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34-2

 中には運転手の男が一人。広々とした車内だが、その他に人影はない。

 天宮司が扉を閉めることで、車はゆっくりと発進する。

 車内には完全に逃げ場がないし、このままどこかに軟禁されてしまってもどうしようもない状況ではあるが、俺の心はずっと落ち着いていた。

 

「……稲葉雪緒さん、いい御友人ですね」

「ん? ああ、最高の親友だよ」

「羨ましい。私にはそう呼べる歳の近い存在はいませんから」

「天宮司グループの娘なんて言ったら、そりゃ周りの人間もおっかなびっくりだろうよ」

「ふふふ、そうですね。私自身にはそんな強い力なんてないというのに……」


 窓の外を眺める天宮司は、寂しげな声でそう呟いた。

 何かが少しでも違えば、きっと俺は彼女と同じ立場にいただろう。

 あの時母親が出て行かなければ、親父がもう少し厳しい人間であったなら、こんな風にただの高校生として過ごすことはできなかったかもしれない。


「楽しいですか? 一人暮らしの方は」

「……まあな。何においても自由だし。その分自分で全部やらないといけないってのは大変だけど」

「風の噂で家事がすごく得意だと聞きましたよ」

「どこから吹いてんだその風は……まあ、家事は嫌いじゃないからな。将来専業主夫になるために鍛えてるんだ」

「そうなんですね。……では、私と結婚してあなたは専業主夫になるというのはどうですか? 会社の経営は私がしますので」

「ずいぶん魅力的な話だが、会社同士の駒みたいに使われるのはごめんだね」

「残念です。いい案だと思ったのですが」


 窓の外から目を逸らし、天宮司は俺を見て微笑みを浮かべた。

 やはり、俺のことはもうとっくに諦めているようだ。

 一見余裕がある言動にも聞き取れるが、本質は違う。

 もう俺に対して期待をしていないから、冗談を言えるようになったんだ。


「……それで、これはどこに向かってるんだ?」

「もうすぐ分かりますよ」


 天宮司の言う通り、間もなくして車は止まった。

 乗っていた時間は十数分といったところか。

 それなりの距離を動いたように感じたが――――。


「っ、ここは……」

「覚えていますか? この場所を」


 車から降りて周囲を見渡す。

 地に足を付けた瞬間、俺はここで起きた色んなことを思い出していた。


「懐かしいな……幼稚園の近くにあった丘の上の公園だろ? ここ」

「はい、正解です」


 車が止まっている場所からさらに進んだところには、緩やかな階段がある。

 天宮司と共にそこを上れば、やがて俺たちは展望台のような場所へと出た。

 そして奥にある木でできた柵の下まで行けば、そこからは近くの街並みを一通り眺めることができるのだ。


「ははっ、あんまり変わってねぇな」


 街並みを見下ろしながら、俺は呟いた。


「よく幼稚園の先生に連れられてここに来ましたよね」

「ああ、たまに弁当とか持たされてここで食ったな」


 ここで起きたことが、まるで昨日のことのように思い出せる。

 幼稚園のことでもうほとんど忘れてしまったのではないかと心配だったのだが、どうやらその必要はなさそうだ。

 これも過去に向き合う覚悟を決めたからだろうか?

