乱の41 逃げるも大事
赤い軍服が迫ってきていた。「イハル、あと少しです!」ジャックは年甲斐もなく森の中を走りながら、まだ幼さの残る少年と共にいた。
「そこ、気をつけて」
おう、と元気のいい返事の後を、草木をかき分ける音が追ってきている。ぴょんと元気にイハルが飛びあがった。
大きな木の裏に回って、まだ走る。敵は視界を木に邪魔されて、こちらがどこを走っているか見えなくなったはずだ。それに気を取られて、きっと足元への注意がおろそかになるだろう。ほら。
「いっ!」
「いた、なんだこれは。いた……っ罠?」
横に避けて敵を見る。
よし、上手くいっている。
あの大樹の手前の足元に大量のトラバサミを仕掛けておいたのだ。足にがっちり食い込むトゲトゲの鉄は、一応歯を小さめにしてあるが、しばらく動けなくなるだろう。外すの大変だし、痛いし。
ちらちらと光が差し込む森の中で立ち往生している。ほっとして進む速度がゆるくなっていく。後から来たイハルと並んだ。おや早い。でももう慌てなくても大丈夫だよ、と想いをこめて笑いかけた。
「ジャックさん?」イハルの呼吸は安定している。だが余裕はない顔に、怪訝そうなものを滲ませて見返してきた。
あれ、なんでそんな顔?
――あ――『ジャックは油断して気ぃ抜きそうだなぁ捕まるなよ』と開戦前の地下広場で皆に笑われた、その通りにするところだった。完全に油断してました。
眉間を寄せるイハルが後ろを見る「うお」まだ幼い肩を震わせた。
「もう来てるよ! ジャックさん急げ」
あれま、言われて見れば本当だ。まったくの元気いっぱいで追いかけてくる兵士が二人もいる。二人の後ろには大樹だけがそびえているから他の兵士はトラバサミにもたついているんだろうに、二人だけ。なんで?
「あいつらは引っかからなかったんだ」
イハルはギダリ虫をかみつぶしてしまったような顔をした。虫歯を治してくれるギタリ虫。間違って噛むと死ぬほど苦い。
「なるほど、皆ひっかかるものだと、ばかり、思って、ましたよ。かしこいなぁ、将来が楽しみですね」
はは、は、笑い、ちょっ、と、苦しい。でも笑っちゃう。
イハルは、釣り目を見開いてそっぽを向いた。照れてる。青いな、青春だなぁ。はは、は、はぁ、はぁ、くるしい。笑わせないで。
「なに、何を笑ってんだよジャックさん。本気で逃げないと捕まるぞ」
「はいはい、はい、と」
残る元気を足に込めた。木を避け避け走る。年甲斐と言うほど年寄りでもないんですけど、運動能力は残念なものだから、ここはやはり適材とは言えない配置だと、思うな……おとりはやらせてくれと言ったのは自分だけれど。
まぁしかし運動音痴でも出来ることはできる。敵を罠へ誘導するならだれにもできる。自分がはまらないことに細心の注意を払いさえすれば、むしろ音痴なほうが敵に油断をさせるから引っ掛かりやすいだろうとは運動得意な皆さまのお言葉。
この近くだと落とし穴がその口に落ちてくる者を待ち構えているはずだ。記憶を頼りに赤い印を探す。顔を動かさないように目だけで……探すのはけっこうつらいですね。と、あったあった。
「イハル、こっちです」
敵に気付かれないようにゆっくり方向を変えていく。急に方向転換するなよと、きつく言い含められている。
この先だ。敵に知られたくない都合により穴は浅いがベタベタのトリモチが大量に入っていて、さながら死に物狂いで獲物を捕らえる肉食植物のごとき執念の粘着質で、獲物が抜けだす邪魔をする。
目印が見えてきた。よし、と内心で笑った時、城がある方から大きな声が聞こえてきた。
「戻れ! 戻れ! 戻れ!」
つられて振り返る。だが反乱軍の知らせではないと思う。知らせがある時は、鳴り矢を飛ばす手はずだから。
同じく声に惹きつけられるようにして兵士たちの動きが止まっていた。
気の抜けないこちらとしては走り続けながら振り返り振り返り見ていると、赤い軍服はこちらを一度みてからサッと踵を返した。
なにあれ。こんなときに思うべきことじゃないが、カッコイイ。サッて、反転した。カッコイイ。ヒーローなら身につけたい仕草だ。後で練習しよう。
