七話
魔王の住まう城は基本的に手が入っていない。
廃墟を適当に拠点として修復しただけの、本来なら城と呼ぶことさえ烏滸がましい程度の建造物にすぎない。
その理由としては魔王自身が他者との触れ合いを拒絶していることがある。そして何よりも山の奥深くにそれが存在していることによる利便性の悪さがある。
戦場から最も遠いという訳ではないが、それでも直線で向かえば幾つもの山を越えなければならないこの場所は、空間転移の魔法をを用いることで、ギリギリ拠点としての体を成していた。
人の王都のように華やかでもなければ、魔王城の北にある神都のような荘厳さもない。あるものと言えば、森と獣と寂寥だけ。
それは魔王城の中庭にも現れていた。
落ち葉が積もり、壁の一部は崩れ、城壁の多くは木々に侵食されて見るも無残な様を晒している。そしてそんな自然あふれる場所にありながら、魔王が漏らす魔力の余波により、あらゆる生命体が城には近づかないからこそ、耳が痛くなるほどの静寂が周囲一帯を包む。
その空気がエイサは嫌いではなかった。
緑に満ち溢れながら、生命の輝きを感じさせない中庭。そんな矛盾孕む場所で、淡々と自らを追い込んでいく。最初は緩やかに、徐々に早く。一振りごとにギアを上げて、上げて、上げていく。
その剣技は流麗の極み。振るわれる一撃一撃は武骨そのものだというのに、それが連続することで、見るもの全てを虜にする舞踏として完成する。その美しさは禁忌にひかれるが故の美しさだ。触れれば間違いなく死に落ちることを誰もに理解させるが故の美しさ。それを眺めていた男はほぉとため息を漏らした。
「……見ていたのか、爺さん。鍛冶場はどうした?」
ぴたりと剣舞を止めてエイサはその男に問いかけた。すると、彼はひげを弄りながら苦笑気味にその言葉に答えた。
「将軍殿の武器のメンテ以外に儂の仕事は殆どなくてのぉ。優秀な弟子を持つと楽ではあるが少々退屈よな」
「そうかい。……ま、魔王様のご厚意って奴だろうさ。あんたには苦労を掛け続け来た。その負い目が、あの女にはあるからこそ、手元に置いて苦労をねぎらいたいんだろうさ」
「ふん。あのお方に苦労を掛けられた記憶は殆どないわい。むしろ将軍殿にこそ、いろいろ無茶を言われとる気がするがの」
「そりゃ、悪かったな、爺さん」
「んにゃ、鍛冶師の本懐よ。悪いと思う必要なんざ欠片もないわい。……結局、将軍殿以外に儂が望むほどに武器を使いこなす奴はおらんかった」
老鍛冶師はそんな少し寂しげに言った。
その言葉を贅沢な言葉だとその鍛冶師は知っていた。
幼くして最優、長じて無双となり果てた騎士の武具の扱いを見知ってしまったが故の言葉。鍛冶師として鍛え上げた武具を、自身の理想よりも使いこなされる光景を何度見てしまったか。不可能を可能とした瞬間の輝きは、まさしく鍛冶師冥利に尽きるというもの。
「……しかし、変わらんのう将軍」
「いきなりなんだよ」
「ふん、魔王様と仲違いでもしたのだろう? そして、そのほとぼりを冷ますために鍛錬に没頭する。変わらぬなぁ、エイサ殿」
「……チッ。今回のはあいつが悪い。……というか、大概の場合において俺が悪かったことの方が少ないだろう」
普段のエイサらしからぬ少しばかりすねた言い草に老鍛冶師は笑った。昔ながらの言い草に十年前、少年だったころの彼の様子を少しばかり思い返す。
勇者への憎悪。それを抱き、それを隠すことの無き今の有様ではなく。
憎悪を抱きながら、それでも憎悪に染まり切っていなかったあの頃を。いずれ魔王となる少女と、笑いあいながら、喧嘩しあいながら、旅をしていたあの頃の姿を。
「いや、変わらぬ。もしや変わっていたのは儂だったのかもしれんの、将軍」
「何を言ってるんだよ爺さん。俺は昔から欠片も変わっちゃいない。勇者を殺す。その為だけに俺は今も昔も生きている。その事に変節はない」
「変節はなくとも、姿勢に違いはあろうて。例えば魔王様の態度に対する今昔とかの?」
その言葉にエイサは押し黙った。
確かに、エイサの態度は少しずつ変化していった。胸の憎悪は成長すればするほどに燃え盛る。それを自らの武芸の肥やしとして、強さに焦がれ続けてきて、そして。
不意にエイサが宿す空気が普段のそれに戻った。憎悪の感情を隠さない。あらゆるものを砕くと定めた、殺戮機構への変貌。その身に宿す空気の変化に、老鍛冶師は再度ため息をついた。
