52-1 看病
「ん……」
目を覚ますと、カーテンの隙間から日差しが入り込んでいるのが見えた。
どうやら一晩中寝てしまったらしい。
――――体重っ……。
上体を起こした俺は、自身を包む倦怠感が強くなっていることを自覚した。
しかし、熱による辛さは減っている気がする。
熱を測ってみると、体温は三十七度六分を指していた。昨日よりは下がっているが、依然として熱はあるようだ。
「まあ……回復に向かってるってことで」
昨日は最悪だったが、今は少しマシだ。
楽なうちに、少しでも動くべきだろう。せめてこの寝汗だけでも拭いてしまいたい。寝巻も変えなければ不衛生だし、このままでは寝つきが悪い。
「凛太郎君?」
「ん……?」
扉の向こうから、ミアの声がした。
「失礼、入るよ」
そんな声と共に、ミアが部屋の中に入ってくる。
私服姿の彼女は、俺を見てホッと胸を撫で下ろした。
「あ、よかった。起き上がれるくらいには回復したんだね」
「ああ、おかげさまでな」
「熱は?」
「……」
一瞬、嘘をつくかどうか悩んだ。
この体調だったら、無理やり動こうと思えば動ける。
やるべきことは山積みだ。できるだけ済ませておかないと、ミアたちに迷惑がかかる。
しかし――――。
「……三十七度六分だ。ちょっとまだしんどいな」
俺は正しい数字をミアに伝えた。
辛いときは頑張るなと、玲に言われたばかりだ。俺のやるべきことは家事ではなく、三人を信頼して、体を休めることである。
「そっか。夜にはまた少し上がっちゃうと思うから、今日はとにかく安静にしてね」
「ああ、そうさせてもらう」
「何かほしいものはあるかな? 今日はボクがずっと君の傍にいるから、頼みたいことがあったら遠慮なく言ってね」
「助かるよ。でも、お前は大丈夫なのか? 疲れてたりしないか?」
「……こんなときまでボクの心配だなんて、君は本当に優しいね」
呆れたようなミアの笑みを見て、不意に心臓が跳ねた。
「あ、飲み物なくなってるね。とりあえず持ってくるよ」
「ありがとう」
俺は再びベッドに横たわり、部屋を出ていくミアを見送った。
◇◆◇
凛太郎君の部屋を出たボクは、恍惚としながら息を漏らした。
何を隠そう、ボクは興奮していた。普段の彼と、弱っているときの彼。そこにあるギャップが、ボクを惑わせる。
憎まれ口を叩く彼も面白くて好きだけど、ボクを頼るしかなくて素直になっちゃっう彼は、得も言われぬ可愛らしさがある。
動画にでも撮って残しておきたい気持ちはあるけれど、さすがに凛太郎君に失礼だ。許可なく撮るような真似はナンセンス。それでは盗撮と変わらない。
「いけないいけない。まずはやるべきことをやらないとね」
ボクは冷蔵庫のスポーツ飲料を取って、凛太郎君の部屋に戻る。
「凛太郎君、入るよ?」
「ああ……」
部屋の主の許可を取ってから、扉を開ける。
ボクが入ってきたのに合わせて、凛太郎君は体を起こそうとした。気怠そうな彼が起き上がるのを手助けしたあと、キャップを外したスポーツ飲料を手渡した。
「ありがとう、助かった」
「お安い御用さ」
コクコクと喉を鳴らしながらスポーツ飲料を飲む彼の姿は、まるで小さい子供のようだった。庇護欲がガシガシと掻き立てられる。この人を独り占めしたいんだけど、いい方法はないかな。
「ふう……」
「だいぶ汗かいたみたいだね。着替える?」
「ああ、そうしようかな」
「じゃあ先に体拭いちゃおうか」
「おお……って、何してるんだ?」
おっと、早まったかな。
ボクが凛太郎君の服の前ボタンを外そうとすると、訝しげな視線を向けられてしまった。さらっと服を脱がせる作戦は失敗である。
「凛太郎君は何もしなくていいよ。ボクが全部やってあげる」
「え? あ、おい……」
さらっと脱がせるのは失敗。となると、次は強行突破だ。