苦しい呼吸にまた笑いを混ぜつつ、今はとりあえずもう逃げなくて大丈夫なのかな、と足をゆるめながらイハルの茶色い瞳を見る。いやいやまだ逃げようよ、と言うかのようにイハルが首を振る。ならそうしよう。恥ずかしながら自分よりイハルの方が賢い。
さらにしばらく走ってから、二人並んで木陰に隠れた。草の背が高いから身を隠すのに困らない。
お互いに口を利かずに耳を澄ます。
夏の虫がギーギーと騒いでいる森を抜けた向こう側に足音があるようなないような、城の周りにいる兵たちの気配をうすらと風に乗って感じられた。距離がありすぎて、城でいま戦いが繰り広げられているというのが想像しにくい。ギーギー虫が鳴いている。反乱なんて終わっているかのようだ。そんなはずはないのだけれど。
「オトリに気付かれたんかな」イハルが声をひそめて言った。
「かもしれませんね。だとすればヒーローの出番はこれまでです」
自分も転移で中に行きたかったが、弱いからダメだと言われた。皆に。アリスさえ、迷いなく同意した。そうだね、って。まぁ、そうですけども。
「あとはオトリ仲間と合流して逃げるだけですね」
「ちぇっ、俺も中に行きたかったな」
「そうですか。なら、本当に人数が必要な時には迎えに行きますとクローが言っていましたから、どうしても行きたいなら、イハルもその時に行きましょう」
イハルの日焼けた顔に喜色が浮かび、ぶわっと顔面に広がって、こっちまで嬉しい気配に満たされた。
彼も理由は違うが同じだ。未来ある子供だから中へ行くのは許されなかった。納得するしかない理由だ。しかし納得したくない理由だ。
「やった! そうか、やった! あの魔術師、生意気だから嫌いだったけど今好きになったよ」
はは、とジャックは笑ってしまってから、ハッと自分の口を押さえる。う、苦しい。まだ普段の三倍は空気が必要です。
少し手を離した。
「しー。声が大きくなってますよイハル」
あ、とイハルも口を押さえる。体のわりに大きな手の甲が見えた。細かな傷がついている。稽古中につけたものだろう。かさぶたの取れかけている古いものばかりだ。最近は怪我をしなくなったのだ。それだけ技術が上がっている。
「そうだった。ごめん」
「私もごめんなさい、イハル。期待させてしまってから言うのも申し訳ないのですが、私はクローが来ないことを願っています」
「えー、なんで。戦いたくないの? おっさんだからもう疲れたの?」
既に息が整っている若人が言う。
「い、いえ、それもありますけど」
ギーギー鳴く声に覆い隠されて、剣のぶつかり合う音が聞こえてくる。城の中から聞こえてくるのか、自分たちと同じオトリが逃げながら戦っている音か。かすかな音では判別がつかない。
城に行った皆はまだ生きて戦っているだろうか……。
「私が呼ばれる時は、仲間がたくさん、死んだ時ですからね」
「……そっか。そうだな。じゃしょーがねぇな。言われたとおりに俺らは逃げようぜ。ジャックさん」
イハルは口を押さえていた手をどけて立ち上がる。警戒に振り返るも、表情を変えないままにジャックを手引きした。
今は地味な格好のヒーローも後に続いて走りだす。そっと振り返った場所には森しかなかった。
「上手く、いきますように。……カイム、頼みます」
遠い城へ願いを飛ばし、背を向けた。
ロウ、ケミス、レイゲン様。反乱に関することでみんな死んだ。
今日また何人も死ぬだろう。下手をすれば自分も死ぬかもしれない。
カイムぼっちゃん、それでも君は生きなさい。何人死んでも、仲間がいなくなっても、一人になっても、君は、君だけは。ロウとケミスと、レイゲン様の意志をつげるのはきっと君だけです。そう感じるのです。
私には頭がありません。ダンクには熱意がありません。グレンは何かが違います、きっと目的が違う。他の仲間にも、それぞれ違う。三人の意志を継げるのは君だけなんです。意志を終わりにしないでください。三人をいなかったことにはしないでください。国がどうとか、私は本当はぜんぜん分かっていないんです。私には理解が及びません。私はもしかしたら、ただ三人がしたかったことを実現して、三人が存在したことを証明したいだけかもしれません。