「ああ、ここにいたんだねエイサ」
「……これはこれは魔王様。いかなるご用命で?」
「お昼の時間。食べないの?」
「……後でいい。しばらくはあんたの前で鎧を外すつもりはないからな」
「つれないこと。……それじゃあ、スロブ爺様は?」
「ふむ。魔王様直々のお誘い、乗らぬというのも不敬というもの。……ここはひとつ、ご相伴に預かりますかな? 断ったとあれば、他の将軍殿からの不興を買いましょうで」
スロブはそういって自身の髭を撫でた。そして、エイサの方へと視線を向けるが、彼は再び鍛錬に戻っていた。ただ見ているだけで熱量に火傷してしまいそうなほどの苛烈な剣舞を再開する。その荒々しさは彼自身の渇望をそのまま示しているかのよう。満ち足りぬと吠え滾る悪鬼の様。
「しかし、本当に魔王様と将軍殿は変わらんのぉ」
「あら、これでも少しは大人になったつもりなんだけど?」
「魔王様が将軍殿の機嫌を損ねて、その機嫌を治すために食事で釣ろうとする。かつて、旅をしていた時から変わらぬやり取り。それを見せられて大人になりましたなどとは。中々魔王様も冗談が上手くおなりになられた」
その言葉にリアヴェルは僅かに頬を染めた。
自分自身ではまるで意識していない事だった。
旅をしていたころから魔王として大切に扱われていた自分が料理ができる理由は、そういえば、エイサへのご機嫌取りが始まりだったか。昔からいかなる懐柔も通じない男ではあったが、唯一食事だけは拒まない男だった。
彼の育ての親の教育が良かったのだろう。出されたものは決して残さない男で、そんな男のご機嫌取りのために手料理を覚えたのが、魔王である彼女の特技に料理がある理由だった。
「だってあいつ、食い意地だけは張ってるから」
「食い意地が張っているとは言い草だな魔王様。豚の餌に劣るものでも、体をつくるためには食うしかなかっただけだ」
「豚の餌とは、酷い言い草ね。……泣いてしまうわよ?」
「チッ。昔は、の話だろう。今のお前の腕はそこそこいい方なんじゃないか?」
言葉少なくエイサはそういった。それだけで、リアヴェルの機嫌は上向いた。基本的に武具と食事以外の贈り物を殆ど受け取らない彼の舌は、彼自身が思っている以上に肥えている。龍の贅を凝らした美食も、闇妖精の神代の美食も、大鬼たちが好む戦場での豪快な食事も、彼にとっては等しくまあまあだと言ってのけるほどに。
そんな彼のそこそことは、彼自身意識していない紛れもない誉め言葉だった。
「あは……相変わらず最悪」
崩れた顔が元に戻らず、リアヴェルは悪態をついてごまかした。相も変わらず、欲しい言葉を欲しいときにのみ出す男だ。それでいて、こちら側の感情にまるで頓着しないなど質が悪いにもほどがある。
「魔王様。それで? どうしましょうかの? 昼には少々早い時間ですが?」
「スロブ爺様はまだいいの?」
「ほほ、どうせなら魔王様、将軍様両方と食事を共にしたいというのは、老い先短い者のわがままでしょうかの?」
その言葉にリアヴェルは苦笑して、エイサは大剣を振るいながら苦い顔をした。
「わかったよ、爺さん。あんたの頼みとあっちゃ断れない」
大剣がぴたりと停止する。そのまま、背に負ってエイサはそう言った。すさまじい速度で剣を振るっていたというのにその声からは一切の疲れを見せない。どこまで鍛えこんでいるのか、スロブは自身の孫ほどの男の有様に感嘆の吐息をついた。
「ふーん。スロブ爺様のいう事は素直に聞くのね」
「魔王様の言葉よりも遥かに信頼感があるからな。人に鎧を脱がせておいて不意打ちするようなことはしない。そんな信頼感がな」
「……流石にスロブ爺様の前ではあんな事しないわ」
「だろうな。だからこそ、爺さんの言葉を受け入れたんだよ。……で?」
「何?」
「メニューは?」
「パスタ。なんでも、今年の小麦のできは良いらしいわよ? 占領した村での収穫だって、ニコがメイドと一緒に送ってきたの」
「メイド? 見てないし、気配もないが……なに? 最近のメイドってのは気配消しまで収めてんのか?」
「んなわけないでしょ。暗殺者メイドなんて酔狂なの、それこそ淫魔族でもなければ仕込まないわよ」
「いや、淫魔族でもなければって……淫魔族なら仕込むのかよ」
