六話
魔王軍の居城。それは陽の光を拒むような山の奥にある。そのため城の中は、昼間でも薄暗く、廊下をすれ違う相手の顔さえ、近づかなければ認識できないほどだ。
そんな廊下をエイサは共も連れず歩いていた。
モンリスは部隊編成のために自らの伝手を使って動き回っているため、この場にはおらず。ほかの将軍たちも自らの戦域を維持するための軍事活動のため自らの担当する戦線に張り付いている今、この城にいるのはエイサとこの城を拠点としているあの偏屈な鍛冶師、そして当代の魔王ぐらいのものだった。
世話役のメイドや料理人位置いても良いのではないかと、将軍の誰かが進言したこともあったが、魔王はその言を即座に却下したため、今でもこの城には世話役も警備役も殆ど存在していない。故に寂れた気配、埃っぽい空気、廃墟染みた寂寥感。それらがこびりついていた。
魔王らしからぬ居城の有様に、ニコなどは露骨に顔をしかめ、ここに訪問するときは必ず自身の世話役を3桁単位で連れてきて、一時は城らしき豪奢さを誇るが、それもニコがこの地を去ると同時に元の木阿弥へと変わる。それがこの城のサイクルだった。
エイサも日常的に魔王城に足を運びたいと思っているわけではない。
寂れたこの場所にいるよりは、魔王が定めた戦術拠点で勇者の動向を確認し、その場所で鍛錬を続けている方が余程有意義だと思っているし、実際に公言している。それなのに、この寂れた魔王城を拠点としているのには理由があった。
契約だ。
かつて結んだ契約が彼を縛っている。
魔王とエイサが結んだ始まりの契約。
勇者を殺すための同盟約定。その中に魔王と共にあることを含めたのは、エイサの落ち度であり、そして魔王のプライドだったか。魔王である限り、勇者が打倒すべき最大の目的である限り、エイサは魔王の元を離れられない。それが、魔王がエイサを勇者に対する最大の武器として認めるためのたった一つの条件だった。
「エイサ」
艶やかな闇が瞳で認識するものではなく、その振動を聞き取るものであればきっとこんな音になるのだろうと思わせる、優しく、酷薄で、何よりも深く美しい声音。それが、彼を呼ぶ声が聞こえた。
「エイサ」
只人であれば、飲まれ、壊れ、解け落ちてしまいそうなほどに蠱惑的な声。脳髄を直接溶かしてしまいそうなほどに熱く濡れた声音はエイサが向かっていた扉の奥。魔王城の最深部から聞こえてきていた。つまりは魔王の居場所だ。
「……」
自らを呼び続ける声。魔力を乗せ蠱惑的に誘うための誘惑術。流石は魔王様。魔たるものの頂点種。淫魔族の技法を成すくらい容易く行えるのだろう。それも並の誘惑術ではない。抵抗に失敗すれば、魂ごと魔王に全てとらわれかねないほどに強烈なそれだ。
エイサは扉を開けた。
甘い香りが彼の鼻腔をくすぐる。暴力的なまでに官能的な刺激を、目を細めるだけで無視して魔王の部屋へとずかずかと入り込んだ。
部屋の主と視線が交錯する。
それは美しい女だった。
夜の色よりも、鴉の濡れ羽よりもなお暗く、深く、艶やかな黒髪は腰まで伸び、僅かに毛先だけが光の加減で複数の色を持つかのように揺れている。その肌は自らの持つ黒髪と対極に位置するかのように白く、シミ一つ、毛穴一つ見えないほどにきめ細かい。
幼くして多くの時を野営でこなし、肌の手入れなんぞする暇もなかっただろうに、ただ魔の頂点に位置する種族としての基本性能だけで、まさしく魔的に美しい。
エイサが来たことを認めて、魔王は花咲くような笑みを浮かべた。
椅子に座りテーブルで何かの書類を読んでいた途中であったのをほうり投げ、エイサに向かって両腕を突き出した。
「……なんのつもりだよ、魔王」
「だっこ」
「……」
魔王の言葉にエイサは沈黙した。
言いたいことは多くあるが、長い付き合いの彼女に何を言っても無駄だと既に知っている。ので、何も言うことなく、魔王の部屋の壁に背中を預けた。
鎧がガチャリと音を立てる。
エイサの態度が気に喰わなかったのか、魔王は伸ばした手を引っ込めつつも、目を細めてエイサを見つめた。怜悧な美貌からの冷たい視線は、それだけで物理的圧力を感じさせるほどに強い。とはいえ、その程度で、エイサが何か反応するはずもなく、淡々と魔王の言葉を待っていた。