そのためにはカイム、君が必要なんです。だから君だけは生きてください。生きていれば何度でもがんばれます。何度でも。何度でも。カイム。
*
カイムは白い廊下を見ていた。城内侵入は彼の組が最後だ。転移しつづけた黒服の少年は疲れきってうなだれている。
大気そのものが叫び声をあげているような戦場の音も、少し遠いここでは薄れて聞こえる。恵みの雨が窓や屋根を叩く音が、騒音で消されずに、耳まで届いていた。
白い壁と白い床。そして赤い線が映える景色は、昔の記憶をよみがえらせる。幸せな気持ちが胸に広がっていた。
あのころは、国に逆らうなど、思いもしなかったな。
カイムは微笑をこぼし、次には顔を引き締めた。
思い出が映っていた脳裏に城の地図が浮かび上がってくる。
「あちらだ」
仲間がうなづく。
「……クロー、外を、頼む。それを終えたら迷わず逃げろ」
少年は顔をあげて、ほっと肩を落とした。
「そうさせてもらいます。悔しいですけど」
「すまん……たのむ」
それを最後に背を向ける。四人の仲間も後に続いた。この最後の隊は、実践たいには珍しく全員が貴族だった。行方不明の貴族たち。みんな幼いころから英才教育を受けている。政治も、経済も、戦いも。彼らは戦いを特に。貴族校で予言師シラ・ラフィートや騎士ルーファス・オヴァールと共に学んだ者もいる。あまり関わりはなかったが。
白い廊下の中を血管を模した線をたどる。遠回りをしてもどこを通っても、必ず心臓部へ、王のもとへ続いているこの線は、英才教育を受けた者は感動とともにそれを知る。そして王への羨望と忠誠心を強めるものだが、何事にも例外があるもの。
『それでは、心臓が悪くなったらすぐ危険に……なるんですね。大変だな王様、つらくないのかな』
カイムの脳裏に、幼いケミスの言葉が現れた。
さして気にしていなかった言葉。けれど今思い出すということは、カイムがここを走ることになった理由の一つには、なっていたのかもしれない。
他の子息たちは何か考えただろうか。
全部終わったら、聞こう。と思い、意識から消した。
遠く、廊下のどこかから声が響いてくる。おらぁ、とか、おおお、と戦いの最中にあるのだろう叫び声。それに意識を取られてこちらには敵が来ないうちにと、カイムは角を曲がった。向かうはまっすぐ司令塔へ。そこに王がいなければ玉座の間へ。そこで隠し部屋を壊す。
戦上手な王は玉座の間になどいないだろうが、隠し部屋には王が守るべき物がある。魔防壁があるから、王側にはこちらの動きがすぐ伝わるだろう。必ずやってくる。それが何かは知らないが、王にとっては大事なものらしい。父が、そう言っていた。
そこで王と対峙するとき、全てが決まる。説得しても、王がダリシュを信じ、タルタスの王女を諦めぬなら。もう……。
その時にグレンが間に合わなければ、この隊で王と戦うことになるだろう。むしろそれを願う。彼が間に合えば一対一で戦わせる約束だが、間に合わなければ関係がない。
わざとグレンに別の仕事も与え、あげく多勢に無勢で、卑怯と言われようとかまわない。確実に勝たねばならないのだ。卑怯なのは王も同じ。王という絶対の権力で何人殺してきたか。悪人を殺す罪は全ての権力者につきものだが、善人を殺すのは暴君だ。
また角を曲がったとき、扉を守る兵士が見えた。番兵がいるとは、間違いない。あそこが司令塔だ。
赤い服の上から着る鉄鎧は、窓からの陽光でにぶく光っている。遠目ながら、兵士の様子がよく見えた。瞳はまっすぐ前を向いている。青か、緑か、はたまた黒か、分からない目は不動のまま前を見ていたのだろう、動く気配がない。しかしそれは前振りもなくすっと動いて、待っていたようにカイムと会った。兵士は当たり前であるかのよう、静かに、剣を構えた。
カイム達が剣を抜いても、敵の構えと眼差しに影響はしない。
……戦い慣れしている。
ふ、と気がひきしまる。心身から、無駄にあった力みが消えていくのを感じた。
今、目の前にあるものにだけ、意識が向かう。
耳から、窓を叩く雨音が遠のいていった。




