61-3
「凛太郎について来てもらえばいいのよ! それなら、あたしたちも最高のパフォーマンスを保てる気がする!」
そう叫んだカノンに対し、ミアはひとつ頷いた。
「確かに、凛太郎君がいてくれたら、ボクらもすごく助かるね」
「ん、それなら寂しくない」
「いや、行きたいとは言ったけどさ……ついていく金なんてねぇし」
貯金はあるが、おそらく半分もついていけずに底をつくだろう。
「そんなの、あたしたちが出すわよ」
「おい、それはさすがに……」
「代わりに、あたしたちの面倒を見てもらうけどね」
カノンがニヤリと笑う。
なるほど、取引というわけか。
「スタッフさんには共有できないし、確約できるわけじゃないけど……凛太郎君が一緒に来てくれるなら、真剣に考えておくよ」
「……ありがとな」
甘えてばかりで、少し情けない。
だけど、そこまでして三人が俺を必要としてくれるなら、その手を取らないほうが失礼だと思った。
――――その日の夜のこと。
すべての家事を終えた俺は、自室でノートにシャーペンを走らせていた。
このノートには、これまで俺が作ってきた料理のレシピが書いてある。
何かひとつ宝物を挙げろと言われたら、俺はこのノートを挙げるだろう。
「……ん?」
ふと、ノックが聞こえた気がして、俺は扉に視線を向ける。
「凛太郎、入ってもいい?」
「玲か。いいぞ」
モコモコの部屋着を着た玲が、部屋に入ってきた。
可愛らしい格好だが、値段はまったく可愛くないんだよな、あの服。
「どうした? こんな時間に」
「ん……ちょっとだけ話したいことがあって」
「……?」
俺がキョトンとしていると、玲はためらいながら口を開いた。
「凛太郎……。夏休みは、受験勉強で忙しいんじゃないの?」
「あ……」
「私たちは、多分受験しない。でも、凛太郎は進学するって言ってたから」
玲が何を言いたいのか、俺は瞬時に理解した。
夏休みのツアーについていこうとしたら、確かに受験勉強に割ける時間は大幅に少なくなる。
もちろん、それでも勉強の時間がまったくなくなるわけじゃないし、自分次第でどうにでもなることだ。
ただ、周りにいる人間は、少なからず気を遣ってしまうだろう。
少なくとも、俺ならそうなる。
「悪いな、変な気を遣わせて。でも、大丈夫だ」
「え?」
玲が首を傾げる。
「ちょうど、受験について思うことがあってさ。……大学行くか、迷ってんだ」
俺がそう言うと、玲は驚いた顔になった。
「待って、凛太郎。大学行かないといけないんじゃなかったの?」
「ああ、親父にはそう約束してる」
いい成績をキープして、いい大学に行くことが、ひとり暮らしのための条件だった。
それに、そうすることが、自分にとって最善の道だと信じていた。
「別に、約束を破りたいわけじゃないんだ。それ以上に、目標っつーか、夢っつーか……そういう何かが見えてきそうな感じがするんだよ」
雪緒と話して以来、そういう、自分の中で何かが変わっていくような、不思議な興奮が渦巻いていた。
専業主夫になりたいという願望は、もちろん変わっていない。
変わりそうなのは、そこに至るまでの〝過程〟のほうだ。
「ま、今のところは迷走中だけどな。どうしていいか、どうすりゃいいか、正直まったく分からねぇ」
「……」
玲が目を伏せたのを見て、俺は小さく笑った。
「お前、俺が進学を迷ってるの、自分のせいだと思ってるだろ」
「うっ……」
ベッドに腰かけながら、玲は顔をしかめた。
「図星か」
「よく、分かったね」
気まずそうにしながら、玲は俺の目を覗き込んできた。
「はぁ……。ま、確かにお前のせいかもな」
「っ!」
頭を掻きながら言うと、玲はビクッと肩を震わせた。
「これまでの俺は、未来のことを考えているようで、まったく考えていなかった」
俺は、机の上に並んだ参考書に視線を移す。
その隣には、同じくらいの冊数の料理本が並んでいた。
