『好き』とテスト勉強
教室の中に入ると、ほとんどの生徒は席に座って教科書やノートの類を開いていた。
俺はどうしてだろう?と疑問に思っていると担任の先生が入ってきた。
3組の担任は、春日井大空という中年男だ。
40代にしては名前が珍しく、キラキラネームの火付け役と言われている。本人は名前を気にしていなく、周りからは『だいちゃん』と気安く呼ばれている。
名前より気にしているのは髪の毛らしい。最近、枕を見ると髪の毛がたくさん付いてて、悩みの種だとか——
「これから朝のHR《ホームルーム》を始めるので、着席してください」
座っていない生徒は俺と駄弁っている数人の生徒のみで、すぐにHRは始まった。
「5月も終わりに近づいてきました。さて、この時期恒例の1学期中間テストが2週間後から始まります」
基本的に西端高校の定期考査は3日間で10教科又は12教科で行われる。中間は10教科で期末には、保健と技術又は家庭科が加わる。
「今回の中間テストはいつもと違い、赤点40点未満となっているので、ぎょうさん勉強しといてください」
春日井先生は、よく『ぎょうさん』という言葉を使う。名古屋弁で沢山という意味だ。
それにしても赤点が40点からというのは意外だった。30点だと思っていたのに、40点となると予想以上に辛い。
西端高校の赤点制度には2つの基準がある。
1、30点未満の生徒は赤点。
2、平均点の半分未満の点数を取った生徒は赤点。
今回に限っては40点がボーダーだ。だから2つ目が適用されるとすれば平均点が80点を超えるときのみなので、まずないだろう。
「それに伴って、今日からテスト週間となります。放課後の部活はなくなるので、早く下校してください」
中学は1週間前から部活がなかったが、西端高校では2週間前から部活がなくなるらしい。初耳だ。だから、朝からみんな勉強してたんだ。
「連絡事項は以上です。今日も頑張っていきましょう。では級長、号令」
春日井先生の指示で級長の男子生徒が「起立!」と言う。
「気をつけ!礼!」
俺も軽く頭を下げて礼をした。
「「「「「ありがとうございました」」」」」
頭を上げた生徒がゾロゾロと動き出す。廊下に出る生徒や、隣の席の人と話し出す生徒、椅子に座って勉強する生徒、スマホを触り出す生徒と多種多様だ。勉強をする生徒がなかなかに多い。
西端高校はスマホの持ち込みは可能で授業中に使わなければ良いという甘いルールだ。たまに授業中に使っている人もいるが……
俺は椅子に座り、机の中に教科書やノートを移動させるために鞄を机に乗せようとする。
学校指定のデザインが悪く、機能性もわるい鞄を机に上げたところで青葉が話しかけてきた。
「テスト週間が2週間前からって、みんな勉強するんじゃない?
