乱の38 脇役の奮闘
魔術による防護壁を作るには、まず前準備が必要だ。城に常備されているのが一般的で、実用する際には魔術師による最後の仕上げだけで終わるようにできている。
「だああ! 俺にこんなことをさせるのはどこのどいつだこんちくしょう! 王様だよこんちくしょう!」
最後の仕上げと聞くと、あと少しで終わりそうであるのだが、現実としてはこれがもう大変でたまらない。逃げる余地あらば魔術師はこぞって辞退し、実行する者は尊敬のまなざしで見つめられ、失敗すれば、しかしとがめられることは無いだろう。そのとき上官は死んでいる。勝敗を左右するほど重要な、盾なのだ。
「鳥肌立ったぞおい、神経すりへって鳥肌立ったぞおい、お、おおお……」
そして今、アルゼムの指示のために逃れるすべなく準備済みの部屋にこもる者は二人。スゥとゲライ。同じ地獄を味わう相方と共に、皆の尊敬と同情の眼差しを向けられたのを思い出にしながら作業に励む。
あまり太いとは言えない神経をすり減らしながら文句を垂れ流すゲライとは反対に、スゥは黙々と赤い魔力のこもった筆を、ガラスの上にすべらせていく。
ガラスは城の模型を包み隠す球体で、支えはなるべく少なくされていた。文字をなるべく多く書き込めるようにだ。球の大きさは大の男が腕で丸を作った大きさで、書き込む文字の大きさは小さく、量は多く、時間は急かされる。
神経すりへってまともでいられなくなったゲライが落ち着いて、ぐちぐち言いながらようやく作業にもどった時、書き終わっていたのは球体の三分の二だった。
「はぁ……ったく」
あと少しだがまだ続く。苦しい作業にため息をつきながら、ゲライの緑色をした魔力の文字と、スゥの赤色がガラスに吸いついて、一文字書き終わるたび順々にそれらは光った。美しい光景だった。
城の模型に植え込まれた光草の明りと、ランプの明かりだけがたよりの薄暗い部屋で、ぼうっと赤と緑の光が生まれるたび、まるで異界へといざなわれるような神秘の世界に入り込んだ美しさに包まれる。光は支えの棒にも共鳴して明滅し、はた目からは息をのむ光景だと呼ばれることだろう。
だがそんな根性のある感性豊かな見学者はここに存在しない。希望者がいても不可能だろう。いたならきっと、ホコリが一つ目の前を横切ったことにさえ怒鳴り散らすイライラをため込む魔術師二人分の、神経質な気配にあてられて卒倒でもしていることだろう。そして倒れた音に対して魔術師たちは舌打ちする。倒れたいのは私の方だよ。
「あと少し……」
「く、そ、書き終わったときに戦が終わった、とかなりやがったら承知しねぇからな反乱軍」
上官に聞かれたら厳罰ものの愚痴を聞きながら、ガラスは森林の色に染まっていく。
ぼう、ぼう、と光が生まれては支えの棒も光るその中にも、ガラスに書かれるのと同じ字が入っていた。一般人にはうかがい知れない解析不能な文字が書き込まれた木片が、ガラス球に書き込んだ文字と魔力に反応して明滅し、ガラスの上から魔力を吸い取っている。
棒に吸い取られた魔力は、そのまま地面へ流れていく。今度は石に刻まれた文字を通って、城壁の内側に円型状に埋められた石に流れ込む。これにも文字が書いてあり、そこまで辿りつくとあとはもう、魔術師が術を発動するのを待つばかり。待つばかり。
そして、どれほど時がたったか。魔術師二人にとってはほぼ丸一日ほどの時間がたっているような気がしたが、実際のところはそれほどの時間もかからずに、部屋でゲライがのびのびとした声をあげた。
「おお終わった……終わったぞ。終わったぞ!」
「……私はまだです」
「終わった、はぁ疲れた。もうやらん。もう絶対にやらん。俺はもうやらんぞおおぉ」
静かに筆をすべらせていくスゥの眉が、ひくひくと神経質に動いた。
