五十二話
海上での勇者撃退を終えたエイサはモンリスと共に魔王城へと帰還していた。
魔王城で何かしらモンリスは戻ると同時に忙しなく動いている。方やエイサは魔王城の中庭で、瞑想を行っていた。夏の日差しが容赦なく照り付ける。標高の高い場所にあるとはいえ、夏の暑さは中々に厳しい。漆黒の鎧を纏っていれば尚更だが、エイサは一切の言葉を漏らす事無く黙々と瞑想を続けていた。
「将軍」
「エルメルダか」
「はい」
そんな彼に声をかけてきた女性がいた。
褐色の肌、長い銀髪が特徴的な美女。エルメルダだ。
声を掛けられたことでエイサは瞑想を止めてエルメルダの方へと視線を向けた。
僅かに瞳の下に隈を作り、その瞳は充血している。どう見ても寝不足の症状が出ていたが、以前のように限界を感じさせる表情ではない。どこか楽し気な雰囲気を身に纏っている。
「何があった?」
「剣について、そして将軍の証について、ある程度の解析が済みましたのでご報告をと思いまして」
「そうか。聞こう」
「では、私の研究所にまでご同行いただけますか?」
「わかった」
「私も行かせてもらいましょう」
エイサの言葉に上から声がかかった。
その声を聴いてエイサは小さくため息をつく。そして声の方を見上げれば、そこは魔王様の私室がある場所だ。私室の窓よりリアヴェルがエイサとエルメルダを見下ろしているのが見えた。
「他の仕事は良いのかい? 魔王様」
「無論、私やらなければいけない事は先にするタイプだから」
「エルメルダ?」
「ふふ、私は構いませんよ? 魔王様に成果をご覧にいただけるとあれば、光栄な事です」
「そうかい。良いってさ、魔王様」
「そう。なら、すぐに向かいましょうか」
そう言うとリアヴェルは窓よりエイサ目掛けて飛び降りた。
よけるべきか、受け止めるべきかエイサは一瞬迷ったが、よけて文句を言われるのも面倒だと判断し、彼女を受け止める。そして、流れるように彼女を地面に下した。
「ふふ、ご苦労様。エイサ」
「こういうのは出来る限り辞めてくれ」
「あら、心配してくれたの?」
「いや、避けるとお前怒るから」
「ああ、そう」
エイサの言葉にリアヴェルはジト目を向ける。求める言葉ではなかったらしい。そんなことを言われても、エイサにとっては知ったことではなかったが、それ以上何かを言うと、益々リアヴェルの機嫌が悪くなるであろうことを悟った彼は、これ以上何かを言うのを諦めた。
「行きましょうか、魔王様、将軍」
「ああ。道すがら概略を話してくれ」
「わかりました」
そう言うと三人はエルメルダの研究所へ向かうため魔王城内の転送魔法陣へと足を向けた。
「勇者の証を調べていく過程で判明したことがいくつかあります。勇者の証、それが刻まれる意味と、その効力。無論、その全てを解析できたわけではありませんが、そのうち幾つかに興味深い術式が使用されています。詳しくは手元の資料をご覧ください」
エルメルダの研究室でエイサとリアヴェルは生き生きとした表情のエルメルダより勇者の証についての報告を受けていた。渡された資料は用紙にして約30枚。それら全てに目を通さなければならない事にエイサは苦い表情をした。資料や文献を読み込む行為を得意とはしていないためだ。
「これ、全部読めってのか?」
細かい字でびっしりと書き込まれた資料を手にエイサはエルメルダにそう告げる。リアヴェルにも同意を求めようと視線を向ければ、彼女は渡された資料を興味深げに読んでいるのが見えた。そう言えば旅をしているときも、暇さえあれば本を読んでいるような奴だったことをエイサは思い出しため息が漏れた。どうやら、同意は得られそうにない。ともかく、こんな量の説明を聞いても理解なんぞ出来るかと態度で示すとエルメルダは苦笑しながらエイサに向けて言う。
「では要点だけでよろしいでしょうか?」
「ああ。それで頼む。実働部隊に読めってのは無理がある」
「自分から調べて欲しいって頼んだ癖に、随分な言い草じゃないエイサ?」
「悪いが俺はお前らと違って頭の回転が良くない。原理とか魔法式に興味もない。この証がどういう役目を果たし、どういう事を引き起こすのか。ただそれだけ分かればいい」
エイサの言葉にエルメルダは苦笑を浮かべ、リアヴェルは大きなため息をこれ見よがしについた。
「自分の体に刻まれている証。その仕組みくらいは知っておいた方が良いと思うけれど?」
「この証に仕組まれたものは、知っていればどうこう出来るようなものなのか? エルメルダ」
「……いえ、難しいと思われます」
「だったら、仕組みを知るよりも何が起きるかだけでいい」
「わかりました。では、その事についてのみお伝えします」
そう言うとエルメルダは資料をめくった。
「資料19枚目。ここから先が勇者の証に刻まれている魔法式の具体的な中身の説明になります。無論、全てを解析できたわけではありませんので、あくまでも一部という事にはなりますが」
「この証、そんなに複雑な魔法式が組み込まれているのか? 見た目、それ程細かく書き込まれているようには見えないが」
