二十五話
鍛錬上の手合わせを終えたエイサは、砦の頂上にある物見台のさらにその上の屋根にて周囲を見渡していた。
漆黒の鎧を身に纏いながら不安定な足場をまるで感じさせず、周囲の地形を一望して把握していく。
夏とは思えないさわやかな風が吹き抜け、太陽に焦がされた鎧を優しく冷やす。
遥か遠くの場所で炊煙が上がっているのが見えた。
おそらくはあそこが王国軍の駐屯所だろうと、あたりをつけながら、千里眼に等しい視力で敵軍営を確認する。物資が運ばれ、何やらあわただしく動いている。多くの物資が運び込まれているのが、遠目ながらも確認できたことで、モンリスの言葉が当たったことをエイサは確信した。
「見えるんですかい? 将軍」
不意に下の見張り台より顔を出したモンリスがエイサに尋ねた。
その問いに答えながら、屋根を伝い見張り台へと戻るとその問いに答える。
「おぼろげにだがな。……しかし流石だなモンリス。どうやらお前の予想は当たりだ」
「と、いいますと?」
「軍需品の運び込みが行われているのが見えた。食料、武器、そして兵士。大規模攻勢の前触れだ。勇者が来るにあたって、ここの砦の奪取も狙っているらしいな」
「ふむ。やはりですかい」
「どうした? 予想が当たったんだ。少しは喜べ」
「大規模攻勢が向かう矛先の砦にいながら、それを喜ぶってのはなかなか難しい事ですがねぇ」
「安心しろ。ここの部隊は精鋭だ。勇者を押さえれば、どうとでもなろうさ」
「まあ、本来はそれが一番難しいんですけどね」
「だが、それが俺の役割だ」
「そいつは知ってますが、大丈夫なんですかい? また一人勇者一行に合流したって噂も聞こえてきていやすが?」
「ほう? そうなのか」
勇者の話題にエイサは食いついた。
その様子に真剣な表情でモンリスは頷いた。
「なんでも、エルフ領の弓使い。それに女神の証があったらしくて、同盟の約定の中にそいつが勇者一行に加わるって一文があったらしいっすよ?」
「エルフねぇ。……しかしよくお前もそんな情報をさらりと手に入れてくるもんだ。そいつも街に入り込ませている小鬼どもの情報ネットワークって奴なのか?」
「いや、こっちは賄賂を贈ってスパイに仕立て上げた王国の下級官僚からの情報っす。いやはや、人間の欲は尽きないってもんですなぁ。……ああ、ご安心を複数の奴からおんなじ内容の文章を入手してあるんで、裏取りもばっちりっす」
そう言って笑うモンリスにエイサはため息をついた。
そして同時に思う。
「つくづく、お前が味方でよかったよ、モンリス」
「へへ、そいつはお互いさまでさぁ将軍」
二人はそう言って互いに微笑を浮かべた。
互いに互いを利用し合う間柄。しかし、そこには確かに絆らしきものがあった。互いに利用価値がある限りは裏切らないという信頼。それを絆というのであればだが。
エイサは物見台より下りるために手すりに足をかけた。
それを見てモンリスはエイサに一つ聞く。
「どこにおられますかい?」
「鍛錬場だ」
「わかりました。いつも通りって事ですね」
「ああ」
そう告げて、エイサは物見台より飛び降りた。
地面まで十メートル以上の高さがあるが、この程度で怪我をするような軟な鍛え方をエイサはしていない。音もなく地面に降り立つと、そのまま鍛錬場の方へと歩いていった。
そんなエイサの姿を見てモンリスは口笛を吹いた。技量により完璧なダメージコントロールを成す彼の技巧に対する称賛のそれだ。無意識にそれを出させるほどに、降り立つ姿は美しい。人でありながら、人のまま、人を超えたもの。真似できぬ絶技を何でもないように行う彼には嫉妬心さえ浮かばなくなっていた。
「ま、こっちはこっちでやるべきことある。こっちのやってることにいちいち口を出さない、猜疑心を抱かないありがたい上司様だ。俺っちもやれることはできる限りさせてもらいやすかねぇ」
