九十六話
フェリオスの陣よりニレイシアの陣へとエイサは戻って来ていた。
そんな彼の後ろより、ニレイシアが付いてきている。無論彼女の陣内である以上、彼女が個々に戻ってくることは当然の事では有るが、エイサは少しばかり一人になりたい気分だった。そんな彼にニレイシアが声をかける。その声音はどこかためらいがちで、その声音がエイサを微かに苛立たせた。
「エイサ」
「俺に構うな、ニレイシア」
「そうはいかないわ。私、貴方の監督役だもの」
「そうか。だが、だからといって俺を気にかける必要はあるまい。勇者が倒れた今、陣形が崩れた今、貴様に逸ることが山積みだろうに」
「お生憎様。私の巫女は優秀よ。この状況に置いて、私の指示を待たなけらばならない程の愚鈍を私の巫女として重用するはずもないでしょ。だから、今の私の役目は、貴方の様子をうかがう事」
「……そうか。そいつはつまらない状況だな貴様」
「つまらなくなんてないわ。貴方の相手をする。これ程に神として心躍ることもないでしょう? ねえ、稀代の勇者様」
「勇者、などとくだらない称号で俺を呼ぶな。狩猟の神よ」
そう返したエイサに対してニレイシアはくすくすと笑いながら、エイサに寄り添った。
そんな彼女をエイサは鬱陶しげな表情で見つめながらも何も言わなかった。ただ、無言で彼女を突き放すと、陣内に用意されている天幕へと歩みを進める。
そんな彼の様子に口元を尖らせながら、ニレイシアはそれでも彼の後を追った。
付いてくるニレイシアに対してエイサは鬱陶しげな表情を隠さずそのまま睨みつけるが、彼女の変わらぬ様子に諦めたのか、そのままどさりと椅子に腰を下ろした。
「ふふ、ご苦労様。疲れたでしょうエイサ」
「……別段、疲労は無い。この程度で付かれる程軟な鍛え方はしていないからな。疲れたというのであれば、かつてお前を相手に剣を振るった時の方が疲労度としては上だよ」
「あら、褒めてくれているのかな?」
「まさか、ただの皮肉だ。最も通用してはくれなかったようだが」
そう言ってエイサはため息をついた。
そんな彼の様子をにこやかに眺めながらニレイシアはエイサにお茶を入れる。
神らしからぬそんな行動をどこか楽しげに行う彼女を見ながらも、その好意を無下にしないように出されたお茶に手を伸ばす。そして音を立てて茶を啜れば、体中に水分が巡る感覚が彼を支配し、ほうと息をついた。
「エイサ」
「なんだ?」
「うん。君に少しだけ聞きたいことがあるんだけど」
「……構わない。茶の礼だ。答えられることには答えよう」
「それじゃあ一つ。どうして本気を出したのかな?」
「どうして、か」
「うん。どうして。確かにあの勇者の成長は目覚ましいものがあった。槍の勇者……ソウジって言ったかな? 彼の力量の伸びはまるで昔の君を見ているよう。復讐のためだけに力を求め、相手が神であろうと食らいつき、遂には私たち神ですら打倒して見せた人の可能性の最果てに至る者特有の有様だった。だけれど、それで君が不利になるとは思わない。何せ君は可能性の最果てに到達し尽くしたものだ。君こそが人型の究極。ならば」
「そうだな。おそらくわざわざ鎧を脱ぎ捨てて、底を見せる必要はまるでなかったのかもしれないな」
最も、底を見せる前に、僅か一撃で終わってしまったが。
続く言葉をエイサはもう一度茶を啜ることで飲み込んだ。
その様子にニレイシアはエイサを睨むような視線を向ける。その視線に負けた訳でもないが、それでも答えて欲しいというのであればと、彼は言葉を紡ぐ。
「実際のところ理由は分からない」
「……呆れた。自分自身の事でしょう?」
「自分自身の事だからさ。思い付きやその場の感情に流された所以を言葉にすることは難しい。つまりはそう言う事だろう」
はぐらかす様なエイサの言葉にニレイシアの視線はますます鋭くなる。
そんな彼女の視線をエイサは涼しい顔をして受け流した。
自分自身の言葉に嘘はないと。それでも納得できていない彼女のためにもう少しだけ言葉を継ぐ。
「それでも、そうだな。それでも、あえて理由をつけるとするのであれば、俺は少しだけ期待したんだろうさ」
「期待?」
「笑ってくれても構わない。どうかしていると自分でも思う。だが、あの時の心情を今思い返して、その感情に名前を付けるのであれば、期待という言葉しか出てこないのさ。……俺は復讐者だからな」
