九話
森の中を二頭の名馬が自らの主を乗せて疾駆する。
暗き森の中、一切速度を落とさずに駆け抜ける。
片方、ソニスの愛馬は彼の血を分け与えられた吸血馬である。昼間に大地を駆る権利を奪われた代わりに、いかなる暗闇も、いかなる悪路をも踏破する能力を得た宵闇を駆るに最優の名馬だ。
片やエイサに与えられた馬は、確かに名馬ではある。魔王自ら選び彼に与えた魔界随一の名馬に違いはない。しかし、ほぼ光無き森の中を一切の躊躇いなく、走り抜けるなどただの名馬に可能な動きなのか。そもそもからして、馬は臆病な生き物だ。こんな暗闇の中を吸血馬に匹敵する速度で駆け抜けるなど、その度胸からしてもただの馬の範疇を超えている。人を超えた力を見せる大剣士にはその力に応じた愛馬が付くのか。自らの後ろにぴたりと追走する彼らにソニスは心からの称賛を送った。
「流石は魔軍最強の男。その愛馬までも並外れている。……私が後幾分若ければ、羨望の念に狂ってしまいそうなほどの騎士振り。まさか、宵闇の下であって我がブラディオスに並ぶ名馬、そして名手をこの目で見ることになるとは驚いた。いずれ馬の扱いについて、共に語らいたいものだ」
「こちとら戦場で磨いた技術しか知らん。アンタみたいに正確に習ったものではない以上、誰かと語らえる事なんぞ出来るはずが無いだろう。時間の無駄だ」
「ふ。つれない事を言う。これ程見事な手綱さばきを見せて、独学とはますます貴公と語らいあいたくなるというもの。……だが、貴公がそう以上誘っても無駄だろう。故に、今ここで一つ聞かせてほしい。貴公、宵闇の中、暗き森を全力で駆るこの自殺行為、怖くは無いのか?」
「あ? こいつを信じてれば、怖いはずがないだろうに。何を言っているんだ?」
言いながらエイサは自身の愛馬を軽くなでた。それに奮い立つように彼の愛馬がますます走りのキレを増す。そこにあるのは美しい信頼関係だ。数多の戦場を共にかけ続けた一人と一頭が見せる阿吽の呼吸。そして、その言葉にソニスは納得した。
「成程。貴公も馬の扱いをよく知っているらしい。そして、最強の剣士として最も過酷な戦場を共に駆け続けた愛馬。そんな馬が普通の馬であるはずがなかったか」
人における究極がエイサであるならば、馬における極致が彼の愛馬だった。共に最も過酷な戦場を駆け続けたからこその人知究極であり馬身極致。才能も確かにあるのだろう。しかしくぐり抜けた修羅場の数が違う。修羅場の熱が違う。そしてその数と熱が彼らをここまで鍛え上げた。
その事にソニスは小さくため息をついた。その道程の厳しさに、極みの最果てに至ってしまった凄絶さに、憧れるしかできない自らの娘の不明を嘆く。
「さて」
「ああ、森を抜けるな筆頭殿」
「は……いきなりなんだよ? 我ら将軍、円卓にあって上下の区別なしじゃなかったのか?」
茶化す様に問いかけるエイサへ何も返さず、ソニスは月光の照らす草原へと暗い森から飛び出した。そんなソニスの態度にエイサは首を傾げ、そしてどうでもいいことだと即座に切り捨て彼に続く。
広がる視界に写るのは吸血鬼部隊がナグラム城の城門をこじ開けるその瞬間だ。ソニスの娘が勝利を確信して、こじ開けた城門へと取り付こうとしているのが遠目に見えた。
「将軍。武器借りるぞ」
「筆頭殿?」
不意にエイサの声から今までの温かみがすべて抜け落ちた。そしてソニスの先ほどの言葉に対する疑問符をすべて無視し、ソニスの腰にささる剣を勝手に引き抜いた。
引き抜かれて初めてエイサがソニスのブラディオスに乗り移っていたことに気が付く。
全身鎧を身に着け、超重量を誇る大剣を背に負うとは思えないほどの卓越した体重移動技術。それをもって乗り移ったことさえ気づかせないほど軽やかに、気づけばブラディオスの背に飛び乗ったと理解すると同時に幾度目かさえ分からない感嘆の吐息が漏れた。本当にこれが人の技か。理解できない技巧。悪魔よりも悪魔的な神技に嫉妬の念さえ抱かせず。
「シッ!!」
鋭い呼気を一つ吐くと同時に、エイサは引き抜いた剣を投擲した。
ブラディオスの背より跳躍し、落下速度と全身のバネを用いたその一投は、月光を浴びて戦場に一筋の銀閃を残し、狙い過たず紅の華を咲かせた。
