六十六話
夜明けの空気はいつであってもすがすがしい。
雨が降ることもなく、夏場の蒸し暑さも森の中であれば多少はマシで、寝苦しさとも無縁だった。無論リアヴェルの取得していた結界魔法によりある程度のテント内環境は整えてはいたのだが、このすがすがしさは大気の風が涼やかなものに由来するものだろう。熟睡できればいい休息になったのだろうが、王国領内で熟睡できるほどエイサは図太くはない。テントの中に最初の数時間だけはテントの中で腰を下ろし僅かに睡眠をとっていたが、深夜遅くには其処より這い出して木々に背中を預け微睡みと覚醒を繰り返していた。
「ふぁ……おはよ、エイサ」
「ああ、よく眠れたか?」
そんな彼の前にリアヴェルがテントの中より現れた。
少しばかり眠気眼の彼女はトテトテと焚火の側に近寄ると魔法により火をつけて、飲み物を入れるためのお湯を沸かし始めた。
「エイサも飲む?」
「ああ。もらう」
「りょーかい。コーヒーだけどいいよね?」
「ああ。なんでもいい」
そう言ってリアヴェルはコーヒーを入れるための道具を取り出していく。
それを見ながらエイサは向かう予定のセンマ村へ意識を傾けた。
いくらかの人の気配。そして女神を信仰している地域特有の清廉たる空気。それに混じって僅かに魔力を感じる。昔は感じる事が出来なかった魔の気配。それが自身が母と呼んだ者の屍より漏れているのだろう。そうであるなら、彼女の墓を探す事はそれほど難しくはなさそうだ。とは言っても、十年やそこらで村の様子が大きく変わるとも思えない。おそらくは村の共同墓地にでも埋められているのだろうが。
「エイサ」
「なんだ?」
「コーヒー出来たよ」
「もらう」
手渡してくるカップを受け取り兜をずらして流し込む。
灼熱が喉を滑り落ちていく感触、胃の中に熱がたまる感触、そしてその苦みと香りにエイサ目が一気に覚めた。内より湧き上がる熱を吐息と共に吐き出して一息つくと、その様子をリアヴェルがにやにやと眺めてきていた。
「なんだよ? 何か言いたいことでもあるのか?」
「ふふ。相変わらずそんな飲み方をしているんだ。苦いのは苦手?」
「別にそんなこともない。ただ、昔からこう飲んでたからな、今更変えようもないし、変えるつもりもないだけだ。熱いものが一気に喉を滑り落ちる感触は病みつきになる」
「普通は火傷すると思うんだけどねぇ」
「そいつは気合が足りないだけだ」
「気合で肉体性能を凌駕しないで欲しいものね。おこちゃま舌君」
揶揄う様にそう言ったリアヴェルの視線を無視する。
しかし、その態度を取ったエイサに対してリアヴェルは笑みを崩さない。こういう反応を返すと半分ほどは理解されていたのだろう。予想通りの反応が彼女の心の琴線の何かをくすぐったのだ。
「夜も開けた。もう少ししたら出るぞ?」
「あれ? 朝ごはんは食べてから行かないの?」
「……朝飯を取ったら出るぞ」
「はいはい。昔っから変わらない反応をありがとね」
「朝飯は余り匂いの出ないものは避けろよ」
「パンとスープくらいにしておくから平気よ」
「それなら構わん」
エイサの言葉を受けてリアヴェルは朝食の準備を始めた。パンは既に出来ているものを火の近くであぶることで焼いて、スープも作って来ていたものを少しだけ温めるだけの簡素なものだ。しかし、それを受け取ったエイサはその味を十分に堪能しながら食べていた。
「懐かしい味だ」
「ふふ、昔はこればっかり食べててもう飽き飽きかと思ったけどね」
「だからこそだろう。俺にとってはこの味が故郷の味だ」
「そう言ってくれるのはうれしいけどね。これでも味付けとかは微妙に変えているんだよ? その努力は感じて欲しいね」
「わかっている。毎度同じ飯を食うのに飽きないようにお前が工夫していたことも良く理解している。だがそれでも、根本的な味付けに変化はない。俺にとってはこれこそが日常の味だ。故郷の味といってもいいのかもしれない」
「今から向かうのが貴方の故郷じゃないの?」
「あそこには辛い思いでしかない。いや、他にもいろいろとあったんだろうがな、それら全てを塗りつぶすほどに、あの出来事は鮮烈で、同時に破滅的だった」
視覚、嗅覚、感覚、聴覚、味覚。人の備える五感全てにおいてあれ以上のショックな出来事は無い。五感全てを凌辱されて、その上で同意を求められるなど今後生きていく中で絶対にあり得て欲しくない。そう願う程にあの出来事は鮮烈で、同時に地獄的だった。絶望的で、あまりにも苦々しい思い出でもある。それこそ、今でも夢に見る程に。今でも憎悪の炎が燃え盛るほどに。
「だからこそ、奴は殺す。殺さなければならない。あの時より俺の故郷は失われた。形としては存在しているが、そう言う意味じゃない。あそこは俺にとっての地獄だ。灼熱燃え盛る炎獄だ。その火種は決して色あせることは無い。だが、火種は消さなければならないモノだろう?」