ボクは有無を言わさぬ勢いで、彼のボタンを外しきった。
もちろん、この行為に他意なんてない。第一、彼の裸は何度か見ているし、今更こんな行為で動揺したりは――――。
「……ミア?」
彼の胸板を見つめたまま、ボクは動きを止めた。
なんだろう、この感覚は。
ボクが凛太郎君の服を一方的に脱がそうとしているという状況が、妙に恥ずかしくなってしまった。一緒にお風呂に入ったときは、逆にこんなに意識しなかったのに……。
「ご、ごめんね! すぐに拭くから……」
「いや……それくらいなら自分でできるぞ?」
「いいよいいよ。体を拭くのって、結構な重労働だからさ」
「まあ……拭いてくれたら助かるけど」
そんな言い訳を口にしながら、ボクは汗拭きシートで彼の体を拭いていく。首元から、胸、お腹。それから脇の下と背中も。
拭いているうちに、ボクは凛太郎君の匂いが薄れてしまったことに気づいた。
ボクにそういう癖はなかったはずなのに、どうしてこうも残念に思うのだろう。
「ふぅ……助かったよ、ミア。おかげですっきりした」
「そ、そうか。それはよかったよ」
ボクは凛太郎が着ていた寝巻を手に持って、枕元を離れる。
「凛太郎君、着替えってこのクローゼットの中かな?」
「ああ、そこだ」
「了解。適当にTシャツ出しちゃうね」
クローゼットを開けて、彼の着替えを探す。
どれも、ボクの持っている服よりサイズが大きい。隣に並ぶとそんなに身長差を感じないのに、こうして見るとやっぱり男の子なんだなと実感する。
駄目だ。今は何を見ても意識してしまう。
「こ、これでいいかな?」
白いTシャツがあったので、ボクはそれを凛太郎のもとへ持っていく。
凛太郎君がそれを着ると、胸元にはでかでかと〝働きたくない〟という文字があった。なんというか、我の強いTシャツだ。
「あ、ズボンはどうする? 持ってくるよ?」
「あー……今は大丈夫だ。夜になったら変える……」
「分かったよ」
そしてボクは、ベッドの側に座り込んだ。
「……なあ」
「ん? 何かな」
「いや……別に、俺の側にいなくたっていいんだぞ?」
「ボクがいたら気が散る?」
「そういうわけじゃないけど……申し訳ないっていうか」
「嫌じゃなかったら、君が眠りにつくまで一緒にいさせてよ」
「……分かった」
仕方ないな、とでも言いたげな笑みを浮かべ、凛太郎君は再びベッドに横になる。
ボクはそんな彼に布団をかけ、その顔を覗き込んだ。
「大丈夫? 寒くない?」
「少し寒気がするけど……多分大丈夫だ」
「寒気か……そうだ、一緒に布団に入って温めてあげようか?」
「ははっ……そいつは温まりそうだな」
ヘラっと笑った凛太郎君を見て、ボクの胸は一層強く高鳴った。
今なら、もしかすると行けるんじゃないか?
すでに凛太郎君は、強い眠気に襲われているようで、うとうとし始めている。
本当に布団に潜り込むなら、チャンスは今しかない。
「……君は何も気にせず、ゆっくり休んでいればいいからね」
「ああ……ありがとな、ミア」
「君のためになるなら、なんだってやるさ」
そう言いながら、ボクはそっと彼のベッドに体重をかけた。
そして慎重に布団をめくり、スッとその中へ。
――――入れちゃった。
心臓が痛いくらいに高鳴っている。
布団の中は、凛太郎君の濃い匂いで満たされていた。電車で嗅ぐ男性の匂いはとても苦手だけど、凛太郎君の匂いだけは、何故かすごく好ましく思える。
「……」
そっと凛太郎君に身を寄せる。
すると、寝苦しそうにしていた彼の表情が、若干和らいだような気がした。
熱のせいで、彼の体はボクよりも温かい。その温もりが、ボクの眠気を誘ってくる。
――――っと、いけない。
ずっとここにいたいところだけど、凛太郎君がゆっくり休めなくなってしまっては、本末転倒だ。
ボクは何度か深呼吸をしたあと、静かにベッドを出た。