死を確信した。
城門がこじ開けられた瞬間に彼女と目が合って、アヴェン・マルガコルフは自らの死を当然のように理解した。
金髪を風になびかせて、白亜の鎧を身に纏い、一切の恐怖を身に浮かべることなく、悠然と超越者のように、こじ開けられた城門の奥にて佇む恐ろしいほどに美しい少女。
怖気が奔るほどの聖なる気配を身に纏い、その手に持つ剣もまた、悪夢のような聖なる輝きを湛えている。
一目見て、その少女が勇者だと理解した。
そして、その美しい蒼の瞳に見据えられていることを理解して、もうどうしようもなく詰みに陥ったことを理解した。
アヴェンとて超越種。
人ならざる者どもが集う魔王軍の中でも上から数えた方が早い力を持つ種族、吸血鬼。その中にあって、その一族を率いる者の娘として、彼女は自らの父に恥じぬ力を持つ。
だがしかし。
その程度の力量ではお話にならない事をその一瞬で理解した。
あれは常識の埒外にある生き物だ。
いや、そもそもアレが生き物であるかどうかさえ彼女には判断がつかない。
あれは、人の形をとった神の力そのもの。
それを、視線が絡み合った一瞬で悟る。
不意に少女の姿が掻き消えた。目を離してなどいない。突如目の前に現れた最大の脅威相手に、目を離すことなど出来はしない。なのに次に勇者を捉えたのは自分の目の前、息が掛かりそうなほどの近距離だった。
馬上にて剣を構えたアヴェンに聖剣アリスティアにて、勇者が斬りかかった。ただそれだけ動きが、速すぎるという単純な理由で認識できなかったのだ。
聖なる輝きがアヴェンの首を落とすために振り抜かれる。
衝撃が響いて、赤紅の華が咲いた。
星が散る。
それは背後からの一撃によって前に吹き飛ばされたアヴェンと、勇者の頭がぶつかり合った時の衝撃で散った星だ。灼熱がアヴェンの胸元から全身へと広がっていく。それを痛みと理解してその痛みの元へと目を向ければ、そこには白銀の剣が生えていた。
アヴェンの父が持つ剣だ。それが、アヴェンと勇者の両方を貫いていた。
血が喉元までせり上がる。
それを飲み下そうとした瞬間、勇者に足蹴にされた。くし刺しにしている剣を無理やり引き抜くための行動をアヴェンは痛みに耐えながらボンヤリと見ているしかできず、父の剣が勇者から抜けたときようやく我に返った。
同時に勇者が真後ろへと飛び退いた。
二人の真上から降ってきた一撃を回避するために。
しかし、間に合わず勇者の右手首が宙に舞った。鮮血をまき散らしながらも、斬り飛ばされる直前でアリスティアを手放すことでギリギリ左手でつかみ城門の前に着地する。
「逃したか」
「将……軍?」
降ってきた男はアヴェンの見知った男だ。
漆黒の鎧を身に纏い、大剣の一撃をもって勇者の右手を斬り飛ばした男は、信じられないほどの濃密な殺気を身に纏って、勇者と相対している。
「え……エイサ、将軍? き、貴様……まさか……」
「黙っていろアヴェン。傷が開く」
自分の体を貫いた剣。その剣が飛来した理由を正確に悟った彼女はエイサに問おうとした。その言葉を遮ったのは彼女の父だ。優しくアヴェンを抱き留めて、彼女の背中より胸部に向けて突き刺さった自身の剣を引き抜いていく。
内臓を外して突き刺した見事な投擲にソニスは目を見張った。
馬上より跳躍しての投擲。城門が見えた瞬間の超反応、そして目標に直撃させた上に味方の致命傷をきっちり避けるとその技巧。人間技とは思えぬ絶技にもはや苦笑すらも浮かばず、アヴェンの傷を血魔術を用いて回復させる。
「いや……一応我が娘を慮ってくれる程度には、我々を味方と思っているらしい」
味方に向ける言葉ではないが、それがソニスの本心だった。アレが、敵に回ることなど想像したくもない。
「将軍」
「わかっている」
勇者と相対するエイサがソニスに向かって声をかけた。その意図を正確に悟ると、ソニスは自身の愛馬へとアヴェンを抱えたまま飛び乗り、城門から距離を取らせた。
その瞬間空気が爆ぜた。
大地を踏み割らんばかりの踏み込みはまさしく紫電の如く速度を叩きだす。振り抜かれる大剣は一直線に勇者の首を狙う。
