34-3
恋愛を通り越した、プロポーズの申し込み。
一生で一度あるかどうかの重大イベントが、今俺の下へと舞い込んできた。
なんと贅沢な話だろう。
しかしながら、俺の答えは決まっていた。
「……悪いけど、あんたの気持ちには答えられない」
最初から最後まで変わらない俺の心。
それを今、ただただ真っ直ぐ、天宮司へと伝えた。
「……ふふっ、分かってはいましたが、少し苦しいものがありますね」
そう言いながら、天宮司の視線は再び街並みの方へと向けられた。
ここで彼女の顔を見続けるのは、野暮というものだろう。
俺も同じように街並みの方へと視線を向け、静かに時が流れるのを待った。
「一応、会社のことは抜きにして考えていただいても……難しいですか?」
「……ああ。難しいな」
「そう、ですか」
たとえ天宮司が会社の令嬢じゃなくても、俺はきっとこのプロポーズを断っていただろう。
今の俺の頭の中には、たった一人の女の顔しか浮かんでいない。
「りん君、今"乙咲玲"さんのこと考えてます?」
「え?」
天宮司の口から出てくるはずのない名前を聞いて、俺は思わず声を漏らしてしまった。
「知ってますよ、りん君があのミルフィーユスターズのレイと同じマンションに暮らしていることくらい。まあ、直接的な関係までは分かりませんでしたが」
「知ってたなら……それを突き詰めて俺を脅すことだってできたんじゃないか? どうして……」
「ふふっ、そんなことはしませんよ。だって……私は本当にりん君のことが好きなんですから。力づくで手に入れたって意味がないじゃないですか」
天宮司は涙を浮かべながら、俺に笑顔を向けた。
ああ、俺は本当に馬鹿なやつだ。
人の気持ちに無頓着過ぎて、大事なところがてんで見えていない。
俺はずっと、天宮司はどんな手段を使ってでも――――それこそ、俺を脅してでも会社のために動くと思っていた。
だって、俺なら絶対にその手段を選ぶから。
「あんた、いい奴だな。俺とは全然違う」
「それはそうでしょう。りん君の方がよほど優秀ですもの」
「はぁ? そんなわけないだろ」
「ふふっ、そんなことありますよ。私と違って、りん君には上に立つ素質があると思うんです」
「上に立つ素質……?」
「社長の才能とでも言えばいいでしょうか? あなたは不快な気持ちになるかもしれませんが、間違いなく志藤グループの人間として相応しいものを持っているように見えます」
「……そうかな。自分じゃ分からねぇけど」
少し前の俺が今の話を聞かされていれば、確かに不快になっていたかもしれない。
ていうか、確実に不快な気持ちを抱いていた。
しかし今なら、ただの一つの意見として受け止められる。
むしろ人を率いる才能があると言われて、悪い気はしない。
もちろんその才能を使うかと聞かれれば首を横に振らざるを得ないけれど。
「それで……結局りん君は、乙咲玲さんのことが好きなんですか?」
「……好きなんて、きっとそんな感情じゃ表せねぇな」
俺は苦笑いを浮かべながら、頭を掻く。
「今の俺にとって、あいつは生きる意味みたいなもんだ。玲がいない人生なんて、もう考えられねぇんだよ」
玲と話す時間。
玲のために飯を作る時間。
玲と一緒に飯を食う時間。
そのどれもが俺にとっての宝物だ。
「……それって、好きと何が違うんですか?」
「え? んー、そうだなぁ……」
何か別の言葉に言い換えることはできないかと、思考を巡らせてみる。
しかし天宮司の言う通り、他の言葉はにっちもさっちも出てくる様子を見せてくれなかった。
――――まあ、そうか。
――――そうだよな。
「ああ……俺、あいつのこと好きなんだなぁ」
どんなに取り繕っても、見ないふりしても、結局この言葉にたどり着いてしまう。
それだけ俺の中にある玲への想いは膨らんでいて、無視できないものになってしまったということか。
あーあ、かっこわりぃ。
今まで自分をそういうものから遠ざけていたくせに、ここに来て呆気なく気づかされるなんて。
あの日、空腹で動けなくなった玲のために初めて飯を作った。
それからすぐあいつが契約の話を持ってきて、俺たちは二人で飯を食うようになった。
他の二人とも仲良くなって、同じマンションに住むようになって。
四人で引っ越し祝いのパーティーなんかもしたっけ。
玲とデートして、あいつらのコンサートを見に行って。
あいつの両親と会って、人前で頭を下げて。
海にも行ったなぁ。BBQもしたし。
ミルスタがいると騒ぎになるから来ちゃ駄目なのに、俺の執事服姿が見たいとか抜かして変装して文化祭に侵入していた時もあった。
あいつらのゲリラライブもあったし、俺の初ステージもあったし。
最後は――――玲と一緒に校舎裏で踊ったんだったな。
玲と関係を築いてから、まだ一年も経っていない。
しかし、俺の中で強く印象に残った思い出には、常にあいつの姿があった。
乙咲玲という存在が、俺の心の深い深い部分に根付いてしまっている。
今更それを取り払うことはできないし、したくもない。
俺の帰るべき場所は、やっぱりあいつの隣なんだ。
「……ありがとうな、天宮司。おかげで気づかされたわ」
天宮司が俺に婚約を申し込んでこなければ、親父に会いに行くなんて真似はしなかっただろう。
