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乱の39 今は亡き友がため


 少しぶりの城の廊下は、相変わらず華麗だった。

 クローと一緒に六人で隠れていた廃屋の、古ぼけた茶色はどこにもない。前を見ても後ろを見ても、汚れのない真っ白と、血管のような赤い模様が続いている。

 本当にこんな一瞬で来られるとは、敵も意表を突かれるしかないだろう。魔術さまさまだ。


 城外での戦闘しかしていなかったせいか、城内は乱というより日常の、安定した気配が漂っていた。閉め切られた窓の外から、剣がぶつかる金属音がくぐもってとどくのと、五人の足音だけが乱らしく廊下に響いている。


 廊下の先に、人が見えた。脇にそれる。近くなって、五人が目を向けた所にいたのは大量の白い布を抱えて固まる侍女だった。きっと負傷した兵のための布だろう。


 ほんの少しだけ顔を上げた侍女とグレンの目があった。彼女は「ヒッ」と口を閉じて、その全身から声にならない声で怖いと叫びをあげる。顔を押し付けられた布は小刻みに震えていた。


 かけるべき言葉が思いつかない。

 何も言えないまま五人が通り過ぎると、耳をつんざく悲鳴が白い廊下に響き渡った。彼女の緊張はいっきにゆるんだのか、滲み出ていた恐怖はすべてを吐き出すように、自分の中から消し去るように、魂からの叫びのようだった。


 声は地下でリースがあげた悲鳴ほど内にこもらず、窓から外へ逃げていくのを五人は聞いていた。白い廊下は同じでも、ここはやはり敵地なのだなぁとやっとはっきり実感した。


「やっぱり……俺らは敵なんだな」

「……そうだな」


 グレンのつぶやきに、背後から渋い声が応じる。一番年上でしっかりしているヴァル兄だ。


「仕方ないさ。行こう」


 角を曲がると、たくさんの侍女がいた。最初に目があった侍女は、よく分かっていない顔で笑顔を返してくれた。

 次に目があった侍女は目を見開いた。

 廊下をふさいでいた侍女は、周りにいた侍女にひっぱられて端にそれた。

 少し遠くにいた侍女は、窓からの光にあたる顔のそばかすが良く見える近さまで行くと、しぼりあげた悲鳴をあげた。それを呼び水にして、侍女たちが一同に騒ぎ始める。


「きゃあああ! は、はん、らん、反乱軍よっ、みんな逃げて!」


「え、なに、兵士じゃないの、え? あ、そうか、服が」


「きゃあああっ」


「騎士様は、兵士はどうしたの。負けたの!?」


 反乱軍は王の敵。王の敵は民の敵。

 分かってはいても、そんなに恐れられるのはどうも気に入らないというか悲しいというか。道を間違えたような気がした、一瞬だけ。


 実際に非戦闘員ばかりのいる生活区の道に入り込んでいるのもあるけれど、誘拐犯が被害者に同情して解放してしまうように、か弱い敵の姿に心が動く。


 けれどすぐにその後ろめたさは今逃げ惑っている奴らこそ感じてほしい、感じてくれ、知ってくれ、変わってくれという言葉になってとめどなく湧いてきた。


 逃げ惑う恵まれたお前たちみんな地方へ行ってみろ。

 疫病のはやっている町へ村へ。今悲鳴をあげた女の数と同じくらいしか、悲鳴をあげる元気のある奴はいないんだぞ。


 そう思った時が、もしかしたらグレンがそれを感じないでいる限界だったのかもしれないし、心の中に詰め込んでいたそれにつながる導火線に火をつけた瞬間だったのかもしれない。


 実家のある村の惨状が目に浮かぶ。

 王都へ来る前に通り過ぎてきた、隔離されて中へ入れない町々の姿も、まるで闇夜に現れた炎のように鮮明に、脳内に現れては寄り集まって、想像の闇を意識をその支配下に置いていく。