私はまだ終わってないんですけど、雑で早いけど間違いが多いあなたの援護でまだ終わっていないんですけど先に椅子でごろごろしないで欲しいわ、神経が切れそうなんですけど、まだ作業が終わりというわけでもないんですけど、どうせなら静かに片付けでも始めてくれませんか、イルヴァなら力になれないなりのなぐめの言葉をかけてくれるのに、あなたは自分のことしか考えていないんですか! という内心を吐きだしたら時間がなくなるので必死にこらえつつ、赤い字を書き込んでいく。
テストの採点が終わりに近づくよう、ガラス球の緑が赤に浸食され、最後のチェックを終えた。やっとゲライの声を意識の外に追いやれるようになってきたスゥの筆も水がめの上に置かれ、彼女はふぅと深く長い吐息をついた。
長かった。作業中止を言いに来る者もいなかったから乱が終わってもいないだろう。
力が抜けた肩をほぐして見る城の模型は、大量の文字に包み隠されている。落ちついて見てみれば、なかなか美しい球体だ。良い魔防壁になりそうだ。せめてもの達成感に頬がゆるむ。
「お、出来たな。よし」
椅子から立ち上がって来たゲライとともに、球体に書かれた文字に魔力を注いでいく。
うすぼんやりと光っていた文字と棒と、そして見えはしない地中の石は二人の魔力をとりこんで、まぶしいばかりの光をはなち始めた。そして二人が魔力をそそぐ手をはなした時には、外にある城壁の内側から、緑と赤の光が立ち上り、球状の壁となって城を取り囲んだ。
これでもう、空からも地中からさえも、侵入することはかなわない。
無理に破って入ろうとしても、常人に壊すことはできない。魔術師でも人一人が通るので精いっぱいの穴しか作れないし、その穴もすぐに消えてしまう。
どんなに強力な魔力を持っていようとも、穴をあけたそばから塞がれてしまえば、大軍を投入することはできない。かろうじて入ってこれた敵さえも、城の窓からの攻撃にわめき死ぬだろう。沸騰した油をかけられて焼け死ぬ姿は、見たくないものだ。
「はぁ疲れた。でもまだ終わってねぇんだよな、反乱。ってことは俺は兵たちの防御をしなけりゃなんねんだろ。どうせオルシオの方が役にたつからな、俺は援助だけだ。ハッ」
筆についた水を拭き取って片付けようとしていたスゥは、ずっと一の字に結んでいた口を強く結む。そして目に怒りを宿して、ゲライの方を向いて、ついに溜めに溜めたイライラを吐き出した。
「いい加減にお黙り下さいな、ゲライ。なにがオルシオです、なにがイルヴァです、何が王様は分かっていないです。あなたは防御に向いていると、分かっていないのはあなただけ。魔防壁こそ助けが必要でも、防御にすぐれた魔術師であるあなたに、感謝していない兵も騎士も魔術師もいないわ」
あっけにとられた顔を、スゥは睨みつけて言いつづける。
「私はあなたの愚痴を聞かされて神経が切れそうになっていますので、とても感謝していると言える気持ちではありませんけど、皆はあなたに感謝しているのですよ。あなたがあなたの特技をいかしてくれることを、あなたがそれを得意であることを、感謝しているのですよ。私はとてもそう言いたい気持ちにありませんが、今も、戦いながら皆はそう思っていますわ。あなたに感謝していますわ。あなたに頼っていますわ。あなたのお陰で安心を心の底に持っていますわ。愚痴るのはご勝手ですけれど、それだけはお含みおきくださいな」
どこで息を吸っていたのか、そもそも本当にこれだけの言葉の大軍が彼女の口から流れ出てきたのか不思議に感じながらもそんな疑問は忘れるほど、押し寄せてきた津波のような言葉と、嫌でも感じざるを得ない人々の思いにゲライは口を震わせた。その思いを顔に出すまいとしても、目だけは弓なりに笑んでしまう。
照れくさくてたまらなくて何も言えずにいる彼を、スゥの細い目が、たぶん一瞥した。目の動きは誰にも分からないが、彼女は一瞬だけ口端を上げた。そしてゲライが使ったのとは別の椅子を模型のそばに持ってきて、陣取った。
魔力を外に送り出したガラス球は、魔力の色をなくしてほぼ透明になっている。そして術が終わった模型の中には城内の様子が映し出されていた。