青葉は話を続ける。
「ヒナやばいだろ?だから受験の時みたいに教えてあげたら?オレと葵も一緒に手伝うからさ」
それなら俺より賢い青葉が教えれば良いだろ?と言いたくなったが青葉は久保川に教えるんだった。久保川の成績はヒナと同じくらいだ。
受験の時も久保川に教えていたから、ヒナには教える暇がなかったとか——
「わかったよ。で、どこで勉強するんだ?」
俺が承諾すると青葉は、ほっとしたように肩を少し落とした。
「いつものファミレスじゃ葵が遠いから、駅前の何処かでする予定」
いつものファミレスとは、家から歩いて10分もかからない場所にある全国チェーンの店だ。俺や青葉、ヒナにとっては近いが、久保川にとっては真逆の方向となってしまう。だから中間くらいにある駅前なのだろう。
「こっちで色々考えとくから、アッキーは気にしなくて良い」
いつもとは違いどこか気前がいい。まあ、気にしなくて良い事に越したことはないだろう。
「そろそろ1限が始まるから、席に戻るな」
青葉はそう言い残し、自分の席へと戻っていった。
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1学期中間テストまで、残り15日
青葉はスマホで流行りのソシャゲをやっているとヒナから1通のラインが届いた。
内容は、明日の放課後何処かでアッキーと勉強したいから青葉と葵も来て、と。
青葉は、『どっちかの家で2人で勉強したら?』と返信する。
即座に既読のマークが付き、文章が送られてくる。
『協力してくれるんでしょ?』
青葉は脅迫だろ、と思いながら返信をする。
『わかった。アッキーはオレが誘っておくからヒナは葵を誘っといて』
ヒナから、ウサギが親指を立てている可愛らしいスタンプとウサギが布団の中に入っているスタンプが送られてくる。
青葉は『おやすみ』と一言送り、スマホを消した。
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1学期中間テストまで、残り14日
授業、掃除の時間を終えて放課後となった。西端高校では掃除の時間に『机をつる』という言葉を使う。これは名古屋弁で『机を移動させる』という意味だ。
なぜ『つる』になったかは知らないが、西端高校を含めて愛知県の学校では主流となっていて、他県から来る生徒にとっては意味がわからないらしい。
鞄に教科書を入れていると青葉、ヒナ、久保川が俺の近くに寄ってきた。
「早く行こー」と言いながらヒナは鞄に入れるのを手伝おうとする。
まあ、筆箱しか残ってないから手伝わなくて良いんだけどな……
ヒナが俺の筆箱を鞄に入れ、4人で教室を出た。
下駄箱のある玄関に行こうとするが階段がいつもより混雑していた。恐らく部活がないからだろう。
「混んでるねー」と言いながらヒナは階段を一段降り、俺の横に来た。
一段後ろにいる、青葉と久保川は2人で話している。ヒナが横に来たのはあの2人の近くにいると気まずくなるからだろう。
いつもより時間をかけて下駄箱まで行くと、後ろから『ヒナも今から帰るの?』と可愛らしい声が聞こえてきた。
振り返ると宮垣さんがいた。青葉と久保川は少し離れた場所で話を続けているから気付いてなさそうだ。
「うん。今からみんなで勉強会するんだ!」
とヒナは宮垣さんに言う。宮垣さんと一緒に勉強したら、どれだけ楽しいんだろう。と邪な考えをしていると
「それ私も行っていい?1人だと、どうしてもモチベーション?が続かないんだよね」
「「え?!」」
盗み聞きしていた俺も思わず驚いてしまう。宮垣さんは両手を顔の前で合わせ、ペコリと体を折り曲げている。
「ごめんね。急にこんなこと言うと困っちゃうよね」
「別に困ってはないよ……ただ……」
明らかにヒナの顔には困惑の表情が浮かんでいる。
「ヒナはいいけど、他の人がどういうか……」
俺なら全然オーケーだぞ!むしろ歓迎したいくらいだ。