 開いていた手が拳になって、圧迫された指が白くなっていく。


 ――逃げるな。目をそらすな! みんな、苦しんでるんだっ。


 グレンの中に生まれた炎は、全身の気に燃えうつって、熱く熱く心をおおいつくしていく。


 ――そうだ。どうしてお前らだけ生きている。


 心を包み込んだ炎は、さらに燃えうつる先を探すように、白い廊下を睨み据えた。


 ――どうして助けてくれない。


 ――おやじの死体の敷布は、うんだ傷の、血と膿に汚れたまま、変えることもできなかったのに。


 ――どうしてお前らだけ白い布にくるまれて、守ってもらえるんだ。


 炎に熱された心から、侍女たちへの同情はふつふつと蒸気になって消えた。

 ああ、もう冷たく静かに敵を認め許容してやることはできないと思った。もうこの炎を突き付けないではいられない。

 そんなに闇のない世界にだけいたいのなら、光あふれる太陽にだきついて燃えればいい。炎にのまれて死ねばいい。


 ――レンは不幸を持ちこんだとして町に殺された。


 ――それを認める王を守って、王の力に守られて。


 ――自分らだけ、いい気になってんじゃねぇよ。


 グレン自身知らなかった。

 こんなにも、地方を見捨てて生き残る者らへの敵意があったことを、これほどの怒りを溜めていたことを、初めて知った。


 ずっと、あるがままを受け止めていたはずだ。

 母に言われたように、司祭に言われたように、あるがままを受け入れていたつもりだ。


 けれど、熱くたぎる怒りがあふれて止まらない。

 きっとこの怒りがあったから、王になって国を変えようと思ったのだろうし反乱軍に接触したのだろう。

 今まではただ気が向いたからで、したくなったからで、自分がいい奴だから善意で行動しているんだと思っていた。思おうとしていた。そう思っていたかった。だが違う。それは違う。そんなできた奴じゃない。俺はそんな聖人君子じゃない。


 奴らが憎い。


 人の大事なものを奪って生きる奴らが憎い。

 自分が誰かを殺すことになってもいい、責められるのもいい、戦いとはそういうものだ、そう思うしかない、それしかない、道がない、話が通じる世界じゃない、殺害の重みを背負ってでも、止めたい。


 変えたいんだ、この状態を、壊したいんだ。


 体が熱かった。意識が研ぎ澄まされて、要点しか頭に浮かばない。


 まるで蛇がとぐろを巻いて冬眠するのをやめ、かすかな意識だけを頼りに獲物を狙って動き出したように、長い脚が走る速度はずんずん早まっていく。

 

「おい」と一緒にいる誰かが驚いたような不思議そうな、とがめる声で彼に呼び掛けても、グレンは速度を緩めることなく仲間との距離を広げていく。

 

 今は戦っていたい。何も考えずに。


 どうしてこんな場所を走っているんだろう。なぜ敵が出てこない。悲鳴を上げられたいんじゃない。怖がられたいんじゃない。戦いたいのに。


 クローが気を利かせて一番敵のいない場所に現れてくれたのが、今ばかりは迷惑にしか思えない。


『この城はもう、いけないところの方が少ないですよ。あの時、僕は逃げ回りながら、床に自分の魔力を詰め込んでいたんです。だから疲れても飛ばないでいたんですよ』


 なるほど俺が外に残してきたばっかりに大変だったんだなとそれを聞いた時は思った、俺が予言師と話している間にどんだけ逃げ回ってたんだあいつはと、グレンの心には少年を外に置いてきた自分の失敗を感じるのと申し訳なく思うのとがあった。今はそんなこと思う余裕は灰になった。