一階の端にある窓から、イルヴァが負傷者の手当てをしているのがのぞき見えた。彼女の姿をしている黄色い魔力が、彼女にまだまだ余裕があることを告げていた。
他に見えるのは、彼女の周りにいるかすかな光たち。怪我をして不安定になった心を反映して、姿はゆらめいていた。城内で人一倍透き通ったつよい輝きを放つアルゼム陛下と、それを守る騎士の姿は、魔力こそ強く感じないが、意思の強さを反映して、それが彼だと分かるほど形がはっきりと作られている。
こうして魔防壁の中を見るたび、スゥの中に冷と温の二つの気持ちが流れ込んでくる。
本当に、魔術を扱えない一般人も魔力を持っているのだ。
自分たちのように大量ではないにしても、持っている。魔術師は、皆と同じ人間なのだと感じて嬉しい気持ちと、自分たちだけこんな力を負っているのはやはり異様なのだろうかという虚しさが一緒に、しかし慣れあうこともなく心を気味悪くなでまわす。
こんな気持ちのままでは魔術も安定しなくなる。
スゥは首を振って、城の監視に戻った。魔防壁に触れてくるものがあれば彼女が王と騎士へ連絡するのだ。
そしてゲライは、気に入りの椅子の隣にある机に、なにやら大量の紙を広げて、黙々と緑の魔力を含んだ字を書いていた。字と言うよりも落書きのような彼専用の文字は、ガラス球に張り付く文字のように光っている。
紙が一つ光るたび、城内で守りの固くなった兵や騎士が増える。怪我をしても血は流れず、痛みの感覚も弱くなる。その代わり、この防御の術だと魔術への耐性が弱いのだけれど、黒の魔術師が現れればスゥから支持が来るから問題ない。
そうして再び地道な作業を始めて、少し集中出来てきたころ、スゥの声がゲライの背を叩いて彼の集中を途切れさせた。「え」と、言った声に続く言葉はかすかに震えて、何も語ろうとはしない。
「そんな……」
ゲライ。と絞り出すような声で呼ばれ、模型を見たゲライは、そこでスゥが何におびえているのかを悟った。そして、目に映る白い光に生気を抜きとられでもしたように、一瞬で全身の血が冷えたのを感じた。
「ふざけてやがる」
魔防壁は完璧だった。破られるはずがない。だが、侵入者がいた。
魔防壁が出来た後に侵入した、強力な魔力を持った者。そこから何が導かれるか、一度はその術を目指したことのある魔術師なら誰もが連想することだろう。
転移の術。
「王へ、伝えろ。敵は、城へ自由に入れるってな」
「しかしまだ、はっきりとは」
「そうなってるだろ! 送れ!」
また何か言おうとして、しかし息をのんでスゥは紙とペンを握った。ゲライはまた防御の術に取り掛かる。今はきっと、魔術にも対抗できる術だろう。
スゥは、紙を机に置き、侵入あり、の文字と人数を書いてから止まった。勢い込んで書いても安定する造りの机が、物足りなそうに目の前で待っている。
そのうち、書いてあった文字が消えた。
具体的な理由を、何と書こう。
転移の術と書いて、魔術師は分かってくれるだろうが、軍部は妄想だと切り捨てるだろう。
魔防壁をつくることは反乱軍だって承知のはずだ。だから、あらかじめ対策を練ってあったか、魔術師が失敗したかだろうと。
では、王は……気にしてくれるか。
気にしてくれ。あの純粋な王は、魔術師も気にかけてくださっていた。それにかけるしかない。
『侵入経路は不明。魔防壁の完成後に侵入。魔術師の見解は転移の術による侵入。王城関係者が反乱軍にいれば、どこから現れるか計りしれない。』
聞き入れてくれるだろうか。王は、この可能性を直視してくれるだろうか。
魔術師は、だめだ。魔術師の見解はいつものけ者にされる。
このたぐいまれな能力を盾にして国を牛耳ることがないように、魔術師は幼いころより世間から隔絶されて、世間知らずになっているから、世間知らずの意見は聞くに値しないのだという。