「さあ? でもそういう益体もないものを追求するのはいつでもあの一族じゃない? ロマンがあるとか言って。……暗殺者メイドってロマンなの?」
「まあ、王族の護衛として戦えるメイドってのはある程度理には適っているんじゃないのか?」
馬鹿みたいな会話を繰り広げる二人をスロブは後ろから和やかに見つめていた。
昔もこうやって馬鹿な話を二人でしていた。その光景をしばし思い返す。汲めども尽きない二人のとりとめのない会話。
それは魔王様であることにとらわれてしまったリアヴェルが、魔王の立場から逃れることができる数少ない憩いの時だった。
そしてそれは、復讐にとらわれ、復讐に身を焦がし続けることを選んだエイサが、燃え盛る業火の中で一息つけるオアシスだった。
「爺さん。なんだ?」
「いや、何でもない。ただ、この時が少しでも長く続いてほしい。そう思っておるだけ。それだけの事よ」
その言葉にエイサは少しだけ考えて、そして小さくされど鋭く言った。
「無理だな」
「ええ、無理でしょうね」
「やはり無理か」
「ええ。一応の制圧目標は達成した。だけど、魔軍としての規模を考えるとこれ以上の侵攻はおそらく不可能。十二魔将なんて大仰な名前を付けてはみたけど、結局は使える将が十二人しかいないってのは、国家が持つ軍隊としては致命的よね」
「そのすべてが一騎当千の強者であってもですかいの?」
「戦場が十二しかないのなら、まあ、何とかなるでしょう。だけど、これ以上先に進むなら戦場が十二で収まる事なんてありえない。百の戦場のうち十二の戦場で勝ったところで、八十八敗すれば、戦争には敗北よ。個人の武勇には確かに、戦場をひっくり返す力はあるけど、戦況をひっくり返すほどの力は無いのよ」
冷徹にリアヴェルはそういった。気負うところのないその言い草は、そうだからこその真実味があった。
「では、魔王様はどのようにしてこの戦い、勝つつもりなので?」
「……基本的に当代で勝ち切るってのは難しいでしょうね。東のラヴァル港までを切り取ったのち、その港以西を専守防衛で維持する。そうやって稼いだ時間で軍を再編。それでようやくスタートラインに立てるってところかしら」
怜悧な美貌の眉根を寄せて憎々しげにそう言った。ラヴァル港と言えば人族が支配する地域にある港の中でも三本の指に入る巨大港だ。それを抑えなければ魔王軍に勝ち目はない。魔王軍を統括する者として、彼女はそう考えていた。
「そもそもからしてうちの軍は軍と呼んでいいような統制が取れているわけでもないわ。十二の将からなる総勢三十万の軍勢とはいえ、実質的にそれを仕切っているのはそれぞれの種族の長。そしてそれぞれの種族の長がそれぞれの種族を勝手に従えて、その後に私に仕えているだけ。その種族の長が死ねば、その種族が従い続けてくれるとは限らない」
魔王軍は魔王のカリスマによって維持されている寄り合い所帯だ。そしてその魔王のカリスマが人ならざる者全てに遍く伝わり切る訳ではない。だからこそ種族の長共を従える事で彼女のカリスマが伝わり切る者たちに絞って従えることで、ギリギリ軍として統制を取っているだけ。
「十二将のうち、ただ一人でも討ち取られれば魔王軍としての力は格段に削がれてしまう。私たち相手に斬首戦術は余りにも効果的に働くわ。将一人打ち取れば、一つの軍勢が行動不能、下手をすれば壊滅してしまう。対して人族の部隊は将を失ってもすぐに頭を挿げ替えてこちらに向かってくる。人族の強み、それは千の歳月を支配し続けた神の加護に従った、個ではなく軍勢としての力。私たちのことを性能だけで卑怯だの、理不尽だのほざくけど、千年守り通した神の加護の方がよっぽど狂ってると思わない? ねえ、人間さん?」
皮肉気にリアヴェルはエイサにそう聞いた。
人でありながら、神の規則より外れた例外者たる彼は肩を竦めるだけで何かを言い返すことは無かった。
その態度にリアヴェルは笑みを濃くした。
エイサ。魔王軍十二将の一人にして、唯一軍勢を持たず、そして魔王のカリスマに平伏していない魔王軍の中における逸脱者。
エイサ。人の身でありながら、人の枠組みの中にありながら、神様の加護を拒絶した、人中の極み。
常と変わらぬ、その男の在り方がリアヴェルにはどこまでもやさしく感じられた。