 ――だったら、敵の真ん中にでも現れりゃよかったのによ。


 腹の底で虎視眈々(こしたんたん)と外へ出る隙をうかがう蛇の姿をした敵意が、ぬるりと動いては全身をその思いに絡み取ろうと長い体を伸ばしていく。


 生活臭のする場所を抜けたころ、やっと期待の足音が前方に迫ってきているのが分かって、グレンは敵が現れるより仲間がそれに気付くより早く剣を握った。

 女たちの声が遠く後方へ消えていく。敵が迫ってくる足音と衣擦れの音に向けられた耳は、自分の剣がさやの中を抜けてくる音もとらえて、つられて体の熱はよう増した。


「見つけたぞ、侵入者だ!」


 道の先に赤い壁が現れる。

 十数人はいるだろう。


 ――そうだ、侵入者だ。


 ――あんたらの暮らしをぶっ壊しに来た侵入者だ。


 背後でも剣を抜く音が四つ聞こえた。 

 あと少しで敵を斬れる、その予感に思わず笑みがこぼれた。意識は冷静さを失って燃え盛るまま敵へ言葉を投げつける。


「王の命、この私が貰い受ける! ……なーんて、な!」


「痴れ者が」


 睨みあって近寄る間に、体が勝手に敵との距離を見計り、どう動くが一番効率よいかを、意識と体の間で命令していった。


 脳に届いたその情報が、敵と自分の動く姿が思い浮かぶ間もなく、間合いが重なった敵がまずグレンの胴めがけて振った剣を彼はかわして、そのまま右端の大柄な敵が振りかぶっている剣を払いのけると、空いた胴をなぎ斬った。


 体勢を崩した巨体を蹴り倒すと、後に続く兵が道をふさがれて全体の動きがかすか鈍る。そのほんの刹那せつなグレンから目をそらした敵が一人二人三人、四人、血しぶきを上げて体を床に沈めていく。


「グレン……?」


 入り込むすきをうかがいながら走っていたヴァルは、何か嫌なものを感じていた。


 おかしい。


 こんな戦い方をする奴だったか。

 あいつはもっと、長身を活かしたしなやかな動きをする奴じゃなかったか。


 こんな、飢えた獣が本能と経験だけで攻めていくような、こんなのは訓練中に見たことがない。これが戦場で現れる彼の気質なのか。


 それとも。


 疑念があふれ、意識が飲み込まれそうになる。


 ――まずい。


 悪い癖だ。余計なことを考えて、剣が鈍る。

 ヴァルはグレンから視線を外した。一瞬意識の上から消えていた戦況全体を見る。グレンの周りだけ、まるで見えない壁があるかのように、次々と敵の血が弧を描いては落ちていく。


 ――余計なことを考えるな。


 ――いいことだろ、今は強い味方はありがたい。


 敵の先に角が見えた。あそこを曲がって下りていけば、最初の目的地である、火薬庫だ。敵が爆弾を使いだす前に、そこを爆破する。


 追いついたヴァルたちが加勢する。


 ぽつぽつと、晴れた空から雨が降り落ちて窓をぬらしていく音とともに、城内にもついに数多の金属音が響き始める。


 グレンめがけて振りおろされた剣を受け止め、ヴァルが敵の間合いに入り込んで斬る。その一瞬、敵の身に近くなったヴァルは、これまでの戦場でさえ感じたことのない死の予感に背筋が凍った。


 まだ敵を斬っている途中で、彼は強烈な殺気から逃げて視線を周りに向ける。恵みの雨に濡れる窓のそばで、数人対一人の不利な状態で仲間が戦っている。その中で、ヴァルが身をよじって避けた場所に目を向けていたのは、空に足りない雨雲のような灰色の目だった。


 ほんの一瞬だっただろう。そこを見ていた灰色の目が動いて、ヴァルを映すと、まるで剣筋の邪魔をする岩を確認して通り過ぎるように、敵へ戻っていく。

 短いはずのその一連の動きが、しかしヴァルには敵に斬り殺されててもいいほど時間をかけたゆっくりの動きに見えた。


 逃れられない死に直面したかのように、ヴァルは空にあるべき雲がすべて凝縮されたような色の目が自分の上を通り過ぎていくのを、ただ見送ることしかできなかった。


 グレンの目が視界から消えて、フと短く息を吐く。

 生き延びた。もし身をよじっていなければ、敵と間違われて斬られていたかもしれない。

 全身から冷や汗が吹き出して、深呼吸しようとしたが、世界はヴァルに落ちつく暇も与えず敵からの攻撃を受ける。


 命の取り合いが始まる。自分めがけてくる銀の輝きに彼はハッと剣を構えて、受け止める。剣から伝わる感触に、これなら勝てると思ったとき、周囲の赤服の兵たちはほとんどをグレンたちに倒されて残り六名にまで減っていた。