 だとすると、なんともありがたい副産物である。


「なあ、天宮司」

「はい?」

「あんたから見て、幼稚園の頃の俺ってどんな奴だった?」

「幼稚園の頃のりん君ですか……そうですね、すごくカッコいい男の子で、ヒーローって感じ、ですかね」

「……照れるな、そう言われると」

「ふふっ、だっていつも私のことを守ってくれたじゃないですか」

「あの頃は引っ込み思案だったもんな、あんた」

「今だってか弱い女の子ですよ?」

「どの口が言ってんだよ」


 会社の命運を背負って他グループの本社に乗り込んでくる女のどこがか弱いってんだ。

 まったく、俺の周りの女はみんなタフ過ぎて困る。

 こいつも、あいつらも、俺なんかよりよっぽど強い。


「どうしてここに俺を連れてきた?」

「昔からずっとこの場所が好きなので、落ち着いて話ができそうな気がしたのと……ここは、私がりん君と"約束"を結んだ特別な場所なので」

「……ああ、そうだったな」


 そう。ここは俺と天宮司が結婚を誓い合った場所。

 大きくなったら結婚しよう、そんな甘酸っぱい契約の場だった。 


「っ、思い出したんですか?」

「まあ、別に完全に忘れてたってわけでもなかったんだが……正直、俺も色々余裕がなくてさ」


 結婚の約束を結んだ子がいる。

 そのこと自体は、意外と記憶に残っていた。

 

「……その、色々と悪かった。怒鳴ったり、お前の気持ちを全く考えなかったり、約束を無視したり」

「え?」


 俺は天宮司に向かって頭を下げる。

 これまで俺は、天宮司に対して過剰なまでの怒りを覚えていた。

 今なら、その怒りの出所が分かる。

 それはある種の同族嫌悪(・・・・)――――。

 俺は天宮司に対し、自分と近しい感覚を覚えていたのだ。


「今のあんたは、俺にも訪れる可能性のあった"もしも"の形だ。俺はきっと、そんなあんたを否定することで、生まれに囚われた自分を否定したかったんだ」

「……」

「馬鹿な話だよな……ただの八つ当たりにしかならないのに。本当に……間抜けだった」


 自分の身勝手で他人を傷つけたことが情けなくて、憎くて、涙が滲みそうだった。

 こんなにも自分の未熟さを思い知らされたことがかつてあっただろうか?

 後悔と罪悪感ばかりが、俺の胸の中に渦巻き始める。


「そ、それを言うなら……私こそ、りん君の気持ちを考えずに結婚を迫ったりして……本当に、すみませんでした」


 目の前で、今度は天宮司が頭を下げる。


「いくら切羽詰まっていたとはいえ、あなたの気持ちを蔑ろにしてまで叶えなければならないことなんてあるはずがないのに……」

「……」


 それから天宮司は、自分の周りで起きていることをすべて語ってくれた。


 天宮司グループの経営が傾きかけていること。

 それを踏まえて別の会社の人間と政略結婚を迫られていたこと。

 どうせ結婚をする必要があるのなら、かつて約束を交わした俺と結ばれたいと考えたこと。

 そんな彼女の事情たちを、俺はただ黙って聞いていた。


「お父様は昔から私に言い聞かせてきました。『天宮司の娘として生まれたならば、天宮司のために生きろ』と。だから、そうすること以外の生き方を知らなかった……あなたに人の言いなりになっていると言われて、改めてそれを認識することができました」

「天宮司……」

「りん君と再会する前、私はあなたもきっと同じような環境で生きているのだと思い込んでいました。しかし蓋を開けてみれば……」

「家柄に縛られず、のびのび生きているように見えた、と」

「ふふっ、その通りです。それがどうにも羨ましかった」


 天宮司は木の柵に手をついて、少しだけ体を乗り出す。

 日没が迫る今、広がる街並みはオレンジ色の光に包まれていた。


「しかし……あなたも、私とは違う形でたくさん苦しんでいたんですね。私たちはお互いのことを知らなさ過ぎたようです」

「……ああ、そうだな」

「――――りん君」


 名前を呼ばれ、俺は天宮司の方へと体を向ける。

 天宮司は真っ直ぐ俺の目を見つめ、真剣な表情を浮かべていた。

 俺はこの空間にあった空気が、まったく違うものに変わったことを感じ取る。

 

「これだけ最後に言わせてください。私は……あなたのことが好きです。幼稚園の頃からずっと……りん君のことが好きなんです。だからこれは、最後のお願いになります」

「……」

「私と――――結婚してください」



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