「バリバリ働いてくれる嫁さんを見つけて、専業主夫として生きる。いい大学を目指すのは、理想が叶わなかったときに備えた保険……。ずっと、そんなふうに考えてた」
――――でも、それじゃダメだったんだ。
今なら、分かる。
俺の願いは、現実逃避でしかなかった。
「それしかないんだって思い込んでたんだ。けど、実際は違った」
「……?」
困惑している玲の顔がおかしくて、思わず笑顔になる。
「お前のおかげで、大学に行かなくったって、未来が閉ざされるわけじゃないって気づけたんだよ」
そう言いながら、俺は玲にレシピノートを渡す。
「これは?」
「俺が作ってきた料理が書いてあるノートだ」
玲の手が、ノートをパラパラとめくっていく。
ときたま笑顔になるのは、食べた料理の味を思い出しているからかもしれない。
「あ、和風カレー。懐かしい。すごく美味しかった」
「ああ、あれは上手くいったな。でも、今ならもっと美味しく作れるかもしれない」
「え?」
「そこにあるレシピには、まだまだ改良の余地があるってこと。けど、どうすれば改良できるのか、その知識はまだ、俺の中にはない」
「……」
「それを学びたいんだ」
俺は、玲の目を見つめ、はっきりと口にした。
「お前らのためにも、自分のためにも、もっともっと美味い料理を作りたい。そのために、大学に行くべきなのか、それとも専門学校に行くべきか、はたまた進学しないで、飲食店とかで修行したほうがいいのか……今の俺じゃ、まだまだ情報が足りなくて選べない」
迷うっていうのは、想像以上に大変だ。
頭の中がこんがらがるし、時間も奪われる。
だけど、現実逃避していた頃と比べると、楽しくて仕方がない。
「自分にとって、最善の道を探したいんだ。そう思えるようになったのは、お前のおかげ……いや、お前のせいだったな」
そう言って、俺はからかうような笑みを浮かべた。
もちろん、照れ隠しだ。
「……凛太郎はすごい」
「何がだよ。今のところ、ただ迷ってるだけだぞ?」
「前向きになって、ますます魅力的になってる」
「はぁ⁉」
俺は、自分の頬が一瞬にして赤く染まったことを自覚した。
「このままじゃ私、本当に凛太郎なしじゃ生きられなくなっちゃうよ?」
玲の潤んだ瞳が、俺を見つめている。
目が合った瞬間、俺の脳裏に、玲が俺以外の知らない男と歩いている姿がよぎった。
どす黒く、ひどく嫌な気持ちが、胸の底から込み上げる。
「――――そうなるようにしてやるよ」
「え?」
「え……あっ」
今、とんでもないこと口走らなかったか、俺。
「しゃ、シャワー浴びてくる」
そう言って、俺はそそくさと部屋を出た。
心臓が痛いくらいに高鳴っている。
違う。ちがう。こんなことを言うつもりはなかったんだ。
ああ、もう。ままならねぇな、ほんと。
◇◆◇
凛太郎が部屋を出ていってから、少し時間を置いて、私も部屋を出た。
――――大学に行かないかもしれない。
その話を聞いたときは、私が凛太郎の人生を変えてしまったんだと思い、心が乱れた。
でも、凛太郎がそれを楽しそうに語ったことに対して、大きなショックを受けた。
もちろん、悪い意味じゃない。
キラキラとした凛太郎の目が、あまりにも魅力的だったからだ。
「あらら。抜け駆けされちゃったわ」
「うん、出遅れちゃったね」
部屋を出てすぐ、カノンとミアが私の前に現れた。
「夏休みの件で話そうと思ったんだけど、もうレイが話し終えちゃったみたいだね」
「ん、受験についてとか、色々話した」
「そっか。まあ、その辺は本人から今度聞くとして」
そう言って、ミアは踵を返した。
「今日は先を越されたけど、次は負けないからね」
「……ん」
私は、力強く頷いた。
凛太郎のことは、私が一番強く想っている。だから、負けるわけにはいかない。
「ふんっ! あたしだって、こっから巻き返してやるんだから」
べーっと舌を出して、カノンも自室に戻っていった。
二人とも、恋敵としてはあまりにも手強い。
でも、私はどういうわけか、妙に楽しくて、わくわくしていた。