九十七話
エイサはフェリオスの陣を離れて魔王城へと帰還していた。
戻って一番最初に向かう先はスロブのところだ。
頬の部位を斬り裂かれた兜をもって彼の下へと顔を出して、それを手渡せば、スロブは大きなため息をつきながらも兜を受け取り、しばしそれを眺める。そしてエイサに問いかけるように言った。
「油断でもしたのかいのう、将軍?」
「いや、油断をしたつもりは無い」
「ならば、敵方の勇者がそれほどまでに力量を増していたか、それともお主が何かに揺らいだか」
そう言ってエイサの方を見たスロブは、彼にじっと視線を向けるエイサを見た。エイサは黙して何も語らない。その様子に小さくため息をつくと、兜の継ぎ目に手を加える事でバラし始めた。
「成程、揺らいだ方が正解かね」
「……それ程俺は分かりやすいか? 爺さん」
「いや、お主の力量を信じておるだけよ。如何に奴さんの力量が増そうと、お主に傷をつけられる程にまですぐさま増すとは考えにくい。となれば、将軍。お主が揺らいで不覚を取ったとみる方が、まだ可能性としては高い。それだけの事」
「信頼の証か。物は言いようだな」
「本心ではあるんじゃがな」
そんなことを言いながらもスロブは手を休めることなく、兜を修繕していく。
とは言ってもソウジの槍によってつけられた傷跡は余りにもきれいに頬の部位を斬り裂いている。こうまできれいに裂かれているのであれば、修繕よりも新造の方が速いと判断したスロブは、その兜に手を入れるのをやめて立ち上がった。そして、自身の作品を置いてある戸棚より、兜を一つ取り出すとエイサに向けて投げる。
それを危なげなく受けとったエイサは、自身が普段装備している兜とうり二つのそれをかぶり直した。
流石の出来だ。
違和感さえまるでなく、殆ど今までつけていたものと使用感に差はない。
「準備がいいことだな、爺さん」
「いくつか予備は用意しておくもんだろう。しばらくはそれを使え。性能的には今までのもんとほとんど変わらんはずだ」
「魔力に対する抵抗力は?」
「無論。重視してある。というか普段お主が付けているものと性能的には変わらんと言ったろうが」
「そうか。ならば助かる」
「しかし、そいつを壊されるとしばらく予備は無い。気を付けて扱うようにな。無論、再度予備は作っておくつもりじゃが、数日仕事とはいかんぞ?」
「はいよ。……まあ、もう後れを取るつもりは無い」
「心の揺らぎをどうにか出来るめどはたっておるのか?」
スロブの言葉にエイサは無言を返した。
その無言は余りにも雄弁にエイサの心情を語っている。
しばしの間は、仕事が増えそうだとスロブは小さくため息をつきながらも、微笑みを浮かべた。その微笑みを見て、エイサが眉根を顰めて彼に問う。
「なんだよ、何かおかしいのか?」
「何、お主が人として当然の事に迷う姿がたまらなく嬉しいだけじゃよ。今までのお主は復讐のみに囚われていた。それがお主の力の源泉になっていたことに違いは無かろう。だが、お主ほどの力の持ち主が、ただそれだけに囚われているというのは、余りにも悲しい事じゃからな。それ以外に目を向け、それ以外の目的を持つ事が出来るのであれば、儂としてこれほどうれしいことは無い。幼少の頃よりお主を知る者としてはの」
「説教かよ、爺さん」
「いや、これは願望じゃよ。お主という偉大な戦士が復讐のみに囚われる事が無いようにと。そう願う。ただそれだけの事」
そう言ったスロブに対してエイサは何も言葉を返さなかった。
ただ、黙々と彼の言葉を聞いているだけ。
うちに揺らぐ憎悪の炎は消えてはいない。
だが、心の全てを満たし続けているという訳でも今は無い。
それが、エイサにとっては余りにも不快な事だ。
勇者アリスに対する憎悪を持ち続ける事が出来ないという事は、彼にとっての存在理由の否定にも等しい。十年。ただそれだけに邁進し続けた彼が、それを捨てる事は到底できず、だが、その憎悪を抱き続ける事もまた難しいとあっては、どうすればいいのかさえ彼には分からない。
「願わくば、新たに見つける戦いの理由が、うちの姫様に向かう事を願うがのう」
「リアヴェルに?」
「おうとも。好いた女のために剣を握る。それもまた英雄の本懐だろうて」