胸がぎゅっと苦しくなるのを感じながら、スゥは消えていく文字を見ていた。インクで書いたはずの文字が消えたころ、視界の端にあった模型の中からも白い魔力の人型が消えた。
*
「では、僕は僕でやることがありますから」
「おう。こっちは任せとけ」
グレン他四名の男たちが白い廊下を走っていった。
使命と意思で凛々しく背筋の伸びた彼らの背を、やさしく照らす窓からの光にひかれてクローは外を見た。
アルザートの魔術師が反乱軍を蹴散らしている光景を見つけて、口から笑いがこぼれる。
「ただの反乱と思いこんだまま、負けてください」
そして声を殺して笑った少年は、肉眼では分からない場所から敵の魔術師に見られたまま、白い魔力の煙を残して姿を消した。
***
王が帰ったとの知らせの後すぐに、反乱軍が攻めてきたとのうわさは王都中へ広がっていた。
普通の民のまねをして、この国はいったいどうなっているんだと一通り嘆いてから、マスターは自分の酒場に戻ってきた。
今、戦える男でアジトに残っているのは彼だけだ。キュッキュと磨くのは剣ではなくグラスだが、それで精いっぱいだった。
わざわざ手を出してまで何かを変えようという気概はない。
ただ何か不安を掻き立てられる気持ちだけはあったから、カイムがその父を見送った時に近い気分で、彼は男たちの出払った軍のアジトを守っている。
手元にあるのは短剣一つ。それで出来るのは、自害くらいかもしれない。
乱がおきたと噂が広まってから、どれほどたったか。
今頃は魔防壁でも作られて、外にいる仲間が右往左往し始めるころだろうかと、外を見た。ここからは何が起きているかなど分からない。いつもと変わりのない日常がつづいている。
国は、城の中に入り込んだ異物に気付いただろうか、そろそろちょろちょろと動き回るネズミ退治に奔走し始めただろうか。
何人生き残るだろう。
今、何人、死の淵をさまよっているだろう。もう死んだ者もいるだろうか。グウィリア、アルス、テルト、イズ……、大酒飲みたちは生き残っているか。帰ってきたら良い酒でもふるまってやるから、帰ってこいよな。
「すまんな。俺は、一緒に戦ってやれんで……そんな気概がなくて、すまん」
俺にはマスターがお似合いだ。名のない、ただのマスター。
生まれ育った地にある国に、命を投げうって戦うほどの思い入れをもつお前らが、うらやましい。
その姿がどれほど眩しく見えているか、分かるか。
感動しているか、分かるか。
死んでいてもかまわない。仕事が終わったら飲みに来い。星に帰るのなんか、遅れたってかまわないだろう。
マスターは、グラスを全部磨き終えると、壁の棚に並べていった。
戻ってきて、変色した窓の外を野鳥があわただしく飛び立っているのを見ながら、彼は棚にグラスを戻したついでに取り出した酒瓶を両手に二瓶ずつ持ったまま椅子にすわった。
勉強熱心に酒瓶の銘柄をしげしげと眺め、一つ以外の酒をカウンターに置いた動作の帰りみちで、短剣を取って腰帯に差した。
そして四つの瓶にはりつく銘柄を確認し終えたとき、飛び立った野鳥のいた場所に見慣れた王国軍の兵士が大勢現れた。そのまま、兵たちは酒を飲むとは思えない気配のまま、扉を開いた。
まさかと思ったが、やはり、来たか。
人のいない道で群れていた鳥を追い出しながら、国はここを見つけ出した。いったいどこから嗅ぎつけたのか。
斥候のように、油断なく入ってきた兵に続いて、背の高い男がやってくる。カイムと同じくらいか。だが見知った彼よりずっと戦いに特化した肩にある肩章から、この男がこの場で一番偉い者だと分かった。
話しかけるのが自然かと思ったが、向こうさんは話しかけにくい気配をしている。むしろ怯えて話しかけないのが自然だろうと、マスターは困ったような、怪訝そうな顔をしながら、酒場の床を十六の軍靴がたたくのを聞いていた。
兵が十五人。外には五人。二十小隊、やっかいなことに魔術師が一人増やされている。全部で二十一人。
