八十七話
ギシリとフェリオスの槍がきしむ音が軍議の行われている天幕に響き渡る。
突き付けたフェリオスとエイサの力比べの格好になったその光景をエレディアは頭痛を抑えるように、ニレイシアは面白いものを見るような眼で、そしてそのほかの神は予想は付いていたと言わんばかりの冷めた目で見ていた。
フェリオスの槍がギリギリと嫌な音を立てる。
槍に渾身の力を籠めるフェリオスがエイサに向けて槍を突き出し、それをエイサが握り止めているという光景は、通常ではありえない景色だ。只人の少年がただの力比べで神に比するなど信じがたい。しかしながら事象として目の前で起きている以上、その光景を否定できる者は誰もいなかった。
「エイサ、貴様ぁ!!」
「フェリオス。ここは軍議の場なのだろう? その場で舌鋒ではなくおのが武器を取り出すとは、どういうつもりだ?」
「知れたこと、不遜たる貴様に天罰を与えてやるのだ!!」
「へぇ、そうか。俺にそんなつもりは無いがな」
そう言うとエイサは槍を手放した。
そして僅かにブレた穂先を首を僅かに傾けるだけで回避し、そのまま槍を跳ね上げる。目を見開いたフェリオスをしり目に座っていた椅子に体重をかけた直すと、再びフェリオスがエイサの首元へ槍を突き付けた。
「フェリオス」
「……チッ」
そんな彼をエレディアが静止する。
その静止を受けてフェリオスが舌打ちと同時にその槍を引っ込めた。そして、エイサを睨みつける。
「運が良かったな、エイサ将軍」
「ああ、そうだな。フェリオス将軍」
フェリオスの嫌味を受けて、特に反応するようなことも見せず、ただエイサは用意されていた茶を啜った。その様子にフェリオスの眉が再び跳ねたが、同じことを繰り返すことなくそのまま自身の席へと腰を落ち着けた。
その二人の仲の悪さを見てエレディアは大きなため息をついた。このままではいつ再び小競り合いが始まるとも知れないと感じた彼女は、さっさと議題へと移っていく。
中身は先にも議題に挙げた、ヒヴィシスよりの提案についてだ。
その議題について、エイサは何の反応も見せることなく、淡々と軍議は進む。その後は特にもめることもなく、ヒヴィシスの提案に乗ることで軍議は一段落ついた。
続いての議題はエイサの扱いだ。
エイサはあくまで客将としてこのフェリオスの指揮する戦線に来ている。そうである以上、その配置についてエイサが口を出すことは無い。ただし、勇者が現れた時のフリーハンドだけをいつも通り要求する。後の事については基本的にはどうでもよかった。
「それじゃあ、エイサは私の部隊に来てもらうけど、それでいいかな、フェリオス?」
「ふん。私の部隊の邪魔をしないであれば構わん。よいな? エイサ将軍」
「ああ。文句は言わんさ。勿論、俺の獲物に手を出さないという前提の下ではあるがな」
「勇者か。……ふん。まあ、その点については構わん。奴ばらに邪魔をされるのも気に喰わぬからな。奴らの首を取ったとて、我が栄誉は潤わぬし」
「それじゃ、決定。よろしくね、エイサ」
「ああ。分かったよ、ニレイシア」
ニコニコと笑みを浮かべるニレイシアにエイサは頷きを返した。
その様子を見て先ほどの揉め事以上の事がなく無事に終わったことにエレディアは大きなため息をついた。そして軍議の終結を告げる。
それを聞いてエイサは立ち上がり、天幕を去ろうとしたところでフェリオスが声をかけた。
「エイサ将軍」
「……何だ、フェリオス将軍」
「ふん。少しばかり将軍としての野暮用だ。後で敵陣を見渡せる櫓にまで来い。貴様の事だ。ここに来ると同時に、そこから王国陣は見渡しているのだろう?」
「ああ」
「ならば、場所は分かるな。そこで待つ」
そう言うとフェリオスは軍議の場よりさっさと離れていった。
その後ろ姿を見送ると、エイサはテーブルに残されていた自身の茶の残りを啜る。空になったところでコップをテーブルに戻すと、立ち上がった。
「将軍」
「モンリス。お前はタークアとの詳細を詰めておけ。奴がこの軍の軍師だ」
「了解でさぁ。将軍はどうなさるので?」
「太陽神フェリオスからの招待だ。無視するわけにもいくまいて」
「えー? エイサ行くんだ」
物好きだねぇなどとニレイシアがエイサをからかうが、その言葉を無視して天幕の外へと歩き始めた。
それを見送るようにモンリスは一礼をエイサに送ったが、ニレイシアは付いてこようとした。そんな彼女に向けてエイサは冷めた視線を送る。
「……何のつもりだニレイシア」
「いや、何を話すのか気になってね」
「……フェリオス将軍は、将軍として俺を呼んだ。例えお前が俺を預かる部隊長だとしても、その場に付いてくるのはやめてもらおうか」
エイサの言い草にニレイシアは意外そうな表情を浮かべた。
エイサとフェリオスの間柄は険悪だ。少なくともフェリオスがエイサの事を嫌っている事は間違いない。
