百三話
キヨウの北に位置する森林部にて、エイサはヴィデネアと共に息を潜めて待機していた。
いまだキヨウ自体の制圧は終わっていない以上、この場にいる事でさえ魔族の分類に組み込まれるヴィデネアは、女神の結界の影響により気分が悪そうに見える。その気分の悪さをエイサは人間であるため理解できないが、ヴィデネアの様子を見る限り戦闘行動自体がギリギリできるかどうか程度。それこそ、走って飛んで殴り合う事は難しそうな状況に見えた。
「行けるか? 将軍」
「女神の結界内にての戦闘行動。それを成そうとはまた、随分と酷な事を言う。動けて一度きり、それで構わぬのであれば、どうにかしようとも」
「何、動くの一度きりでいい。俺が突撃した後にその道に向かって、火精共には全力で炎を放たせ、風精共にはその火を全力で煽らせろ。後は俺がどうとでもする」
「奴ばらの数は三千。対してこちらは僅かに七百。この戦力差でよくぞまあ、そこまで自信を抱くものだ将軍。貴公の腕前、存分に見せてもらうとしようとも」
「ああ。そうしてくれ。と言っても俺の狙いはただ一つ、王弟を守る勇者共の首のみで、それ以外にまるで興味はない。敵兵を散らした後の事は適当にどうとでもなるだろうさ」
そう言うとエイサは自身の愛馬の首を優しく撫でた。
戦場の空気に充てられて、僅かに興奮した様子を見せていた彼の愛馬、陽炎はエイサの手によって撫でられることで、その興奮を抑え甘えるように嘶いた。普段、甘えん坊のこの子が戦場では自身の手綱に従って一体となるが如く走る様はまさしく名馬そのもの。ソニスが自身の血を与えたことにより吸血馬とかした彼の馬に並ぶ力を見せるのは驚きではある。
「来るぞ」
「まだ見えませんが、貴公が言うのであれば」
森の静けさの中、手信号でヴィデネアが背後の自身の部隊の者たちへ命令を送る。
静かに、炎を放つ準備を整えた背後の部隊の様子を見もせずに感じ取ると、エイサは背に負っていた剣を抜き放った。そして、そばに付き従う自身の副将へと声をかける。
「モンリス。引き時の判断はお前に任せる。俺に構うなよ」
「へい。将軍の事を心配出来る程、あっしは自分の事を信用しておりません。仕事を終えたと見るや否やさっさと退かせてもらいます。……将軍も、ご武運のほどを」
「は。誰に物を言っている」
悠然と笑みを浮かべたエイサの様子にモンリスも笑みで返した。
そしてそれからしばらくと経たないうちに、行軍している部隊が見えてきた。
数はモンリスが調べてきた通り三千。向かう先はキヨウの北。キヨウが制圧された際に、北を抜かれ海まで抜かれないようにする為の背後守備のための部隊。その部隊の統率者として王の弟が選ばれ、その護衛に勇者が付いているとの情報をモンリスが得てきたために今回の作戦となった。
モンリスに曰く。
「ここでこの部隊を叩いておくことで、王国側に魔王軍が王国の東西分断を狙っていると思わせるための作戦です」
とのことだが、戦略的な観点などエイサにはどうでも良いことだ。
狙うはただ一つ。勇者の首、それのみ。それを狙える作戦であるのであれば、エイサに否は無い。ヴィデネアの部隊を引き連れてきたのは、彼との顔つなぎをモンリスが望んだからであり、同時に火をつけて逃げるだけならこれ程うってつけの部隊は他にないという彼の提言を聞いての事だ。
「それじゃあ、行くか」
まるで、散歩にでも向かうかのような軽い言葉と共にエイサは陽炎の腹を叩いた。
それに応じて軽い足取りで、陽炎が森より躍り出て、僅か数歩でトップスピードに乗る。
蹄が大地を踏みしめる音が響き、速度を上げて突っ込んでくるエイサの様子を見て取った王国兵が止まるように、エイサに向けて警告を放つが、その言葉を完全に無視してエイサは陽炎へと軽く鞭をくれてやると、陽炎はその鞭に従ってその俊足を発揮して見せた。
警告に従わないエイサに向けて弓矢が向けられる。
とまれの警告と共に放たれる威嚇の一撃に一切ひるまぬ陽炎の勇猛さに、エイサは小さく彼を誉めると同時に、二射目の本命の一撃を自身の剣で叩き落した。
その様子を見て王国兵たちも、エイサの事をただものでは無いと判断したらしい。歩兵が前に出る、弓兵が矢を構える、魔導士たちが呪文を唱え始める。