「……アッキーはどう?」
『どう?って良いに決まってるじゃないか!』と本音を漏らしそうになったが俺は堪えた。
「いいんじゃない?多分、青葉と久保川も良いって言うだろうし」
ヒナの顔にはまだ影がかかっているように感じた。
ヒナの表情に反し、宮垣さんは顔をあげ一気に表情が明るくなる。
「ヒナ、矢加部くん、ありがとう!」
宮垣さんは右手で俺の手を掴み、左手でヒナの手を掴みながら言った。
何気に初めて宮垣さんに触れた。宮垣さんの手は少し小さくて、暖かく、スベスベとしていてモチモチしている。
既に心の中では発狂して、踊っていた。だがこの感情を表に出すわけにはいかないので必死に堪えた。
靴を持って近づいてきた青葉たちに説明して、5人で駅前まで歩くことになった。
青葉は勿論のこと、久保川も宮垣さんのことを知っていた為か、駅前までは会話が途切れることはなかった。
学校から駅までは10分程度で行ける。その為、西端高校の生徒もちらほらと見られた。
駅前には沢山の店があるが、家の近くにあるファミレスと同列チェーンの店に行くこととなった。
店の造りはどこにでもあるような普通のファミレスといった感じで、いたって目立つ部分はない。
店内は平日な為か空いていて、すぐに案内された。
ただ、ここで1つの問題が発生する。俺たち5人が案内されたのはソファーが2つ並べられている席だった。
席順だ。
いつもは俺がヒナを教えて、青葉が久保川を教えるのだが宮垣さんがいるとならば話が別だ。宮垣さんは青葉よりも勉強ができる。となれば——
様々な考えを巡らせていると、青葉がレディーファーストのつもりか久保川を先に座らして、青葉自身も奥に座り出した。それを見てか、ヒナが手前に座り出す。残りは俺と宮垣さん。
宮垣さんが教えた方が良いだろうから、俺は端に座ろう。そうすれば自然と宮垣さんの隣に座れる。
「早くアッキーもこっち来てよ」
ヒナは立っている俺と宮垣さんの方を見ながら手招きをしている。
「……うん」
俺はヒナの横に座わった。残るは宮垣さんだ。宮垣さんには2つの選択肢がある。
1、奥に座っている、青葉と久保川側の席に座る。
2、手前に座っている、俺とヒナ側の席に座る。
1を選んだ場合、青葉の横に座ることとなる。2を選んだ場合、俺の横に座ることとなる。
頼む、横に座ってくれ!と心の中で神に祈る。
その祈りが神に届いたのか「じゃあ、矢加部君の横に座ろうかな」と宮垣さんは言った。
宮垣さんは鞄を青葉側の席に置き、俺の隣に座る。
「注文が決まったら、ボタンを押してくださーい」
と言って、店員はどこかに消えた。
扉から入ってきた風に乗って、芳しい香りが伝わってくる。それは宮垣さんの艶かしい髪からか、制服からか、その他からかはわからない。
フローラルの匂いというやつだろうか、とても甘い匂いがする。もしかして洗剤を持っているのか?と思うくらい匂いがする。
「それより、なんか注文しないか?ドリンクバーとか」
宮垣さんは気を取られていて、注文品のことを忘れていた。さすがに何も注文しないというわけにはいかない。
「俺はドリンクバーでいいけど、どうする?」
「ヒナ、ポテト食べたい!」
もう少し女の子らしく、『パフェ』とか『パンケーキ』っていう発想はないのかね?まあヒナらしいからいいけど——
「私も食べたいな」
と宮垣さんは言う。宮垣さんなら何食べてもオーケーです。
「じゃあ、2つ頼んでみんなで分けよ。それとドリンクバー5つでいい?」
久保川の提案に全員頷く。それを確認した青葉がベルのような物を押す。
そういえば、ベルみたいなものの名前ってなんだろう?あとでスマホで調べるか。
店員がすぐにオーダーを取りに来る。
青葉が代表で答える。
「ドリンクバー5つとフライドポテト2つで」
「ケチャップかバーベキューソースどちらにしますか?」
青葉は少し悩んでいる様子だ。
「1つずつください」