そんな一撃を勇者は踊るように回避した。そのままエイサの背後へとステップを踏むように回り込む。
左手に握られたアリスティアが瞬いた。
繰り出される斬撃の回数は七度。撃ち落とすことさえ叶わぬ神速の斬撃。
しかしエイサはそれらを容易くかわし、最後の一撃の腕を取って勇者の動きを止めて見せた。
ギシリと勇者の腕がきしむ。そのまま圧し折ろうと力を籠めると同時に、光の衝撃が勇者を包み込んだ。
聖盾。神の盾が勇者を守る。城門の方へ視線をやれば依然まみえた聖女の姿があった。
「チッ」
「ふふ、そろそろ一撃では決められなくなってきたようだね。君もそろそろ年貢の納め時かな?」
「死ね」
下らない戯言を吐く勇者を投げ捨て、そのまま大剣の一撃を叩き込む。その一撃をアリスティア切断せんと、視界が逆さの中で勇者は剣を振るう。
鮮血が散った。
エイサの大剣に合わせたはずの斬撃は空を切り、勇者は城壁の近くにまで吹き飛んだ。
「浅いか」
「浅いか……ね。ホント、悪い冗談。カウンターを狙ったわけじゃない。あんたの斬撃を防ごうとして、それさえ許さないとか、あいかわらず無茶苦茶」
言いながら、勇者は立ち上がった。斬撃の軌道を無理やり変えて、打ち合わせることなく彼女の腹部を薙いだ一撃は、王都一の鍛冶師が作り上げた名鎧を容易く砕き、致命傷に足る傷を与えていた。ギリギリで内臓がはみ出ていないのは、受ける瞬間に体をひねってかわそうとした勇者の超速反応と聖女の聖盾の賜物だ。
人というカテゴリにおいて最高位に位置する技巧を持つ二人の合わせ技をもって、どうにかこうにか致命傷を避けれる程度にしか戦えないその力量差に、呆れればいいのか、それとも少しは力量が近づいたことを喜べばいいのやら。
無為な事を思考から追いやりつつ聖剣を構えなおした。
聖女フィリアの回復の神聖術が勇者を癒す。
時間が巻き戻るような勢いで修復される肉体をそのままに勇者はエイサに向かって切りかかった。
振り抜かれるアリスティア。その聖剣は噛み合えばエイサの大剣さえ、その黒鎧さえ鎧袖一触に切り裂く神の与えし至高のそれ。振るう勇者の力量も人の種における極限に近しい領域にあり、千の騎士を相手に無傷で勝るほどの力量を備えている。
だというのに。
エイサには一撃さえ届かない。
聖者の神聖術による肉体強化の恩恵は、か弱き少女を凶暴な熊をさえ打ち倒せるほどにまで高める。勇者の技巧は人の中では卓越している。それこそ、並の前衛を他に望まない程度に、熟達した前衛であっても、彼女の戦いについていくのは不可能なほどに。
そんな彼女をエイサは容易く上回る。アリスティアと武器を合わせれば、その時点で武器を失ってしまい、一撃かすめれば鎧ごと容易く切り飛ばされてしまうという圧倒的不利な条件の下で、それでも二人の連携を圧倒する。
放たれる斬撃を容易くかわし、回避したうえでアリスティアでの防御を許さないタイミングでその大剣をもって勇者の肉体をそぎ落とす。掠める度に鮮血が零れるが、その結果にエイサは納得がいかなかった。
「成程、二人ではなく三人か」
唐突にそういうと勇者の腹部を蹴り飛ばす。そのまま城門前まで再度弾き飛ばされた。
「魔力性質赤色」
それと同時にエイサは自身の大剣の特性を解き放った。
大剣の内に込められた魔力が大剣を漆黒より真紅へと染め上げていく。バチリと抑え込めきれなかった魔力が稲光へと変質し、わずかに周囲を照らした。
「まずい、フィリアッ!!」
「くっ……瞬間詠唱聖盾!!」
その輝きを見てフィリアが聖なる盾を展開する。
守るのは勇者、そして自分自身。
「違う!!」
「え?」
そしてそれが判断ミスだった。それを悟ることができたのは勇者だけ。しかし、それを責めるのは余りにも酷な話だ。フィリアがエイサと対峙したことがあるのは一度だけで、それだけでエイサの力量を把握しきれと言うのが不可能なことだ。
人の規格外をただ一度の対峙で理解するなど。
「解放。雷刃閃破」
そして、エイサの大剣より破壊の奔流が放たれた。
世界が真紅に染まる。剣の一閃より振り抜かれた一撃は、星城ナグラムの城壁を真横に斬り飛ばし、そして吹き荒れた稲妻がその残骸を蹂躙した。