「……それは、良く知っているけれど。その事と期待という言葉はつながらないでしょう?」
「そうだ。全くもってつながらない。しかし、今の俺は少し揺らいでいる。復讐者としてある事にだ。……勿論、復讐にこの身を捧げた事に不満も後悔もない。だが、復讐の根本が揺らいだことは確かだ。その理由が揺るぐことは無いと確かに言ったが、その意義を見出せなくなったのは事実。そう言う意味ではフェリオスの野郎の言葉は成程、正鵠を射たのだろう」
そう言って思い返すのはリヴァイアサンを殺す殺さないの下りの会話だ。
あの時の会話だけであの男はエイサの内心を見抜いていたのだろう。
些細な違和感を感じ、その違和感をもってそれだけでエイサの内心の揺れに気が付くあたり、流石は太陽の神、如才ない。
「それとも、俺が分かりやすいだけか」
「ふうん? それで、そこからどうして期待なんて言葉に繋がるの?」
「復讐以外の何かを見出せるかもしれない。戦う事に復讐以外の意味を見出さなかった俺であっても。そう思う事を期待と呼ばずに何と呼ぶ?」
そう言ったエイサの表情はどこか寂し気で、普段の彼からは想像もできない顔だった。
そんな彼の様子を見てニレイシアは何も言葉を返せない。
エイサが復讐にのみ耽溺し、只それに没頭する様をニレイシアとてよくは思っていない。その狂った願いを捨て去ることで、彼に新たな道筋が訪れる事を願ったこともある。だが、それでもその事を彼に告げる事は彼女には出来なかった。
エイサの願いは破滅的だ。
自らの生すら軽んじて、復讐の果てには自死すら厭わない危うさを秘めている。そしてその果てに彼は無双と呼べる力を手にして、人型の究極点に到達して、そしてそれ以上は何もない。そこから先の未来が彼にはない。
それでいいとかつての彼なら言い切っただろう。
復讐を成し遂げる事が出来るのであれば、勇者アリスを殺す事が出来るのであれば、未来など欲しくはないと。それは彼の希望が過去にしかなかったが故の思考だ。彼の望むものは未来にはなかったからこそ、そう言い切って、それ故に彼の力は無類無敵へと至った。
だが、今の彼にはその願いの根本が揺らいでいる。
シスターリスティアの生存。
その事が彼の復讐の意義を奪った。
そんな事は全く関係がないと強がりはしたが、関係ないはずがない。復讐の大前提が狂ったのだ、そうでありながら、その復讐心を燃やし続ける事は難しい。
勿論、エイサの復讐の炎が消えたわけではない。
今もなお、彼の心には憎悪の炎が燃え続けている。夢にまで見るあの光景。リスティアがアリスによってくし刺しにされた真っ赤な光景は、今もなお彼の心に焼き付いてはいる。だが、死したはずの彼女が生きていたとあっては、これから先までもその憎悪を燃やし続ける事は難しい。
それを心の乱れというにはあまりにも酷だ。
復讐にのみ生きていた男が、その復讐を失った時に残るものは何もない。
それでいいと思ってはいた。
後に残るものなど何もない。
それこそが、復讐に生きた者の末路だと理解はしていた。
だが、復讐を成し得る前にその理由が掻き消えるのは流石に予想していなかった。
そしてその後に残ったのは。
エイサは自らの手を見た。
小手に包まれた右手。その奥には傷だらけになった自身の手のひらがある。
血に濡れて、武芸に濡れて、そしてそれ以外の何も残っていない手のひら。剣を握り、それ以外の何も知らない手のひらだけが残る虚しさが、エイサの心の内を苛む。
憎悪は消えない。
だが、消えてはいないだけだと理解している。
勇者アリス。
彼女に対する執着は、確かに薄れているのをエイサは理解していた。そしてその心の動きが、彼の武芸を僅かに鈍らせている事も。
心に隙間がある。
憎悪あふれ続け、憎悪で満ち満ちていた心。
その心の空白をエイサは、間違いなく持て余している。
憎悪に従い、憎悪によって鍛え上げられたエイサという剣は、その憎悪の炎が僅か弱まっただけで、僅かにさび付いてしまっているのだ。
「エイサ」
「何も言うなニレイシア。分かっている。分かっているのさ」
心配そうなニレイシアの言葉にそれだけを返すと、エイサは立ち上がった。
そして、そのまま彼女の陣を後にする。
残されたティーカップには半分ほど満たされたお茶が残っていた。