無論、利用価値がなくなるその時までは。
そんな狡猾な事を考えて、モンリスは邪悪な笑みを浮かべた。
そんな風に考えていることをエイサは既にお見通しであること承知の上で。
鍛錬場での鍛錬にもいろいろとある。
ただひたすらに武器を振るうのも鍛錬であるし、相手を見つけて打ち合い続けると言うのも鍛錬であり、集団行動を行うために、連携を確認する事だって立派な鍛錬だ。そして現在のエイサのように心を静め、自らの内にある力を練り上げるための瞑想も立派な鍛錬の一つだ。
外界を遮断し、自らの内に沈み込むように集中を高めていく。
足らぬ魔力を高めるための鍛錬方法のひとつであり、同時に世界に満ちる魔力を感じ取りそれに触れることで、自らが操れる魔力の限界値を引き上げる。魔術師が行う最も基礎的な鍛錬をエイサは好んで行っていた。
そもそも、エイサに魔法使いとしての適性はそれほど高くない。肉体の内に秘める魔力量がそれほど大きくないためだ。無論積み重ねた鍛錬により一般的な魔法戦士や聖騎士よりは余程秘めてはいるが、それでも本職の魔法使いと比べると、その量において負けているし、いわゆる超越種と呼ばれる種族や、闇妖精や悪魔族と比べると、その魔力量は微々たるもの言える。
それでもエイサはこの鍛錬を好んで行っていた。
外界を遮断し、自らの内に入りさらなる神髄へ至る。
この鍛錬が魔力量の増加以外に魔力操作能力の向上や、それ以外に自身の集中力の強化につながることを、身をもって知っているからだ。内に秘めるあふれだしそうな激情を操り、ただ一点にのみ収束させる。荒れ狂う心情の海を静め、一点に収束する。燃え盛る憎悪の炎を押さえつけ、心の中の平静を取り戻す。
その様子を周りの者たちは遠巻きに見ていた。
鍛錬場の片隅でピクリとも動かないエイサの姿は、ある種静謐さを感じさせる。大地と一体化し、自然の中に自身を溶け込ませることで、心技体の合一を図る。その光景はただ座って座禅を組んでいるだけだと言うのに美しくさえあった。
時間がたつ。
一時間、二時間、三時間。
日が傾く。
夜になり、そして、朝が来る。
その間一切の微動すら行わずただ自然と一体になり続けたエイサは、不意に目を開けた。
そして、不快そうな口ぶりでポツリとつぶやいた。
「チッ……シャロンの奴が来るのか。……まあ、最前線。ガス抜きが必要な事は知っているが、わざわざ俺がここに滞在しているときに来る必要はあるまいに。……いや、あいつならい嫌がらせのつもりで来かねんか」
そう言うとエイサはその場より立ち上がり、一度だけ大剣を振るった。
その場で一回転しながら振るわれた斬撃は空を割き、同時にエイサの鎧を汚していた砂などを弾き飛ばす。そうやって汚れを落とした後、気は進まないとはいえ、同じく十二将の一人、顔を見せぬわけにもいかず、不機嫌ながらも彼は指揮官室へと歩いていった。
シャロン・オフェルキス。
魔王軍十二将、第十二将軍。
淫魔族を統べる淫魔の女王。魔王軍随一の美貌を誇る、可憐にして豊満、清純にして淫蕩、誠実にして邪悪なエイサが苦手とする数少ない女の気配が、確かに指令室より感じられた。指令室に近づくたびに、際どい恰好をした少女たちが、蜥蜴族の男を誘惑している姿が目に見えて増えてくる。それが彼女たちの役割であると言えど、風紀を乱すことだけはやめろ、といわんばかりに舌打ちが漏れた。
「あら、お兄さんも遊んでいかない?」
「用がある。後にしろ」
不意に彼に声をかけてきた女がいた。
官能的な恰好、文句のつけようのないスタイル。整った美貌に背後に見える悪魔の尾。淫魔族。魔王軍において唯一戦闘能力を殆ど所持せず、されど将軍位にまで上り詰めた理由がこれだ。戦場における女の供給。その役目を一手に担っている一族。
