37- 戒めを父に
そこはとあるBAR。
薄暗い雰囲気に包まれたその店には、初老のバーテンダーと、一人のスーツ姿の男がいた。
男の顔はだいぶ赤くなっており、長い時間強めの酒を飲んでいたことが窺える。
彼は目の前にあるウイスキーの入ったグラスを呷り、苦しそうに呻いた。
「――――荒れているな」
「っ!」
そんな彼に声をかける別の男が一人。
新たに店に入ってきたその男、志藤雄太郎は、酔いつぶれそうになっている男、天宮司秀介の隣に座った。
「ウイスキー、ロックで頼む」
「かしこまりました」
注文を済ませた雄太郎は、着ていたジャケットを椅子の背もたれにかけた。
そんな彼を、秀介は呪うような視線で睨みつける。
「貴様、よくも私の前に顔を出せたな……我が社を買収しようとしている貴様が!」
「別にいいじゃないか。大学時代のよしみだろう」
「そんな古い話を今更……!」
激昂しかけたところで、秀介はむせてしまって強く咳込んだ。
それによって体力を大きく持っていかれたのか、彼は喚くのをやめてただただ雄太郎を睨みつける。
「経営、上手くいっていなかったようだな。買収するに当たりよく調べさせてもらったよ」
ウイスキーで口を湿らせつつ、雄太郎は秀介にそんな言葉をかける。
天宮司グループの経営状況は、水面下で徐々に危険水域に達しようとしていた。
その事実に気づいている者は極めて少ない。
それだけ内部の優秀な人材たちが懸命に動いていたということだ。
「やかましい……設立からこれまで成功続きの貴様に何が分かる」
「天宮司グループはお前が父親から継がされた会社だったな」
「……天宮司グループを日本一の会社に。それが父の遺言だった。その時すでに崩れかけていた経営から目を逸らして、奴は私にすべて押し付けたってわけだ」
秀介は顔を伏せ、喉を鳴らすように笑う。
「まだ天宮司グループが存続しているのは、生前の父と共に戦っていた連中が命を削って働いているからだ。もはや私など必要ない」
「……だから、娘を使って存在意義を示そうとしたのか?」
「っ!」
核心を突くような雄太郎の言葉を受けて、秀介は目を見開く。
「お前はずっと自分の運命を呪っていたな。父親から押し付けられる巨大なプレッシャーから逃れようと、ずっと苦しんでいた」
「っ……それがなんだ」
「分からないのか? お前は自分がされてきたことを、実の娘にそのまま押し付けようとしていたんだぞ」
「――――っ」
秀介が息を呑む。
頭に過ぎるのは、自分が娘である天宮司柚香に行っていた理不尽な扱いたち。
天宮司の会社のために生きろ。
それは自分が父から言われ続けた、呪いの言葉だった。
「……わ、私は……柚香に対して何をしようとしていたんだ」
顔に手を当て、秀介はわなわなと震える。
彼はようやく自分の行いを認識し、恐怖を覚えた。
冷や汗を垂れ流すその姿を見て、雄太郎は小さく息を吐く。
「実のところ、天宮司グループの買収は私の意志ではない」
「な、なんだと⁉」
「私の息子の意志だ。好きでもない人間と結婚させられそうになっていたお前の娘を救うために、私の息子――――凛太郎は、天宮司グループの買収を私に頼み込んできた」
数か月前、わざわざ多くの資料をかき集めて交渉に臨んできた凛太郎の姿を思い出し、雄太郎は思わず噴き出すように笑う。
「今日ここに来た理由は、お前に対して交渉を持ちかけるためだ」
「交渉だと……?」
「もしもお前が娘の扱いを改め、自由を尊重すると誓うなら、買収の話はなかったことにしてもいい。ついでに元々お前の娘が望んでいた企業提携の話を呑もうじゃないか」
「……」
「天宮司グループの経営を回復する手段はすでにある。私たちが協力し合えば、さらなる発展すらも可能だろう」
雄太郎は、どこまでも真剣な目で秀介を見ていた。
その目を見て、秀介はこの話が決して冗談ではないと理解する。
「さあ、どうする?」
「……相変わらず、貴様はいけ好かない男だな」
秀介はまるで憑き物が落ちたような顔を浮かべ、酒ではなく水を喉へと流し込む。
「――――分かった、その話を呑もう。父から受けていた理不尽を、そのまま娘に押し付けようとしていたなんてことが分かった今、何かを大きく変えなければならないことは明白だ」