悩んだ末に出た答えは、両方という無難な答えだった。俺もそうする。
オーダーの確認をした後、それぞれ自分の飲み物を取ってきた。
本当はオレンジジュースが飲みたかったが、宮垣さんの前で子どものような真似はできないと考え、俺は青葉と同じカフェラテにした。
だが、作戦は失敗に終わった。
「カフェラテにしたんだ。いつもはオレンジジュースなのに、珍しいねー」
ヒナ。どうして余計なこと言うんだ……
「矢加部くんって、意外と子どもらしくて可愛い所あるんだね」
ほら、言わんこっちゃない。こうなるなら、最初からオレンジジュース持ってくれば良かった。まあ、ドリンクバーだからいいけど。
「そろそろ、はじ——
「お待たせしましたー。フライドポテト二つでーす。ご注文は以上でお揃いでしょーか?」
青葉が開始の合図的なことを言おうとしたが、フライドポテトが来た。
1番店員に近い、宮垣さんが「はい」と返事をしてレシートを受け取る。
「気を取り直して、そろそろはじめようか」
青葉の『話すと話し続けるし、休憩すると休憩し続けてしまうからブッ通しでやろう!』と言う考えに基づいて、勉強以外のことを話すのは禁止されている。
勉強会=友達とのお喋り会、という謎の等式は俺たちの間では成り立たない。
向かいではすでに青葉が久保川に教え始めている。
「それでヒナは何の教科がわからないんだ?」
「数学がちょっとだけわからない……。ちょっとだけだよ!ちょっとだけ!」
俺は鞄からフォーカスシルバーと呼ばれる数学の参考書を取り出す。ちなみにチ○ートよりフォーカス派だ。
今回は、展開や因数分解の問題が中心となっている。なので公式や問題の傾向を覚えると高得点を狙えるはずだ。
試しに、暗算で解かなければいけないレベルの1番簡単な問題をヒナに出す。
「ちょっとこれ解いてみろ」
俺は昔から使っている栞を挟んでヒナに渡す。
ヒナが開くと、宮垣さんが肩を叩いてきた。右を向くと、息遣いが伝わるくらいの距離に可愛らしい宮垣さんの顔があった。
「——————」
思わず顔が熱くなってしまうのがわかる。
「どうしたの?もしかして熱でもある?」
宮垣さんは首を傾げながら、右手で俺の額を触ってくる。
俺は驚いて、顔後ろに引いた。さらに顔が熱くなる。
「熱なんかないよ……むしろ元気だ……。それよりどうしたの?」
俺は照れ隠しのつもりか話題を変える。
「あ、その栞のことなんだけど。それって矢加部君が作ったの?」
宮垣さんは俺がフォーカスシルバーに挟んでいる栞のことが気になるようだ。
四つ葉のクローバーが不格好に挟み込まれている、小学生が夏休みの工作で作ったような栞だ。
もうボロボロになっているが、俺は使っている。
「俺もあんま覚えてないんだけど、誰かからもらったような気がするんだ」
「それって、いつもらったの!?」
宮垣さんはさらに顔を寄せてくる。
「中学生の時より前だと思うけど、誰からもらったのかは覚えてないんだよ」
多分小学生の時だと思う。と俺は後付けする。
すると宮垣さんは顔を引き、小さな声で何か呟いている。
「…やっぱり……が…………んだ……」
「どうしたの宮垣さん?」
「な、なんでもないよ。ちょっと考え事してただけ……」
「そっか……」
親しくないにも関わらず、少し踏み込みすぎてしまったかもしれない。
俺は視線を右から左へと移す。ヒナはまだ苦闘しているようだ。
「ヒナ、もしかして解けないのか?」
「簡単すぎて困ってるんだよ!」
「はぁ〜」
俺は溜息をつく。ヒナは理系科目が大の苦手だ。去年もこんな感じだったか、と思い出に浸る。
「じゃあ、最初からやるぞ!」
「うん!」
向かいでは青葉と久保川が集中している。となると、宮垣さんが1人になってしまう。
俺は1つの作戦を考えた。その名も『俺が教えるの下手すぎて、宮垣さんが頼られるようにしよう作戦』だ。
最近見かけるライトノベルのタイトルのように長いが、わかりやすく表現するためには仕方がない。