 赤服の最後尾にいた少年兵の一人が逃げていくのが見える。

 グレンがまた一人を斬り伏せて、道の先を見た。

 ヴァル達が相手取る赤服以外で、いま残っているのは三人。うち一人は実直そうな顔をした少年兵だった。


 グレンは血脂に汚れた自分の剣を捨て、倒れている敵の、まだ血のついていない剣を拾う。

 一歩、足を出しても敵がはむかってくる気配は無い。

 一歩、また足を出す。後ろから戦いの音が聞こえてきて、グレンの血はよりいっそう熱くなっていた。


 剣を構える動きの、空気を斬る音が聞こえた。


 意識が研ぎ澄まされているグレンに睨まれて、殺される、とリューグ少年は思った。


 勝てるはずがない。

 侵入してきたときは、騎士が束になっても敵わなかったんだ。

 相手になるのは王か、ゼオン総隊長くらいじゃないのか。

 敵うはずがない。

 怖い。灰色の目をした獣が来る。

 怖い。ここから逃げたい。怖い。

 でも、戦わないと。

 俺は兵士なんだ。

 国を守る兵士なんだ。


 少年は小刻みに震える手で、自分が持つ剣の切っ先を敵へ向けた。木剣を持っているのではないかと疑うくらいに、向かってくる剣と自分が持つ剣の鋭さが全く別物のように思えた。


 ――大丈夫だ。


 ――俺は戦える。大丈夫だ。


 決死の覚悟で柄を握る少年兵へグレンが近付いていく。

 そのとき、すっと静かに彼とグレンの間に現れた体があった。

 カール……老兵。

 

 グレンは三人のうち唯一、顔から恐れを消している彼に狙いを定めた。しわ深い顔で、じっと静かに隙をうかがっている相手に向かって床を蹴る。


 剣が重なって叫びをあげた。


 音は、耳慣れた者にしか分からないほど少しずつ色を変えていく。グレンが腰を落としたときにはかすれた悲鳴をあげて声を失った。


 老兵の脇腹を真新しい剣が通り過ぎ、赤い血が飛ぶ。


 ぐ、とカールは呻きながら横に転がり逃げると、痛みなど無かったようにグレン目がけて剣を突き出す。それと同時に、様子を見ていた二人もグレンめがけて剣をふった。


 グレンは、突いてきた剣の腹を足の裏で床まで落とし、踏みつけると、体重を込めて折る。迫ってくる二つの剣げきを少年の側へ避けると、まだ小さな手が握る柄を力ずくで払い飛ばした。

 無理に手放された衝撃に少年が身を固くする。


 グレンは残った男の方へ向き、硬直している少年をそこへ突き飛ばした。

 男はかろうじてそれを避けるが、とっさにグレンから目をそらしてしまう。再び灰色の髪をとらえた時には、無機質な髪はすぐそばのところでそよいでいた。

 見えていなくても必ず来るだろう剣撃を受け止めようと、腕に力を入れたときにはグレンの剣が彼の服に触れていた。


 肌に直に触れているかのようだった。

 迫る刃の気配を感じた瞬間、かすかに触れるその場所から血中に冷水が流し込まれたかのよう、寒気が全身にしみ込んできて、体が無意識に逃げようとする。だが、全てが遅かった。


 深く斬り込まれて、膝をつく。

 痛みは薄い。なんとかそこから逃げ出して、視界から消えた敵を探した。見つからない。背後か、どこだ、剣を振りまわす。空をかく。

 どこだ。

 灰色を探して顔を動かした時、柄を握る腕に強い衝撃がきて、奇妙な感触が入り込むのを感じた。

 斬られたか。

 それでも、動ける。

 そう思って振り上げた腕を見た時、さしもの彼もついに動きを止めた。血ぬれた刃が自分の腕を貫通して、動こうとする邪魔をしている。


「な――」


 その一瞬の驚きが決着だった。

 濡れる窓が見えていた目前に灰色の髪が現れると、腹部に重い衝撃が来て、彼の意識は途絶えていった。

 