「次のページより証を拡大し、細分化した図を乗せてあります」
「へぇ。……おいおい、マジかよこれ」
「はい。拡大したところ、証にはいくつもの術式を重ねて彫り込んであることが確認できました。複数の式を文字を文字として認識できなくなるほどに重ね、それらが一つの図形に見えるように彫り込み、その上でそれぞれの魔法式が互いに干渉しないように配置する。……まさしくもって神の御業。我々の領域では至れぬ技術の結晶です」
「流石は女神の加護というべきか。精緻にして大胆。無意味な術理が一切ない。これを読み解くだけで、どれ程魔法学が発展するか、予想もつかない程に精緻なものだ」
感嘆のため息を漏らしながらリアヴェルはそう言った。それに応じるようにエルメルダは頷くが、エイサにはそのあたりがよくわからない。魔法を使うのに最低限の知識を持ってはいるが、その知識はあくまで最低限のそれ。資料に記されている女神の証を理解するには前提となる知識量が足りていない。
「それで、効果は?」
「まず一つめが意識への干渉式。いわゆる神託を受けるための魔法式。女神からの思念を受け取り、それを理解できるように翻訳するための物」
「つまり、この部分を削り取ればあの煩わしい神託はなくなるって事か?」
「その通りです。しかしながらお勧めは致しませんよ将軍」
「……その理由は?」
「証に刻まれている術式の全てを解明できていないからです。勇者の証は精緻な魔法式を用いて図形となっているモノ。複数の魔法式を積層のように重ねることで一つのものになっておりますので、もしここに何かしらの手を入れて何が起こるかは正直不明なところです。何も起こらないのかもしれませんし、それこそ妙な反応を起こすのかもしれない。それさえ予測できていない現況、何かしら手を入れるのは愚策でしょう。最悪、そのまま死んでしまう事さえありうるのですから」
「……確かに、死ぬのは勘弁してほしいところだ」
「では、もうしばしお待ちください将軍。必ずや全てを解き明かして見せますので」
「わかった。首を長くして待つとするさ。……それで? 他の魔法式の効果は?」
「今のところ解明できた効果は三つ。一つ目が神託の受信、翻訳システム。二つ目が肉体の成長方向の適正化、三つめが勇者が死亡したときにその屍を魔力に変換し、それをどこかへ送るシステム」
「一つ目、二つ目の意味は分かる。だが、三つ目のそれはいったい何の意味があるんだ?」
「わかりかねます。只人種の肉体を魔力に変換したところで、大した量が望めるわけでもありませんし、今のところは完全に謎です」
「勇者の体を調べられないようにするためのモノじゃないの?」
リアヴェルの言葉にエイサが首を振った。そして、自身の所感を伝える。
「死んだ瞬間に肉体を炭化させてしまえば済む話だ。勇者の証を消すだけならそれで十分だろう。確かにこの証はちょっとやそっとじゃ消えはしないが、体ごと燃やし尽くしてもいいって前提ならもっと簡単に失わせる手段はある。わざわざ魔力に変換する意味がない」
「意味はおそらくあるのでしょう。ここまで精緻な魔法式を刻む女神が、無駄な魔法式を仕込む理由がない。全知全能の女神の権能。これがその一端であるであれば、そこには必ず理由があるはずです」
「ならば、それを解明するのはお前の仕事だエルメルダ。やれるよな?」
「無論。必ず解明し、魔王様と将軍に伝えますよ」
その言葉にエイサは満足げに頷いた。そして、そのまま立ち上がると、エルメルダの研究室を後にしようとする。
「……それで? 魔王様はどうするんだ?」
「私はもう少し、この資料を読ませてもらうわ。読み終わったら城に戻るから、先に戻っていて我が剣」
「了解。ああ、それとエルメルダ。一つだけ訂正事項がある」
エイサの言葉にエルメルダが首を傾げた。魔法式においてエルメルダは魔王軍屈指の知識を持つ。その彼女を相手にエイサが魔法式絡みで何かしら訂正する様な事があるとは思えない。であるならば、それ以外の事だろうが、今は魔法式絡みの話しかしていなかったはずだ。
「なんでしょうか? エイサ将軍」
「女神を全知全能といったがな、あれは間違いだ。少なくともあいつは俺を勇者にできなかった。ならば、その時点で全能ではないさ」
思い返すのは槍の勇者の言葉。
あの男はエイサを主人公と呼んだ。
その意図を未だに正確につかめてはいないが、少なくともこの状況は女神様にとっても想定外の事に違いはない。その時点で女神は全知全能には程遠い。エイサ自身が女神が全知全能ではないことの証左だった。
「そうでもなければ、俺たちに勝ち目がないことになる。違うか? エルメルダ」
そんな風に言うエイサに対してエルメルダは苦笑を浮かべた。そして、扉を開けて出ていくエイサの背中に向かって頭を下げながら、一言だけその背に返した。
「はい。その通りです。我らが将軍様」
それは神の定めた摂理にすら反逆する男への、限りない称賛の念を込めた言葉だった。