48-5
「……ねぇ、りんたろー。あんた、あたしたちの気持ちには気づいてるのよね」
とぼとぼと歩きながら、カノンは俺に問いかけてきた。
ここは言葉をよく選んだほうがよさそうだ。俺の下手な発言が、誰かを傷つけてしまうかもしれないから。
「……そうだな。気づいてないとは言わん」
カノンと目を合わさぬまま、俺はそう答えた。
俺は、彼女たちの気持ちに気づいている。これだけ一緒にいたら、どんなに鈍感なやつでも気づくはずだ。
「確認させてよ、りんたろー。気づいた上で、あんたはどうするの?」
「……どうもしねぇよ。お前らがアイドルである限り、俺は誰の気持ちにも答えない」
俺にとって、それは越えてはいけない一線だ。
決して侵してはいけない、聖域のような世界。彼女たちがそこにいる限り、俺は足を踏み入れるつもりはない。
「あくまで、俺はお前らのサポーターだ。それ以上でも、それ以下でもないよ」
「……その立場を変えるつもりはないのね?」
「ああ、そうだ」
「はぁ……」
俺がそう言い切ると、カノンは盛大なため息をついた。
「あんたって、本当に罪なやつよね。なんで我慢できるわけ?」
「ヘタレなだけだ。誇れるようなことじゃねぇよ」
「あんたはヘタレなんかじゃないわよ。あたしが言うのもなんだけど、あたしたちの世話は、ヤワな人には務まらないわ」
「褒められてるのか? それ」
「当たり前でしょ? 褒めてるわよ」
言われてみれば、確かに三人の世話係は、生半可な覚悟では務まらない。俺の役目は、とにかく三人が気持ちよく仕事だけに集中できるようにすること。朝起きて、美味い飯を食って、仕事に行って、帰宅して綺麗な風呂に入って、ただ寝る。その状態を作り上げるために、俺は誰よりも早く起きて、誰よりも遅く寝る。
辛いとはまったく思わない。俺は三人に支えられて生きている人間だ。三人がいなければ、親父とも向き合えず、前向きに生きていくこともできなかった。
俺は、俺が三人を支えたいから、進んで今の生活を送っている。しかし、この生活を辛いと感じる人がいることも、理解できないわけではない。
「ままならないわねぇ、人生って」
「なんだよ、急に語っちゃって」
「こっちはねぇ、さっさとひとり選んでくれたほうが気持ちが楽なのよ」
「んな無茶な……」
「分かってる。頭は冷静だから」
カノンは再び大きなため息をついた。
「理性はちゃんと働いてるわ。でも、あんたの一番になりたいって欲望が、日に日に強くなってる気がするの。……だから、決めるならさっさと決めてよね」
「……そんなはっきり言うかね、普通」
「何事も、問題を解決するためには言語化が不可欠なのよ」
可愛らしくウィンクしたカノンは、そのまま何故か俺に腕を絡めてきた。
「お、おい! どういうつもりだ……⁉」
「簡単な話よ。このモヤモヤを解決するには、あんたがあたしに振り向けばいい。そうと分かれば、振り向いてもらえるまでアピールするしかないじゃない!」
「だからって……!」
「ほら! さっさと行くわよ!」
――――こいつの気配りには敵わないな。
カノンにずるずると引っ張られながら、俺は苦笑いを浮かべた。
話しているうちに暗くなってしまった雰囲気を、なんとかしようとしてくれたのだろう。
「……ん?」
ふと、視線が脇道に吸い寄せられた。
俺の異変を感じ取ったのか、カノンが俺に絡めていた腕を緩める。
「どうしたの?」
「いや、ちょっと気になる店があって……」
「店?」
「ちょっと見に行ってもいいか?」
「別にいいわよ。急いでるわけでもないし」
カノンと共に脇道に入った俺は、その店の前で足を止めた。
それは刃物などを扱う、老舗の店だった。店の外にはショーウィンドウがあり、そこには見栄えのいい包丁が並べられている。
料理はするが、板前でもなんでもない俺は、見ただけで包丁の良し悪しなんて分からない。しかし、そんな俺でも強く心惹かれてしまうくらい、並べられた包丁には、これまで扱ってきた包丁とは明らかに違う魅力があった。