 ついに老兵が床に伏せる。

 グレンは、老兵がまた動き出さないようにと、敵の太ももに剣を突き通して、抜いた。血はあまり出なかった。

 もう一度別のふとももに刺す。やはり血はあまり出ない。

 意識は飛んだから神経は普通なのだろうが、体はまだ動けるだろうか。


 動けない負傷者こそが戦場での重荷になるのだ。殺すより怪我させて生かした方がいいのだけれど、どこまで痛めつければこの頑丈な男は動けなくなるんだろう。


「うーん……」無事なままにしておくくらいなら殺そうか。


 最後にもう一度、無事な腕を刺しておこう「グレン!」悲痛なヴァル兄の叫びにさえぎられて動きを止めた。

「なに」

「もういいだろ、やりすぎだ」

「どこが。また動いたら困るだろ」

「重傷者を戦わせるほど、国は兵に困ってない」魔術師の治療があるから治りは早いだろうが、と思っても、言わなかった。

「ふぅん。なら、いいか」


 敵が動きそうにないのを確認しつつ、放置していた自分の剣を拾った。

 斬れ味を鈍らせる血脂を布でぬぐっていると、突き飛ばされて気を失っている少年兵を見つけた。

 このままにしておいていいのか、思ったら、ヴァル兄の鋭い視線を受けて怪我をさせるのはやめた。


 まぁ、いいか、子供だしな。

 また刃向かってきたら、そのとき斬ればいい。


 剣をさやに収めるころには、仲間らがそばに来ていた。四人全員いる。負傷者はいなかった。反乱軍の精鋭なのだから当然か。まともに相手になるのは騎士くらいだろう。そうでなければ困る。


 ヴァル兄の実弟トイサンが、晴れた空の下で涙を流す窓を見てから、何の疑いも持っていない様子でグレンの背を叩き、通り過ぎていく。

 

「相変わらず強いなぁ、グレン。前より強くなってないか」


「そうか? じゃ、王様にも勝てるかな」

 

 フと笑ったグレンが走ってトイサンを追い抜く。その顔色がやけに良いのを気にかけたのは、ヴァル一人のようだった。他の三人はグレンへ憧れの眼差しさえ向けて後に続いている。


「……これが、戦か」


 一人、ヴァルは遅れて走り出しながら、雨音の中を走っていく四つの背中を見ていた。


 あの背中は、いつまでしゃんとしていられるのだろう。

 戦場は、気が触れてしまう世界だ。血に酔い、狂う者も多くいる。

 ヴァル自身も始めて人を斬った時、その事実が心を、価値観を、作り替えていく感覚を知った。

 多くの敵を斬った時に慢心するのを感じた。初めて人を殺した時に涙を流した。どうしてここまでしなければならないんだと、悔しくて、悔しくて、泣いた。

 弟トイサンは、呆然とその事実を受け止めていた。


 多くの人を殺した時、それぞれの性格がはっきりと出る。


 ヴァルは苦しみ悩みながらも、必要なことだからと自分を納得させて戦うようになった。トイサンも自分を納得させて戦っていたが、いつのまにかそこに苦悩は無くなっていた。

 考えることを放棄しているように見えた。

 必要だから、それが戦場だから、これは勇敢なことなのだと悟す先人の言葉をうのみにしていた。


 そうやって、苦悩で壊れてしまいそうな心を守ったのだろう。


 変わりに、平安が訪れるのを恐れるようになった。事実を目の当たりにしたくないのだ。心で事実を感じたくないのだ、なぁ、トイサン、そうだろう、だから戦っているんだろう、だから戦場から離れられないんだろう、お前。


 グレンも同じなのだろうか。考えるのをやめて戦っているのか。苦悩で、もう壊れてしまったのか。


 必要だから、それが正しいから、それをしなければならないから、戦い、殺し、ここにきてついに人としての心が麻痺してしまったのか。


 ――なぁ、どうなんだグレン。


 ――目の色が、最初に会ったときと違うのは、どうしてなんだ。


 廊下をすぎて、階段をおりはじめても、雨音はまだ聞こえていた。もうしばらく降り続けるだろう。悲しい赤を洗い流していくために。


 けれどこの空には、いつもある雲は浮かんでいない。


 いつもと違う奇妙な雨が、恵みの雨だと呼ばれながら降っている。


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