戦場における昂ぶりを解消するために女を抱くという事にエイサは理解を示さないではないが、自分自身に関わってほしいとは欠片も思わない。そんなことをして昂ぶりを収めるつもりなど彼にはないからだ。戦場での昂ぶりを、そのまま勇者への殺意に変えてその憎悪をさらに募らせていく。
「でもぉ、お兄さん……」
「後にしろと言ったぞ」
誘惑の魔力が込められた言霊をたった一言で切って捨て、殺気を込めて女を睨む。ただそれだけでその女は腰が抜けたのかぺたりとへたり込んだ。それ以上何も言うことなくエイサは指令室へ向かおうとすると、ちょうどその時指令室から出てきた女と目が合った。
金髪に青い瞳。口元に浮かべる微笑はいたいけな子供の用で、同時に酸いも甘いもかみ分けた大人の用でもある。年の頃は若く見れば10代前半。もしくは20代前半、もしや20代後半、はたまた30代に見て取ることもできる年齢不詳。あらゆる年代の美貌を内包する、男の夢が具現化したかのような女だった。
「あらら、駄目だよ将軍。女の子には優しくしないと」
「ああ、悪かったよ。お前が来ていると知ってな、挨拶をと思って急いでいたのさ。許せ」
「うーん。ま、将軍様に軽々しく声をかけちゃったのはこちらのミスだし? 私と一晩過ごしてくれるなら許すとしようかな」
そう言って女は蠱惑的にほほ笑んだ。
そんな彼女に向かってエイサは肩を竦めた。そして当然のように断りの言葉で返した。
「悪いな。夜は用が入っている。お前と遊んでいる暇はない」
「そう? どんな用事? 少しの間なら待ってるけど?」
「鍛錬って用事だ。一晩中続ける。少なくともお前がここにいる間はな」
「はは……相変わらずつれない人だね、エイサ将軍。私の誘惑を受ければどんな男でも、すぐに飛びついてるのが普通なのに、君だけは一度たりともなびかない。……あは。自信なくしちゃうなぁ」
「そうかい。そいつは悪かったなシャロン将軍」
「気にしてないさ。いつだって君はそうだ。魔王様でさえ手こずる君が、そう簡単に落ちてくれちゃつまらないからね。また、我々の軍をごひいきにお願いしますよ。エイサ将軍
そいうとシャロンは自らの部下を引き連れて、自分たちにあてがわれた場所へと向かっていった。それを見ながら、エイサは厄介な時期にこの砦に逗留することが決まったものだと、頭を掻いた。苦手な相手としばらく陣を共にする。その事に盛大にため息をつくと自らの副将を呼んだ。
「モンリス」
「へい、お呼びで?」
「ああ。シャロンはいつまでここに逗留する?」
「聞くところによると一週間ですが。どうしてまた? シャロン将軍のお誘いを断られるとは、随分ともったいないことをされておりましたが?」
「気になるなら、紹介してやろうか? 俺の推薦だと言えばお前も褥に呼んでもらえるぜ?」
「はは……ああまで怖いお方と褥を共にするなど、金を戴いても無理でさあ。それなら、金を払って安い、そこらの人間の娼婦に手を出す方が百倍マシですとも。閨で男が勝れぬ相手、極楽浄土へ連れて行ってくれるとは言え、そんなのは楽しみがないじゃないですか」
「そうかい。お前が良いならわざわざ紹介するつもりもないが……」
いいながらエイサは再び鍛錬場へと引き返す。
埃っぽいごみごみした場所を、あの娼婦たちは嫌う。
ならば、そのあたりにいるのが一番接触をしない方法だとあたりをつけたためだった。
「しかし、将軍。シャロン将軍の事を露骨に嫌ってましたけど、何かあったんですか?」
「あいつが嫌いなんじゃねーよ。あいつと同じ戦場にいると、魔王様が非常にご立腹なさる。それが嫌なのさ」
「ああ、成程。理解いたしましたよ将軍」