だが、それらの動きは余りにも遅い。
王国領内で、女神の結界下で奇襲を喰らう事を想定していなかった部隊の動きの鈍さは、エイサの前には余りにも致命的な隙だった。
放たれた弓矢を全て右手の剣で叩き落し、止めようと前に出た歩兵の首を撥ね飛ばし、魔導士たちを蹄の下にかけ散らすと同時に、部隊の中腹へと食い破るように突撃する。
エイサの一薙ぎで数名の首が跳ね飛び、それと同時にエイサが突撃してきた森より数多の炎が降り注いだ。
後ろのヴィデネアが率いる精霊種。その中でも火霊たちの放つ炎による援護射撃だ。エイサごと焼き払う様に放たれるその灼熱、それに加えて風霊達が起こす風による煽り受けたことにより絶大な火力となって降り注ぐそれらは、本来味方に向けて撃っていいような火力のそれではない。だがその凄まじい火力をエイサは、自身の剣を振るう事でしのいで見せた。
その光景は神話のそれに等しい出来事だ。
風を纏った炎は嵐となって戦場を舐めるように広がっていく。
肉の焼ける地獄絵図が繰り広げられていくその一撃を、僅か剣の一振りをもって割断する人の技に指揮官として森よ見ていたヴィデネアは言葉を失った。そしてそれと同時に理解する。成程、あれ程自信満々なわけだ。あれ程の力量があれば戦場で死ぬことなど考える必要もあるまい。よもや、只人の身で自然災害に等しい悪夢を切り開くとは思ってもいなかった。その上で、自身が被害を受けないように切り開くことで、敵陣にのみその被害が拡散するように剣を振るうなど、どれ程まで武芸を極めていれば成し遂げられるのか、ヴィデネアでは想像すらつかない。
「ヴィデネア将軍」
「あい分かった。これよりエイサ将軍。……我らが筆頭将軍殿に任せて我々は引くとする」
「了解でさぁ。これより案内します。このままここに残っていると向こうさん側に捕捉されかねませんしね」
「かの者があれ程までに暴れているさなかに、こちら側を補足する余裕など向こうにはあるまいがな」
「いえ、そうとも限りませんぜ?」
「疑義を抱いた。奴ばらの指揮官はそれほどに有能なのか?」
「いえ、指揮官、王弟はそれほど優秀って話を聞いちゃいませんが、奴さん側には勇者がいる。将軍と言えど勇者と戦闘に入れば、ああまで無双し続ける事はむずかしくなりますから、こっちの援護へいを潰すように動く余裕は出来るでしょう」
「驚愕。あれ程の暴勇を止めうる人型がまだ他にもあるとは、いささかに信じがたいな」
そう言うとヴィデネアはエイサが縦横無尽に敵陣を引っ掻き回す姿を眺めた。
凄まじい力量をもって、目の前に立ちふさがるものを一合の果てに切り捨てる、暴力の化身。アレは災厄の類だ。アレは戦場における禁忌の類だ。
王国側の兵士の力量、練度はそれほど低いものでは無い。
基本的に、兵士職を専制とする王国の兵士たちの練度は並ではない。勇士と呼ばれる類の武芸者もちらほらと見える。戦場が違えば、その戦場を支配する星りえる勇士。そんな勇士を相手にしてなお一撃以上持たせることのないエイサの力量がどこまで隔絶しているのか。彼の愛馬、陽炎との一糸乱れぬ呼吸も相まって、人馬一体の極みがそこにはある。
「とにかく早く、そろそろ来ますぜ」
「ふむ、分かった。しかし……」
撤退の指示を出して森の奥へと移動を始めた自身の部隊を見送って後にヴィデネアはもう一度だけエイサの戦姿を眺めた。そんな彼に躍りかかる二人の戦士の姿も遠目に。その二人より放たれる圧倒的な聖なる気配。それを見てあれが勇者だと確信して戦場に轟音が響く。
エイサと勇者が己の武器をぶつけ合った際に発した音だ。
その音は遠くまで響き渡り、撤退するヴィデネアの部隊の面々を驚かせた。
その凄まじい轟音を聞いてヴィデネアは納得する。
「成程、アレが勇者。良く分かった。道先の案内任せたぞ、筆頭殿が副将よ」
「へい、見失わないようについてきてくださいよ」
そして、勇者とエイサのぶつかり合いに巻き込まれないように、さっさとその場を後にした。
後ろよりは再び轟音が響く。
それが、人同士がぶつかり合っている音だと、自身の目で見てなおにわかに信じられない気持ちを抑えながら。