「ふん。ひどいなエイサは。どうせ誰も来ないこの場所でくらい、昔ながらのやり取りをさせてくれたっていいのに」
「それは契約に含まれていないな魔王様」
「魔王様。ねぇ。欠片も敬ってないくせによく言う」
「他の奴がいるときにはそれ相応の態度はとっているだろう。それの何が不満だ魔王様?」
「今、この場においては中途半端なところかな。確かにここには誰も来ないだろう。だけど、それはあくまで一般的にはの話で、緊急時には誰かの使いが入ってくるかもしれない。そんな時に武装をそのままに、壁によりかかる将軍様。それは、魔王の前の態度としては不適だよ?」
そういって口角を吊り上げる魔王に、エイサは舌打ちを一つ漏らした。
「ひどいなぁエイサは。魔王様の忠告に対してそんな態度をとるんだ」
「わかったよ、確かに不敬であると言われればその通りだ。……鎧を脱いでくれば満足か?」
「ん……。そうだね、君との逢瀬が減るのは好ましくないし。この部屋で脱ぎなよ」
「魔王様の前で鎧を外している姿を晒せってか? 余計に不敬だろうに」
「じゃあ、僕が命じる。その鎧、今ここで脱いで」
にこやかにそういった魔王をエイサはため息をついて睨みつけた。兜越しにではあるが、面倒な女だと目が語っているのが容易に想像できる態度に、魔王はさらに笑みを濃くした。
「はやく、はやく」
「わかった。わかったからちょっと待て」
餓鬼であるまいし、なんて思いながらエイサは武装を解き始めた。
大剣を慈しむかのように壁に立てかけ、兜を外し鎧を少しづつ外していく。しばらく、留め金が外れる金属音だけが部屋を満たし。その様子を魔王は食い入るように見ていた。
赤みがかった茶髪が大気に触れる。
引き締まった四肢の上にアンダー一つの姿となった男の体を魔王はうっとりと見つめている。
惚れ惚れする様な鍛えられた肉体は、人という種が理想的な鍛え方をした果ての芸術品が如く。必要な筋力を必要な分だけ戦闘によってつけたそのスタイルは、戦いに身を置く者であれば完璧と評するしかできない。
その上に幾つもの細かい傷跡が残っている。裂傷、打撲、火傷、凍傷。戦場で着くであろうあらゆる傷の跡が、薄っすらと彼の肉体の上をなぞる。あれ程の重鎧を身にまといながらもなお残る、彼の戦場の記憶。戦士の誉れ、その残滓。
不意に魔王がエイサに向けて手を伸ばした。
魔力を込めた不可視の腕。
鎧を部屋の隅に片づけていたエイサを強襲するそれを、咄嗟の反応一つ、二つと回避するが、もとより部屋の中。回避不能の巨大な腕を生み出されてはエイサに回避するすべはなく、つかまるしかなかった。
「り、リアヴェル!! てめぇ、このために鎧を脱がせたのかよっ!!」
「あははは。そうだよ、エイサ。君の鎧に刻まれた対魔能力は折り紙付きだ。単純に魔力をぶつけるこんな技じゃ、すぐにレジストされちゃうからね」
魔腕に引きずられそうになるのを踏みとどまるエイサを見ながら魔王、リアヴェルはからからと笑って見せた。肉体的な性能においてエイサの肉体は人の種の最果てにある。しかし、それはあくまで人の種という分類においての話だけだ。神に迫るなどと称される魔王の魔力相手では流石に分が悪い。拮抗したように見えたのは僅かに一瞬。ふわりと浮かび上がったエイサの体は、リアヴェルの望むがままに彼女に抱き留められた。
「……離せよ、リアヴェル」
「嫌だよ、我が騎士様。離せば君はいつだって僕の手からさらりと抜け出してしまうじゃないか。魔王の剣だと言う割に、ちっとも僕の手の内にいないんだから偶には強引に愛でてみたくもなろうものだろう?」
そう言ってリアヴェルはもがくエイサの顎を優しくなでた。それと同時に頬を寄せ、深淵よりもなお深い瞳を妖しく輝かせた。魔王が持つ魔眼の輝き。人はおろか龍種や闇妖精と言った魔力に対する圧倒的防御能力を持つ種族でさえ容易く魅了する魅了の魔眼。それを人相手に全力で発揮するなど、精神を凌辱するにも等しい行為だった。
「下らないことはやめろリアヴェル」
だというのにエイサは容易くその魔眼の支配を打ち破った。一切魅了されることなく悪しき輝きを宿す彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ返して見せる。
そんなエイサの様子にリアヴェルは笑みをますます濃くした。