その事についてニレイシアはそれほど責めはしない。神とは言え、あれ程までに傲慢な男を好きになれという方が難しいと神である彼女でさえ思うのだから。
だがそんな彼女に対してエイサは苦笑を浮かべて答えを返した。
「俺とてフェリオスの事を好いてはいない。いや、むしろ嫌いだと言ってもいい。あの男、俺によく突っかかって来るからな。面倒ごとが嫌いな俺には天敵とも呼べるだろう。……だが、同時に信頼もしている。あの神は自らの欲望に忠実な神だと」
「……その事がどうして、フェリオスの言葉に従う理由になるのかな?」
「俺の事を嫌っているあの野郎が、わざわざ呼び出す以上そこには間違いなく重要な理由があるからだ。嫌っている相手と我慢して交流を重ねようなんて殊勝な感情を持つ神じゃないからなあいつは」
「ふぅん」
「へぇ、存外にあの神を信頼しているんだねエイサは」
「嫌いな相手だから信頼しないというのはまた違うだろう。嫌いな相手だからこそ信を置くに足るという事もある。ただそれだけの事だ」
そう言うとエイサはニレイシアに向き直った。
その彼の目を見て彼女は彼についていくことを諦めて、自らの兵舎の方へと足を向ける。それを確認した後にエイサはフェリオスに指定された櫓へ向かう。
徒歩で数分も歩けば目的の櫓が見えてきた。
上にフェリオスがいる事を確認したエイサは、彼の隣へと櫓を飛びあがる。
音もたてずに櫓に飛び乗ると、フェリオスにそのまま声をかけた。
「待たせたな、フェリオス」
「遅いぞエイサ。俺を待たせるなど、不遜の極みだ」
「ニレイシアが付いて来ようとしたんでな、あれを納得させるのに少しばかり時間を喰った」
「そうか。ならばまあいい。取りあえずは一献」
そう言ってフェリオスはエイサに向けて盃を投げた。
既に中身の注がれたそれをこぼすことなくエイサは受け取ると、躊躇いなくそれを干して投げ返す。そして、苦笑気味にフェリオスに向かって言った。
「良いご身分だなフェリオス将軍。朝も早くより酒を嗜むとは」
「この程度、戦前の景気づけにもならぬ程度の酒精だ。目くじらを立てる程のものでは無いだろう。そもそも俺が戦場に出てきているのだ。只人の軍勢如き、本来であれば鎧袖一触よ。攻めあぐねているのは、我らが母神の加護がある故。占領したところで意味がないからだ」
「そうかい。ま、俺にはどうでも良い事だ。スロブの爺さんだって、飲みながら仕事を行う事もある。それを認めているのに、貴様にだけそれをするなとは言えんな。ましてや破れてもいない将に」
「この俺が破れるものかよ。一々気に障る言い草をする男だな、貴様は」
そう言ってフェリオスはエイサをじろりと睨んだ。エイサはその視線を受けて僅かに肩を竦めて見せる。そんなエイサの態度を見て、フェリオスは僅かに眉根を寄せながらその不機嫌さを飲み込むように盃に注いだ酒を飲み干した。
「それで、何の用だフェリオス。わざわざ貴様が俺を呼ぶんだそれ相応の理由があるんだろう?」
「ああ。貴様リヴァイアサンとやり合ったと聞いた。その事で少しばかり確認しておきたいことがある」
「随分と耳が早いな。やり合ったのはつい昨日の話だぞ」
「もとよりリヴァイアサンはタークアが生み出した神獣よ。生みの親であれば、子が何をしているかくらい把握するのは容易い」
「へぇ、そんなもんかね。女神アリスはお前たちの事をコントロール出来ているようには見えないがな」
「さて、母神は我らの事をコントロールする気があるのかさえ怪しいものだ。出来ないというのと、しないというのには大きな隔たりがある」
「そうだな」
そう言ったフェリオスの顔には一抹の寂寥感が垣間見えた。その表情が何を意味しているのかエイサには理解できないし、興味もない。だが、この傲慢な男がこんな顔をするものかと少しばかり驚いた。
「それで、確かに俺はリヴァイアサンとやり合いはしたが、それがどうかしたのか?」
「一つ確認だエイサ。貴様何故リヴァイアサンを殺していない?」
「……あ?」
不意に問われた言葉の意味をエイサは推し量れずに妙な声を上げた。
いったいどういう意図でその問いを発したのか、それを探るためにフェリオスに視線を向ければ、彼は随分と真剣な表情をエイサに向けていた。そして答えないエイサに対して再度問いを発する。
「何故だエイサ。貴様であればリヴァイアサンといえど処分するのにさほどの手間はかかるまい。なのに何故、貴様は奴を殺さなかった?」
「そりゃ、魔王様に殺すなと言われたから……だが?」
「ふん。……そうか。ならばいい。つまらない事を聞いた」
エイサの答えに納得した様子も見せないフェリオスの言葉にエイサは首を傾げた。
しかしそんなエイサに対して何かを答える様子もなく、フェリオスは淡々と手酌で酒を飲み干すだけだった。