「好いた女か」
そんなことを全く考えたことが無かった。
そもそも、惚れた腫れたなどという事に意識を割く余裕などまるでなく。その感情がどういったものかさえ、エイサには分からない。リアヴェルの事を嫌ってなどいない。だが、彼女の事を好いているかどうか。そんな自分の心さえエイサには分からないのだから。
「どうでも良い。俺は、俺のためだけに剣を握る。そう決めた」
「ああ。お主はそれでよかろうよ、エイサ将軍。ただ、その自分で定めた事の中に姫様を守る事が含まれれば僥倖というだけの事さね」
「それは」
「出来ぬとは言わんで欲しいがな将軍。お主の本来の性は戦いには向いておらぬ。その肉体は、その力量は確かに人の究極であろうとも、その性だけは決して。それを、儂はお主との旅路で知ったつもりよ」
「……だとして、今更が過ぎるぜ爺さん。俺は戦い以外に生き方を知らず、復讐以外に何も見いだせず今ここにいる。そんな俺に、戦い以外に何かを見出せというのは、酷が過ぎるというものだ」
「それでも、お主のであればきっと新たなものを見出すと儂は信じておるよ、エイサ」
スロブの言葉にエイサは何も返せなかった。
何を期待しているのかは理解できても、その期待に応えられる自信がまるでない。戦う事、相手を殺す技巧において、並ぶものなしとの自負はあっても、それ以外の事については何も知らない、世間知らずのただのガキだと、自覚はある。
黙して悩むエイサを見ながらも、スロブは再び自身の仕事へ戻った。
何か言ってほし気なエイサの事を無視したのは、ひとえに彼のためだ。
彼ならば、きっと正しい道筋を選び取る。そう信じているからこそ、突き放したのだ。
それに、彼は一人ではない。
「そう言えば、魔王様に戻ったことは伝えたのか?」
「いや、まだだ。破損した兜のままあいつの前に出るわけにもいかないからな」
「神託か。いやはや、厄介なものだ。とは言え、お主ならそれを受けて耐える事も訳ない事だろうて」
「それでも、万が一は有る。特に今の俺ではな」
そう言うとエイサはスロブより渡された兜に手を触れた。
実によくなじむ、彼の作品。此度も魔力の遮断に特化したその一品は、そうでありながら磨き上げられた滑らかな曲線により受け流すための能力が高められ、それと同時に純粋な強度も高い逸品だ。
「ならば今であれば問題あるまい。その兜を付けていれば、神託も防げようとも」
「ああ。そうだな。だが、会いに行く理由は無い。そんなことをしているのであれば、俺は自らの力を高めるために動く」
「知っているとも。そして、お主の力を高めるために魔王様に会いに行くことを進めておるんじゃ」
スロブのその言葉にエイサは瞳を補足してスロブを見つめた。
しかしスロブはそんなエイサの視線を気にした風もなく、ただ淡々と鍛冶仕事に専念している。そんな彼の様子を見てエイサは彼を問い詰める事を諦めた。そして、そのまま席を立つ。珍しく自身の剣をスロブに預けたまま。
「……いいさ。偶にはアンタの言葉に乗ろうとも、爺さん」
「ほ。こいつは重症じゃのエイサ。本当に芯が揺らいでいると見える」
「揺らぐ。……いや、揺らぐというよりも尽きると言った方が正しいんだ。俺は、一体何のために剣を振るうのか、その根本が掻き消えようとしている」
「リスティア様。あのお方の帰還か」
「……違うと、言い切ったんだがな。存外ダメージがでかかったらしい」
情けないことだ。
などと言いながらエイサは鍛冶場を後にした。
パタンと音を立てて鍛冶場の扉が閉まる。
それを見送って、スロブは再び自身の仕事の溜めに槌を手に取った。
金属を叩く音が響く。
その音に混じるように小さく彼は呟いた。
「復讐のみに生きてきたが故に、その目標を見失った時のもろさ。恐れていたことであり、期待していたことでもあり。だがな、エイサ。それでも人は生きていかねばならぬ。目的を見出さねばならぬ。貴公ほどの力を持つ者であればそれは特に顕著よ。故に……」
魔王様。
彼を引き留める一助となっていただければ。
そんな取り留めもないことを彼は思い。されど、槌を握り武具を鍛える手は、止まらずただ金属音を響かせ続けた。