本気で困った顔になりながら、マスターは目の合った小隊長に頭を下げた。帰ってくれ、とマスターは念じたのだけれど、小隊長は彼を見下ろして言った。
「火急の用だ、質問に答えろ、嘘は許されん。この酒場に地下はあるか」
「地下ですか。さぁ、私は存じ上げませんが」
「そうか。では調べさせてもらう。行け」
はっ、と短い返事で、彼に続いて入ってきた兵士の一団がバラけた。
「いったい、何事ですか」
小隊長は、いかつい顔でマスターを油断なく眺めてくる。居心地悪く思っていると、彼は意地悪く笑って言った。
「この下に反乱軍のアジトがあるとの情報があってな。入口を探している。廃屋も見たが、みつからなくてな。残っているのはここだけだ」
廃屋を探している音はしなかったなと思いつつ「それは、大変でございますね」と一応は無関係を装った、誰も信じないだろうが。
闘って勝てる数ではない。一人で逃げても、後味が悪い。そもそも、そうやって生き残るくらいなら始めから関わっていない。
兵たちが店内を探す音以外に、なにもなかった。
小隊長は石像のようにたたずんで、ドコル帝国のブル巨石のごとく、マスターが懺悔してすべてを吐き出すのを待っている。彼の後ろで、魔術師は顔も見せずに窓の外を見ている。
ふと、外にある石畳の道を、途切れ途切れに叩く音が聞こえてきた。
聞こえるのに、空は明るく青い。晴れ空の中を雨が降り始めている。晴れ間の雨、『恵みの雨』だ。
この場に居る誰もが生まれるよりずっと昔から言われるその名は、どの国に言っても同じく意味の通じるものだった。晴れ間の雨は天が地を哀れんで流した、潤いの施しだという。
今は、何をあわれんでの雨なのか。血を流して戦う兵たちか、それともこれから起こる何かにか。
美しいサフラーが悪鬼に言い寄られて逃げ出したときにつけられた傷の消えない痛みを、恵みの雨を集めた水で浄化し消し去ったように、どこで嘆く者を助けるつもりか。
その答えはすぐに出た。まるでサフラーがいま悪鬼から逃げのびてきたかのような、歓喜に満ちた女の明るい声が店内に現れたのだ。
「やった! 外よ…………あら?」
本当にサフラーの声なら良かったのに。何が「あら」だ。今日は外に出てくるなとカイムに言われていたのを忘れたのか。
気が狂うのも今だけは受け入れる、そしてこれは幻聴になればいい。
だが驚きで動きを止めたのはマスターだけではなく敵兵もで、小隊長は反射的にニッと不愉快な笑顔を作った。
こいつは信用してはならないと思った、一瞬のことだった、小隊長は平素の顔にもどって兵に指示を出す、そしてマスターの思考は危険な敵の手に落ちたと理解し、その危険で目を覚ました頭がめまぐるしく働きだした。
応戦するべきか、いや無抵抗の方がいいか、無関係はもう装えまい、女子供は反乱軍に脅されていたのだと説明できるか、さっきの嬉々とした声は逃げてきたからだとできるかもしれない。
思考の外で声が響き、景色が動く。
秘密の入り口がある部屋へ兵士がなだれ込み、女が抵抗する声が聞こえる。
キャー、と叫ぶ声と捕らえようとする声が不愉快に混ざり合って充満する。
何もできないでいるうち、マスターは兵士に背後から腕をにじりあげられ、縄に縛られた。
「お前も仲間だな」
「……」
無関係か被害者を装うなら「違う」と言うべきだっただろう。だが、彼はぐっと言葉を飲み込んだ。言ってはいけない。今声を出せば、隠しきれない敵意に気付かれる。
そして床に転がされると、何人もの女が彼と同じように縛られて店に転がされた音を聞いた。いったいわねぇ、もっと丁寧に扱いなさいよ! と元気にののしる声がカウンターの向こう側から聞こえてくる。
床に近くなった耳は、地下への長い長い階段を、いくつもの足音が叩いているのを聞いていた。
敵が中にいく。攻めていく。女子供しかいない中に。
平素は温厚なマスターの額に、太い青筋がうかびあがっていた。