まずはヒナに俺が教えなければならない。それも『わかりずらい』という条件付きでだ。
「いいかヒナ。この問題は、根気で解くんだ!気合いだよ気合い!」
俺は根性論に持っていくことにした。根気では解けない問題も根気、根気と言い続けた。
「ねえ、この因数分解どうやってやるの?」
ヒナが指をで示してている問題はたすき掛けで解く問題だ。解の公式に代入することでも解けるが、たすき掛けの方が早く解ける。
「根気だ!色々なパターンを試すんだよ!答えが出るまで、根気よく頑張るんだ!」
「うん!頑張ってみる!」
そろそろ、異変に気付くと思ったが全く気付く気配がない。
だがこの作戦に引っ掛かってくれたのか宮垣さんがヒナにアドバイスをした。
「その問題は、たすき掛けって解き方を使うんだよ」
と、宮垣さんは右手の人差し指を立てながら言う。見ているだけで心の汚れが浄化されていく気分になる。
「全然、根気じゃないじゃん!」
ようやく気付いたようだ。俺はフェーズ2に移行する。
「いやー、俺の解き方だとヒナには合わないと思うから宮垣さんに教えてもらったら?それに、俺も英語の勉強しないと赤点取りそうだし」
勉強を教える役を俺から宮垣さんに移す作戦だ。この理由なら宮垣さんも引き受けてくれるだろうし、
ヒナも俺に気を使わなくて済むだろう。
「アッキーがそう言うなら……。桜、数学教えてくれる?」
「うん。勿論いいよ!」
ヒナの顔にはどこか残念そうな顔が浮かんでいるが、作戦は成功したようだ。
となると、俺と宮垣さんは席を入れ替わらなければならない。
「宮垣さ——」
「じゃあ、ヒナが真ん中に行けばいいね!」
全然良くねーよ!宮垣さんと隣になれないじゃないか!
「そしたら矢加部君と2人で教えれるから、私もヒナが真ん中でいいと思うよ」
どうやら、宮垣さんは俺と隣同士になりたくないようだ。悲しくなった俺は席順を変える時にトイレへ行くことにした。
用を足し、手を洗うために蛇口を捻ろうとすると、青葉が入ってくるのが鏡越しに見えた。
「それで宮垣さんと仲良くなれたのか?」
一言目がそれとは思ってもいなかった俺は思わず蛇口を大きく捻る。当然、水はたくさん出てくる。急いで逆方向に捻り、水を止めた。
「ベツニ、ナカヨクナリタイダナンテオモッテナイヨ」
「バレバレだよ。それにしてもヒナのやつもなかなかやるなー」
青葉は俺の方を叩きながら揶揄って来る。
「なにが、なかなかやるだ!せっかく横になれたのに、ヒナがあんな事言い出すだなんて誰が想像するんだよ!」
俺は青葉の手を払い、ポケットからハンカチを取り出して水で濡れた手や制服を拭く。
「……まぁ、色々と頑張れよ。苦労してるのはお前だけじゃないんだし」
青葉はトイレの床を向きながら嘆くように言った。
『苦労してるのはお前だけじゃない』という言葉が誰を指し示しているのかは俺にはわからない。ただその言葉は俺だけではなく青葉自身にも向けられている言葉だと感じた。まるで自分自身に言い聞かせて、鼓舞して、勇気づけるかのように——
想像に過ぎないため、俺は考えることをやめて軽く返事をする。
「ああ、頑張るよ。俺が言えるかわからないけど、青葉もその、頑張れよ……」
「……ああ」
いつも一緒にいるのにもかかわらず、このような会話はしたことがない。不器用な臭い言葉で、恥ずかしい言葉を必死に紡いだ感は否めないが、意外と悪くないと感じた。
なんと表現すればいいかわからないが、男の友情というか、雰囲気がカッコいいという感じだろうか、言葉にすることはできない。
「……じゃあ、先に戻る」
青葉にそう告げて、俺はドアを押した。
テーブルに戻ると奥から宮垣さん、ヒナという順で座っていた。
久保川を含め、3人ともペンを動かさずに、フライドポテトを口に運びながら喋っている。
俺はその様子を見ながら、ヒナの横にちょこんと座り、もう一皿あるフライドポテトをネズミのように小さくかじる。