「賢明な判断だ」
「屈辱だがな……貴様を頼らねばならぬとは」
悪態をつく秀介の隣で、雄太郎は笑みを浮かべる。
その姿を見た秀介は、訝しげな視線を雄太郎へと向けた。
「? 私の顔に何かついているか?」
「……いや、貴様はそんな風に表情が出やすい人間だったかと思ってな」
「ああ、確かに。それに関しては私自身も驚いている」
再びウイスキーに口をつけた雄太郎は、グラスに入った大きな丸い氷を眺めた。
まるでそこに自分の思い出を見ているかのように、彼の目は氷のさらに奥へと向けられている。
「息子が私を父にしてくれた。仕事をこなすだけの機械だった私を、血の通った人間にしてくれたんだ。だから、今なら自分の持つ縁を大事にするという感覚を理解できる」
ウイスキーのグラスを揺らし、雄太郎はそれを秀介のグラスにカチンと当てた。
「お前と私の間にも、縁はある。自分の子供を苦しめた者同士、互いを戒め合って生きていくべきだと思わないか?」
「子供を苦しめた……戒めか」
秀介は自分のウイスキーグラスを眺め、やがてそれを手に取ったかと思えば、雄太郎のグラスに対して当て返した。
「……分かった。私も、自分を戒めて生きていく」
そんな言葉を吐いた後、秀介はカウンターに自分のお代を置いた。
そしてジャケットを羽織り、席を立つ。
「提携に関する詳しい話は、素面の時に聞かせてもらう」
「なんだ、せっかくだから昔話でもしていけばいいだろうに」
「貴様と仲良く飲むなんて死んでもごめんだ」
「そうか、残念だ」
軽い口調で相槌を打ってきた雄太郎を強く睨んだ秀介は、吐き捨てるように舌打ちをこぼした。
「チッ……どうせ貴様の息子も、貴様に似て性格が悪いんだろうな」
秀介はBARを出て、空を眺める。
タクシーで帰ろうか、それとも迎えを呼ぼうか。
夜風に当たりながら近場の駅まで歩くのもありだろう。
なんにせよ家に帰ったその時は、まず娘に謝罪しなければならない。
秀介は自分にそう言い聞かせ、歩き出すために足を踏み出した。
「――――お父様」
そんな彼に声をかける少女の声。
とっさに秀介が視線を向けた先にいたのは、自分の娘、天宮司柚香だった。
彼女はおずおずとした様子で、秀介の下へ近づいてくる。
「志藤雄太郎様から連絡を受け、お迎えをと思ったのですが……」
「……あの男、変な気を回したな」
いまだBARにいるであろう男の顔を思い浮かべ、秀介は眉間にしわを寄せる。
「その……志藤様とは何をお話されていたんですか?」
「……企業提携の話をしてきた。今後、我ら天宮司グループは、志藤グループと協力して事業発展を目指していく」
「っ!」
「奴の息子が、お前を救うために志藤雄太郎に頼み込んだらしい。……まったく、おかげで目を覚まされたよ」
秀介は唖然とした表情を浮かべている柚香の頭を優しく撫でる。
その顔には、溢れんばかりの後悔と、そして娘に対する罪悪感の色が浮かんでいた。
「今まで、本当にすまなかった。お前の人生は会社のためにあるわけではない……ましてや私のためにあるわけでもない。これからは、お前が望むように生きてくれ」
「お、お父様……っ」
柚香の目に涙が浮かぶ。
抑圧された環境からの解放。
これまで押しとどめていた感情の本流が、涙となって流れ出していた。
「まったく……私は今まで何をしていたんだろうな。まさか志藤雄太郎の息子に気づかされるとは思っていなかったよ。確か……凛太郎というんだったか」
「ええ……ふふっ、私たちの恩人ですね」
凛太郎の名を聞いた柚香は、自分の涙を拭って笑みを浮かべる。
「お前とは知り合いなんだろう? 志藤凛太郎とはどういう人間なんだ?」
父からそう問いかけられた柚香は、しばし考える。
彼を表す言葉。考えてみれば、彼女にとってそれは一択しかなかった。
「誠実だけどちょっと意地悪で、たまに自分の感情に振り回されるところが愛らしい――――私のヒーローです」
「……そうか。ならば、いつかお礼を言わねばな」
柚香とその父は、車に乗って夜道を進む。
自分たちが暮らす家に帰るために。
今後、志藤グループと天宮司グループが大きな発展を遂げていくのは、また別の話。




