は手をひらりと振って、部屋を後にした。
あいつの悩みを聞いた後じゃ、俺の三者面談の悩みなどちっぽけに見える。
残ったコーヒーを飲み干し、空のマグカップを指でゆらゆらと揺らした。
「あー、バカらしい。死ぬわけでもあるまいし」
三者面談が二者面談になろうが、この先の人生に支障があるとは限らない。
気楽に行こう。人生その程度で十分だ。
気づけば時刻は0時を回っている。
俺は彼女の分のマグカップを持ち、流しへと持っていった。
今日はもう、俺も寝るとしよう。
◇◆◇
後日の放課後。
いよいよ三者面談当日がやってきた。
俺は廊下に置かれた椅子に腰かけ、一つ前の面談が終わるのを待つ。親の都合が存在しない俺は周りのクラスメイトに比べて予定の融通が利くため、比較的後半の順番となった。
「あれ、俺の前は志藤だったのか」
スマホをいじりながらしばらく待っていると、突然そんな声がかけられる。
顔を上げれば、そこには相変わらずのイケメンフェイスが立っていた。
「あ、柿原君……」
「祐介でいいよ。もうクラスメイトになって三か月近いんだからさ」
彼はそう言いながら、俺の隣の椅子に座る。
呼び捨てで呼べるほどの仲になった覚えはないのだが、ここで突っぱねるのも感じが悪いか。
俺は笑顔を張り付けて、こくりと頷く。
「じゃあ俺のことも凛太郎でいいよ」
「そう? じゃあ遠慮なく呼ばせてもらうよ。……凛太郎も親御さんが来れなかった感じ?」
「ああ、そうだけど……祐介君もこの時間に面談が入ってるってことは――――」
「そうなんだよ。うちの親は二人とも海外で働いててさ、母さんはデザイナーで、親父はベンチャー企業を経営してる。だから簡単には日本に戻ってこれないんだ」
――――とんでもないハイスペック家族だな。
「ってことは、もしかして祐介君は一人暮らし?」
「ん? ああ、そうだよ。高校に入ってからだけどね。中学までは母さんがまだ日本にいたから」
「そっか。大変じゃない?」
「そんな風に言ってきたのは凛太郎だけだなぁ。皆一人暮らしなんて羨ましいって言うんだよ。実際いいことばかりじゃないんだけどね」
そりゃ俺も一人暮らしですから、苦労は分かっているつもりですとも。
頭の中の俺が腕を組みながらうんうんと頷く。
「な、なあ……凛太郎」
突然、柿原はもじもじしながら視線を泳がし始める。
何か言いたいことがあるのに、恥ずかしくて口を開けない……そんな雰囲気。
「……どうしたんだい?」
「あ、そ、その……ちょっと相談があって」
「相談?」
「その……恋愛の、話……なんだけど」
何故俺に? と聞きたいところだったが、俺は口を閉じた。
「恋愛? 俺なんかに相談役が務まるかなぁ」
「凛太郎はもう彼女がいるんだろ? 頼むよ、この待ち時間だけでもいいんだ」
「あ、あー……そうだね。確かにそうだった」
あぶねー、彼女がいないこと前提で話し始めちまうところだった。
騙してしまった罪悪感もあるし、まあ話を聞くくらいならいいだろう。面倒くさいけど。
「役に立てるかどうかは分からないけど、とりあえず聞かせてくれるかな」
「そ、そうか……! そ、その……実は、俺……梓のことが好きなんだっ!」
――――うん、知ってた。