「葵って何部に入ってるの?私、帰宅部だから全然知らないんだー」
「カジカジ」
どうやら女子だけだと、謎の等式が成立するらしい。やはり、男子がいると話しづらいのだろうか。
それにしてもポテトうまいな。
西端高校には帰宅部がある。部活動強制だが、部活をしたくない人は帰宅部に入るという慣例がある。
強制の意味があるか否かは教員の間でも議論されているらしい。
だから俺のような部活動をしたくない人は帰宅部に入る。宮垣さんが何故、帰宅部なのか俺にはわからない。
「私はヒナと一緒にバトミントン部だよー。それより、キムタクからの告白どうするの?」
「キムタクからの告白!?」
俺は思わず声を出してしまった。
「急に大きな声出さないでよ!てか、いつの間に帰ってきてたの?」
横に座っているヒナに怒られる。
「さっきからここに座ってるよ!それより告白ってどういうこと?」
キムタクから告白。キムタクから告白。キムタクから告白。俺の頭はその言葉でいっぱいになった。
「今日の昼休みにキムタクが3組に来てね、こう言ったの——」
久保川は立ち上がり、左手を腰に当てて、人差し指だけ伸ばした右手を宮垣さんの方に向ける。
「宮垣桜さん!中間テストで全教科1位になった暁には、僕と付き合ってください!って言ってたの」
久保川は座り、話を続ける。
「それで、それで桜はこう言ったの」
「全教科1位になれたら、考えるかも知れないです……。って言ったんだよ!桜めっちゃ可愛かったんだよ!顔がちょっと赤くなって、手で顔押さえてて。てかアッキーは見てなかったの?」
宮垣さんの赤くなった顔、めっちゃ見たいよ!確か今日の昼休みは——
昼休み、俺は自分自身とトイレで格闘をしていた。恐らく、賞味期限ギリギリの牛乳を飲んだからだろう。相手は15分程度の激闘の末、ようやく倒すことができた。その間にこんな出来事があったとは……あの時の俺を憎みたい。
「考えるってことは、オーケーするの?ついに高嶺の花に彼氏ができるの?」
俺の感情とは裏腹に久保川はどこか楽しげに言う。
「考えるって言っただけだよ。確かに北村君って性格良さそうだし、頭も良いよね」
宮垣さんもキムタクには好印象を抱いているようだ。
だが、キムタクには全教科1位になるという、とてつもなく高いハードルがある。そのハードルを越えるのは容易ではない。
「キムタクって首席だから、全教科1位あるんじゃない?」
ヒナの言葉で思い出す。入学式のときに新入生代表で挨拶していたのはキムタクだった。
「まあ、全教科1位ってのは現実的じゃないと思うけどねー」
久保川のいうことは事実だろう。全教科となると10教科もある。教科別に特化している人も少なからずいるはずだ。俺もその1人だろう。
俺は総合点で行くと真ん中くらいの順位だが、数学と社会に関しては中学校では必ず一桁の順位にいた。ただ、国語と英語は赤点をギリギリ回避するくらいの点数で、帳尻が合うようになっている。
「あれ?勉強はやめたの?」
青葉がハンカチで手を拭きながら歩いて来る。
「青葉はキムタクが全教科1位になれると思う?」
左に座っているヒナが、俺の正面に座ろうとする青葉に問う。
「総合はなれたとしても、1教科くらいは何処かの誰かさんが阻止するだろ」
青葉はニヤニヤしながら、俺の方を見てくる。まるで『何処かの誰かさんとはお前のことだ』と言わんばかりの表情だ。
「てか、勉強するぞ!」
その後は宮垣さんがヒナを教えて、俺は1人で英語の勉強をした。6時ごろに解散となり、宮垣さんは久保川と2人で駅の方面に帰ろうとしたが、青葉が『女子だけじゃ危ないからオレが送ってく』と謎の紳士アピールをして、俺とヒナの2人で帰ることとなった。
「……こんな時間に2人で帰るのも久しぶりだね」
並んで歩いていると、ヒナが話しかけてきた。
「そーだな」
淡々と答える。