「ここに包丁のお店なんてあったのね……中見てみる?」
「え、い、いいのか?」
「そんなにソワソワした顔見せられたら、早く次行きましょうなんて言えないわ」
呆れているカノンに礼を言って、俺は店の中に足を踏み入れた。
店の中には、さらに多くの包丁が並べられていた。
刺身包丁に、出刃包丁、牛刀、三徳包丁、ペティナイフなどなど。
どれも美しい輝きを放っている。今使っている包丁も十分いいやつだし、なんの不便もないけれど、やはり職人が作ったであろう道具には、利便性とはまた別の魅力を感じてしまう。
「……あたしには違いが全然分からないんだけど、欲しいものとかあるの?」
「うーん……そうだな、やっぱり牛刀かな。用途が多いし」
牛刀とは、いわゆる万能包丁の一種であり、肉だけでなく、魚や野菜も切ることができる、まさにこれさえあればと言った包丁である。
刃渡りが長いため、キッチンの広さによっては扱いにくさも出るが、今の環境であればそんなデメリットは関係ない。
「……お兄さんたち、学生さん?」
そのとき、店の奥から店主らしきお爺さんが現れた。
お爺さんは、分厚い眼鏡のレンズ越しに、俺たちを見つめている。
怪しまれている――――ようにも見える。まあ、どう見ても想定している客層からズレているからな、俺たち。
質問されているのだから、答えないわけにはいかない。俺はできる限り愛想がよさそうに見える笑顔を張りつけ、口を開いた。
「はい、学生です。……もしかして、未成年って入っちゃ駄目だったりしますか?」
「そんなことはないさ。すまんね、急に声をかけてしまって。若い子が来るなんて中々ないことだから、ついね。……君、ちょっと手を見せてもらえるかな?」
「え? あ、はい……」
言われるがまま、俺はお爺さんに手を見せる。
俺の手を見つめながら目を細めた彼は、感心したように大きく頷いた。
「……立派なタコがあるね。たくさん料理をしている証拠だ」
「あ……え?」
「こういう店だと、たまに悪さをする子も来るものだから……でも、君は包丁を正しく使える子のようだ」
そう言いながら、お爺さんは温かな笑みを浮かべる。
俺たちのやり取りが気になったのか、カノンが覗き込んでくる。
「あら、ほんとね。こんなところにタコあったんだ」
「ああ……まあな」
俺の手には、包丁によってできたタコがある。
持ち方が悪いからタコができるらしいのだが、確かに、数年前の俺は切れ味の悪い包丁を使って、力任せに食材を切ろうとしていた。
今となっては包丁の扱いにも慣れて、タコができるようなことはなくなったが、これはそんな時代の古傷のようなものだった。
「さて、何か買っていくかい? うちはいい包丁が揃ってるよ」
「あ……じゃあ、牛刀が見たいんですけど」
「ああ、それならこの辺りだね」
お爺さんに案内されたコーナーには、美しく輝く牛刀が並んでいた。
どれも高品質なのだろう。見ただけで分かる。ただ、その品質に比例して、どれも値段がえげつない。さっきのショップにあった服が、何着か買えてしまう金額だ。
「……とても手が出ません」
「ははは、それは仕方ないね」
残念なことではあるが、同時に分かっていたことでもある。
こんないい包丁が、俺の貯金で買えるわけがない。故にそこまでの落胆はなかった。
「買えるようになったら、そのときはまたおいで」
「はい、ありがとうございます」
さて、買えるときなどいつになることやら。
しかし、希望だけは捨てずに生きていくことにしよう。
「時間もらって悪かった。そろそろ行こう」
「……ん? ああ、そうね」
俺はカノンを連れて、店をあとにする。
声をかけるまで、カノンはずっと何かを見つめている様子だったが、一体何に対して注目していたのだろうか?
そんな疑問は、カノンと一日過ごしている間に、いつの間にか忘れ去っていた。