「それが勇者の討滅か。本当にそこだけはブレないわよね。それを捨てて別のものに目を向ける事が出来れば、君はまさしく稀代の英雄としてこの星の史に刻まれるだろうに。消えぬ火を消し続けるが徒労を繰り返すのが、君にとっての幸せにはつながらないと僕は思うよ」
「知ったことか。英雄だのなんだのは人様の評価だ。俺の幸せだと? それをお前が決めるな。そんなものを俺は求めてはいない。そもそも、別のものに目を向けろなどと言われても、何に目を向けていいのかさえ分からない。この憎悪以上に俺の心を動かすものがあるかさえな」
「うん? そんなの簡単じゃないか」
「なんだと?」
「だってそうだろう? いつだって憎悪の炎を消すのは無垢なる愛と相場が決まっている。例えばそうだね、君の憎悪の炎を僕への愛の炎に還ると言うのはどうだい? そうすれば僕は君に無償の愛をおしみなくそそぎ、君の愛を厭うことなく飲み干そうとも」
「結局それかリアヴェル。変わったなお前は。昔は割と俺の事を警戒していたような気がするが」
「十年の長きにわたって君と共にあって理解を深めた。僕の最も危機的な時にずっと共にいてくれて、僕が助けを求めた時にいつだって助けてくれた僕の英雄。……その相手に愛を示す事がおかしなことかな? 僕は当然変わったとも。君と共に過ごした年月が僕を変えたんだ。それの何が悪い?」
「悪いとは言わねーよ。だが、俺にその回答を望むな。無駄だぞ」
「この世界に無駄なことなど何一つないさ。かつて只人の子供を旅に混ぜ込んだスロブ爺様。かつての僕はそれを無駄と切り捨てようとした。だけど今ではその子供は僕にとって掛け替えのないものになったように。事は巡り我が身に還る。それがどんな形で巡るのかは分からない。だけど、この循環からは何者でさえ逃れられはしないさ」
そう言うとリアヴェルは立ち上がりエイサの側へと歩み寄った。そしてエイサの瞳を兜越しの覗き込もうとする。目をそらさないエイサとリアヴェルの視線が自然絡み合う。そのまま彼女は彼の兜を上にずらした。
なされるが儘にエイサはリアヴェルを見つめている。
抵抗する気はない。する意味もない。熱に潤むリアヴェルの瞳を見てエイサはそう判断する。どうせ言っても無駄なのなら、言わない方がまだましだ。
唇が触れあった。
ついばむ様な触れ合う様なただそれだけの稚拙な行為。
リアヴェルの頬とエイサの兜が僅かに触れ合って、彼女のぬくもりが僅かに兜に移った。
「……満足したか魔王様」
「……まさか、この程度では満足できないね。僕と君とはもう少し先に進んでもいい間柄だと、僕は常々思っていたところさ」
「そうか。だが生憎だがこんなところで盛る趣味はない」
「はは、どこであっても盛ることなどしない癖によく言うね。……わかっているさ。これはただ、つばを付けただけの事。ただそれだけの事さ」
「そうか。ならばどうでもいい。そろそろ出るぞ」
「……つばを付けただけとは言ったけど、どうでも良いって切り捨てられるのもなんだかなぁ。ちょっとだけ悲しい気分になってくるよ」
「好きに悲しんでおけ。そんな事よりもリアヴェル。お前の仕事がありそうだぞ」
「仕事? 勇者でもたどり着いたのかい? それで、勇者相手に魔王として見得でも切ればいいのかい?」
「そんな暇があるなら奇襲して首を撥ねる。……そうじゃない。ちょっとばかり魔力を探ってみろ」
「魔力? あんな辺鄙な村に魔力溜まりでもあるの? 王国では魔力の民間利用は禁じられているはずだし?」
「感知してみればわかる」
「ふむ」
そう言うとリアヴェルは魔力をたどるために集中し始めた。
数十秒ほどの沈黙ののちに、ぽつりと呟く。
「ナニコレ」
「さて、昨日の内には感じ取れなかった。娘の接近に気づいた我らが母上様が、目覚めの歓迎でもしてくれるのかもな」
「エイサ」
「冗談だよ。俺にとってもシスターリスティアは育ての親だ。屍を何かしらに利用されていると言うのであれば……」
「違う。魔力が少ずつ大きく揺らいできてる」
「……と言われても困る。それで何がどうなるんだ? 魔力が揺らぐなんて聞いたことがないぞ」
「とにかく急いで村へ向かいましょう。エイサ」
「ああ。乗れ」
そう言ってエイサは兜をかぶり直して腰を下ろした。
リアヴェルは周囲に散らばった野営道具を指を一つ打ち鳴らすだけですべて回収するとエイサに飛び乗る。その彼女を取り出した縄で固定すると同時にリアヴェルが何事かをつぶやき障壁を展開した。同時にエイサが僅か一歩でトップスピードに至る。木々の枝を踏んで飛び、最速でセンマ村へと走り始めた。