「アッキーってさ、その……気になってる人とか、好きな人とか……いるの?」
どのように答えれば良いのか俺にはわからない。秋人として答えるのならば宮垣さんがこの問の解となるだろう。ただ、矢加部秋人の中には人格が2つある。だから、二次方程式のように解は2つある。それは重解でも解無しでもない。
だから俺の答えはその1つの解に過ぎないからなんとも言えない。
「多分、いないかな。ヒナは知ってると思うけど、俺って昔から人を好きになったことないじゃん。だから『好き』とかよくわからないんだよね」
「そっか……」
ヒナの表情を見ようとしたが、暗いためかはっきりと見ることができなかった。
「ヒナは好きな人とかいるの?」
俺もヒナの好きな人は誰か気になっている。
「……ヒナは、好きな人いないかな。もしヒナに彼氏ができたら、アッキーが可哀想だしね」
「それもそうだな」
ヒナとは所謂恋バナというものをしたことがない。だからこれが初めての恋バナ、となるだろう。
今日2度目となる幼馴染みとの初めての会話。今日だけで新しい体験を2つもした。
その後は、数学の根気についての話となり怒られた。
そうこうしているうちに、家の前まで来た。
「おやすみー」
「ああ、おやすみ」
ヒナが家に入るのを確認してから、俺は玄関のドアを開けた。
暗い家の中、俺は電気をつけずに自分の部屋のベッドに倒れ込んだ。窓を開けているためか、外から生暖かい風と共にキリギリスの声が聞こえてくる。
ヒナに答えた、『昔から人を好きになったことないじゃん』という言葉は嘘である。
記憶の片隅にある、桃色の髪の少女。
俺は昔、好きな人がいた。だが当時の俺は『好き』という感情を認めなかった。存在を認めなければその感情はない物となるからだ。
『好き』という感情を認知して良いのは、本当の矢加部秋人だけだ、と。だから当時の俺は認めなかった。
しかし、今はそんなことは関係ない。俺は宮垣さんの事を『気になっている』ではなく『好き』なのだろう。
likeかloveかはわからない。好きになった理由もわからない。いつ好きになったのかもわからない。
唯一わかっていることは、俺が宮垣さんの事を『好き』だということ。
俺は今まで自分のことを共有財産のように考えていた。
共有財産だから、俺の勝手な言動は許されない。
共有財産だから、俺の勝手な感情は許されない。
共有財産だから、俺の罪はもう1人の人格の罪にもなる。
だからマイナスとなる事は絶対にしてはいけないと考えてきた。
もうそんな事は考えない。
『恐怖』によって俺の考えは変わった。
あの少女を含めれば、2回目の恋。
15歳にして2回目の恋は多いのか少ないのかわからない。
だが、俺の恋はこれが最後かもしれない。
10代で恋をする人もいれば、20代、30代の人もいるだろう。その恋が叶わなくとも、生きている限り次がある。またその次もあるかもしれない。
ただ、俺の場合は別だ。
2年半後にはこの世に存在しないかもしれない。
余命宣告されているようなものだ。とてつもなく正確なまでの余命宣告。
この気持ちを伝えられないまま、存在がなくなる事が俺は怖い。
宮垣さんに俺の存在を忘れられる事が、俺は怖い。
だから俺は感情に従って、行動をする。
『お前も、自分の感情に従って行動しろ』
明日、朝起きたら入れ替わっているもう1人の俺に伝えるため、言葉を脳に刻む。
タイムリミットはおおよそ2年半。それまでに俺は宮垣さんにこの気持ちを伝えなければならない。
たとえそれが、どんな形で終わったとしても俺は後悔しないだろう。
俺は1人、真っ暗な部屋の中で、人生の分岐点ともなるような決意をした。
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恋の悩みほど甘いものはなく、恋の嘆きほど楽しいものはなく、恋の苦しみほど嬉しいものはなく、恋に苦しむほど幸福なことはない。 byアルント