自身の額を甘えるようにエイサの額へとこすりつけ、さらに魔眼の魔力を強めていく。
「やめろと言ったぞリアヴェル」
不意にエイサが魔腕の支配から抜け出した。自身の身体能力を極限まで振り絞ったこと、魔眼に魔力を集中させたことによる魔腕の弱体化。それら二つが合わさった一瞬の間隙を抜いてリアヴェルの首をつかみ上げた。
そのまま、彼女のベッドへと叩きつける。
馬乗りの体勢でエイサとリアヴェルの視線が絡み合った。
方や漆黒の焔を宿す憎悪の瞳。
方や暗黒の艶を孕む情念の眼。
その瞳の色を見てまるで反省していないことを理解したエイサはその体勢からリアヴェルをさっさと開放した。そして、そのまま自身の鎧の元へ歩み寄る。
「ちぇっ。襲ってもくれないんだ。容姿やスタイルには自信がある。君への思いも他の何かに劣っているつもりはないって言うのに、肝心の君はいつだってそうやって僕を袖にする」
自分の体をまさぐりながら、煽情的にリアヴェルはそう言った。乱れた衣服のより僅かに覗かせる白い肌は僅かに朱に染まり、吐き出す息まで熱を帯びている。豊かな胸元は男を誘惑するかのように僅かに開き、僅かに踏み込めば、その白磁の肌を見せるだろう。
その言葉を、そんな状況を、そんな彼女が呼ぶ声を一切合切無視してエイサは再度鎧を身に着けていく。
「何故かな? どうしてかな? 僕と君の間に障害なんてないのに。君だって僕のことを嫌いではないはずだろう? なのに、どうして君はそこまでして僕を拒む? はしたなく女の方から誘ってみても、一切の揺らぎさえ無く僕を拒絶する。悲しいよエイサ」
「知ったことかよ魔王様。俺は確かにお前の剣であることを契約したが、それ以上を約した記憶はない。俺に依存するな。俺がお前の剣である理由を忘れるな」
「……勇者……か。……ふふ、本当に昔から君はそれだけだ。これ程君に焦がれる女を袖にして、一時の快楽に流されることさえ拒絶して、ただ勇者を殺すためだけに生き続けている。苦しくないのかい? 辛くはないのかい? いつ投げ出したって誰も責めはしないのに」
その言葉にエイサは小さくため息をついた。そして珍しく魔王様に対してではなく、自らの幼いころより過ごしてきた幼馴染に向けて、安心させるかのように
「俺は、俺の心のままに生きている。辛いかなどと問うのはお門違いもいいところ。俺は俺自身の欲望を満たすためだけに生きている」
脳裏に写るは勇者の姿。
何よりも美しく、何よりも気高き、我が宿敵。我が怨嗟の終着点。
「勇者を殺す。それが俺の望みであり全てだ。それはつまり我欲だ。俺が俺自身で抱いたたった一つの欲望だ。それ以外の全ては些事。俺にとっては奴を殺すことのみが望み」
「……エイサ。……君は……」
「快楽を望まない訳じゃあない。欲求がないわけでもない。俺の欲求はただ一つ。勇者を殺すこと。ただそれのみに集約されているだけだ」
その言葉にリアヴェルはため息をついた。エイサに魅了の魔眼がまるで通じない理由が良くわかってしまった。
あらゆる生命の目的は自身の種の繁栄である。繁栄とは増える事であり、次代へ繋ぐことに他ならない。その為の本能が性欲だ。そしてその本能を操り、自らの望むがままに暴走させるのが魅了の魔眼の神髄である。故に生殖行為によって数を増やす生命である以上、魅了の魔眼から逃れる術は殆どない。生命として増える意味合いの少ない超越種たる龍族、あるいは寿命という概念を持たない闇妖精族であれば性欲をほぼ持ちえないからこそ、耐えることも可能ではある。
しかしエイサは人間だ。
その技巧、その力量、その精神性。
あらゆる点で人間という種から逸脱しつつあるが、それでも人間という分類からは出ていない。性欲だって普通にあるはずだ。なのに魅了の魔眼が通じなかったその理由。
「本能をねじ伏せるほどの欲望。それに身を任せているからこその魅了に対する耐性とは……ね。人という種が女神に庇護される理由が良くわかる」
勇者を殺す。その悦楽のみを求めて、それ以外の快楽をすべて憎悪の炎で燃やし尽くした男の姿に、少女はかける言葉を持たなかった。十年以上の付き合いを持つ、自身の愛する至高の剣。その在り方は魔王としてみれば頼もしく、そして少女としてみれば不満しか抱けなかった。