過去に向き合おうとも思わなかった。
「私にとっては、気づかないでいただけた方がありがたかったんですけどね……でも、りん君の役に立てたようで何よりです」
「過去から目を反らし続けたせいで、俺は自分ってものがあやふやになってた。本当に、頭の中の靄が全部晴れた気分だよ。色々あったっつーか……ありすぎたけど、結局のところ、俺はあんたと再会できてよかった」
俺は固まってきた体を解すべく、大きく伸びをした。
その際に冬の始まりらしい風が吹き荒れ、俺は肌寒さを自覚する。
そろそろここから離れた方がいいかもしれない。
俺はともかく、天宮司の体が冷えてしまう。
「そろそろ帰るか。日が暮れてきたし、これ以上は風邪ひいちまう」
「そうですね……名残惜しいですが、帰りましょうか」
「天宮司、お前はこれからどうするんだ?」
「この後の時間のことですか? それとも、私の今後についてですか?」
「今後かな……別の企業の息子と婚約するって話が進んでるんだろ?」
「ええ……まあ」
突然、天宮司は俺の前で盛大にため息を吐き出した。
「はぁ……あんな親に甘やかされ過ぎてぶくぶくに太った不潔な男と婚約する羽目になるなんて、本当に最悪です」
「お、おお……急に毒舌になったな」
「本来の私はこんなものですよ。りん君と付き合えないと分かった以上、もう取り繕う必要はないので。りん君の口調が変わったみたいに、私だってあれからずいぶんと変わったんですよ」
そう言いながら、天宮司は苦笑いを浮かべる。
完全に吹っ切れた様子の天宮司からは、やたらと晴れやかな印象を受けた。
正直言って、今の天宮司の方がよほど好感が持てる。
「……そうだ、最後に一ついいか?」
「なんでしょう?」
「あの時の約束、守れなくて悪かった」
「っ……」
この謝罪には、残酷な意味が込められている。
あの約束が果たされることは、この先もない――――。
そういった意味を感じ取ったからこそ、天宮司は声を詰まらせたのだろう。
「……ありがとうございます。これでもう、変な期待はしないで済みそうです」
沈む夕日に照らされながら、天宮司は笑みを浮かべた。
なんて、美しい姿だろう。
これを見るのが、告白をちゃんと断った後でよかった――――なんてな。
「でも、友人としてであればこの先も付き合っていただけますか?」
「そいつはもちろん。あんたには恩もあるし、今度なんか食いたい物作ってやるよ。いつも食ってる物と比べて庶民的かもしれねぇけど……」
「大丈夫です。私だってファーストフード大好きですし」
「ああ、それなら大丈夫か」
天宮司と二人、普通の友達のような会話をする。
こんな風に話せるようになったことが、何よりも嬉しい。
これならば、嫌なことだらけの過去の中にあるいくつかの楽しい思い出を忘れずに済みそうだ。
「……では、帰りましょうか。ご自宅の近くまで送らせてもらいますよ」
「あ、いや、そいつは大丈夫だ。久しぶりにこの辺りを歩いて帰りたくてさ。色々頭の中を整理したいし、ゆっくり帰るとするよ」
「そうですか。まあ、りん君がそう言うなら」
天宮司は心配そうな顔をしているが、問題は何もない。
体が冷えてきたら電車に乗って帰ればいいし、別に家から大して離れていないため、帰り時間が遅くなるということもないだろう。
「……あ、そうだ」
俺に背を向けて車に戻ろうとしている天宮司の背中に、俺は声をかける。
「そう言えば幼稚園の頃、花瓶を割った男子にあんたが罪をなすりつけられたことがあったよな」
「え? あ、ああ……ありましたね、そんなことも。先生が来た後、りん君が私を庇ってくれたことも覚えていますよ。あの時はありがとうございました」
「なんだ、あんたも覚えてたか」
天宮司は当然と言わんばかりに胸を張る。
それがなんだかおかしくて、俺は笑った。
「忘れるはずがないじゃないですか。でも、突然どうしたんですか?」
「……いや、悪い。別に深い意味はねぇんだ」
「? そうですか……では」
立ち去ろうとする天宮司。
その姿が、俺の中で幼稚園の頃の絵と重なった。
「またな! ゆずちゃん!」
「っ!」
昔の呼び方で声をかけると、天宮司は驚いた様子で再び振り返った。
俺は意地の悪い笑みを浮かべつつ、手を振ってやる。
「……もう。――――はい、またね、りん君」
昔のように互いに手を振って、俺たちは別れた。
彼女の乗った車が離れていくのを見届けた俺は、おもむろにスマホを手に取る。
そのままアドレスを開き、通話をかける相手として選んだのは……。
「もしもし?」
『……どういう風の吹き回しだ? お前が私に電話をかけてくるなんて』
「たまにはいいじゃねぇかよ、親父」
『……」
スマホの向こうから、相変わらず低くて抑揚のない声が聞こえてきた。
まさか俺の方から電話がかかってくるなんて思っていなくて、さぞ驚いていることだろう。
「忙しい中悪い。けど、頼みたいことがあるんだ」
『お前が頼み? 私にか?」
「そんな驚くなって。……後で空いてる日教えてくれ。直接会いに行く」
『――――分かった』
その言葉を聞いた段階で、俺は通話を切った。
さて、これから少しだけ忙しくなるぞ。




